2026年7月13日月曜日

汝、盗む勿れ~Yung Miami考

 

Yung MiamiのSpend Datという曲がすごくヒットし、論争を巻き起こしている。この歌のサビで繰り返される主題は、「(汚い方法で手に入れた)あぶく銭をさっさと使っちまいな」である。原語では、"Where all my scamming ass ni**as at, spending dat money fast"と、詐欺などを働いて金を稼ぐような男たちに対する言及から始まり、続けて、かばんに商品を詰めてはスリを働く女たちにも言及。「そういった悪銭は、いまのうちに使っちまいな、あんたらも精一杯やってんでしょ、わかってんよ。」というメッセージを掲げている。

あまりにもこの歌が流行り、子供たちも暗唱し始め、ノリノリで親子で歌ってる様子がインスタグラム等で散見されるように。犯罪を助長し、ストリップクラブで大金をばらまくような風潮を支持する曲だとして、批判が勃発。しばらくしてネオ・ソウルの大御所歌手インディア・アリーもSNS上で批判に同調。あたかもインディア・アリーが同曲のボイコットを呼びかけたかのような風評が及んだため、インディア・アリーは自身の批判の意図を解説する動画を投稿した。その動画では、「音楽や言葉には周波数ってものがあって、人に影響を及ぼす。若い人や次世代のことを考えたら、アーティストも聞く人も、どんな選択をすべきかわかるはず」という主旨を発言。

このあと、マイアミの同郷で2000年代にヒットを飛ばしたTrick Daddyが論争に参戦し、さらには、同じく同郷で、2026年下院議員選挙への出馬を表明している2 Live Crewのアンクル・ルースまでこの論争に参戦。インディア・アリーとは打って変わって、もともと不真面目な歌詞を歌ってきた同郷勢は、いずれもヤング・マイアミを擁護。だって、全部健全な音楽ばっかりだったら、つまんないもんね。

ながらくゴシップの概況をお届けしましたが、この論争には様々な根深いテーマが埋め込まれている。

1.繰り返される歴史

一つは、ヒップホップが抱える問題として何十年にもわたってなされてきた批評と同じであるという点。かつてYung Miamiが元カレで性犯罪に問われていたDiddyを擁護したことをインディア・アリーが今さら持ちこんだこともこの論争の元凶のひとつで、おおざっぱにとらえると、今回のSpend Dat批判というのは、「最近のラップは、成金主義で、犯罪を助長し、女を蔑んで性犯罪を擁護していてけしからん。こうした風潮はボイコットすべきだ」というメッセージに収斂される。論争の展開される場がもっぱらSNS(Threadやポッドキャスト、Youtube)を舞台にしたものであることを除けば、同様のラップ批判は何度も繰り返されてきた。少し歴史を振り返ろう。

2007年にも、"最近のラップは、成金主義で、犯罪を助長し、女を蔑んで性犯罪を擁護している"問題について、アメリカ議会で公聴会が開かれ、多くの関係者が証言。

さらに20年さかのぼって1996年のドロレス・タッカー女史のコメントを見てみよう。

「もし今キング牧師がいたなら、黒人女性を『ビッチ』と呼ぶラッパーたちについて、何と言うでしょうか。ギャングや麻薬密売人、レイプ犯を美化するラッパーたちについては、何と言うでしょうか。そのような人々が、ゲットーで暮らす幼い子どもたちにとって、いったいどのような手本になるというのでしょうか。

ロサンゼルスタイムズ、1996年3月20日「Anti-rap crusader under fire

 インディア・アリーのYung Miami批判は、上記と同等のものだというのをわかっていただけるのではなかろうか。 

これらの批判に対して、ラッパーたちの意見は、おおまかにつぎのようなものに分かれる。

  • ラップはゲットーのリアリティを反映したものだ(写し鏡なのだから、ラップが犯罪や女性蔑視を助長しているわけではない)
  • 生業として、稼ぎのために音楽を作っている(CDを購入しているのは白人である)
  • 真に受けないでほしい(建前で、犯罪や暴力を歌っているのであって、ほんとにそんなことするわけないだろう、そのくらい聞くほうもわかるでしょ)

2.詐欺師は誰か

 おさらいが長くなってしまったが、この投稿の主題は、「盗み」である。この曲がチャートに上り詰めていくのと同時期に、「I Love Boosters」という映画が公開されており、Yung Miamiは、プライベートの上映会を開催。主演のKeke Palmerに、Spend Datはこの映画の裏テーマ曲だよ、とお墨付きをもらっている。


映画を手掛けたのはThe CoupのBoots Riley。もとになったのは同名の曲だ。

当時(20年前)この曲を聴いていた身からすると、同じ人物がデミ・ムーアの演技を監督するだなんて想像を絶する。映画本編を観ることができていないので、どんな内容かなぁ。ファッション産業の構造的な問題、その中の盗みや不均衡などが描かれているだろうことは想像されるが、アジェンダを売っているというより、クリエティブの面でもかなり評価を受けていて(例えば、レンズを加工して独特の世界観を演出するなど)映画館で見て楽しい!とう作品だそうだ。ただ、あいかわらずBoots Rileyは、革命おこすぜ、みたいなことを本気で言っていて、SNLとかに出演しても、組合の話とかしてぶっ飛んでんな。

ファッションといってもピンと来ないかもしれないが、例えば今年はファッション業界の一大イベントMet GalaのスポンサーであるアマゾンのJeff Bezosに対し、活動家たちがプロジェクションで抗議した件も話題だった。


 「汝、盗む勿れ」というのは、ユダヤ/キリスト教の経典の言葉だが、盗みについて、言及した東洋の文献として、荘子の言葉「盗亦有道」あたりを参照したい。(※きちんと荘子を読んでいるわけではなくクリップ記事程度の見解です。本来なら、孔子謂柳下季曰:「夫為人父者,必能詔其子;為人兄者,必能教其弟。のところを参照したほうが話が早いのですが、「知識」への関心から関連するこちらを参照します)


