2016年3月14日月曜日

人間観察モニタリングや寝起きドッキリの生みの親アレンファントと15分の名声


ドッキリの起源はあるラジオ番組にあった
アレン・ファントの初期のラジオ番組からドッキリが生まれるまでの経緯、その後を関係者のインタビューでつづった「Smile my Ass」というセグメントがRadiolabというポッドキャストの中で取り上げられて面白かったので紹介します。

★ポッドキャストはここから聴けます➡ http://www.radiolab.org/story/smile-my-ass/
なおこのブログ投稿では、番組制作の手法と、現代の生活とメディアの関わりについて議論する目的でその前提となる要素として、番組の抄訳を一部掲載しています。

補足:Radiolabの手法について
今回プロデューサーのアレン・ファントという人について取り上げたRadiolabというポッドキャスト(ラジオでも放送)について少し解説する。いつも風変りなエピソードを取り上げてくれて、ネタや視点そのものが面白い。さらにコミカルさを生んでいるのは、他のポッドキャストとは違う、大変ユニークなフォーマットにあると私は思っていて、具体的には

  • ナレーションにたくさんの効果音を織り交ぜたミクシングがしてある
  • 普通ならば一人のナビゲーターがナレーションを読むような部分を、2名の番組ホストやゲストに個別に話させそれぞれに録音しておき、特徴ある部分を編集して混ぜて使うという手法をとっている
  • 完パケなのに「ちょっと聞いてこんなことがあったんだって!」とソファに座って友人に今初めて伝えるような口調で語り掛けている
  • 一つのテーマに対し、かなりのリサーチをしていて、ボリュームのある取材音源がふんだんに使われている
  • インタビューの対象となる人の年齢やトーンに幅があり、高い声、低い声、なまりなど特徴があるしゃべり方が耳につくので飽きない
  • 制作裏話(インタビューの途中だったが予約時間を超えたのでスタジオから追い出された、とか、ブース外のプロデューサーの話し声を拾ったり)を混ぜながら届けている
などなど、聞いての分析だから、違うかもしれませんが、かなり珍しい手法を豊富にとった革新的な番組だと私は思う。

「ドッキリ」のスタイルが生まれるきっかけ
今や寝起きドッキリやインタビュードッキリなど、日本のテレビでもおなじみとなりましたが、最初にそのスタイルを生んだプロデューサー、アレン・ファントについてこの回では取り上げています。

番組によるとアレンはもともと、世界大戦中に軍人をゲストに呼んで話してもらうというラジオ番組をやっていたんだけれども、みんなON AIRライトが点灯するとガチガチに緊張して、全然しゃべれなくなっちゃう。そこで、ON AIRのライトを消して、試しに練習で話してみよう、とウソをついて(方便ですね)話してもらうと、いいものができる、という経験をする。これが、のちにアレンをドッキリの仕掛人へとさせていく最初の原体験となる。

次にアレンはマイク(録音機)を隠して他人の日常を録るラジオ番組「Candid Microphone」を始める。女子トイレや美容院、マイクを忍ばせていろいろなところにいく。ところが、どうも面白いのが録れない。そこで、アレンが割り入って、ちょっと仕掛けをする。例えば、箱の中に見えないように人を忍ばせ、運送業者を呼んで、運ぼうとすると変な声を出すように仕組んでおく。すると、運送業者は怪しがって困り果てて、アレンが運ぶように押し通そうとすると怒る。そんなやりとりを録音して、「Candid Microphone」が定着していく。

1947年の放送を聞いてみてほしい。
http://www.oldtimeradiodownloads.com/comedy/candid-microphone/highlights-of-the-first-nine-shows-1947-08-24

厭われていたのが、ありがとうと言われるように
番組はまもなくテレビへ移行して「Candid Camera」というタイトルに変わるが、一部の視聴者からかなりの反感を買ってしまう。人の生活にヌケヌケと入ってきて、図々しくスパイする悪しきものだと酷評されるのだ。ある時アレンは、カメラが回っている間に仕掛けられたターゲットに対してドッキリであることを明かすと、その人がさっきまでの怒りを消して笑顔になることに気づき、ネタ晴らしが番組のハイライトに変わっていき、視聴者の反応も変わる。アレンはもはや厭われる相手ではなく、はめてくれてありがとうと言われるようになった。番組のテーマ曲はこう歌う。
「まったく予想してなかったときに、あなたが選ばれたの。今日のスターはあなた。スマイル!笑って!だってあなたは今番組に出ているんだから~♪」

