2025年9月2日火曜日

映画クレヨンしんちゃんから読む~暴君の恣意性をめぐって

 しばらくまえに「十番目のミューズ」(片岡大右)を読んだ。私自身は、自分をポップカルチャーの虜だと見なす一方で、この種の批評で参照されるメジャー映画をことごとく避けて暮らしている。好みの問題で、みんなが大好きなポップカルチャーよりも自分の関心は少しずれているし、殺し合いが描かれる作品やミソジニーを感じる日本アニメが苦手だからか、『鬼滅の刃』も目にしないままである。「みんなが好き」と評価されるものに、なんとなく全体主義っぽさを感じてしまい、つい逃げてしまう。(そのせいで、ヒップホップ好きなのにKendrick Lamarが苦手、というややこしい事態になる。)結局は私の好みであり相対的なものなので、自分でもどう判断しているのかよくわからない。

参院選が終わって政局の安定もただならない中迎えた8月に公開となった『映画クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ』を映画館で観た。せっかくなので、このおバカ映画について、あくまで私の感覚と解釈で、賞賛の批評を試みたい。


同作品の舞台となるのはインドの架空の町。なにやら、春日部市と新たに姉妹都市交流協定が結ばれ、その一環で春日部市が記念に子どもダンス大会を開き、優勝チームがインドの姉妹都市での大会に出場できるというあらまし。

このところ世間(日本)では、一部に"外国人問題なるもの"が選挙の争点としてでっちあげられ、トランプ大統領さながらに自国民ファーストを擁護・支持する現象があったりして、私にとっては気味が悪かった。特に気味悪く感じたのは個人が自らの立場を安定させるため自国を擁護する姿である。この短絡的な思考は、間にある文脈を十分に検討することなく突如、自身と国とを関連付け、国家の単位を強化し、経済や安全上の理由から外国(外国人)を脅威とみなし敵対する。そんななか、本作品では、「姉妹都市」―国家の境界線ではなく「市」という自治行政区に収斂され、市民間の文化的な交流による相互理解を促進する―というビジョンを背負った国際政治上の用語が、話の展開の起点になっていることに心が洗われる。幼稚園児も保護者も、インドに行って踊りたい!とダンスの準備や練習に励む。ここでいう「インド」という語が参照するのは、国家というよりも、インド文化圏を表している印象だ。ちなみに、相手自治体の名前はハガシミール州ムシバイという名なんだけど、痛くなる場所を歯にしているのは偉かったのではないか。(賞賛のハードルが低くて申し訳ない。)

ところで、夏休みに合わせて子どもや家族向け映画を公開するのはアメリカも同じ。日本では秋公開予定の"Smurfs "(邦題『劇場版スマーフ/おどるキノコ村の時空大冒険』、配給: Paramount Pictures)。ベルギーの漫画を原作とし、キリスト教的な概念を色濃く反映している印象があるが、サウンドトラックにはインド文化圏の風が吹きまくっている※。まずはこのミュージックビデオを見てほしい。


サントラを手掛けるのはRoc Nation(Jay-ZらのRockafellaレコーズを思い出してくれ)の共同創業者であるTY-TY Smithで、Shabz Naqviと「Desi Trill」というヒップホップと南アジア音楽を掛け合わせたプロジェクトをプッシュしている。ビデオが公開されたのは、DOGEとトランプ大統領令が吹き荒れた4月。アメリカの高等教育機関ではこれまでダイバーシティ推進を進めてきたけど、再びトランプ政権になったことで「ダイバーシティ」という言葉を控えざるを得ない、というようなニュースが飛び交っていた時期。

「Higher Love」の歌詞は、天国とか救済とか愛とか、キリスト教的な意味を負った語が多いけれど、バングラデシュの言葉で歌っているパートもあって衝撃。思いっきりダイバーシティである。かつて2000年代前半、Daddy Yankee, シャキーラやサンタナ、ジェニファー・ロペスといったアーティストがスペイン語のシングルやアルバムをリリースして大ヒットしたことがあった(例えば、スペイン語のアルバムでシャキーラがグラミー賞をとったのが2006年。大規模な移民のデモがあったのもその頃)。ちなみにサントラに入っているリアーナの歌は、3年ぶりの新曲で期待されていたけど、ボーカルがはっきりしない合成音でがっかりとの評が多い。

ここで少し寄り道をして、もう少しSmurfのサントラを見てから、しんちゃんに戻りたい。

映画Smurfを配給しているパラマウントについて少し補足しなければならない。というのも、アメリカ映画産業は、財政面で軍需産業と結びつき、象徴面ではセクシズムや暴力助長を批判されてきた。また資本面では映画・テレビ・ラジオ・雑誌といった文化発信を独占的に支配するメディア・コングロマリットを形成している、と2006年頃から問題視されてきたここ数年はGAFAのようなIT企業による寡占が問題になっているけれど、ちょうど今年はパラマウントとSkyeMediaが合併してParamount Skymediaが誕生。(こちらの補足はトランプ政権で資金難に喘ぐアメリカ公共放送の報道を参考にしてほしい)

