年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。
Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。
チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。
小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw
そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。
桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。
食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。
自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。
さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。
「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。
そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。
ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、
ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように
関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。
奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。
生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。