僕は仕掛け人じゃない、本当の事件なんだ--No use in crying wolf, towards "candid" reality
ポッドキャストの一番面白かった部分はここ。アレンとその家族が登場している飛行機がなんとハイジャックされる。機長が行先をキューバに変えたことをアナウンスすると、乗客は凍り付く。しかししばらくすると一人のおばさんが、アレンが乗っていることに気づく。もしかしてこれは・・・ひとり考え込むおばさん。しばらくすると起立してシーンとした空間にこう言い放つ。「ハイジャックなんてされてないわ!見て、あそこにアレンファントがいる!ドッキリなのよこれは!」 気づかされた乗客たちは笑い転げ、一部にはシャンパンを開け始めている。自分が仕掛けたつもりはないアレンはぞっとし、近くに乗っていた聖教者に迫る。「助けてくれ、おれは仕掛けてなんかいない!」しかし聖職者は「な~に、その手には騙されないぞ!笑」と答え、アレンの要求は軽々しくはじかれてしまう。彼は自分の成功が、自分自身を罠にはめてしまったような感覚に陥る。仕掛けと現実が交差し人々にその境界線がわからなくなってしまった。(最後にリアルに起きたオチがポッドキャストで紹介されているので、そこは端折って、要約はここまでとします)

今や、誰もが仕掛人で誰もがスターという日常
仕掛け人という舞台上の役割と、日常とがごちゃまぜになってしまうことで混同が起きたのはアレン・ファントというテレビマンだからこそ、であった。しかし、今やスマートフォンのカメラで誰もがアレン・ファントのような仕掛人になれる。誰もがプロデューサーになりうる時代、だ。それはUGCという意味で力づけられた、民主化されたナラティブでのみ語られているが、成功と知名度を高めようとするプロデューサーの苦悩と、カメラの計り知れない影響を誰もが自覚しなければならにという要請の始まりでもある。プライバシーを侵害する嫌な奴だと思われ、成功のための手法を模索したファントと同様の苦悩と努力を今やだれもがしなければならないわけである。

透明な仕掛けたち
ドッキリの場合、被写体は記録されていることを知らない。記録することの許可も出していない。しかし、そこらじゅうにカメラがあり、カメラと音声認識が設備されたスマートフォンを誰もが手にしている今、ネタ晴らしさえ必要なく、常に仕掛けが日常に溶け込んでいるような状態である。リアリティへの認識は、演出されたリアリティ番組だけではなく、ソーシャルメディアのフィードのフレームに映り込んだ写真や動画たちが作っている。

被写体としての我々もカメラを意識し、行動を変化せざるをえなくなっている。普通ならばしないようなことも、カメラが回っていればやってしまう、カメラがあることでリスクを背負わせてしまうことの危険や、仕掛の舞台装置における不備などによる事故が放送にはずっとつきものだった。それらの事故はあまり知られていないけれど。今やそれらを選ばれた数人ではなくあらゆる個人が買って出るわけである。もっと視聴者に承認されるコンテンツを、と求めていくうちに過激になっていく。かつてアンディ・ウォーホールの説いた一生のうちの15分の名声では事足らなくなってきた。人々の注目といいね!を常に集めようとする全てのソーシャルメディアユーザにとって。

仕掛けとリアリティの境界線、見世物と現実の狭間がごっちゃになってしまうと、現実を切り売りし、自らの身体をもコモディティにしていくようになる。キム・カーダシアンがやってそれを自由と呼ぶ*1のであれば、これからは映画フェームのココがカメラの前で泣い*2てしまうようなことはないだろう。究極は自撮り事故死(selfie death)で、現実を舞台に自らを客体にした結果、現実のリスクを考慮できなくなってしまう事態が起きてしまう。


レンズとの関係と、そこにつながるネットワーク、グローバルな視聴者。
何が起きてもカメラの前なので、笑っていなければいけない。

2016年2月13日土曜日

ネット中立性をめぐるレトリックと鉄道

このところ長らく話題になっていたFacebookのFree Basicsについての議論をとっかかりに、ネット中立性と鉄道をめぐるレトリックについて少し考えてみる。ちょうど、私がパンカジ・ミシュラのアジア再興を読んでいる間の出来事なので、コンパスがあっち向いているかも。