物入れの箱を開けたり,袋を探したり,現金箱を探し回ったりする泥棒への備えとして,紐をかけ,釘や錠前でしっかりと閉じておくことだろう。世間ではこれを才覚と呼ぶ。ところが大泥棒がやってきて,箱や袋もろとも現金箱を肩に背負って運び,走り去ってしまう。彼が恐れるのは紐や鍵でしっかり締め付けられているかどうかということだ。
 だから,世間で才覚と呼ぶことは,わざわざ大泥棒のためにものを貯えてやっていることと同じである。だから私はあえて言おう,世間で才覚と呼ぶものは大泥棒のために貯えることに他ならないではないか,そして,世間で賢い知恵と呼ぶものは大泥棒のための千両箱(貴重な貯え)に他ならないのだと。
<中略>
盗まれた斉国,そして聖人の狡知の体系などというものは,彼ら泥棒の存在を保護するためのものであったのではないか。私はあえて問おう,世間が偉大な英知と評価するものは何であれ大泥棒を助けるためにあったし,世間で聖人の知恵と称するものは何であれ大泥棒のために取っておかれたものではなかったか,と。
<中略>
もし,嵩や体積の計量器が量りに用いられると,量る米が量りごとに盗まれてしまう。重さを量る計量器が量りに用いられると,量る品物が量りもろともに盗まれてしまう。割り符や認め印が信用保証に用いられると,その割り符や認め印もまた盗まれてしまう。もし慈善や義務(仁義)が道徳原則として用いられると,慈善や義務(仁義)もまた盗まれてしまうだろう。
 どうしてそのように言えるのか。曲がったかぎを盗めば自在かぎに使える。王国を盗めば諸侯(小国の君主)となれる。仁義の教えは諸侯の領地に保たれる。そうしてみると,仁義の盗人はまた聖人の知恵の盗人でもある,これが真実ではないか。

Chuang Tzu Chapters, Lin Yutang's Version, Opening Trunks with a Protest Against (Wrong) Civilisation および「開いている箱,あるいは文明への異議申し立て」樺山三郎 日本語訳 

Yung Miamiの曲を聴いていたのに、気づいたら荘子を読まされていてなんだかわからない事態になってきましたが、主旨としては、「聖人も泥棒やん、聖人してても身内守られへんやん」ということだけ受け止めていただければよいかと。私の関心から、話がづれてきてしまいましたが。(別にこのブログで、盗みが良いとか悪いとか、どういうことが盗みだとかいう識別の作業をしたり、道徳を語るつもりはなく、盗みについて語られた様々な見解を寄せ集めるだけです。)

話を元に戻しますが、Yung Miamiは起業家でSpend Datは、Yung Miami LLCの作品です。Boots Rileyは革命とか言ってますが、ものすごく商業的な成功をしています。盗人に同調するような歌詞や映画をつくったからといって本人たちは、万人とはいわないものの、一定層の人たちに認められる形で成功を収めている。アンクル・ルークにアフリカ中心主義者呼ばわりされていますが、そんなインディア・アリーだって、自身の道徳観を主張し、美しい作品を売ってる。なんだかみんな、頑張って稼いでんじゃんっていうところに話が集約されてきてしまったがそういうことだったんだっけ。。。



モラルと職業の話になってきたので、この動画を紹介する。道徳的な大志を抱け、と呼びかける著者のルツガー・ベルクマンさんによれば、エリート大学の卒業者の就職先と言えば、コンサル、法務、ファイナンスの三角魔界でどれも給料はいいが、こういった道徳的にあかん、と。そうではなく、チャレンジが必要な社会課題を解決するようなことに取り組んでほしいと。教育を受けたのなら、稼ぎより、道徳的に正しい道を選べよ、と。

しかし、このインタビューの終盤、ジョン・スチュアートが巧みに、ルツガー氏が何を売っているかを明らかにしていく。要は、著者は、道徳的選択を掲げることで、本を売ったり講演活動をして、さらには、インスティチュートをNYで設立するのだが、終盤「これは学費をとられるやつでしょ!」とジョンが皮肉っているのが見もの。ルツガー氏は、たばこ産業を「悪」とみなし、それに対して戦う取り組みを進めている。

だいぶ遠くなってきましたが、最後にSpend Dat論争について、そんな痴話げんかに着目している場合ではなく、もっと深刻な問題に焦点を当てようと寄せたKeyaira Boone氏の意見を紹介したい。

黒人女性や子どもたちは、本来、彼女たちを保護し生活を支える責任を負うはずの男性たちによって命を奪われている。黒人コミュニティは、その集団としての政治的影響力を弱体化させることを目的とした法案によって、政治的権利を奪われつつある。そして、アルゴリズムが「家主」のような存在となり、懸命に働く人々の住まいの安定を脅かしている。これらの責任は、Yung Miamiではない。


いやあ、 そんなわたしはすっかり、ほとんどゴシップに時間と字間を使いましたがね。ラップ論議が通った道は、デジタル権利に通じることが多い(要は、メタに考えるとコンテンツモデレーションの問題であったり、表現の自由の問題であったり、商業主義の構造的な問題であったりする)からこのブログで取り上げたのです。さらにヒップホップは、善悪や盗み、という概念について、生活ギリギリアウトな視点から見つめなおしたり思考することを手助けしてくれるので、なにか暮らし向きがよくならない不安や疲労に襲われたときに、頭の体操をしてみました。

2025年9月2日火曜日

映画クレヨンしんちゃんから読む~暴君の恣意性をめぐって

 しばらくまえに「十番目のミューズ」(片岡大右)を読んだ。私自身は、自分をポップカルチャーの虜だと見なす一方で、この種の批評で参照されるメジャー映画をことごとく避けて暮らしている。好みの問題で、みんなが大好きなポップカルチャーよりも自分の関心は少しずれているし、殺し合いが描かれる作品やミソジニーを感じる日本アニメが苦手だからか、『鬼滅の刃』も目にしないままである。「みんなが好き」と評価されるものに、なんとなく全体主義っぽさを感じてしまい、つい逃げてしまう。(そのせいで、ヒップホップ好きなのにKendrick Lamarが苦手、というややこしい事態になる。)結局は私の好みであり相対的なものなので、自分でもどう判断しているのかよくわからない。

参院選が終わって政局の安定もただならない中迎えた8月に公開となった『映画クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ』を映画館で観た。せっかくなので、このおバカ映画について、あくまで私の感覚と解釈で、賞賛の批評を試みたい。


同作品の舞台となるのはインドの架空の町。なにやら、春日部市と新たに姉妹都市交流協定が結ばれ、その一環で春日部市が記念に子どもダンス大会を開き、優勝チームがインドの姉妹都市での大会に出場できるというあらまし。

