ラベル surveillance の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル surveillance の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年10月12日火曜日

巨大テック問題ーでも批判するマスコミも同じ

 フェイスブックの内部告発者が60ミニッツに出演し話題を呼んでいます。フェイスブックは、若い子たちへの有害性を知りながらも調査資料に蓋をし、コンテンツの掲示に関わるアルゴリズムについて利益を追求のために使い続けたことが批判されています。


ちょうど上院での公聴会の最中だったり、欧州が米巨大テック企業への規制を強めていたところという時勢的な状況も重なって、新聞テレビ等のマスコミはフェイスブックを大バッシング。国際的にも問題となっています。フェイスブックが独占的な立場を優位に利用して、ユーザのエンゲージメント(という名の従事時間)を最大化するよう、特に弱い立場にある10代への影響を知りながら、十分な対応をしてこなかったのは、そりゃーいかんだろう。(Timeの表紙はこんなふうになっちゃってる、キツっ)

一方、このメディアからの大バッシングに、冷めた目を向ける人もいます。(一言でいうと、もっとも基本的なU.Y.C.の事例) 落ち着いてみてみましょう。マスコミがフェイスブックを批判しているのは、「利益を最大化して、若者への悪影響を蔑ろにした」からですが、マスコミはその常習犯です。先ほどのTIMEの表紙がわかりやすいですが、今回の報道では、Facebook=ザッカーバーグとして象徴、一般化し、フェイスブックが悪い、というようにことをずいぶんと単純化してしまいがちです。これに対して、ウェブの世界の長老ともいうべきでしょうか(ブログ始めて27年だそう)Dave WinerはFacebookの内在する複雑性を単純化することを批判し、フェイスブックは我々だ、と投稿しています。その投稿の中では

「フェイスブックは言ってみればニューヨークみたいなものだ。もしタバコ会社の本拠地がすべてニューヨークにあったら、ニューヨーク市長が癌の元凶の犯罪者だって言っているようなもんだ。実際にフェイスブックはニューヨークの何百倍も大きいんだから、いろんなことがあるってことを理解してよ」と。

そして「フェイスブックがー」と言うのは焦点が定まらなさ過ぎので、その意味するところをしっかり検討するようにと口を酸っぱくして言っています。

Facebookとは・・・ 
1.マークザッカーバーグのこと
2.パブリックコーポレーションとしてのFB
3.60Kの従業員
4.サーバー、ソフトなどの技術
5. 広告プラットフォーム
6. ユーザコミュニティ
7.ウェブへと接続するもの
8. ビデオや画像、投稿、ライブ配信など、現在過去のあらゆるコンテンツのこと


マスコミのほとんども現在は、トラフィックの大部分やシステムをGAFAに頼っている(ニュースサイト訪問のほとんどはSNSからの流入)わけだし、確かにやっていることの構造はほとんど一緒です。

同様の指摘はこちらにも。

フェイスブックについて人よりもカネを優先する悪いと世間に伝えるなら、プレス(マスコミ)だって、同じことをしちゃいけないはずだ(でもしてる)。クリックベイト記事やとんでも記事でトラフィックを捻出したりしないってこと。

あと、面白かったのはコレ↓。新聞が、フェイスブック閉鎖や解体をに声を強めながら、この論争の最中、フェイスブックのサイトが一時アクセスできなかったことについて、咎める新聞記事に、どっちやねん!と突っ込みをいれている投稿。

新聞記事:「フェイスブックは邪悪!閉鎖すべき」
これも新聞記事:「フェイスブックは6時間落ちてたので、再発防止に努めるべき」(どっちやねん)

「私の言いたいことは、我々プレスが、他者にアカウンタビリティを求めるなら、自分自身についても、より高い水準を保つよう努めなければおかしい。もし、フェイスブックが人々のプライバシーを侵害していると、世間に伝えるならば、我々プレスも、同じように人々のプライバシーを侵害してはならないはず(だが、している) 」

内部告発から、単なるフェイスブック叩きに終始してしまうと、ことの論点を単純化しゆがめてしまい、本来議論すべき事柄や検討すべき選択肢がぼやけてしまうように見えます。

今回は、フェイスブックの内部告発により明らかにされた巨大テックの持つ強いパワーや不均衡について報道するはずのプレス(マスコミ)に対する批評をいくつか紹介しました。フェイスブックの問題をひも解いていくと、実はそれは自然と、インターネット以前の時代に、これまでマスコミが指摘されてきたことといくつかは同じ性質を持っている、ということに気づくと、マスコミ批評がこれまで展開してきた論点や規制のありかた(うまくいってないけど!)を巨大テック企業にも応用することができるというヒントをくれているように思います。

もちろん、編集者によるニュースの選別と、アルゴリズムにより自動化された選別や掲示というのは、背景の仕組みやその規模のインパクトが大きくちがうし、テック周りの法整備が未発達である、テクノロジーの複雑性への理解をほとんどの人は持ち合わせていないことから、巨大テック問題をどう解消すべきか、みんなで落ち着て議論するのがかなり難しい現状にあります。そうすると、今回の一件で、マスコミがフェイスブック叩きに走ることで、なんだか違う、インターネットの自由を侵す方向に走ってしまう可能性もあるということは留意しておかなければいけなさそうです。

