2019年5月23日木曜日

Future of Foodを聞いて(メモ)

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Christopher LydonのOpen Source Radioが感謝祭のシーズンに合わせて食べ物をテーマにホリデー気分漂う素敵な番組を放送しました。

こちらから視聴できます>

私の所属先でも農業とITに関わる非常に面白いプログラムがあり,また数年前にSoul Food Junkiesというドキュメンタリーを日本で初公開するイベントを企画したこともあり、食いしん坊として「食」はいつも興味のある題材です。

番組ではMITメディアラボでFood Computerや「OpenAG」のプロジェクトを研究開発をしているCaleb Harperさん(彼の取り組みはこのTEDビデオがわかりやすい)やトランス脂肪酸の危険性について長年取り組み、ついに来年からの禁止に貢献したWalter Willett博士、「七つの格安品がつくる世界史」(A History of the World in Seven Cheap Things)の著者Raj Patelさん(著書はこちらから独立系書店経由で買うか、やむを得ずアマゾンから買うならアフィリエイトフィーを著者がLa Via Campesinaに寄付するという徹底ぶりにも圧巻)に加え、カリフォルニアのいちごを移民労働と農薬の賜物としてみつめ研究するJulie Guthmanさん、フレンチのシェフJacques Pépinさんをゲストに迎えラウンドテーブル形式で未来の食について話し合っています。

聞いていて、アメリカのアグリカルチャーは日本でイメージする田畑とは大きく違うなと改めて思いました。たとえばアメリカのいちごの生産のほとんど(Julie Guthmanさんによると88%)を占めるのはカリフォルニア産ですがカリフォルニアのいちごは味よりも耐久性や収穫高、収穫期が長いことが優先されて品種が改良されているため日本でイメージするような甘くて少し高価な旬の果物という意識は無いとわかり驚きました。またカリフォニアのイチゴは移民労働と農薬が象徴されたものであるとJulieさんは捉えています。国境を命がけで越えてきた移民たちは劣悪な労働環境下で低賃金だろうが性的暴行があろうが無防備で農薬に接しても文句をいうことができない。またイチゴを育てるのに大量の農薬が必要である。こういうストーリーが裏にあります。

またトウモロコシについてもアメリカの農業と日本のそれとは大違いです。ほとんどがエタノールとして燃料用になるか畜産飼料となり、15%はコーンシロップなどの添加物になり実際に食品としてそのまま食べられるのは10%程度だそうです。(このあたりの問題についてはいいドキュメンタリー作品が複数ありますね)私はこの夏大きな衝撃を受けたのですが,森町というところでは非常に糖度の高いカンカンムスメというトウモロコシが有名で,夏の収穫期になると獲れたてのトウモロコシを入手するためになんとお客さんたくさんやってきて列をなして3時間くらい並ぶんだそうです。今時新作iPhoneの入手にもそんなに並ばないと思うのですが、かなり長閑な田園風景の,どちらかというと人口減少に悩む町だと思うのですがそういうところで獲れる美味しいトウモロコシに人が並ぶんですね。もし私がマイケルムーアだったらアメリカの農業をテーマにした滑稽なドキュメンタリーのワンシーンとして撮影したいものです。さらにいうと私は,早朝から出かけて並ぶのが大変なので適当にその周辺の別の銘柄のトウモロコシを買って食べたのですがどれも十分甘くて美味しかったです。

さて番組に話を戻します。MITメディアラボで OpenAGの取り組みをするケイレブハーパーの視点が非常に面白かったです。食に関する問題というのはいつも分断を生んでしまうからそうではなくて前向きに持続可能性を目指して誰でもできるようにしようという思いが根底にあるようです。遺伝子組み換えで飢餓を救えるという人もいれば、遺伝子組み換えはダメだ、という人もいる。農業は環境汚染を引き起こしてきたという人もいれば、スローでナチュラルな暮らしの根底だという見方もある、というように食に関する議論はいつも分断を生んでいることに彼はうんざりしているようです。彼は遺伝子組み換えについて、遺伝子を編集する行為は今に始まったことではないと留意すべきだとし,問題は一握りの権力者だけがこれまで画一的な変更を加え現在のフードシステムを作ってしまったことであると捉えています。そこで農業における知をオープンソース化し誰でもかかわることができるようなbio-digital conversionによって新しい時代になると信じています。データ解析により、気候等の環境要因から作物の成長を制御する、というような言葉尻。

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このところ、私が最も気になっていて読みたいけど全く読むすべがないのがJacques Attali
による、食べ物の歴史、物語をテーマにした新作エッセーの一冊。ノイズから今度は食、というような感じで、対象としては別なんだけど、描くこと、そこから表そうとしていることというのは引き続きメディア的な諸問題の本質のような気がしているのと、私自身の生活の在り方から、音楽よりたぶん今は食べ物との関わりが密接になって見つめる時間が長くなったというのがあって、そのあたりのうやむやな部分を、自分でも説明したいなあと思っている気持ちがあるのです。
なんか、研究者的な印象を勝手に抱いていたんだけど、フードテクノロジーのVCもやっているアタリ。目立つ、成功する、稼ぐ。そういう軸もあるものですね・・・