このところ世間(日本)では、一部に"外国人問題なるもの"が選挙の争点としてでっちあげられ、トランプ大統領さながらに自国民ファーストを擁護・支持する現象があったりして、私にとっては気味が悪かった。特に気味悪く感じたのは個人が自らの立場を安定させるため自国を擁護する姿である。この短絡的な思考は、間にある文脈を十分に検討することなく突如、自身と国とを関連付け、国家の単位を強化し、経済や安全上の理由から外国(外国人)を脅威とみなし敵対する。そんななか、本作品では、「姉妹都市」―国家の境界線ではなく「市」という自治行政区に収斂され、市民間の文化的な交流による相互理解を促進する―というビジョンを背負った国際政治上の用語が、話の展開の起点になっていることに心が洗われる。幼稚園児も保護者も、インドに行って踊りたい!とダンスの準備や練習に励む。ここでいう「インド」という語が参照するのは、国家というよりも、インド文化圏を表している印象だ。ちなみに、相手自治体の名前はハガシミール州ムシバイという名なんだけど、痛くなる場所を歯にしているのは偉かったのではないか。(賞賛のハードルが低くて申し訳ない。)

ところで、夏休みに合わせて子どもや家族向け映画を公開するのはアメリカも同じ。日本では秋公開予定の"Smurfs "(邦題『劇場版スマーフ/おどるキノコ村の時空大冒険』、配給: Paramount Pictures)。ベルギーの漫画を原作とし、キリスト教的な概念を色濃く反映している印象があるが、サウンドトラックにはインド文化圏の風が吹きまくっている※。まずはこのミュージックビデオを見てほしい。


サントラを手掛けるのはRoc Nation(Jay-ZらのRockafellaレコーズを思い出してくれ)の共同創業者であるTY-TY Smithで、Shabz Naqviと「Desi Trill」というヒップホップと南アジア音楽を掛け合わせたプロジェクトをプッシュしている。ビデオが公開されたのは、DOGEとトランプ大統領令が吹き荒れた4月。アメリカの高等教育機関ではこれまでダイバーシティ推進を進めてきたけど、再びトランプ政権になったことで「ダイバーシティ」という言葉を控えざるを得ない、というようなニュースが飛び交っていた時期。

「Higher Love」の歌詞は、天国とか救済とか愛とか、キリスト教的な意味を負った語が多いけれど、バングラデシュの言葉で歌っているパートもあって衝撃。思いっきりダイバーシティである。かつて2000年代前半、Daddy Yankee, シャキーラやサンタナ、ジェニファー・ロペスといったアーティストがスペイン語のシングルやアルバムをリリースして大ヒットしたことがあった(例えば、スペイン語のアルバムでシャキーラがグラミー賞をとったのが2006年。大規模な移民のデモがあったのもその頃)。ちなみにサントラに入っているリアーナの歌は、3年ぶりの新曲で期待されていたけど、ボーカルがはっきりしない合成音でがっかりとの評が多い。

ここで少し寄り道をして、もう少しSmurfのサントラを見てから、しんちゃんに戻りたい。

映画Smurfを配給しているパラマウントについて少し補足しなければならない。というのも、アメリカ映画産業は、財政面で軍需産業と結びつき、象徴面ではセクシズムや暴力助長を批判されてきた。また資本面では映画・テレビ・ラジオ・雑誌といった文化発信を独占的に支配するメディア・コングロマリットを形成している、と2006年頃から問題視されてきたここ数年はGAFAのようなIT企業による寡占が問題になっているけれど、ちょうど今年はパラマウントとSkyeMediaが合併してParamount Skymediaが誕生。(こちらの補足はトランプ政権で資金難に喘ぐアメリカ公共放送の報道を参考にしてほしい)

トランプがCBSに賠償金を支払わせている件も相まって、複雑さが増しますが、メディアのオーナーシップと表現の自由について少しだけ思いをはせていただき、もう一度Smurfのサントラ、Roc Nationに話を戻します。


もっぱらJay-Zがしてきたことというのは、実演家としての成功だけでなくビジネスマンとして、レーベルをつくり、スポーツチームを所有し、音楽配信のプラットフォーム事業を始める、所有権を強化していくアプローチでした。このようなアプローチに至ったのは、アフリカ系アメリカ人がエンターテインメント・カルチャー分野において強いコンテンツ発信力を持ちながらも、構造上の問題から、経営にかかわる意思決定者でもなく所有者でもないために不利益を被ってきた(例えば、ステレオタイプを助長するような描写、実演に対する一時的な支払を受け取っていたが、印税による長期的な資産形成を阻まれた、など)という経緯があります。デジタル封建主義という用語が出回って久しいですが、NBAでもヒップホップでも、地主と小作の関係のような構造的問題が共通して存在していたからこそ、Tidalを買収し、アーティストがプラットフォームを共同で所有するビジョンを示したという流れがあった。で、そういうお仲間のRoc Nationなので、Desi Trillみたいな自由な発想が生まれてくると思います(最後急に雑なまとめになった)。Roc Nationは、ユニバーサルミュージックとパートナ関係にあります。

さて、春日部防衛隊に話を戻しましょう。映画では、いつもぼーっとしてて心優しいぼーちゃんが、紙の力で暴君に変貌してしまいます。不思議な紙が鼻の穴に刺さると、ぼーちゃんの鼻水は出なくなり、刺さった人の欲望を実現する強いエネルギーが沸き起こる、というのもの。ぼーちゃんには、もっと力強く、てきぱきした人気者になってみんなの注目を浴びかっこよくいたいという欲望がありました。

暴君となるボーちゃんを支えるのが最新テクノロジーと金にものを言わす連続起業家で億万長者のウルフ。金持ちが暴君を支える絵は、思い当たる節がありますね…こちらも億万長者が暴君を相棒にしたい、という一方通行な感じがあります。

ウルフが最強の相棒を求める様はリチャード・フッカー(Richard Hooker, Of the Laws of Ecclesiastical Polity) を引用し、統治と人間の本性について語るジョン・ロックを彷彿とさせます。植村邦彦「市民社会とは何か」(p52)は次のように添えています。
われわれは、自分だけではわれわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、(中略)本性上、他者とのかかわりと共同関係を求めるように導かれる~(略)

 ちなみにロックは最大限の便宜を引き出すのは神の意図だというふうに捉えているのですが、クレヨンしんちゃんの映画で鼻に刺さる紙というのも、最大限の能力を引き出す作用があるのでちょっと面白い(神と紙)です。「社会の発展=より進化し洗練されること」を善とし、神の意図とみなすキリスト教的な視座※※に照らすと、紙との闘いがインドに置かれていることが非常に興味深い。