トランプがCBSに賠償金を支払わせている件も相まって、複雑さが増しますが、メディアのオーナーシップと表現の自由について少しだけ思いをはせていただき、もう一度Smurfのサントラ、Roc Nationに話を戻します。


もっぱらJay-Zがしてきたことというのは、実演家としての成功だけでなくビジネスマンとして、レーベルをつくり、スポーツチームを所有し、音楽配信のプラットフォーム事業を始める、所有権を強化していくアプローチでした。このようなアプローチに至ったのは、アフリカ系アメリカ人がエンターテインメント・カルチャー分野において強いコンテンツ発信力を持ちながらも、構造上の問題から、経営にかかわる意思決定者でもなく所有者でもないために不利益を被ってきた(例えば、ステレオタイプを助長するような描写、実演に対する一時的な支払を受け取っていたが、印税による長期的な資産形成を阻まれた、など)という経緯があります。デジタル封建主義という用語が出回って久しいですが、NBAでもヒップホップでも、地主と小作の関係のような構造的問題が共通して存在していたからこそ、Tidalを買収し、アーティストがプラットフォームを共同で所有するビジョンを示したという流れがあった。で、そういうお仲間のRoc Nationなので、Desi Trillみたいな自由な発想が生まれてくると思います(最後急に雑なまとめになった)。Roc Nationは、ユニバーサルミュージックとパートナ関係にあります。

さて、春日部防衛隊に話を戻しましょう。映画では、いつもぼーっとしてて心優しいぼーちゃんが、紙の力で暴君に変貌してしまいます。不思議な紙が鼻の穴に刺さると、ぼーちゃんの鼻水は出なくなり、刺さった人の欲望を実現する強いエネルギーが沸き起こる、というのもの。ぼーちゃんには、もっと力強く、てきぱきした人気者になってみんなの注目を浴びかっこよくいたいという欲望がありました。

暴君となるボーちゃんを支えるのが最新テクノロジーと金にものを言わす連続起業家で億万長者のウルフ。金持ちが暴君を支える絵は、思い当たる節がありますね…こちらも億万長者が暴君を相棒にしたい、という一方通行な感じがあります。

ウルフが最強の相棒を求める様はリチャード・フッカー(Richard Hooker, Of the Laws of Ecclesiastical Polity) を引用し、統治と人間の本性について語るジョン・ロックを彷彿とさせます。植村邦彦「市民社会とは何か」(p52)は次のように添えています。
われわれは、自分だけではわれわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、(中略)本性上、他者とのかかわりと共同関係を求めるように導かれる~(略)

 ちなみにロックは最大限の便宜を引き出すのは神の意図だというふうに捉えているのですが、クレヨンしんちゃんの映画で鼻に刺さる紙というのも、最大限の能力を引き出す作用があるのでちょっと面白い(神と紙)です。「社会の発展=より進化し洗練されること」を善とし、神の意図とみなすキリスト教的な視座※※に照らすと、紙との闘いがインドに置かれていることが非常に興味深い。

ボーちゃんは、自分のありたい姿(鼻水が垂れていない、てきぱきしたできる男)を望み、紙に導かれて暴走します。それは、みんなでインドで一緒に踊る、楽しく一緒に遊ぶという春日部防衛隊の共同体の理念と衝突してしまいます。すると、映画の流れ(ボーちゃんの暴走とそれを抑止しようとする春日部防衛隊)と、個人の欲求から市民社会が成立に至った経緯は、パラレルでとらえることができるようになります。そのためには、「自由」と「自分勝手」の違いについておさえておかねばなりません。完全にヘーゲルです。なんて哲学的で高尚で難しいんだ、クレヨンしんちゃん!と思うと同時に、このことは私たちが、おいしいカレーを食べたかったり、かっこよく一番グレイトな存在になりたかったりする欲望とその調整という日々の暮らしそのものなのです。

ヘーゲルは、自由(freedom:freiheit)と身勝手(arbiturary:Willkür)を区別しています。リベラルな現代社会のなかで自由とは、選択として理解されがちです。このことについてYuk Huiは"Machine and Sovereignty"のなかでヘーゲルのWorld Spritについて触れ次のように書いています。(私の試訳です、ご容赦を)

もし、自由を選択(ないしは豊富な選択肢から選べること)であると理解するならば、われわれは未だもって意図的な参加と純粋な消費との間をさまよっているといえる。今日のマスメディアが甚大な影響を与えていることは、まさにこの文脈においてである。そしてもし、民主主義を、代議士を選ぶ自由だと理解するとしたら、そのような民主主義が有効なのは個人の利益や好みが優先される市民社会の視座からとらえたときのみである。

そこでヘーゲルは、市民社会が、特定の利益関係者によって強く影響を受けて、身勝手にならないように、主観と客観の双方で内省し、理性的な決定をすることが自由であるとしていると思われます。(Yuk Hui難しくてわかんないから自信がないよ!)