次回は、くわしくそれ。

2020年6月8日月曜日

イタリアとCOVID19陽性接触者アプリ #MoneyLab8 (前半)

スロベニアにある非営利の文化機関であるAksiomaが主催しているMoneyLabというカンファレンスがとても面白いので紹介します。

Aksiomaはクリティカルな視座から新しいメディアアートや倫理等について学際的に研究・実践する取組を行っています。そのプロジェクトの一つであるMoneyLabは「お金」という切り口から社会を根底から考え直すカンファレンスです。今年のMoneyLabは約1か月にわたり毎週バーチャルに開催しているので、毎週リアルタイムに(または事後の動画)を視聴することができます。

MoneyLab #8

SHARE IDEAS, COMMENTS, QUESTIONS 👇🏿 OPEN CHAT IN NEW WINDOW The next appointment with the MoneyLab #8 streaming series is set for Monday, 1 June at 5 PM CET. The panel Care: Solidarity is Disobedience foresees the participation of Tomislav Medak as representative of the Pirate.Care research project, which focuses on autonomous responses to the...


なぜマネーなのか、というと公平な社会をつくり出すためのディスコースとして、欧州では非常にインパクトの強かったタックスヘイブンという社会問題を含みつつ、暗号通貨やキャッシュレス、グローバル金融システムなどについてアーティストや技術者、アクティビストらとともに検討するという目的意識からです。タックスヘイブンの問題は、日本ではスノーデンの暴露と同様に過少に見過ごされてしまった社会的問題のひとつですね・・・。タックスヘイブン問題が欧州で意識されるのは、日頃の文芸・哲学系の研究者のさかんな議論と欧州の芸術・学術研究支援の助成金の成果だと個人的には感じます。いわゆる”ボーダースタディ”という領域があって、以前から国境、境界という概念について議論・検討がなされていたからこそ、パナマ文書がでてきたときに、その哲学的示唆をより深く考察できています。

さて、今回は「データ主権(data soverignty)と接触記録(Proximity Tracing)」をテーマにスロベニアで活動するNGO Citizen DのCEOであるDomen Savičさんが、イタリア南部にいるJeromiの通称で知られるDenis Roioさん(フリーソフトウェアを創造する非営利組織のDYNE.ORGの設立者でEUのDECODEプロジェクトのCTO)へインタビューするもの。Jeromiは開発者でありながら、社会正義や倫理について強い意識を持っていることで知られています。Jeromiの発言が、すごく本質的で私の問題意識をうまく表現してくれているので救われます。

字幕設定を自動翻訳>英語に



インタビューが始まるとDomenはこう口火を切ります。
「ジェロミーにぜひ聞きたい。COVID19パンデミック以来、いつパンデミックの世界を救ってくれるアプリが登場するのか、ボタンで解決できるようななんらかの技術、またそういった問題についてどう思われますか?」

//ちょっとある意味でエフゲニー・モロゾフの本CLICK HERE TO SAVE EVERYTHINGを彷彿とさせる 問いですね。

この問いに対してジェロミーは「簡潔に答えるとどんなアプリが現れようとも私たちが現在直面している問題を解決できません。なんでそんな問いから始めるんでしょう」ときっぱり。そして次のように補足します。「まずは問題の定義から始めましょう。今起きていることは、あらゆるやりとり(interaction)において媒介(mediation)が増大していることです。」

媒介(mediation)とその増大というフレームから社会を捉える、というのはまさにメディアコミュニケーション研究の根っこの部分。

「デジタル技術の発展による媒介の増大は、新たなコミュニケーションの形やアートを生み出しています。媒介するということは、人間の表現、思想、コミュニケーションになんらかの第三者※の側面が介入し、場合によっては所謂『ミドルマン』となってそのコミュニケーションに対し盗聴、追加、削除、逸脱することがあります。」
「ほかのメディアのことを思い出してください。例えば電話、メール、写真。それぞれ良い点、悪い点をもたらしました。それぞれが人々の認識をどう変えたか。」

そしてさらに、哲学者ヴィレム・フルッサーの理論を踏まえ、次のようにコメントしています。(本気で理解したいと、ここここが参考になるかと)
「フルッサーが予見したようなテクノイメージの置かれる状況、つまりテクノイメージがリアリティに先行し、テクノイメージがその後を作る、ということは、まさに今我々が困っているフェイクニュース問題に相当すると考えられます。画像や音声の合成(synthesis)によるCovid19にまつわる陰謀論の拡散などは見事にフルッサーの理論が言い当たっているのではないでしょうか。」
「またデータビジュアライゼーションはテクノイメージの創造であると捉えることができるとすれば、データビジュアライゼーションもまた、リアリティを定義し説明するもので、やり様によっては、真実を隠したり明らかにすることになるので、どうデータを使うかが重要。」

さて、ようやく接触アプリの話に移ります。ジェロミーは、接触アプリが果たすべき役割は、あくまで個人が自身のリスクアセスメントをし、それに基づいて意思決定することであるとしています。SARS-COV2は、無症状の潜伏期間が長く、その期間中に接触したことを知ることができれば、個人がよりよい判断(自己隔離をしたり、その期間に接触した友人や家族にリスクを伝える)をすることができる、という前提からです。これに対し、接触アプリの悪い例は、トップダウンで、個人をトラッキングし、リスク評価をされる(リスク評価をするのは個人ではなく、上意下達的にモニタリングする側)ようなケースだとしています。あるべき姿はプライベートなアプリであり、自分に関するデータが他者によって集積され、そのことが自分にはわからないような状態であれば問題のあるアプリになってしまう、と述べています。