ボーちゃんは、自分のありたい姿(鼻水が垂れていない、てきぱきしたできる男)を望み、紙に導かれて暴走します。それは、みんなでインドで一緒に踊る、楽しく一緒に遊ぶという春日部防衛隊の共同体の理念と衝突してしまいます。すると、映画の流れ(ボーちゃんの暴走とそれを抑止しようとする春日部防衛隊)と、個人の欲求から市民社会が成立に至った経緯は、パラレルでとらえることができるようになります。そのためには、「自由」と「自分勝手」の違いについておさえておかねばなりません。完全にヘーゲルです。なんて哲学的で高尚で難しいんだ、クレヨンしんちゃん!と思うと同時に、このことは私たちが、おいしいカレーを食べたかったり、かっこよく一番グレイトな存在になりたかったりする欲望とその調整という日々の暮らしそのものなのです。

ヘーゲルは、自由(freedom:freiheit)と身勝手(arbiturary:Willkür)を区別しています。リベラルな現代社会のなかで自由とは、選択として理解されがちです。このことについてYuk Huiは"Machine and Sovereignty"のなかでヘーゲルのWorld Spritについて触れ次のように書いています。(私の試訳です、ご容赦を)

もし、自由を選択(ないしは豊富な選択肢から選べること)であると理解するならば、われわれは未だもって意図的な参加と純粋な消費との間をさまよっているといえる。今日のマスメディアが甚大な影響を与えていることは、まさにこの文脈においてである。そしてもし、民主主義を、代議士を選ぶ自由だと理解するとしたら、そのような民主主義が有効なのは個人の利益や好みが優先される市民社会の視座からとらえたときのみである。

そこでヘーゲルは、市民社会が、特定の利益関係者によって強く影響を受けて、身勝手にならないように、主観と客観の双方で内省し、理性的な決定をすることが自由であるとしていると思われます。(Yuk Hui難しくてわかんないから自信がないよ!)

GenXにしか伝わらないかもしれませんが、例えば1996年のイギリスの映画「トレンスポッティング」の冒頭は、現代社会における選択の自由と理性(またはその欠如)を鮮明に訴えているように見えます。


ひょっとすると、ボーちゃんの人格かもしれない鼻たれを変えるには、偶然鼻に刺さった紙の力ではなく、鼻水を外に出して、習慣によって体質改善することだろう、もし変えることがボーちゃんにとって必要であれば。(Hegelianの皆さん、お判りいただけますでしょうか)

モダンでリベラルな生活は、好きなものを選んで手に入れることであり、欲というのは本性と関係していると仮定し圧するよりも調整してGETするのが善しとされるところですが、欲望や衝動に従った任意の選択は暴君さながらであり、そうならないように理性的な判断をすることで自由で快適で安全で平和な共同体をつくって暮らしましょう。このようにクレヨンしんちゃんを読むと、春日部防衛隊は理念としてはかすかべエリアを守る武装しない、支配関係のない、各人の欲求を満たす調整しより豊かな楽しみを得るちっちゃな市民社会の芽生えのようにもみえてかわいい。

本映画の主たるポイントは以上ですが、気に入った3点についても触れておく。

ここからは見どころのネタバレになります。

●みさえの自分語り


みさえとひまわりがフィーチャーされるシーンで、みさえが自分語りの歌を歌うんです。この部分は、私のような視聴者にとっては、個人ー家庭ー統治(主権)への線をつなぎ、思いを馳せるのに重要なシーンです。全マザー&フェミニストカウンセラーの多くが絶賛するであろうこのシーンは、みさえ個人がこの戦いに自分をどう位置付けているか力強く語られてて素敵。誰かLudacrisのMove Bitchの反撃ソングとしてつないで流してくれないだろうか。

●現代テクノロジーが入っている

顔認証、位置情報、SNS、そしてBoston DynamicsのSpotっぽいロボットなどが登場し、歌と踊りとカレーだけじゃないインドが描かれていてよい。

●ひろしのトップガンごっこ

ひろしがDanger Zoneをテキトーな英語っぽい日本語で歌います。このシーンのために権利処理したと思うと頭が下がる。(東京国際映画祭で毎年テレビ朝日の近くでMPAが著作権セミナーやってるだけある)

ハリウッドで一番かっこいいを規定するようなトム・クルーズのシーンを、ほにゃらら的な英語でひろしが歌うの、言語とかかっこよさにおける周縁(すまん,ひろし)が、中心的に描かれるシーン。このことに照らして、Smurfの挿入歌が非英語で歌われることを思い出すと、今度はアメリカの映画館で映画を見る人が、バングラデシュの言葉を、ほにゃららで口ずさむことになるんだ。

2025年、政治で映す社会の様と映画の映す世界は、ますます不一致なのに、どっちもリアリティなんだなぁ。なくとも後者を「ある」と認めることが、いま私たちにできることだ。

※これはヨーロッパ、これはインド文化、と名指す行為は、あんまり好ましくないと思っているのだが、今回話したいことを伝えるうえで、このような名指しになってしまった。

※※ここではそのように記したが、キリスト教的な視座のなかでも、なにが善い開発なのか、ということは直近100年さらに内省されており、さらにさかのぼっても、啓蒙期においては(ロックのようなキリスト教的自然思想というより、キリスト教の背景をもつ世俗化した社会道徳、哲学としてとらえるべきなんだろうけど、日本にいる自分からみれば、どっちもある程度キリスト教と近いと雑に捉えさせてもらう)ファーガソンが洗練の効果を「情念の偶然的な悪用を除去すること」そして、そこから、個人が公共善を自らの主たる目的として自覚すること、と導いているのでキリスト教だと開発すすめる、っていうのはちょっと乱暴だと自覚しているから補足しておく。本ブログの「もっと良くなること」シリーズでも扱っているテーマでもある。


2025年2月21日金曜日

オニオンスープとジョルジェスク・レーゲン(もっと良くなることPart3、または、しないでおくこと )

