2014年7月10日木曜日

文化の本質に共通するもの

「未だ来ないと書いて未来」と、デジタルの裏庭の会議で武邑先生はおっしゃっていたが、明日書きますといって数か月経過したwitchbabeです。ポリメディアとマルチメディアについて気になったまま数か月が過ぎたわけですが、あまり進展していませんのでそのままの思いを書きます。
(この記事は2013年4月に執筆、保存されたものです。2014年7月に蔵出ししました)


私がジャーナリズム専攻のとき、アメリカ人には「で、君は何ジャーナリズムをやってるの?フォトジャーナリズム?ニュースペーパー?テレビ?ラジオ?・・・」と聞かれることが少なくなかった。その際には何となくどれかに絞るというのが腑に落ちなくて、「ラジオかな、でもいろいろ。文章も書くし、映像の構成も・・・」みたいな答えを返していた。もちろん専門性の浅い若さの中での答えだったので絞れない、というのは当然だけれど、私とメディアとの関係というのは対媒体としてのものではなかったし、プロのジャーナリストになりたい、という思いは微塵もなかった。(今だってありません)。そんなの、「あなたは投票者ですか?それとも消費者ですか?それとも視聴者ですか?」と問うようなもので、そのコンビネーションの中ですべての主権者が意思決定(本意・不本意問わず)しているわけだから。情報がパッケージ化されてこちらに運ばれてくる、というところまでの間におきる様々なからくりを受け手としてしっかりと知りたい。もれなく私自身が送り手になることも絶対ないわけではないし、それは権利として本来あるべきだと思うからその際に介在するメディアにどんな特性があるか、どいう仕組みで成り立っているのか知りたい。それだけが目的だった。伝えたい相手や目的に合わせて、メディアをどう使うか。フォーマットが先ではなく、メッセージが先だと思うのです。そのメッセージや核となるものを伝えるときにそれがラジオ番組となって表されるのか、ビラとなって表されるのか、雑誌となって表されるのか、映画の上映として表されるのか。

そんな中で聞いた初音ミクについてのプレゼンは興味深かった。単にUGCということではなく、もしソフトを使って音楽を作ったら、その音楽の世界観をイラストで表すユーザーも出てくる。かと思うと、さらに小説としてその世界を表現するユーザーもいる。初音ミクを共通のインターフェイスとしてそれぞれの世界観がユーザー自身の得意な表現形態で絵として音楽として、歌詞として小説としてなど様々に表現されということだった。思えば、私が好きなヒップホップというユースカルチャーも、もともとは4つのエレメントがあると言われ、あるものはラップし、あるものはDJをし、またあるものはグラフィティを書き、あるものは音に踊った。ヒップホップは何であるかというのを説明しようとしてもそれは説明できない。何がヒップホップであって、何がヒップホップでないか、というのを語るのもほとんど難しい。もちろん、コミュニティとしてのコンセンサスを得ている文化的コードはあるが、ひとえにauthenticity(本質性)の問題として一枚岩な解釈を押し付けることはできない。コンシャスでストリートの苦難や社会変革を歌うものばかりがヒップホップなわけでもない。パーティーしてジンライムを飲み、グルーヴにダンスすることばかりがヒップホップでもない。違うクルーに敵対し、縄張りを守り、帝国を築くことだけがヒップホップではない。黒人だけがの占有するためものでもない。JAY-Zがトレードマーク足り得るものでもない。じゃあ何か。それすべてである。私が参加しているのは2000年代にヒップホップの5つ目の要素として認知されるようになった「knowledge」だ。知るということはヒップホップである。そこに私はいる。ミクとヒップホップは似ていると思う。DJの音楽に踊っていた人たちがその音に合わせて独自のスタイルを発達させ、そこにラップし始めるものが出てきて、グラフィティを書くものがいた。それぞれが自分の得意なことで一つのカルチャーを押し上げていった。

これってポリモーフィスなんじゃないのかなってちょっと思ったわけです。ヒップホップが音楽として表現されること、壁に書く文字や絵として表象化すること、ダンスとして表されること、ストリートナレッジとしてシェアされること、ラップや詩として表現されること。ミクをコスプレすること、歌ってみること、曲作りすること、ミクミクダンスすること・・・こうしたことが様々な表れ方で表現されることはマルチメディアを超えた多体的なポリメディアの基盤となっているのかもなあって。

それで過去にこういうことってあったかな、そういえば禅ってなんだっけとふと思ってググったときそこにも通じるものを感じてしまいました。禅て何か、ていうのが答えられないです。ワビとかサビとか、精神性みたいなものとかはコードであって、テーゼじゃない。禅の教科書というか経典がないんですね。いろいろなひとがその解釈を書いたものはあるんだけど、コレ!みたいなのは言えない。それで禅が茶道として表現されたり、華道として表現されたり、水墨画として表されたり、庭園となったり、舞踏や演劇みたいなものになったりする。禅の開祖みたいなのって誰?禅の知的財産権所有者は誰?って言われても答えられないわけ。

さらに、禅の思想について寝ながらスマホとかで見て、ノリで読んだ「禅とは心の名なり」というものに非常に心を動かされました。

仏心は人間に限らず、あらゆるものに宿っている本心・本性です。(略) たとえば、一枚のちり紙にも仏様は宿っています。というのは、ちり紙には、濡れたものをふくなどといった作用(機能)があります。いくら便利でも、携帯電話では鼻かめません。そのように、一枚のちり紙にも、一滴の水にも、みんな、ものにはそれぞれに違うは作用(はたらき)があり、そのものをそのものたらしめる本心(作用)が宿っているのです。
 うぎゃー。もうどうしてか宗教の話になってしまったけども、こーゆー視点からヒップホップをみると、ありゃZENだね!って見えてしまいます。ミクもどうようにそう見える。そしてこのはたらきは優越がつけられるものでなく、あらゆる誰もに宿っている、その自分らしさを一番よく表せる方法で表す、ていうことが仏の心ってことになって見えているのが現時点の私の解釈です。









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