2014年7月10日木曜日

微塵もない

This post was written in April 2013. これは2013年4月に書かれたブログ記事です。

大変すばらしい。ぜひ頑張ってほしい。期待する。


Okay, here's what I really feel about all this.
Please note that this is nothing personal and I'm 100 % for whatever Jun Hori is up to, to make this country and the world a better place through Journalism. But he's ignoring a whole scale of issue in public sphere that he may need to learn from now on.
My language may not be appropriate for I'm dealing with my purest emotions.

First, I don't want no more of ex-NHK, former TV producers, ex-news reporter to represent or act like they are the leaders the movement of civic journalism. Your existing here alone is harming the ecosystem of what civic media thrive to be.

これまで、せき止めの部隊にいた人間が、そこから”降りて”、みんなでせき止めをあけよう、オープンジャーナリズムだ、などというのは、「砂場遊びのパブリックアクセス」なんかと同義な気がする。
市民メディアの会やパブリックアクセスのアドボカシー運動を見ていてうんざりするのは、彼らが語られるときはたいがい、「元NHK記者」、「元テレビプロデューサー」、「元アナウンサー」が登場するときだけだ。ほとんどの場合、”経験のある”こうした人たちが、一般市民がいまだ知らずしているアクセスする権利について声高に唱え、「今こそ市民が~」と言い張って止まない。

もちろん、彼らにあらがってしまえばせっかくのメディアへのアクセスの道がさらに停滞してしまうので、大声で異を唱えることは私はしないが(だからこの記事が一年以上蔵入りしていたわけ)、心の底では元既存メディア出身者で市民メデァイ代弁者のひとたちを張り倒したい気持ちだよ。元テレビ局の人たちが先頭切っているうちは絶対に市民のための市民メディアはできない。そんな革命がどこにあったかよ?

まるでここ数年のインターネット技術やその普及、ソーシャルメディアによって「誰もが情報の送り手となった」だなんて言っているけど70年代にはホームビデオにおさめられる映像が娘の運動会だけじゃないことをすでに知っていたし、もっと遡れば電波はこんなふうに管理されていなかったー無線ラジオが始まって管理され、その後自由ラジオやLow Power FM運動、プロメテウスラジオや海賊ラジオなど・・・Facebookページに行かなくても、ペンパルやミニコミ誌を通じて情報を入手することができた。もっとも、一般市民の取得した情報を糧にモンスターのように巨大化していったのはマスメディアのほうだった。あなたのかわいい子犬がしっぽにじゃれてぐるぐる回転するのが面白いからビデオに収め、それをテレビ局に送ったこと、お昼ご飯の残り物片手に世論調査の電話に答えたこと、今日も残業か、とつぶやくかわりに芸能人の離婚騒動について職場で同僚とはなしたこと、カラーコンタクトをつけて染色したこと、ディオールの広告に登場する女優の肌を手に入れるために化粧品を購入したこと、鳥インフルエンザや増加する凶悪犯罪に恐怖心を覚えること・・・これらのいずれかについて身に覚えがあるのならあなたはモンスターにタダで餌をあげてくれていたのだから。あなた自身をよりみすぼらしい環境に陥れ、消費による幸せを手に入れ、ルール以上に厳しい社会規範を見せつける装置を見つめてくれたおかげでこのモンスターはよく育った。あなたなしにモンスターは存在し続けることができないーだからモンスターは、あなたが強力なパワーの持ち主だと最初からわかっていた。それを今になって、テクノロジーだ、イノベーションだ、ボトムアップだ、だなんて聞いていられない。

怪物の懐から降りてきた彼らは、またも私たちに餌をせがんでいる。時として托鉢の僧侶の姿を取るが。彼らはこう言う。「私は僧侶として仏の道を通じ人々の生活がよくなるためにこれからの人生を注ぐことにした。ぜひこの旅路にあなたも参加してほしい。なぜなら変革を起こす主役はあなたなのだ。」と。 

托鉢の僧侶は旧システムに頼っている。彼らは伽藍の外の人々が耳や口を持っていることを知っていたが、まさか意見を発したり考えたり、新しいアイディアを交換し合っているとはゆめゆめ知らない。旧システムに頼る僧侶は、余ったイチゴで作りすぎたジャムではなく、現ナマを与えよと言っているのだーどこの仏の道に金が要ったか?(私が知る限りには餞別だけだ)。この俗世(旧システム)のものである貨幣に軸を置いたまま、悟りを開けるとは到底思えない。そして自分自身が主役になるために、どうして他人の懐をあたためなければいけないのか。

こうして悟りを開くことなく、道半ばに諦める僧侶は多い。これまでいくつもの自称「市民メディア」が日本で興り、音わずかに消えていったか。

彼らの役割は砂場を用意することでも、底上げすることでもない。底上げとはなんという言葉だろう!彼らにとって、我々は底側である。もしネットワークの意味することがわかっていればボトムアップなんて言葉は使えないだろう?