年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。

 Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。

チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。


小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw

そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。

桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より 

 
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。

食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。

自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。

さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。

このような難しい考え事をするのには、バスタブに浸かるのがぴったりである。わたしにとって、とっておきのバスタブはColeman’s Bathtubだ。


「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。


そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。

ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。

奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。

生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。




2024年11月10日日曜日

いまどんな事態か―対立以外のなにか

その日の朝、まだアメリカ時間では投票終了にならないころ、女性大統領が誕生する可能性があるのかも、とわくわくした気持ちで家を出た。ところが、数えるほどしか女性がいない会場での登壇を終えた夕刻には、トランプの当選確実が騒がれた。就寝前、スマホでSNSを眺める。前日まで、セレブたちが投稿した応援コメント―そのほとんどは暗に、女性の身体の自由を顕示するように見えた―待ちきれない祝福モードは、戸惑い、悲嘆に変わっていた。Youtubeではトーク番組のホストが、皮肉まみれな失意と希望を笑いの種にするのを目にした。こう書くと、私はリベラルな友達に囲まれ、リベラルなコンテンツを消費する認識バブル世界に住んでいるように見える。そんな社会的構造に暮らす私の世界の認識論によれば、トランプの再選は起きえない、ということになるが現実は違う。



何が起きているのか、改めて考えてみよう。実は、私の周りにはトランプ支持者の友人が一定数いる。特に、本来自分がもっとも強いつながりを持っていたカルチャーのコミュニティは、近年トランプ支持に染まっている。昔から、陰謀論者が一定数いるコミュニティではあったが、そんな彼らの反権威主義的な思考が、すっかりトランプ支持に回収されてしまった。もともと話が合ったのに、ここ5年で、反ワクチンやQアノンとの連動し、男らしさと国粋主義が強化され、彼らと音楽のことを話すことはほとんどなくなってしまった。わたしがSNSで消費するコンテンツには、夫婦に関する強い保守思想があふれている。わたしは、疲れた時に、ヨーロッパのどこかの田舎で4人の子供を育てる身でありながら、小麦からパンを発酵させて焼いたり、パスタを粉からつくったり、ガラス瓶にフルーツを漬けて健康的なジュースをつくるそばかす美人を見て、「いいね」を押している。特に熱心な関心も持たぬまま、私が流し見している米国ドラマは、ラテンアメリカ系の主人公たちの自由恋愛を追っているようでキョーレツな保守思想の家族像を売っている。主人公の若い女性は、永遠の愛にあこがれているし、その兄弟のゲイも、パートナーとの結婚に至る。よく思い出してい見ると登場人物は、一人残さず学位不要のサービス業だ。部屋に落ちたごみを拾ったり、郵便受けに届いたピザのチラシを捨てたりしながら、たぶん私は、名前もろくだまし覚えていない登場人物たちがうまくいくことを応援している。このような世界に、トランプ政権は確実に誕生する。

 一夜あけると、世界中の友人たちが、アメリカにいる友人たちの不安を取り除こうと思慮したコメントを投稿した。選挙はいくつかある民主主義国家の執り行う手段のうち一つでしかなく、いくら公式がそれを否定しても、ほかの方法でケアを組織し実現することはできること、選挙の敗北は、負けを意味するわけではなく、大多数の民意が自身のそれと異なることを表していることにすぎないため、必要なのは彼らと共に求め実現するために動く必要を意味していること、これまでだって望みとことなる結果と対峙しながらもなんとかやってきたこと。そうした思慮深いコメントは『負けないで、あきらめず闘い続けて』とは書かなかった。あきらめずに闘い続けるのは、賢明ではなさそうである。ある友人は「選挙結果は問題ではなく、問題に対する症状である」として、闘うのはもうやめて、と呼びかけた。彼女の真意はこうだ。わたしたちは、選挙結果として表象するよりもずっと深刻な問題を抱えている。それは構造的な分断であり双方が互いの見解を聞き入れる機会がないことだ。 

 ここ2年くらい、「市民社会」について語る機会が増え、わたしは改めて市民社会は何か、集中的に考えてきた。一般的に、国連用語の市民社会は、政府組織に対するNGOと、営利企業に対するNPOとして解釈される。市民社会とは何か、知識を問うテストの選択問題であれば、NGOとNPOにマルをつければよい。ところが、読み進めていくと、別の解釈にたどり着く。市民社会の形成こそ、国家の形成、つまり国家が市民社会なのだ。場合によっては、資本主義社会こそ市民社会とも言える。関連書籍を十分に読み、市民社会の関係者と話す機会を持つまで、私はテストの暗記問題のように、市民社会とは、NGOやNPOを含むコミュニティを代弁するエンパワメント目的の主体としてカテゴライズしていた。しかし、実際の世界ではそのようなカテゴリーの主体が市民社会なのではない。本人の自覚の有無を問わず、わたしたちはともに社会を作っているのだ。ともすれば、その手綱は、個人―家族―国家―社会のように。これに私はぞっとした。

 第一次トランプ政権下の保守派判事による人工中絶の違憲判決、移民の強制送還といった出来事は、親しい人との関わり、個人の欲求、そして自分の身体に対する自律した意思決定に直接的に介入し、国家が持つ暴力装置ぶりをこれ見よがしに表した。それでもニュースで見聞きしただけでは、何が起きているかわからなかった。長い時間、私は「チョイス」について十分な意識を持たぬまま過ごしていた。都会での子育てや、新しいウイルス、子どもの代わりに選択をすることなどたくさんの不安を抱えながらそれらを無いものとして過ごしながらすごしていた。コロナで、ケア労働を担うはずの家族が来日しなくなって、家事育児とそれにかかわる金銭を一手に受けることになっても、不安な気持ちを正当化する理由はどこにもなかった。2022年、ウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのを見たときは、「一回きりの出来事でも許されないのだろうか?それともどういうことなんだろうか」とひどく困惑ししばらく陰鬱なきもちになった。

 国連会議に参加して市民社会についての解釈を試みるなかで私は、本で見つけたヘーゲルが市民社会について書いた次の一節をノートにメモした。
「具体的な人格、すなわち特殊的なものとして自己にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性との恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。―しかし、特殊的人格は、本質的にはほかの目標的特殊性との関係のうちにあるものとしてある。それは、各々の人格が他の人格によって媒介されるとともに、同時にまさに他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとして自己を通用させ、満足させるというようにしてである」
植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」)