2020年5月18日月曜日

自警団とアプリ(自粛ポリス考 その2)

自粛ポリス考その1では、パンデミックによる不安・ストレスと、インターネット利用時間が増えデータ(ニュースやSNSでの情報)との付き合いが多くなっていく中、Web2.0以前から指摘されてきたヘイトやデマの問題に加え、より効率的に最適化された近年のアルゴリズム等によって拍車がかかっていくこと、その背景にる広告ビジネスモデルについて目を向けてみました。

考えてみるとインターネット以前においても、デマとヘイト・人種差別と私刑行為はいつもタッグを組んで厭うべき対象を共有し、排斥行為を繰り返してきました。私刑行為の正当化はほとんどの場合、不安の中、デマや誤情報が拡散されヘイトの対象となるグループにより命の危険にされるとして自身や家族(特に女性や子供)を守るためとして自警団を組織していきます。

銃の所有が容認されている米国ではボランティアでパトロールを行う自警団員が、丸腰の少年を結果的に銃殺してしまったケースがありその背景として世間からは人種差別が指摘されました。さらに古くは検証済みでないデマが発端となり自警団の行動が大量虐殺を引き起こした100年前のケースなど、挙げればきりがありません。ヘイトの被害にあうのは、特定のグループに属する人種に限定されず、実際にはその特定グループ以外の人々も被害が及びます。

'Watchmen' revived it. But the history of the 1921 Tulsa race massacre was nearly lost

The explosive opening in the first episode of HBO's "Watchmen," with citizens of a black Tulsa, Okla., neighborhood being gunned down by white vigilantes, black businesses deliberately burned and even aerial attacks, has brought new attention to the nearly buried history of what the Oklahoma Historical Society calls "the single worst incident of racial violence in American history."

日本においても不安やストレスが強い環境において特定のグループへのヘイトが高まり、ヘイトの対象と同一視され殺害されてしまった歴史もあります。自粛ポリスをインターネットのせいだ、として悪者扱いしても(というかインターネットを相手にしても・・・)何の糸口にもなりません。自粛ポリス考その1で書いたように、サイバースペースの問題と物理世界の問題をそれぞれ別の問題として断絶させてしまう事態が続かないよう包括的なアプローチが必要です。

パンデミックにおけるテクノロジーへのまなざしも分断しています。情報の加工や収集、拡散が容易になったことでインフォデミックが起こり、その原因として予てから指摘されてきたリテラシー教育の不十分さや、プラットフォームの推薦アルゴリズムどを問題視する声も生まれます。一方で、感染拡大の防止にテクノロジーが打開策を提供してくれるだろうとして、データの集積やGPS等に希望を見出すものもいます。

人間の尊い命を奪うウイルスによる未曽有の事態においてテクノロジーとどう向き合い、取り組むべきなのか。このブログでも過去に何度か参照し、テクノロジーの解決主義(Solutionism)批判で知られるEvegeny Morozoffは、今般もガーディアン紙に「パンデミックを”IT政策”で乗り切るのは大間違い」と寄せています。相手が未知のウイルスであっても、教訓となる事柄は充分にあると考えます。同様に過去に参照したユヴァル・ノア・ハラリは「パンデミックよりも恐ろしいのは人間のヘイト、欲、無知」だとし、さらに個人データ収集については「市民への監視が進むのであれば、政府への監視も併せて強めなければならない」と話しています。


私が思い出したのは、過去に国内で議論を巻き起こしたテクノロジーによる浅はかな解決主義に対する批判です。日本のGoogleによるインパクトチャレンジという社会課題解決にICTを使うビジネスコンテストで、あるNPOが起案した「GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」が、ホームレスの当事者支援団体などにより批判を浴びました。突っ込みどころが多すぎるから詳しくは書きませんが、先に触れたパトロールや不安と差別、ヘイトなど様々な問題を含有します。善意が、意図せずこういう方向に向かってしまうのは残念と思うとともに、では何を理解しておくべきだったのか、というと大学の講義で体系だって教わることでもないのかもしれないので、想像しようもなかったのかもと思うと、どのような手立てでこうしたことが防げるのかな、というのが私にとってテーマでもあります。

NPO法人Homedoor「CRIMELESS(GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」への批判

Googleインパクトチャレンジ受賞『CRIMELESS(GPS による治安維持とホームレス雇用の両立)』の問題点 参考:「日本におけるGoogleインパクトチャレンジ」のグランプリを受賞した事業「CRIMELESS」についての意見書 http://lluvia.tea-nifty.com/homelesssogosodan/2015/03/googlecrimeless.html

テクノロジーをどう利用するのか、政治とデータの関係は一層密を極めています。個人がデータの行きつく先について理解せずともテクノロジーの利用は増える一方です。最近ではトランプ陣営が新たなアプリをリリースし話題になっています。これに対し、シンクタンクのTactical Technology Collectiveは、「キャンペーンアプリは同じ考えを持つユーザを集めるので、思想的多様性が避けられてしまい一層フィルターバブルやコンファメーションバイアスを強化するリスクがある.  」と警鐘を鳴らしています。