Free Basicsとは

Free Basicsはインターネットを世界の人々に届けようというミッションをもとにFacebookがはじめたInternet.orgの取り組みで、インドやアフリカでインターネットへのアクセスがない人たちに対し、K本的には無料でネットにアクセスできるようにするというもの。

なんだか素敵な取り組みに聞こえるかもしれないが、仕組みとしてはテレコム事業者とFacebookが提携するような形をとって、そのテレコム事業者がインターネット接続を提供、Facebookはコンテンツを提供するようなものだと言えるだろうか。ウィキペディアとかFacebookなどが基本的に無料でアクセスできるんだけれども、その先を見るには課金が待っている。まあすばらしいビジネスプランだと思う。でもFacebookはこれをビジネスではなく、ミッションに駆り立てられた世界を良くする、アクセス不足問題を解決するものだと言っている。

Free Basicsについて説明したオフィシャルの動画

インドにおけるネット中立性の議論

Free Basicsの導入先となっていたインドについて、かなり雑(ごめんなさい)ですがまとめておきます。
まず、2015年春ごろ、インド電気通信規制庁TRAI(米FCCとか日本の総務省みたいなところ)が、ネット規制について検討する協議書を出したところがきっかけとなって、ネットの中立性についてインドでの議論が盛んになった。この協議書には、例えばSkypeやWhatsAppなどのIMサービスや、AmazonのようなECに代表されるようなOver-the-Topサービスと呼ばれるものについて、規制をすべきかどうか検討していて、そのなかで、ネットの中立性について触れられていた。これはまずい、と思った人たちがSave the Internetというキャンペーンを展開。

そして、このビデオが面白い(英語字幕を出してみてね)

ネット中立性について解説しているオモシロ動画。

公園を例えにしているけど、観光地で乗馬して、そんなふうにお金取られたりすることってありますよね・・・


その後TRAIへのコメントはインパクトがあったようだが、ネット中立性の解釈を勝手に変更されてしまう・・・

そこで新たなキャンペーンについて説明するビデオ(Babuってなんだろう・・・官僚?)


こうしたネットの中立性について、議論がある程度なされている状態で、FacebookのFree BasicsについてTRAIは意思決定しなければいけない状態だったのではないかと。

ついに2016年2月8日、TRAIがデータサービスの差別的価格設定を禁じる規則を制定し(貴重な情報が日本語化されているのにこの記事全然読まれてないな・・・)Free Basicsは撤退することになったようです。

植民地化とレトリックの話・・・

ネット中立性の話をしたいんじゃなくてレトリックの話をしたくて書きはじめたがやっとここにきてそれができそうだ。今回、まず注目したいのはAtlanticの記事「Facebook and the New Colonialism」。記事では、Facebookの役員でベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンがツイートでFree Basicsを禁止するのは「倫理的に間違っている」と書き込み、さらに「植民地主義に反対することが、長年にわたってインドの人々を経済的崩壊においやってきた。今さらなに?」と書いた。これらのツイートはすでに削除されているけれど、どういうマインドセットで世界をみているかがちょっとバレている。

ここには、西洋=科学技術がもたらす進歩というのは優れていて、それに反対するのは経済的効率が悪い、遅れたものであるという意味合いが含まれていて、それはかつてインドが植民地だったころの支配者の理論(英国が支配したほうが経済的にインド人にとって恩恵が大きい、といったようなレトリック)とほとんど同じテイストになっている。

そこから今に至って、さかのぼってみてみると、状況があまり変わっていないというか、レイオーバーして見えてくる部分がある。たとえば、オーロンビンド・ゴーシュは、1900年代にBande Mataram(原文読める‽)のなかで
帝国主義はこうした近代的な信条に訴求する自己正当化をはたさなければならなかったわけだが、そのためには自由を委託された者のふりをし、野蛮の文明化と未熟者の訓練を天から委任された期間はわれら慈悲心に満ちた征服者が任務を終えて恬淡と立ち去るまでのこと、とごまかすしかなかったのである。これこそが英国がムガル帝国の遺産を強奪したときの、そして英国流の高潔と寛大さでわれわれの目をくらませて隷属に黙従させたときの、正当化のための誓言なのだ