 職業団体の仕事をしながら明るく過ごしていたけれど、内面ではすっかり困ったことになっていた。ウィル・スミスのニュースを見るころには、困りごとを人に話せるようになってきていたが、何から手をつけていいのかわからなかった。いくつかの前向きなヒントを組み合わせて、ずっと叶わなかった大学進学を果たしたが、精神的に追いやられたまま、年明けてしばらくするとパニックを発症してしまった。息抜きに、と子どもを連れて、田舎のファミレスに行ったときに、博多風もつ鍋が季節メニューで登場してるのを見てはっとさせられた。だいたいみんなが欲しがる、カレーやハンバーグを出す、セントラルキッチンで効率化するのがファミレスの人格なのに、どのようにしてこんなにも特殊なもつ鍋が入り込んだのだろう。下処理済みの安価なもつと、キャベツとニラを調味スープで加熱すればファミレスでもつ鍋は提供できる。ファミレスの洗練された技能と習慣が、博多風もつ鍋を提供するファミレスを実現したと思うと、平和で自由で望みが叶うそこは市民社会の塊に見えた。数年前、松屋がジョージア料理を出した時には何とも思わなかったのだけど、いま啜るおまけの味噌汁は、社会基盤安定の味わい。

トランプの勝利で、もうこんなとこには住んでいられない、という気持ちになるリベラルや、同じ親族でも政治的対立から、話すのが難しくなってしまうなど、ここ数年のアメリカは分断が激しい。TOEFLの読解問題でもつい、どういうイデオロギーのもと書かれた問題文か、文章の解釈に時間をかけて点数を落としたことがあった。どうやらテストは受験者の英語力を測ろうとしているのであって、政治的解釈の読解能力は問わないことに途中から気づき、それだけで数十点アップした(どこに気を使っていたんだわたし)。ここ数年、わたしは分断を前提に、それが何か、まず振り分けをして、適応するような態度で臨んでいたと思う。 


 「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって、自分一人で孤立して生活しているときに、我々のうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、…(略)…本性上、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」(Hooker 1989 (Lock) おなじく植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」より)

 システム思考について読んでいると、私たちの問題への対処の方法は、いまだ局所的な対応にとどまっていることを思い知らされる。システム全体を考えれば、そんな過ちをしたりするはずはないのに!コミュニケーションを扱う人間として、自分の無学さを思い知らされるばかりだが、どうも私たちはうまくコミュニケートしていないようである。問題の症状を消し去っても問題解決にはならない、という友人の言葉は、自分でもずっと気づいていたいくつかの現れに対する問題意識と重なる。 わたしはニュース記事を執筆して、日本で起きていることをより多面的に伝え世界に知ってもらおうとした。ところが、100本ほど書いた後、ニュースのフォーマットでは、理解が深まらないのだと体感を強めた。分かり合えないことが問題なのに。ヘイトスピーチと政治的分断を描いた村田活彦の詩「Sweet Words」に心打たれた。 



 保護者になって、およそ形骸化している、お礼やお礼へのお礼という関係構築プロセスが存在していることを思い知らされた。保護者同士や保護者と恩師の間など、感謝の意のプロキシーとして、お菓子とかを渡しあうのである。公教育を堂々と享受する家庭に育ったため、必要以上の礼品は、かえって迷惑かつ面倒という認識でいたから、大変に面倒である。「贈与」をもう一度訪ねる必要がありそうであるが、社会資本の構築に、別のプロキシーが入っていて、共助の本質からずれている気がしてならない。とくにこのクリスマスシーズン、そんな批判思考がはたらくのは私なら当然である。だけど、菓子折りも、学位記も、履歴書もパスポートもお金も、個人の欲求を媒介するメディアになる。 


 何かが国家で何かがエンタプライズでまた別の何かが市民社会である、という区分して切り離すのにもう限界があると思う。本当はしっかりと線をひいて意志があったろうに、社会生活のうちに私は見境をなくしてしまったので、昨年、自分はボーダーライン障害なのではないかと疑った。まだぐにゃぐにゃの思考だけれど、そうではなくて、私は全体としてとらえることを試みているはずである。しかもこの全体は、直線状の因果関係とはたぶんちがう。(よって、都合よくビールを売るための生産管理システムをどう円滑にするか、はいまだ腑に落ちていない)

ちょうどYuk HuiがテクノロジーとSovereigntyの本をオープンアクセスで出してくれていて、今読んでいるところ、ヘーゲルの精神を出発点にしていてツボである。同時にいくつかのことをしようとしているのでできていないのだけれど習慣に関する本や、社会資本に関する本と合わせて。 

そんなこんなで、 一応自分なりに考えて、コレクティブな暮らしをするところに引っ越し、PTAで運動クラブに入ったり、経費精算をマメにおこなうようになった。今週末は、部屋を照らすあかりと、きれいな水、ごはんを炊く電気鍋、あったかい布団が用意できました。

対立以外のなにかができるといい☮


2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。

2023年8月19日土曜日

AIが著作権侵害だというのは、あんときのアレ

 最近、ニューヨークタイムズがOpenAIを知的財産侵害で訴えるかどうか検討しているらしい、ということが話題になりました。あくまで社内弁護士がその検討をしている、という程度のことでニュースにするなるのかいな、と思うけれど、ちょうど同紙は利用規約を更新し、記事の本文や写真、画像のスクレ―ピングを禁止、AIモデルの学習に使うのを禁止したという動きもあり。世の中的には、新聞や出版関係の業界団体が、LLMの台頭に対して、知的財産の侵害だとして快く思っていない意見を表明していたことも。



AIがどうしてこんなにも優秀に仕事ができ、そして今後どう活用されていくか、眉間にしわを寄せながら抗議しているのは文芸などのクリエイティブに携わる人たち。独立系クリエイターは、そんなニューヨークタイムズの動きを支持します、とのコメントがツイッターでも流れてきた。

これをみていて、どうも私は首をかしげたくなった。なぜかというと、思い出したことがある。昨今のAIと著作権の話は、法的な論点は置いておいて、感情的な部分を見る限りには、なんども同じことを繰り返している気がするからだ。

あんときのアレ

最初に頭をよぎったのは、2001年のNew York Times Co. v. Tasiniだ。執筆者の組合が、ニューヨークタイムズや今のProQuest、LexusNexusを相手に著作権侵害で訴え、2001年に判決が下った。紙媒体むけに提供されたフリーランス作家の著作物について、出版社が作家の明示的な許可や報酬なしにそれらの作品を電子データベースに提供することを認められないとして、原告たちが1800万ドルの補償を得た。

その次はやっぱりなんといっても、ハフィントンポストがAOLに買収されたとき、アリアナ・ハフィントンのよしみやらなんやらで報酬なく書いていた執筆者たちが、ふざけんなよ、という気持ちになった時に起こした訴訟。これは退けられAOLが勝った。