また最近になって、トランプ陣営が勝利したのは単に他の候補者よりもFacebookに莫大な広告費をかけ、Facebook広告が算出した最適化された広告を活用したことが勝因になったのでは(つまりキャンペーンマネージャーという人間による戦略的に案を練って低コストで最適な効果を得る広告を作るという意思決定ではなく、Facebook広告に内在する計算機が導いた)との分析も改めて注目されています。そして政治的キャンペーン、選挙活動としてトランプ陣営はパンデミックを利用し、憎悪を増幅させるキャンペーンを展開しています。
画像:https://www.anotheracronym.orgによる選挙広告に関する分析記事


 問題は、こうした憎悪は特定のグループに作用するだけでなく、ひいてはそれ以外の人々にも被害をもたらします。パンデミックをもたらしたウイルスを裁いたりリンチしたりできないフラストレーションが、さらなる憎悪や分断を生むなか、過去の教訓に学びながらテクノロジーへのバランスの取れた視座を得ようと試みることが必要なのではないでしょうか。

2018年1月28日日曜日

platform cooperativismの文脈

プラットフォームコーポラティビスムについて過去にブログでもつづっていますが改めて関心が高まっていることを受けて用語としての理解だけではなくその背景となる部分をしっかり記しておきたいと思います。技術や戦略としてプラットフォームコーポラティビスムを日本で導入してもその裏にある思想がなければ部分的にしか意味をなさないからです。プラットフォームコーポラティビスムは制度設計ではなく文化的な運動だから。

プラットフォームコーポラティビスムは,ここ数年になって生まれた言葉でわかりやすく言えばその中心人物はドイツ出身でアメリカニューヨークにあるニュースクールという私立大学で教鞭をとるTrebor Scholzです。彼は労働運動史の観点から、現代のAmazonのメカニカルタークをはじめクラウドソーシングにおける労働の搾取や富の不均衡といったテーマに注目し「デジタルな労働」として問題提起してきました。ただしこれは彼の専売特許でもなく研究対象でもないリアルな課題への実践であることを十分承知する必要があります。

デジタルな労働に関する問題はグローバルなものでもありネットワークを通じて発生するものです。そこで「Digital Labor」という、関係者を交えた国際的シンポジウムによりその理解を深めようとニュースクールが主催となって2014年に開催されました。当時このブログでも取り上げていますが,副業を持たないとやっていけない、というようなライフスタイルは2000年代半ばのアメリカではすでに意識されるようになっていて、(たとえば当時話題になったウェブ動画「Story of Stuff」のなかでは持続可能性という視点から消費と仕事を掛け持ちすることについて触れている)、フリーランスユニオンみたいなのができていったり、学問としての労働運動が強いドイツなどをはじめヨーロッパでAmazonのメカニカルタークが批判されるようになり、さらにすすんでSharing Economyにおける労働とは言い難い新しい形の労働をどう捉えていくか、議論がさかんいなっていったという経緯があります。こうしたネットワークで発生する労働という問題に対する持続可能な代替手段としてプラットフォームコーポラティビスムは生まれてきました。

シェアリングエコノミーについて経済と労働の観点からもう一度振り返ってみます。ビジネスとしてはプラットフォーム戦略です。例えばUberなら交通のサービス化としてアプリを通じて乗車のシェアを提供することで運転手と乗客を結び付けるプラットフォームの役割を担うことで利益を発生させます。一方、ライドを提供する運転手といのは空いた時間にすでに所有している車を使ってタクシー行為をするわけであり、Uberの社員として労働契約を結ぶわけではないため労働者としての保護を受けないことになります。これがわかりやすい労働とプラットフォームの関係の一つの例です。

もう一つはWeb2.0以降から一層一般化していったソーシャルメディアに対する問題です。ソーシャルメディアはマイクロブログやメッセージのプラットフォームとしてソーシャルな社会的な交流を促す立場にあります。いくつかのソーシャルメディアはテクノロジーが駆り立てて始まりましたが自己持続のために私企業の形をとり、ユーザ数の増加を受けさらに投資家からの資金調達を経て上場していきます。例えばツイッターはビジネスとして始まったつもりはないのですが,投資を受けて広告によるビジネスモデルを展開していきます。この時点でも明らかですがツイッターを価値ある場所にしているのはツイッターユーザそのものです。ユーザがコンテンツを投稿しユーザ同士が子交流できるコミュニティを作っていったわけです。

広告モデルになったことでユーザのデータはコモディティに変換されマーケティング目的で提供され,ツイッター社は投資家から調達した資金のために自分のビジネスが有望であることを証明し続けなければいけなくなりました。ソーシャルメディアを利用することが労働とは言えませんがユーザが何らかの価値創造に貢献していることに注意が必要です。