ここで個別の問題について触れたい。

オープンジャーナリズムとは、SNS・ソーシャルネットワークの発達に伴い存在が議論されるようになった概念で、従来、編集権を主張し特定の職業メディア人たちによって行わ れてきた取材、執筆・撮影、編集作業に、市民をはじめとした非メディア人が制作者の1人として関わる取り組みを指す。
You cannot refer citizen as "non-media person". It's been long since Dan said "we the media".
ここからもわかるように、彼にとって市民というのは永遠に非メディア人なのだ。オープンジャーナリズムにメディア人も非メディア人もない。Participatory Journalismだったら、非メディア人って言ってもいいけど。その後ろのガーディアンを称賛する部分もまったくモンスターのプロットに気づいていないよ。マイクロタスク化して、オープンにすることで、労働が廃絶すると思ったか?

我々はもっと台所に焦点を当てるべきだ。それは私にとって関心ごとである。プロのジャーナリストにとって戦場が関心ごとであるように。

よろしく頼んだ。あなたが必要なのは托鉢でお布施から硬貨を集めることではない。托鉢に代わる行為、お布施にかわる行為をあなた自身が発明する必要があるー人々の協力と共に、だ。全てのジャーナリズムは同時にアントレプレナーである必要がある。お経を読むことではなく、他の人の頭の中にある道理を教えてもらうために、読み書きを教えることだ。



Japan's Sugar High Twittersphere (September, 2012)

(This was written in September 2012)

I've been using Otter API to find out about news and buzz on the Internet. Today, as I was glancing at Top tweets on Topsy  language by language, it made me wonder what is going on―not a specific news that were being retweeted, but a phenomenon on Japanese tweetverse.





Of 15 tweets that appeared on the first page, NONE refers to news. 3 refers to newly released corn flavored ice candy bar, 3 refers to warning of Direct Message spam, and others are just pure blurbs that are  difficult for me to understand their points. It's interesting to see how Japanese tweetverse is shaping unique ecosystem that is not being influenced by news media or advertised contents but has only jokes of tweeter next door. (I went through 35 pages of top 100 tweets, but found no significant news related post nor fact based tweet). 

Compare this with top tweets of other languages. 



It's understandable that because U.S. is going under election campaign, and more news read online, most of top shared social contents were news from news sources such as Mashable.com or Huffington Post.

文化の本質に共通するもの

「未だ来ないと書いて未来」と、デジタルの裏庭の会議で武邑先生はおっしゃっていたが、明日書きますといって数か月経過したwitchbabeです。ポリメディアとマルチメディアについて気になったまま数か月が過ぎたわけですが、あまり進展していませんのでそのままの思いを書きます。
(この記事は2013年4月に執筆、保存されたものです。2014年7月に蔵出ししました)


私がジャーナリズム専攻のとき、アメリカ人には「で、君は何ジャーナリズムをやってるの?フォトジャーナリズム?ニュースペーパー?テレビ?ラジオ?・・・」と聞かれることが少なくなかった。その際には何となくどれかに絞るというのが腑に落ちなくて、「ラジオかな、でもいろいろ。文章も書くし、映像の構成も・・・」みたいな答えを返していた。もちろん専門性の浅い若さの中での答えだったので絞れない、というのは当然だけれど、私とメディアとの関係というのは対媒体としてのものではなかったし、プロのジャーナリストになりたい、という思いは微塵もなかった。(今だってありません)。そんなの、「あなたは投票者ですか?それとも消費者ですか?それとも視聴者ですか?」と問うようなもので、そのコンビネーションの中ですべての主権者が意思決定(本意・不本意問わず)しているわけだから。情報がパッケージ化されてこちらに運ばれてくる、というところまでの間におきる様々なからくりを受け手としてしっかりと知りたい。もれなく私自身が送り手になることも絶対ないわけではないし、それは権利として本来あるべきだと思うからその際に介在するメディアにどんな特性があるか、どいう仕組みで成り立っているのか知りたい。それだけが目的だった。伝えたい相手や目的に合わせて、メディアをどう使うか。フォーマットが先ではなく、メッセージが先だと思うのです。そのメッセージや核となるものを伝えるときにそれがラジオ番組となって表されるのか、ビラとなって表されるのか、雑誌となって表されるのか、映画の上映として表されるのか。