2018年9月28日金曜日

(エッセイ)もっと良くなることについて

「もっと良い」というのは些かざっくりし過ぎている。もっと良い生活というのはきっと私を幸せにしてくれるに違いない。

このところ私は、家にあるニトリのカーペットが気に食わないことで苛立っている。ニトリで販売されているもの中ではもっとも高い類で買って半年ばかりだというのに。なぜならもっといいカーペットを見つけたのである。デンマーク製でニトリのように画一的でなく趣がある。地域の商店街で買うことができる。価格も安価で良質だ。あのカーペットがあればこの部屋はさらに美しく満足のゆくものになるだろう!しかしそれにとどまらない。家にいる時間が長くなって家事というものをするようになり、「収納」や「つくりおき」という言葉が、ようやく、生まれて初めて身近なものになった。これらの言葉と示す世界に、初めて出会う私は、いったい今までどうやって暮らしていたのか、ちょっと我ながら不思議だ。ジップロックを買ったかと思えば、趣のある蓋つきの和食器を探し歩いてみたり、そういえば食器洗浄機には不向きだからやはり扱いやすいただの白い皿を手に入れようかと思案してみたり。掃除が楽になるというアイテムや量販店で買えるカフェ風の何か、というようなものを雑誌でもテレビでも声高に紹介している。インスタグラムでは美しくフォトジェニックなつくりおき惣菜と、工夫さえすれば安くても実践できるというホテルライクな暮らしについてのヒントが溢れている。これさえあれば・・・。手の指先はアマゾン・楽天のアプリアイコンに、足のつま先は最寄りの無印・100均に向かわせる、そうしたインフォマーシャルが連続するなかに私は息をしている。だからいつも何かが足りない。

生活は改善されるべき対象となった。

その指南を舵取るのは、家電や組み立て家具、洗剤とその説明書である。さあ、サラサラの髪を手に入れ、トイレには何の淀みもなく、洗濯槽は臭い菌を断ち切り、ボタン一つで簡単調理し、お風呂のカビを根こそぎ退治して…。だってあなたにはもっと良い生活が値するはずだから…と。そして、私たちはそのとおりにやらなければいけない。一ヶ月に一度はフィルターを清掃すること、洗剤をつけて洗った皿は流水で5秒以上漱ぐこと、電子レンジの上にモノを置かないこと…。個々の説明書は正しく使われることを期待し私たちの生活を制限する。これらの説明書に完璧に従うことは事実上まったくもって無理だというのに!

わたしにもっと良いカーペットは必要だろうか。このニトリの代替品となろうべきこの新しいカーペットは、画一的な生活のモーダル、量産と不透明な分配、押し寄せる郊外(suburbia)への反対のシンボルであり、その取引は自由市場の謳歌であり、その柄はマシンに生み出せないf分の1の揺らぎの集大成である!しかし同時に私は、3つ目の観葉植物、2つ目の珪藻土マット、フローリング専用のコロコロとそのほか雑多な、忘れてしまったいくつかのものが欲しい!だってリビングルームは、インスタのフィードに登場する美しくデザイン・装飾された部屋と常時比較対象になってしまったのだから。

How Silicon Valley helps spread the same sterile aesthetic across the world

I gor Schwarzmann is the German co-founder of Third Wave, a strategy consultancy based in Berlin that works with small-scale industrial manufacturers. The company's clients range across Europe, the United Kingdom, and the United States, so Schwarzmann often finds himself moving between poles of the global economy.
毎朝浮かぶ、こうしたらもっと生活が良くなるんじゃないか、というポジティブな着想は、陽が昇るにつれて懸命な思案となり、正午までにはネットでの商品の比較選択になり、午後には疲れと共に不満へと変わり、夕方には完全なるただの不平になっている。

そうしているうちに私はカーペットが欲しいかどうかわからなくなってきたし、他のものもどっちでもよくも思えてきた。私は絶対にニトリを支持したくないが、同様にびっくりじゅうたんも、最高級ベルギーカーペットも支持していない。こんなことを考えているならそのへんにある、いらない布切れで床を吹けばよかったと思うとため息がでる。

科学技術の発展で私たちの生活はもっと良いものに溢れている。時計よりももっと良いアップルウォッチ、4Kの映像美、吸引率2.5倍のふとん掃除機。そうすればもっと健康になれる。いまにテクノロジーは、糖尿病も、癌も飢餓も解決してくれるだろう、かつて、あなたがもう二度と寝坊しないようにと、目覚まし時計が生まれたように!

わたしが参照している現代の生活は、総じてこの「もっと良く」という神が支配している。忙しい主婦の悩みを解決してくれる最新型スライサー、エネルギー効率を強化しCO2排出を削減し環境問題に貢献する電気自動車、データの集積とディープラーニングによって人間がわずらわしい選曲をせずとも貴方好みの音楽をかけてくれるアプリケーションに通じている。機械学習は「もっとたくさんのデータ(more data)」があることでますますAIを強化し自動化を完全なものとしてくれる。さあもっと良い未来へ!