多くのテクノロジースタートアップはサービス提供、ユーザ拡大,資金調達しIPOないしは買収というプロセスでビジネスを成り立たせています。こうした厳しい競争と企業のライフサイクルの中にソーシャルメディアも存在しています。またシリコンバレーや北米の若手起業家にとって資金調達してビジネスを拡張することや、買収されることというのが「成功」の出口であるという文化的な認識があります。端的にいえばそのほうがモテるという風土です。消費者が作り手になるWeb2.0はユーザの情報発信を手助けする大きな力となった一方,創造された価値の分配について誰が何をどのくらい享受できるのか明確なプランを持たないままテクノロジーが先行していったものです。(もしくはそのことを戦略的にわかっている人はそれをビジネスにしていったとも言えます。)

日本では話題になりませんでしたがアリアナ・ハフィントンが始めたハフィントンポストは彼女の目的に共鳴した多くの友人が寄稿したおかげでメディアとして強力になったわけですがAOLに買収されたことは多くの寄稿者にとってその価値の分配について疑問を抱くものとして大きなきっかけとなっています。

ユーザ投稿型のソーシャルメディアのデジタルな労働としての問題はそれそのもの単体としてではなく,ソーシャルメディアの広告モデルの鋭利化により一層顕著になったユーザデータの集積やデータの所有権、プライバシーの問題、アルゴリズムという見えない編集権によるコンテンツのコントロールという関連する様々な問題との相互作用でより英語圏で強く意識されるようになっていきました。なので単純に労働や価値といった要素単体で問題提起されているものではなく、サービスを提供するプラットフォーム側に不均衡に様々な権力が付与されている現状への疑問符の一つとして存在していることを認識する必要があります。特にアプリが自分のデータを「監視」し、第三者へ提供していることへの問題意識は、スノーデンの暴露(こちらも同じく日本ではあまりユーザの意識変革を生まなかったが,英語圏では多大な影響をあたえた)により顕在化された政府の監視の問題とも相互に関係しています。

上記に示したようにデジタルな労働は想像した価値の分配の不均衡について意識する運動としての側面とともに、所有権やメディアサービスの社会的説明責任を求めようという問題意識の二つが相まって高まりをみせていくことになります。その打開策としてプラットフォームコーポラティビスムが注目されることになります。

もう一つの大きな背景として見過ごしてはいけないのはアメリカ現代史におけるニュースクールの存在です。同大学でのデジタルな労働のシンポジウムは学際的取り組みで,文化・メディア学部が主体となっています。そして同時にニュウヨーク市立大学(CUNY, こちらも都市とメディア研究で非常に重要で先鋭的な取り組みがある)やそのほかの学術機関とのコラボレーションで開催されています。社会学でも労働の学会でもなく学際的にそして国内外のアクティビストと研究者を交えて行われているところは日本のアカデミアの姿にもう少し求めたいところです。

この舞台となっているニュースクールはニューヨークという土地柄もありメディア研究者にとってはアイビーリーグとはまた違う先鋭的な教育機関としての印象も強いです。その最大の所以となっているのが2011年秋のオキュパイウォールストリートとの関係です。オキュパイはリーマンショックやサブプライムローンの問題に対する民衆のデモといった印象を持たれるかもしれませんが,大学構造への再考の一手を担う重大な機会をもたらしていました。大学の実践,知へのアクセスと実践としてオキュパイの現場には大学教員が若者や学生と対話していました。知へのアクセスという観点と同時に富の分配に対する再考の場としてオキュパイ運動が重要なターニングポイントになっています。

もっと言うと、このオキュパイの前進ともいえる出来事は2008年12月にニュースクールで起きています。それはオキュパイニュースクールというニュースクールの占拠としてニュースクールの学生だけでなく先にあげたCUNYの学生なども参加し学校に対する要求をしたものでした。その担い手にはSDSという反戦学生運動のグループがあります。SDSはベトナム戦争のころ組織されたものですがその後一度解散しており2000年代半ばになって復活しいくつかの州のカレッジなどで再びアクティブなネットワークを形成しています。その結びつきをもたらすのに幾分か貢献したのはインターネットです。直接的には911をきっかけに始まったアフガン侵攻やイラク戦争が学生運動の主要な要因です。メディア研究が関連するのは、これらの戦争に際し施行した愛国法や同時期のメディアの統合,それに所以する政府に批判的なキャスターの解雇があり、そのカウンターとしてインターネットやコミュニティ放送局などによるオルタナティブメディアが勃興していきます。ニュースクールの占拠行為は学生の反戦団体であり,2008年のイスラエルによるガザへの攻撃への反対運動とも無縁ではない,直接行動の実践でした。ちなみにアメリカメディアにおける中東の報道はイスラエルよりのものばかりであることが頻繁なメディア批評のトピックとなっています。

ついでに挙げておくとSDS復活と同時期に盛り上がりを見せた2000年代中盤の学生運動としてフリーカルチャーがあります。こちらはクリエイティブコモンズとも共闘して著作権の観点でシェアしたりアクセスしたりリミックスすることをもっと自由にやっていきたいという学生運動でハーバードにも組織がありNYUにもアクティブな学生グループがありました。あとでこのことが少し関連してくるので挙げておきます。