うーん。ナイーブかもしれないけど、繰り返している。どうやって富むんでしょう、というテーゼについては、もうおなじみで浸透していると思うけれども、Jaron Laniarが「デジタル小作人」という言葉を使っている。つまりこのクリエイターたち、作家たちは、サイバースペースで小作人。

どうやって富むんでしょう、せっかく頑張ってつくったのに。という気持ちに関しては、一昨年前、画像生成AIのブームの際、わたしが書いていた下記の論考を今回あらためて掘り起こしてみる。

<ここから>
Stable DiffusionやMidjourneyなどのツールを使って、いわゆる「呪文」(AIに出す指示、プロンプトとも呼ばれる)を入力することで誰でも芸術的な画像を生成することができることが話題になった一昨年。米国コロラド州で開催されたコンテストでAIによる画像生成ツールを使って作成したアートがデジタルアート部門で優勝すると、様々な論争が勃発した。例えば、(アメリカレコード協会に長年勤めた)知財コンサルタントの(上のツイートでも紹介)ニール・ターケウィッツ氏は、「アーティストの同意を得ず作品をスクレ―ピングしてAIの学習データに使うのは道義に反する」とStable Diffusionを非難した。

他方、ロックバンド、ナイン・インチ・ネイルズのアートディレクターとして知られるロブ・シェリダン氏は、「AIが学習しているのはスタイルであり、スタイルは著作権保護対象ではない。スタイルを著作権の保護対象にしてしまったら芸術や文化の発展を損なう」と冷静な見解を語っている。

AIが生成する画像はアーティストにとって脅威か

AIが画像をいとも簡単に生成できるなら、アーティストの仕事を奪うのではないか。AIアートの著作権については、法律家に任せるとして、残りについて検討したい。くだらない仕事は自動化し、なるべく働かなくていいようになってほしいと切に願う一方で、文芸のような芸術領域にまでAIの影響が及ぶとしたら、自分の生業がどうなるか心配にもなろう。テクノロジーがこれからの社会に与える影響力について探求するポッドキャストの司会者リジー・オレアリー氏は番組のなかで「人間と違って、AIには有給休暇も、労災保険も与える必要がない。」とAIアートの優位性について危惧を示した。

コンテストで受賞したAI作品を提出したジェイソン氏は、何百回以上作品を練り直し、生成された絵に、さらに加工したという。AIに望んだ画像を生成してもらうには、ちょうどいい呪文を唱える必要があり、コツや試行錯誤が必要だ。そこに商機を見出し、呪文を販売するマーケットまで生まれていることを米・技術系メディアのザ・ヴァージは伝えている。アートも、資本主義社会の一部だ。

AIはアートを殺してしまうのか。芸術を媒介するあらゆるメディアの発展史の延長にAIを置いて捉えてみよう。例えばかつて、生演奏によるコンサートを収益源に生業を営んでいた音楽家にとって、レコードの登場は脅威としてとらえられることもあった。しかし、一度生まれた技術は後戻りできない。レコードを始めとする記録媒体の普及は、ミュージシャンにとって新たな収益源となった。他方、媒体が門番となっていて、ミュージシャンはレコードレーベルと契約してデビューしなければ人々に自分の音楽を届けられなかった。そうかと思えば、MP3、バーチャル楽器ソフト等の登場によって、CDの売り上げを軸とした音楽ビジネスは終焉。一方で、実演家がいなくてもソフトウェアを使って音楽製作が叶い、ネットで配信し、SNSでファンとつながる、新しい形態を生んだ。技術の進化でアーティスト活動への参入障壁はどんどん取り外されていく。(ヤッパリ、繰り返してると思うんだよね)

今後、AIの画像生成ツールは、画像編集ソフトの付随機能となって手軽に人々に利用されることになるかもしれない。そうなれば、イラストやデザインに関わる人々の仕事のあり方に変化を及ぼす可能性があり、必要なスキルも変わってくるだろう。しかし、AIはアートの意味を知らない。作品にどのような意味を持たせ、解釈するかは人間にかかっている。

どちら側の立場にしても、いい加減、折り合いの勘所がよくなってきたりしてくれないものだろうか。同じこと何度もやってるんだから。そんなことより、AIすごいとか言っている間に水とか温度とかが大変なことになってるのもよろしくです。

2023年6月29日木曜日

老後が不安で婚活するという話~もっとよくなることのPart2

婚活イベントに参加した人の話を聞く機会があった。およそ絶対に行きたくないようなセッティングで、参加者は各々になぜ結婚したいのか順番に発言させられる機会が与えられたそうだ。そのうち、記憶に残ったものとして、老後ひとりになりたくないから、というコメントがあったそう。何かあった時に、ひとりではこまる、というのは確かにそうだと思う。

既婚者世帯は税制面で圧倒的に優遇されており、これは日本もアメリカも同じだ。しかしながら、独身を選ぶ女性の比率は高まっているらしい。

上記の番組では、メリーランド大学准教授でThe Love Jones Cohort: Single and Living Alone in the Black Middle Classの著者であるDr. Kris Marshが出演し、独身が不当な目に合っていること、その背景にある社会構造を解き明かしてくれる。新しい異性と出会ったり社交が趣味というわけではないのに、いやいや婚活しているなら、そんな無理しなくても、と思っていたところ、なんだか社会構造を見つめ直すことになりまして。

ちょうどNewYorkerに面白い風刺画があったのを見つけた。王子に求婚される白雪姫の絵だ。しかし下にはこう、白雪姫の言葉がある。「あなたがおっしゃっているのは、つまりこういうことですか。横暴な継母の企てから私を救ってくれた仲の良い7人の男友達と芸術コミュニティを作り上げて元気に暮らしているところ、それをわざわざ後にして、今度はあなたひとりのために、またも不条理な力関係の中で無力なおかざりになれと?」

接続詞が足りないかもしれませんが、結婚している場合の税制優遇について考えたときに思い起こすのが、坂口恭平の中学生のためのテストの段取りの一節です。

 国は好き勝手に生きられると、税金を巻き上げられないことを知っているわけですね! だから土地の所有者を確定するために法律を作るわけです。この土地は誰々のもの。だから、この人からどれだけの年貢をおさめてもらうと決めるわけです。だから、山の中の洞窟なんかに住まれたら、わけわからなくなるじゃないですか。だから、町みたいなものを作って、その中で生活してもらうことを考えたんですね。適当に暮らすとまずいのは、人々ではなく、国だったわけです。