と書いていているし、(196ページ,アジア再興/パンカジ・ミシュラ,白水社)
タゴールにいたっては、『東洋と西洋』というエッセイのなかで
人間的というよりも科学的であることが世界全体を席捲している…(中略)…それは攻撃的で仲間を食い散らす傾向にあり、他人の財産を侵食して育ち、他人に残された未来を残らず飲み込んでしまう。(…)ひとつの目的だけに専念するから魂を売り渡してでも金を稼ごうとする大富豪のように、その力はすさまじい。
と書いて(198ページ,同上)いたりして、歴史の終焉なんてとんでもないなあ、なんて感じることもできる。

あんときのアレ(鉄道利権)とネット中立性

インターネットへのアクセスが権利であるという言い方についても、トラップがあると思っていて、それは鉄道と同じトラップに似ているように思います。蒸気機関車の発明から、鉄道網の整備、交通革命で、都市が“つながる”というのをもたらしたが、鉄道網というインフラが未開の地において開発されるときに、それがほぼ帝国主義とセットで、綿花やアヘンを運ぶ、とか資源をぶんどるのにあたって、鉄道が敷かれていた、ということを容易に思い出せると思います。いわゆる鉄道利権で、思い出せばいろいろ・・・。さらに注目すべきは、産業革命で富を成したのは新勢力だったというのも、変革のさなかの世界情勢として、今と相通じるところが多い。つながる~といったが均衡ではなく、都市部に安い労働者が居残った。

今回、つながる、ということで無料のアクセスを提供すると言っていますが、その先のコンテンツには課金されるわけだし、一定のテレコム会社を利用していないと、アクセスできない。Facebookと、現地企業が提携している、というなにか協業のような雰囲気ですが、あんときのアレとあまり変わらないのも想像に安いと思います。ザッカーバーグが、旧正月に投稿したメッセージは、私の目には喉から手が出るほど、グレイトウォールの向こう側の何億というユーザが欲しくてしょうがないのだろう、と感じました。(それができないから、インドを攻めていっているんだという印象)。滅国新方法論の中で梁啓超は西洋が弱体国を服従させる様々な手法をまとめていて(なんかこんなことばかりかいてるけど、引用してるだけで、特定の思想とかじゃないよ!)、その中に「鉱山採掘権、鉄道敷設権、そのほかの利権を外国人に譲渡すること」は、「国全体の主権を害する」という趣旨のことを書いていると、パンカジ・ミシュラが触れています。(217ページ,同書)。鉱山採掘が、今でいうところのデータマイニングにあたることを思うと、もうパラレルワールド過ぎて。

さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。

極めつけはアメリカの実業家マーク・キューバンの2014年のツイート。彼は、「もしランドが現代に生まれていたら、鉄道や製鉄ではなく、おそらくネット中立性について書いていただろう」と(ツイート消されてる・・・)書き込んでいました。実際のところ、ランドを信仰する人たちの組織のサイトには、2006年の時点で、ネット中立性よりもインターネットの自由を、という記事が書かれていたりもしている。
※上の鉄道利権のことと、リバタリアンなランドの話を横並びにするのは、ちょっと違う、というのも確かにそうだと思う。単に鉄道つながりで並べただけである。

レトリックに戻りますが、Atlanticの記事のなかで触れられている興味深い点のひとつにWhite Man's Burdenという表現があります。先ほどの植民地支配の話にもどりますが、白人は未開の地に経済的社会的安定をもたらすために、彼ら自身では統治能力に欠けるので、白人が支配してやるのが義務である、というような観点から作られた英国女王にささげた詩、およびそれに由来する考え方を指す。記事では、FacebookのFree Basicsにまつわる言い訳は、ほとんどこれと同じだと、MITのEthan Zuckermanが批判している。

恩知らずでいてはいけない、と。あなたたち自身では得られなかった恩恵を、代わりに負荷を背負ってでも提供するんだ、せっかく無料のアクセスを提供するのだから、恩を忘れるなよと。それってJerry HellerのN.W.A.との関係となんだか同じように見えてくる。