2013年1月24日木曜日

デジタルの裏庭 感想3 ハイブリッドの増殖について

札幌にある、北翔大学北方圏学術情報センターで3日間にわたって行われた国際会議「デジタルの裏庭」。2日目には、スカイプを通じて、ハイブリットカルチャーの著者Yvonne Spielmannさんの話と、MITメディアラボの伊藤 穰一所長から話が合った。

伊藤 穰一氏はAgilityとイノベーションについて、Yvonne Spielmannさんはハイブリットカルチャー現象について話した。私はMIT Center For Civic Mediaという市民参画や社会変革の文脈からメディアを捉えるプロジェクトが大好きなので、しょっちゅうそこのコンテンツをチェックしていたこともあり、穣一氏の話は別のカンファレンスのネット中継で聞いた内容と重なる部分も少なくなかったがこうしてお話を聞けてありがたかった。

Yvonneさんの話は「ハイブリッドな表現が現象として大きな潮流になってきている」ということだったと私は解釈した。著書を読んでないので細かいところはわからないのだけど・・・。例えば、デジタルとアナログのハイブリッドやアートと報道のハイブリッドなど。そしてテクノロジーも、技術製作者の意図とは異なる使い方を人々がする(ミスユースする)ことで違ったクリエイティブな現れ方になる、という話。ハイブリッド性が増してきていることに関しては私も全くそうだと思う。ただ、ハイブリッドな表現やメディアについて、わたしは思うところがいくつかある。なぜならハイブリッドが害をもたらすという話もあって、そのことが個人的に2009年からずっと気になっているのだ。

混合が生む怪物について思い出したのは、数年前に読んだジェイン・ジェイコブスのいくつかの著書が理由だ。「市場の倫理、統治の倫理」という本がある。商人と役人がどのような倫理体系をもっているか、を物語風に探求している私の大好きな本だ。そのなかで強く記憶に残っているのが、登場人物たちが会話のなかでプラトンが『国家』のなかで正義について「自らの課題を遂行し、他人の課題に介入しないこと」と書いたことを引用し、さらに靴職人が道具を取り換えて指物師になることは不正行為の一例として触れられていた点だ。つまり餅屋は餅屋、という話。
二十歳頃はメイク・キャピタリズム・ヒストリー!という声に埋もれてみたいと思うことも一度はあったが(特に実体のない最後の好景気のころだったから)、その後ジェイコブスの著書を読んで、お金とか市場が悪いわけじゃなかったのか!ズルしてでたらめにごった煮にしたからいけないのか、と考えるようになった。ハイブリッドの増大が潮流として見られるのであればますます我々は混合の怪物を生み出しているのではないだろうか?交わらない方がマシだったのではないだろうか、と。

私は不学でめったに本を読めない人間だが、2年前に読んだブルーノ・ラトゥール著の「虚構の近代―科学人類学は警告する」もハイブリッドの悪について触れられていた。ブルーノは、世界を人間と非人間に分けて検証し、みんなが近代と思ってる今日に起きていることはハイブリッドの異常増殖で、これが現代の危機の根源であり、ハイブリッドの増殖を少しでも抑制すべきだ、と話している。いちいちメモをとったり図解しながら読まないと読めない本だったけど(そしてメモを取るか所が多い)えー!って思う部分が多かったのでどうしても記憶に残っていてYvonneの話のときに思い出したのだ。

ちなみにハイブリッドって異種のもが混ざって生まれた有機体、と私はとらえているけど、このことについてももう一度考えなくてはいけない。長くなります・・・。(ごった煮と、有機体、標準化とマルチメディアの話だ)

あるとき、私はニューヨークのアクティビスト達からオキュパイ運動についての話を聞いた。(彼らは自身をアクティビストとは呼んでいない)。2008年のNYのニュー・スクールの占拠からオキュパイウォールストリートまでの関連性を聞いたりしたが、彼らの新しいアクティビズムはこれまでのものと全く違うということが説明でよくわかった。もはやオキュパイのような活動はいわゆるポリティカルアクティビズムではなく、参加者はアクティビストでもオーガナイザーでもない、ただのメッシュワークの中の有機体だという。主体性ではない有機体のメッシュワークから生まれる運動は、「誰かが一定の方向に向けようとコントロールするものではない」のだという。中心がなく、急所を突いて解体することができないメッシュワークであること。そしてバーチャルなメッシュワークで繋がりながらも、実在として現場を占拠することこそが運動の趨勢となること―こうしたこともハイブリッドの潮流のように感じる。