もう少しオキュパイ運動について触れておくとオキュパイ運動は反G8や「もう一つの世界は可能」といった反グロ―バリゼーション運動の系譜もあります。これはさらにさかのぼる1999年のシアトルでの反WTOの闘争と当時期に誕生したインターネット上の匿名の分散型のジャーナリストのネットワークであるインディメディアがその根幹となる思想を形作っています。さらにその後の反グローバリゼーションというイデオロギーの実践として、広告へのカウンターとしてのアドバスターズが存在します。ここにオルタナティブな世界を求める運動とカルチュラルスタディーズ,メディアの実践が融合します。わかりやすい反グローバリゼーションとして、シェル石油、ナイキやマクドナルド、ネスレやスターバックスへの不買運動などが挙げられます。ここに先に挙げた反戦運動とのオーバーラップがあり、イスラエルを支持する多国籍企業への不買運動(BDS)があります。

少し複雑になってきたのでこうした様々な点が接合するオキュパイ以前のアクティビズムの具体例を挙げて整理します。ザ・イエスメンと呼ばれるカウンターカルチャー,メディアアクティビズムを取り入れた戦術で反グローバリゼーションの運動を面白くしていった著名な二人組を例にとりましょう。イエスメンはエクソンモービルからダウやシェル石油などの多国籍企業(これに加えブッシュ大統領やニューヨークタイムズもいイエスメンの標的になっています笑)主導の南北格差や労働搾取を助長する自由貿易,石油戦争などといった富の不均衡に反対する手段として主に成り済まし的なパロディの手法により反対メッセージを掲げ支持を得てきました。こうしたカウンターのメッセージを届けるためのパロディはアドバスターズでもよく見られる「リミックス」行為です。リミックスを是としなければ反対運動のためのビジュアルは上がってこないのでここでもフリーカルチャー思想の存在がより有意になります。もう一つオキュパイウォールストリートの前身ともいえる運動はスペインでのMay15という広場の占拠運動でこちらもライブストリームで当時毎日配信されていましたが,この運動のきっかけとなっている趨勢の一つがスペインのフリーカルチャー運動です。(他にもいろいろあるけど割愛します)

回想シーンが長くなってしまいましたが(本当はもっと遡りたいところですが…)オキュパイにはなしを戻します。これまでの反グロ運動の系譜がありながらもオキュパイは完全に違う運動であったことを忘れてはいけません。(さんざん反グロの話をしたのにすいません)

オキュパイ以前の運動は,資本主義を終わらせるとか、行き過ぎた自由主義貿易への反対といった明確な要求があり、運動の担い手を導くような思想家なり行動の中心的人物やグループがいました。これに対し、オキュパイでは中心がなく、具体的な要求がないという前代未聞の運動です。以前の運動とはまったく違う性質のものです。とはいえ脱中心的思想や分散型,匿名というネットワークの思想がはすでに1999年のインディメディア登場時からあったものの、運動の現場においてそれが実践されたという意味でオキュパイは分岐点と考えていいのではないでしょうか。

いずれにせよデジタルな労働という課題が顕在化する前段階としてオキュパイ運動があったこと。その運動には学生がローンを背負って大学に通うという現状から大学や知へのアクセスの在り方が問われたこと、また所有権や富の分配という論点があり大学職員や学生なども参加していたことで、オキュパイ運動終焉後もニューヨークの大学機関に関係する人々にとって何らかのインパクトを持っていたという伏線があることを押さえておく必要があります。

デジタルな労働についての2014年のニュースクールのシンポジウムの副題には「スウェットショップ、ピケットライン、バリケード」とあります。まさに前述のような背景や問題意識の趨勢があってはじめてここにデジタルな労働という共有された課題が生まれてきます。またシンポジウムは前述した問題意識を体現するように,ライブストリームで誰でもその議論にアクセスできるよう中継、アーカイブされ、登壇者はパネルとしてではなく「参加者」としてプログラムに示され議論をする場を提供するキュレーター、プロデューサとしてTrebor Scholzが呼びかけ人となっている形であることは今後同類の試みをする人にとって注目に値します。アカデミアの集まりでもなくニュースクールのイベントでもないのです。

さらにデジタルな労働の「参加者」にこのイベントの性格を見ることができます。例えばアストラテイラーは、シジェクのドキュメンタリーを撮った映像監督として知られているかもしれませんが彼女の
アクティビズムの始めは環境問題でした。そしてオキュパイを通じて彼女は学生ローンの支払いを拒むキャンペーンの立ち上げを率いています。デヴィッド・キャロルは昨年、トランプの当選した大統領選挙戦を受けてその選挙キャンペーンの代理店でアメリカ国民のデータを不正に持ち利用したとしてケンブリッジアナリティカを相手取って裁判をしています。Trebor Sholzはデジタルな労働の会議の後、ミディアムにシェアリングエコノミーの対抗としてのプラットフォームコーポラティビスムについて書いています。その翌年のほぼ同時期にニュースクールで開催されたのがプラットフォームコーポラティビスムの会議になります。(ここまで長かった・・・

先に挙げた2000年代のアクティビズム諸々は2010年代に入って幾分姿かたちが変わってプラットフォームコーポラティビスムの親戚のような存在になっています。(2000年代からいたけれど2010年代になってより存在感を増したといったほうが正確です)。そのうちのひとつはP2P財団。それからP2P財団の支援も受けているシェアラブル。シェアラブルはシェアリングエコノミーが本来の
分かち合いの姿でないただのミドルマンビジネスになってしまっていることに辟易していたり、知識をシェアするプラットフォームとしてこれまでの文脈を十分にくみ取りながら精神性を体現しているステキな組織のひとつです。