未婚の人は不安があり、既婚の人は不満があります。どちらも、もっと良くなろうとする―このままではダメだ、から。

既婚女性と話すと、家事や子育て、仕事でいかに不平等な立場に置かれているか、つまりは配偶者への不満として表出しますが、いくつかのものは、どう考えても、社会構造の問題(なにに優先的価値があり、何に対してより一層どのような努力がなされるべきか、何をもってして楽しみや満足と捉えるか、という個人の考えにより強い影響力を与える機構の存在―会社であったりマーケティングされたイメージ―があるから)なのに、ほとんどの場合は夫婦間の問題として、対応されるようです。

一時的に主婦※生活だっときに、もっとよくなること、で書いたのですが、普通に生きているともっと良くなることに囚われます。

毎朝浮かぶ、こうしたらもっと生活が良くなるんじゃないか、というポジティブな着想は、陽が昇るにつれて懸命な思案となり、正午までにはネットでの商品の比較選択になり、午後には疲れと共に不満へと変わり、夕方には完全なるただの不平になっている。

※「主婦」であることについては、WAN(ウィメンズアクションネットワーク)のシンポジウムで、働く女も、主婦への距離が存在する点において主婦という概念から逃れられない、との名台詞をきいたけれど、引用元をしっかりと記憶できずごめんなさい。 

Adam CurtisのドキュメンタリーCentury of Selfでは、フロイトからエドワード・バーネイズと、心理学をマーケティングに援用し、個人主義を促進することでアメリカの消費文化を作っていった様子が描かれていますが、その途中で、主婦に処方されるリチウム(鬱に処方される)の話がでてきた記憶(たしか、、)があります。

人それぞれだと思うけど、結婚してもしなくても先行きは不安なのでは…と思っただろうか。なんとそこそこの暮らしをする我々どころか、ちょっと余裕のある人たちや、大金持ちさえ、将来が不安で困っている。だって、カナダの山火事でNYの空も煙く、安全できれいな水や空気が必ずや与えられるものではなくなってきていることを思えばその不安は妥当だろうけれど。

ダグラス・ラシュコフが「Survival of the Richest(邦題:デジタル生存競争)」でも触れているけど、ITで成功した金持ちが、火星に逃げようとしたり、不死を目指したり、と終末論的な視点にあること。それからその手前の富裕層も、どのESG株に投資したらいいのかしらと、良い意図でありながらも、先行きの不安から、個人主義的、後期資本主義的な価値観から逃れられず不安を極め、自分達だけでもなんとか逃れようという、もはや何言ってるんだ、というような馬鹿げたお金のかかる対策をとろうとしていることについてポッドキャストのなかでも何度も触れている。

婚活コンサルタントのブログが面白いのでしょっちゅう読んでしまうのだけど、身だしなみやメイクであったり、ファッションであったり、男女ともにどのような点をもっとよくする必要があるか、よく解説されていることを思い出した途端、アストラ・テイラーがこう来た。




 

"An advertisement will never say, 'Hey, you're enough, you're great as you are,' right? It's always going to say, 'Gosh, your teeth could be …whiter. That's a very banal example, but it's ubiquitous."

 現代の暮らしにおいては、不安は購買意欲創出のための基本的な機能として構造的に作られている、ということ。それから、この不安の解消に当たっては、他と競争して、自分だけが高みに到ることで事故を実現し競争に勝つことが前提になってくる。だって、テストは、みんなで一緒に解くのではなく、自分一人で解くから偏差値が変わるんだ。

そこで再び、もっと良くなることについて思い出してみる。

実際にしたことはないので憶測だけれど、婚活イベントにおいてはその数十人の参加者の中から、自分の価値基準(これも、その数十年にわたって、ディズニーとか、理想の家族を描いた洗剤のCMとかによってmanufactureされた)に見合う、ぐっとくる相手(ぐっとじゃなくって、なんかもうちょっとふさわしい言葉があった気がするんだけどなんっていうんだっけw忘れたw)を見つけなければいけない、数学的にめちゃめや可能性が低い気がするんだけど、ないしはアプリとか相談所とかあるんだろうけど、その成功のために、美容とか身だしなみなど、「自分」に投資し、他者を選別し、もっと良くなろうとすることだろう。まさにWhy Love HurtsでEva Illouzが示している等価値の交換としての市場のなかの恋愛。いや、良くなることはいいと思うんだけど、不安の解消を自分だけが背負い続ける感じを思い知らされる。

私の場合、インテリアとかもっときれいな部屋に、とかもっと栄養のあり安価で健康的でエシカルな食事を、ということに向かうのだけど、そのすべてが、私個人でなかったとして、家庭、家の中だけに閉じていることに気づいた。これはもっと良くなることを書いた時には気づかなかった。ちなみに、もっときれいな部屋やもっと良い食事を創出するというゴールを描いたり、そこに向かって走るのは私個人だ。

いずれの場合も、他者と協力していないし、自分だけ(または家族まで)が受益者となるものだ。その数十人の婚活イベント参加者は、配偶者を求めずに、共済ないしは合弁事業でも立ち上げたほうが、偶然いい人がみつかり、かつ、不慮の事故などに会わず、独身だった場合よりも追加の害が発生することが無く無事添い遂げられる場合のに比べて、圧倒的に計画実行可能なものではないだろうか。つまり、配偶者に安定をもとめるのではなく、頼れる近所、友達、村、コミュニティ、なんなら、ましな地球を維持するためのアクションがとれる共同体を作ったほうが、誰かひとりに頼るよりはいいような気がするんだけど。その共済ないしは事業の運営や維持において、偶然配偶者関係になることはあるとしても逆は絶対にないんじゃないだろうか。自治体も、婚活イベントに助成して、徴税するよりも、結婚しなくても楽しく生きていける街づくりをしたらどうだろうか。や、婚活したことないからすべて憶測だけれど。わたしはもっときれいな部屋をつくるのもいいけれども、部屋にすがることなくおおらかに過ごせる環境を整えたら…、自炊しなくても、素敵な食事が提供される店が溢れる地域につくりかえられたら…、いいんじゃないだろうか。それはもっといいことを指しているようにも思うけれど💦

Astra Taylorは決して婚活や老後の話をしているのではないけれども、結局「必要なのはコレクティブ・アクション」だと言っている。彼女は環境活動家でありドキュメンタリー作家なのだけど、私の書いたことは女性でいることの諸問題という視点でもあるから、根源的に地球の問題とつながっている。