でもこうして有機体になってしまうことはゾンビじゃないのか?まるで自由意志がないようにふるまったり、個人の視点に特別なものが存在しないかのようにふるまったり・・・

これは最近読んだある本から改めて考えたことなのだけど、すべての人間的な物語が断片となってばらばらになり、「あらゆる表現がデジタル技術で粉にひかれ、グローバルな鍋で一緒くたに煮られる」と危惧するのはバーチャルリアリティの父ジャロン・ラニアーだ。

伊藤 穰一氏は、ITがイノベーションのコストを下げたことで、人々は「理論より実践」(practice over theory)、「地図より羅針盤」(compass over map) にならってクリエイティブなものをすさまじい早さでつくっていけるようになったことを話した。私自身、実践こそあれ、と思うタイプだが、心配なこともある。地図を観なかった実践の産物がどこにたどり着くのか、それがたまに悪いものにたどり着いてしまうこと(すぐ直せばいいんだけどね)について、私はどうしても考えてしまうのだ。とくにジャーナリズムにおいて。

どういうことかというと、プログラマはできるからする、できたから世に広まる、間違ってたら直す、という主義だ。メディアだと思って作ったわけではないけど、ミスユースによってメディアコミュニケーションの役割を担う、それがメディアとしてはひどいものだったりするケースについてメディア論的な議論が足りなすぎると思っている。そういう意味で、インターネットはメディア論を忘れたのかと思って止まないのだ。昨今注目を集めていて私もぜひ盛り上がってほしいと思っているデータジャーナリズムは、まさにハイブリッドの塊であり、それが誤った道筋をもたらさないのか、少々不安なのだ。
以下は私が作った、ハッカーの倫理とジャーナリストの倫理の表。データジャーナリズムとかオンラインジャーナリズムはこの混合である。個人的には似てるし、ぜひ一緒になんかすべきだと思うのだけど自戒もある。

ハッカーの倫理
ジャーナリストの倫理

  • 共有せよ
  • オープンであれ
  • 脱中心的であれ
  • フリーアクセス重視
  • より良い世界のためにあれ

  • パブリックへの説明責任を担え
  • 公正中立であれ
  • 透明性重視
  • 権力を監視し反骨たれ
  • 民主主義のためにあれ

Yvonneは「ハイブリッドがいいから推奨すべき」と言っているわけではなく、ただ現象として捉えているだけだというのはわかる。最近はよく蕎麦屋にカレーが置いてある、と言っているだけで蕎麦屋のカレーが一番美味しいと言っているわけではないだろう。しかし、その立場はラトゥールの逆だろう。さらにこのハイブリッドがメディア表現になったときがわたしの気になるところなのだ。

この会議に行く時に正月から読み途中だった「もしインターネットが世界を変えるとしたら」をバッグに入れて、移動中に読んでいた。その中で読んでいてもなんとなくしかわからなかった部分があった。今私たちがマルチメディアだと思って接しているいくつかのものは、本来のマルチメディアの発想からは程遠いところにある、という話だ。文字や音、映像がデジタル化しただけでは、マルチメディアではないという部分。そして「『マルチ』という言葉には、すでにばらばらになっているものを寄せ集めれば何か新しいことが生まれるというセコい精神がひそんでいる」と批判し、むしろ「メディアはより適切にはポリモーフィスなものであり、メディアは『マルチメディア」よりも「ポリメディア」であるべきなのだ」と書いている。

これは決して、卒か脱か、みたいな言葉遊びではない。マルチメディアがいまいちだっていうのは実感としてなんとなく思うけどポリモーフィスって何だ?わからんぞ!音楽が小説を、映像が画像を侵食し合うようなポリモーフィスについて、3日目の報告会であるヒントを得たのでその話は明日書く。




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