ですからプラットフォームコーポラティビスムはICTで生協をアップデートすることでもなければアカデミアのための研究対象でもありません。もちろんこのコンセプトをつうじてそのようなことは可能ですが,それは本質的ではありません。

プラットフォームコーポラティビスムの根幹には先に挙げたような思想や様々な苦悩がありその打開策として実践可能な行動として体現しようとするものです。プラットフォームコーポラティビスム実現のプロセスの中に、不均衡な労働搾取や「知」の中央集権的コントロールが生まれることは努力によって防ぐべきであり、担い手は目的の精神性を欠くことなく実践によって広げていくことを強く求めます。

2016年1月26日火曜日

最近読んだもの。ランサムウェアの被害にあうオバチャン、情報過多など。

最近読んだり、聞いたりして興味深かったものをいくつか紹介。

■シリコンバレーを真似しないほうがいい。代わりにフローレンスなんかはどうだい?
https://hbr.org/2016/01/renaissance-florence-was-a-better-model-for-innovation-than-silicon-valley-is
Urban Plannerはみなシリコンバレーのまねをした町をつくりたがるが、だいたい失敗に終わる。なぜかというとシリコンバレーは新しすぎてそこからレッスンを学ぶには旬すぎる。だからそう、もっと昔のイノベーションのハブとなった町を見本とするべきだ。フローレンスとかね。(→イノベーションシティについて調べた本を絶賛発売中の人による寄稿だった)

■RadioLabのストーリー「Darkode」がすごく面白い。
http://www.radiolab.org/story/darkode/
もうすぐサンクスギビングだという頃、マサチューセッツ在住のふつうのおばちゃんに大惨事が訪れる。突如自分のPCが身代金要求型不正プログラムであるCryptoランサムウェアの被害にあい、ファイルを取り戻すために身代金をビットコインで払う羽目になる。いろいろな偶然が重なって散々な目にあう。このおばちゃんはウクライナ-ロシア系で、「ビットコイン」なんて言葉は初めて聞いたが、ランサムウェアのメッセージから、このランサムウェアの主はロシアとかウクライナ方面からの悪者に違いないということも察して、ロシア語で「あんたら地獄に落ちるわよ」と返信したりもしている。(笑)TORを初めてダウンロードしたり、ビットコインを手に入れるために大雪の中郵便局にいったり、レートが変動したり、乳児がいて忙しい娘にママ友との約束をキャンセルしてATMに行かせたり、笑えない話ですが、てんてこ舞いなおばちゃんの姿が笑えます。タイトルのDarkodeはスパムやボットネット、ランサムウェアを流布させるような一味の名称で、後半には某機関に転向したその創設者のインタビューも。

Cryptowallについては(日本語)
http://blog.trendmicro.co.jp/archives/11739

■所有者だけがアンロックできるスマート銃で、、ステキで劇的な射撃体験をシェアしよう
http://www.npr.org/sections/alltechconsidered/2013/05/15/184223110/new-rifle-on-sale
2013年に話題になった「スマートライフル」。wifiやカメラ、センサーがついてきて、トラッキングポイントという技術を使って、正確に射撃したり、録画した映像をソーシャルメディアに投稿できるものだ。悲惨な銃撃事件が耐えないアメリカですが、2016年に入ってからはオバマ大統領が銃規制の目的でスマート銃の導入を視野について検討するよう国土安全保障省に呼びかけをしたりしています。そうすれば、銃の所有者が、スマートディバイスとしての銃を持つようになれば、利用データなどの把握が可能になり、事件を防ぐことができるという考えのようですが・・・。

■3Dカメラで、容疑者の顔写真を照合し識別、これで東京オリンピックも安全だ
http://gizmodo.com/3d-cameras-will-help-tokyo-cops-take-futuristic-mugshot-1754924981
警視庁は、客観証拠の確保に努めようと技術的に進んだ取り組みを行なうことにしたようだ。朝日新聞が報じた、NPAの報告書の原文を見ると、「防犯カメラ等で撮影された人物の顔画像と、別に取得した被疑者の三次元顔画像とを照合し、個人を識別する」三次元顔画像識別システムを今年4月からすべての都内の交番に設置するとのことだ。この報告書には、他にもいろいろと興味深いテクノロジーについて掲載されている。通信傍受、高度情報技術解析センターの設置(済み)など。これらの取り組みの背景としては、「司法改革や否認事件の増加を受けて」とのことである。
(→NPAの報告書はわりと毎年読むようにしてるけど、記事の参照先がH26なのがちょっと不思議。朝日の元の記事は、警察周りあがりの記事を英語で執筆ものだろうからちゃんと調べたほうがよさそう。)

NPAの報告書(H26)
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h26/honbun/html/qf320000.html