GenXにしか伝わらないかもしれませんが、例えば1996年のイギリスの映画「トレンスポッティング」の冒頭は、現代社会における選択の自由と理性(またはその欠如)を鮮明に訴えているように見えます。


ひょっとすると、ボーちゃんの人格かもしれない鼻たれを変えるには、偶然鼻に刺さった紙の力ではなく、鼻水を外に出して、習慣によって体質改善することだろう、もし変えることがボーちゃんにとって必要であれば。(Hegelianの皆さん、お判りいただけますでしょうか)

モダンでリベラルな生活は、好きなものを選んで手に入れることであり、欲というのは本性と関係していると仮定し圧するよりも調整してGETするのが善しとされるところですが、欲望や衝動に従った任意の選択は暴君さながらであり、そうならないように理性的な判断をすることで自由で快適で安全で平和な共同体をつくって暮らしましょう。このようにクレヨンしんちゃんを読むと、春日部防衛隊は理念としてはかすかべエリアを守る武装しない、支配関係のない、各人の欲求を満たす調整しより豊かな楽しみを得るちっちゃな市民社会の芽生えのようにもみえてかわいい。

本映画の主たるポイントは以上ですが、気に入った3点についても触れておく。

ここからは見どころのネタバレになります。

●みさえの自分語り


みさえとひまわりがフィーチャーされるシーンで、みさえが自分語りの歌を歌うんです。この部分は、私のような視聴者にとっては、個人ー家庭ー統治(主権)への線をつなぎ、思いを馳せるのに重要なシーンです。全マザー&フェミニストカウンセラーの多くが絶賛するであろうこのシーンは、みさえ個人がこの戦いに自分をどう位置付けているか力強く語られてて素敵。誰かLudacrisのMove Bitchの反撃ソングとしてつないで流してくれないだろうか。

●現代テクノロジーが入っている

顔認証、位置情報、SNS、そしてBoston DynamicsのSpotっぽいロボットなどが登場し、歌と踊りとカレーだけじゃないインドが描かれていてよい。

●ひろしのトップガンごっこ

ひろしがDanger Zoneをテキトーな英語っぽい日本語で歌います。このシーンのために権利処理したと思うと頭が下がる。(東京国際映画祭で毎年テレビ朝日の近くでMPAが著作権セミナーやってるだけある)

ハリウッドで一番かっこいいを規定するようなトム・クルーズのシーンを、ほにゃらら的な英語でひろしが歌うの、言語とかかっこよさにおける周縁(すまん,ひろし)が、中心的に描かれるシーン。このことに照らして、Smurfの挿入歌が非英語で歌われることを思い出すと、今度はアメリカの映画館で映画を見る人が、バングラデシュの言葉を、ほにゃららで口ずさむことになるんだ。

2025年、政治で映す社会の様と映画の映す世界は、ますます不一致なのに、どっちもリアリティなんだなぁ。なくとも後者を「ある」と認めることが、いま私たちにできることだ。

※これはヨーロッパ、これはインド文化、と名指す行為は、あんまり好ましくないと思っているのだが、今回話したいことを伝えるうえで、このような名指しになってしまった。

※※ここではそのように記したが、キリスト教的な視座のなかでも、なにが善い開発なのか、ということは直近100年さらに内省されており、さらにさかのぼっても、啓蒙期においては(ロックのようなキリスト教的自然思想というより、キリスト教の背景をもつ世俗化した社会道徳、哲学としてとらえるべきなんだろうけど、日本にいる自分からみれば、どっちもある程度キリスト教と近いと雑に捉えさせてもらう)ファーガソンが洗練の効果を「情念の偶然的な悪用を除去すること」そして、そこから、個人が公共善を自らの主たる目的として自覚すること、と導いているのでキリスト教だと開発すすめる、っていうのはちょっと乱暴だと自覚しているから補足しておく。本ブログの「もっと良くなること」シリーズでも扱っているテーマでもある。


2025年2月21日金曜日

オニオンスープとジョルジェスク・レーゲン(もっと良くなることPart3、または、しないでおくこと )

年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。

 Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。

チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。


小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw

そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。

桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より 

 
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。

食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。

自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。

さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。

このような難しい考え事をするのには、バスタブに浸かるのがぴったりである。わたしにとって、とっておきのバスタブはColeman’s Bathtubだ。


「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。


そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。

ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。

奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。

生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。