もっと良い暮らしを求め、今のままじゃダメだ、と、なおさらに変革を求める。この考えを世間はプログレッシブと組み分けて呼んでいるとしよう。もちろん「もっと良い」の方向性には大いに差異があり、その方向によってはプログレッシブだとは認識されていないものもあるかもしれないけれどひとまずそれは置いておくことにする。プログレッシブに対峙するのが保守であるから、このままを堅く、というのが保守である。そしてなぜかこの対峙は、あるときから保守を右派であると捉えることとし、プログレッシブを左派と捉えることにした。さらにプログレッシブというのはリベラルと概ね同意であると捉えてよいことにもなっていた。こうやって二分することで世界(アメリカ)をみよう、そうすれば物事が良くわかるはずだということだった。その後、この組み分けでは理解不能になるような出来事が起きていって、再組合してつくった解釈が「新保守主義」「新自由主義」。すくなくともごちゃごちゃしていた部分はこの「新」でなんとなく対応できた。ところが、そこにトランプが登場した。多くのリベラルやアメリカのマスコミ関係者たちはショック状態となり、何の一貫性もない彼の主張に理論家たちはいま躍起になってあてはまる言葉を捜している。

そんなことはどうでもいい。時折、為政者が違うことで部分的にマシだと感じたときもあるけれど、誰が権力の座にあってもほとんど最悪だと感じる。そんなことよりも、わたしは幸せをみつけたり、幸せでありたい、ということを望んでいる。だから、打倒○○政権、というメッセージとはかかわりを持ちたくないと思う。あれもイヤ、これもイヤとダダをこねる3歳児のイメージとわたしとの間にもし違いがあるとすれば、わたしは、問題があるということを共有せぬまま黙って死んでいくのは嫌だから、議論して分かち合い、必要があれば行動したいと感じているということ程度である。冷房が効きすぎた部屋の中、全員が凍えながら我慢しているよりは、「寒くない?」と問うて、合意を得られたのなら一旦冷房の温度を上げよう、という態度のことだ。

ところがしばらく前から、もっと良くなる以外の選択肢は消え、保守かリベラルかという問いは、無意味である以上に不気味な形而上学的議論のタネとなりリアリティから乖離してしまったことに気付いた。わたしが持ちうる自由というのは、良い生活のためにカーペットを買い換える前提で、どのカーペットを選ぶか、ということに限定されているからだ。とはいえ、わたしが懐古主義に陥ったわけでなく、北大の応援団の服のようになりたい、というわけではないことは覚えていて欲しい。

このわたしの「もっといいカーペットが欲しい問題」は、週末、余暇をもってして資格試験勉強に励むサラリーマンの自己啓発と同じ問題をはらむ。かたや、アリアナ・ハフィントンの説くように、もっと気持ちよくなって良い睡眠をとればあなたは前に進める、に従うのも同じ問題をはらんでいる。どれも、もっと良くなろうとする呪縛だ。

Welcome to Our Neoliberal World

そしてこの呪縛はネオリベラリズム世界そのものだということを、偶然耳にしたChristopher Lydonのラジオ番組「Open Source Radio」の”Welcome to Our Neoliberal World"が見事に解き明かしてくれている。高校生以来聴いてなかったぞ。
Welcome to Our Neoliberal World/ Radio Open Source

ちょっと飛躍してわかりづらいけれど私達の生活にひそむ「もっと良く」というネオリベラリズムについて一個ずつ説明したい。(ただし、番組では私の指す「もっと良く」という視点について個別には触れていない。)

クイア活動家で著述家のYasmin Nairはがわかりやすく例を挙げている。議会にもっと女性を!というのは現状の問題を議論するのではなく、女性議員の数を増やすリプレゼンテーションの問題に摩り替えてしまうフェミニズムの皮をかぶったネオリベラリズムであるとしている。そのほか、子供のために学区を引っ越した、というのは「もっと良い」学区を「選ぶ」のであり,それは選択という欺瞞(fiction of choice)であるとしている。


ふと、こちらも高校生以来Trainspottingの二作目を見たのだが、そこでもchoiceについて語られていて、同じ問題性を感じた。

最後に、わたしは今母子手帳というやつをもっているが、この内容はほとんど変わっていない部分もあるものの、離乳食に関する項目では2008年に変わっている。(前が間違っていたから変えた)健康に関する近視眼的な「情報」も「もっと健康に」を目指すわずらわしさをもたらすリベラリズムだ。そうだわたしはもっと健康になりたい。家族が今そして未来にもっと健康であるように!食品は、もっと健康そうな選択肢。もっと良いものを…

When Efforts To Eat 'Clean' Become An Unhealthy Obsession

Whether it's gluten-free, dairy-free, raw food, or all-organic, many people these days are committed to so-called "clean eating" - the idea that choosing only whole foods in their natural state and avoiding processed ones can improve health.
選択の欺瞞を知りながらも、銅よりは銀を、銀よりは金を目指してしまう私たち。そしてそのためには何って稼ぎが必要じゃないか。だってオーガニックのほうが高いんだぞおい。こうなればトラップを聞くのだって、仕方がないのかもしれない。