■インフォメーションオーバーロード~情報過多からの叫び~
https://hbr.org/2016/01/what-youre-hiding-from-when-you-constantly-check-your-phone
ちょっと前まではデジタルネイティブなんて呼ばれてもてはやされていたミレニアル世代ですが、現実はもっと暗いものよう。ニールセンやPEWの調査、それから最近増加しつつある「テクノロジー中毒」分野の研究によって、ミレニアル世代は、寝るギリギリまで常時モバイル端末などを手にしながらも、テクノロジーによってストレスを感じている。さらに、手元に携帯がないことは更なる大きなストレスともなり、どっちにしてもストレス!根本的にはミレニアムたちは職やお金といった基本的なところでのストレスが最も大きい。そして気を紛らわしたり活用することで他より抜きん出ることができる伴侶としてのテクノロジーと共に過ごすしかない。このところ、東海岸では情報過多についての議論が増えているような気がする。

■FOMOからJOMOへ。
http://www.wnyc.org/story/fomo-jomo/
上で紹介した「情報過多」について話す時に、使われるよく使われる英単語がFOMOだ。FOMOとはFear Of Missing Out(見逃すことの恐れ)。あなたも今週は一回くらい、どこかで、SMAP解散騒動に関する何らかの記事や、ベッキーとゲスの極みに関する何らかのコラムを読んだことだろう。(私は読まなかったし、テレビもないので、正直なんだかさっぱりだし、知らなくていいや)そして、職場や友人とそれらのトピックについて参照したおしゃべりを少なくとも一回は耳にしただろう。知らないとヤバイ、仲間はずれにされたくない、損した気分になりたくない、そんな気持ちがFear of Missing Outだ。このFOMOという言葉を生み出したメイカーベースの創設者、Anil Dashは、見逃すことを楽しめ!とJOMO(Joy Of Missing Out)を提唱。FOMOを生み出すようなプログラム、ソフトウェア、テック企業の文化背景などについても触れています。(ネット黎明期はそんなんじゃなかったって!)

■魂を売ったコンピュータ、プライバシー、データ保護の国際会議CDPD
https://ar.al/notes/why-im-not-speaking-at-cpdp/
その名のとおり、コンピュータ、プライバシー、データ保護という甚大なテーマを扱う年次会議、略称CDPDは今年もビッグネームスポンサーたちを抱えて素晴らしい会議を行なう予定だ。Google, Facebookはもちろんのこと、Palantirも。日本からは中央大学、明治大学も。もっとも国際的で大規模なタイプの会議だと思われますが、オープンソースでインディペンデントなモバイルハードウェアを作るプロジェクトindieのAral Balkanは怒って招待を断った。テック系のカンファレンスだったらやむをえないなと思う一方、彼はCDPDにはある程度期待感を持っていたんだろう。Palantirのロゴが記された会議で皮膚癌で亡くなったプライバシーアドボケートのCaspar Bowdenに功労賞を与えるなんて、侮辱行為に等しいとAralは感じているが、過去のスポンサーのロゴを見ると、そもそもそんなに期待できるものでもないかもね。

2016年1月8日金曜日

数値で測ることの恐怖

あけましておめでとうございます。
年始早々に暗くてすいませんが(年末に書いたんです)
データドリブンな世界における注意に続きがあるんです。続きというのは後からでてくるものですが、後ろにあるわけではなくて前にありました。なんだかもう、過去のゲームをもう一回やっているんじゃないかという気分になってきました。

Alexis C. Madrigalが、データドリブンな世界に潜む欺瞞を語るときに、自分の健康を計るうえで向き合う―がそれはうそっぱちであるもの―体重計について触れていましたが、最近手にした原克の著書「身体補完計画 すべてはサイボーグになる」はその源流となるところを紐解いているように感じます。

振り返ってみるとこの『計る』という行為の裏側には、アメリカ建国から自らの国力を高めるためという目的があった。クリーンで健康なアメリカ国民というのを広めるうえで、優性な血統が汚されることなきよう最新の科学を応用して測定する。そこに標準体型が数値として表され、見本となるような像(ノームとノーマ)まで作られていった。

ところで計るという行為と優性思想を考えたときに、私が思い出すのはベルギーの植民地であったルワンダで起きたジェノサイドである。学生のころ文化人類学の権威(と同じ苗字!)の講義を受けられる!とわくわくして聞きにいくと、ツチ族とフツ族の対立について少数派と多数派の文脈で語られるのみであったが、そののちにルワンダ虐殺についての映画作品「Sometimes in April」を見て、その背景のおぞましさを改めて思い知らされた。入植者が、鼻の高さで現地の人々をツチ族とフツ族に種別分けしたのだった。そして携帯を義務付けられている身分証に計測に基づき、いずれに属すか記されている。それがどちらかであるか、というもののみが登場人物たちの生死を分かつことになる。

身体の特定の部位を優性思想のもとに測定しソートする行為。もっと言うと、ツチかフツか明記した身分証を必携させており、識別子となって身分証に書かれていることが生死を分ける。ジグムント・バウマンのリキッドサベーランスとともに、これからのデータドリブンな社会が何を描いていくか、過去は十分に語っているような気がしてならない。最新の科学の力で数値化し、ソートするその行く末は「適合者」のみをあぶりだす行為だ。そしてその計測・解釈がすべて正しいという前提でのみ適合、不適合の二元性から、私たちは逃げることができない。

インターネットは歪んだ現実のみを流布する。それは「テクノロジー」と「健康」に偏っている。そして我々は哀れにも金を払ってフィットネスに通わなければならない。そしてフィットすべき標準のスコープとサンプルは、もっとずっと偏っている。