そんな中で聞いた初音ミクについてのプレゼンは興味深かった。単にUGCということではなく、もしソフトを使って音楽を作ったら、その音楽の世界観をイラストで表すユーザーも出てくる。かと思うと、さらに小説としてその世界を表現するユーザーもいる。初音ミクを共通のインターフェイスとしてそれぞれの世界観がユーザー自身の得意な表現形態で絵として音楽として、歌詞として小説としてなど様々に表現されということだった。思えば、私が好きなヒップホップというユースカルチャーも、もともとは4つのエレメントがあると言われ、あるものはラップし、あるものはDJをし、またあるものはグラフィティを書き、あるものは音に踊った。ヒップホップは何であるかというのを説明しようとしてもそれは説明できない。何がヒップホップであって、何がヒップホップでないか、というのを語るのもほとんど難しい。もちろん、コミュニティとしてのコンセンサスを得ている文化的コードはあるが、ひとえにauthenticity(本質性)の問題として一枚岩な解釈を押し付けることはできない。コンシャスでストリートの苦難や社会変革を歌うものばかりがヒップホップなわけでもない。パーティーしてジンライムを飲み、グルーヴにダンスすることばかりがヒップホップでもない。違うクルーに敵対し、縄張りを守り、帝国を築くことだけがヒップホップではない。黒人だけがの占有するためものでもない。JAY-Zがトレードマーク足り得るものでもない。じゃあ何か。それすべてである。私が参加しているのは2000年代にヒップホップの5つ目の要素として認知されるようになった「knowledge」だ。知るということはヒップホップである。そこに私はいる。ミクとヒップホップは似ていると思う。DJの音楽に踊っていた人たちがその音に合わせて独自のスタイルを発達させ、そこにラップし始めるものが出てきて、グラフィティを書くものがいた。それぞれが自分の得意なことで一つのカルチャーを押し上げていった。

これってポリモーフィスなんじゃないのかなってちょっと思ったわけです。ヒップホップが音楽として表現されること、壁に書く文字や絵として表象化すること、ダンスとして表されること、ストリートナレッジとしてシェアされること、ラップや詩として表現されること。ミクをコスプレすること、歌ってみること、曲作りすること、ミクミクダンスすること・・・こうしたことが様々な表れ方で表現されることはマルチメディアを超えた多体的なポリメディアの基盤となっているのかもなあって。

それで過去にこういうことってあったかな、そういえば禅ってなんだっけとふと思ってググったときそこにも通じるものを感じてしまいました。禅て何か、ていうのが答えられないです。ワビとかサビとか、精神性みたいなものとかはコードであって、テーゼじゃない。禅の教科書というか経典がないんですね。いろいろなひとがその解釈を書いたものはあるんだけど、コレ!みたいなのは言えない。それで禅が茶道として表現されたり、華道として表現されたり、水墨画として表されたり、庭園となったり、舞踏や演劇みたいなものになったりする。禅の開祖みたいなのって誰?禅の知的財産権所有者は誰?って言われても答えられないわけ。

さらに、禅の思想について寝ながらスマホとかで見て、ノリで読んだ「禅とは心の名なり」というものに非常に心を動かされました。

仏心は人間に限らず、あらゆるものに宿っている本心・本性です。(略) たとえば、一枚のちり紙にも仏様は宿っています。というのは、ちり紙には、濡れたものをふくなどといった作用(機能)があります。いくら便利でも、携帯電話では鼻かめません。そのように、一枚のちり紙にも、一滴の水にも、みんな、ものにはそれぞれに違うは作用(はたらき)があり、そのものをそのものたらしめる本心(作用)が宿っているのです。
 うぎゃー。もうどうしてか宗教の話になってしまったけども、こーゆー視点からヒップホップをみると、ありゃZENだね!って見えてしまいます。ミクもどうようにそう見える。そしてこのはたらきは優越がつけられるものでなく、あらゆる誰もに宿っている、その自分らしさを一番よく表せる方法で表す、ていうことが仏の心ってことになって見えているのが現時点の私の解釈です。