今年の初め、僕は自分が語ろうとしているものの呼び名がわからないということに気づいた。僕が語ろうとしているのは―ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアとアカデミアなもの、これらを知識とコミュニケーションのシステムとして捉えたもの―呼び名はない。でも生態系が存在している。ツイッターからキュレートされたリアルタイムのフィードや、リファレンスとしてのウィキペディア、ニッチな最前線で活躍する記者たち、コンピューター科学者がその中にいて、人間とアルゴリズムの両方のキュレーターがいる。芸術家や芸術作品もそこにはあって、なんていうかみんなでシェアしている世界っぽいもの。
これを何て呼んでいるか、ある人は「メディア」だと答えたが僕はメディアの芸術性やエンターテイメントな側面を語ろうとしているわけじゃなく、もっとディスカッションとかコラボレーションを通じた調査、新しい知識がで生まれるような概念も含んだものを語りたいのだ。別の人は「インフォメーション」と呼んだけど、知らされる情報だけでは片付かない。すごく近いけど「第四の権力」が表す新聞やジャーナリズムだけじゃなく、市民参加やパブリックディスコースを含めた、民主主義の下にあるもの。
ひっくるめて、僕はこれをハバーマスの考えを下地にして「デジタルパブリックスフィア」と呼ぶことにした。ちょっとドライな名前になってしまったけど今のところはこれがベストに思った。Michael Shudsonの「ニュースが民主主義のためにできる6つか7つのこと」という論文からもインスピレーションを受けて、デジタルパブリックスフィアは僕たちのためになにができるか、を三つのまとめてみた。
1)情報
2)共感
3)コレクティブアクション
このコレクティブアクションというのは、共同体がオーバーラップする時代だから。
なんでこんなことを今話しているかって?ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアにいろいろ・・は今こそ共通の目的のために協力しなくちゃいけないからだ。
今あるネットワーク化された非中央集権的な生態系が形作るデジタルパブリックスフィアをみんなが大事だと思える目標のために協力していこう。
こう要約した私がどの角度からどんなサングラスでみているか少し話そう。私は現実主義的な国際関係論や政治学にどうしても抗したくて(政府がアクターだなんて!?)、いわゆる第四の権力について大学で学んだ。言い替えるとジャーナリズムとコミュニケーション論、それと文化人類学をおろそかにしないカルチュラルスタディースを少しだけかじってみた。マスコミがどう、ってことよりも草の根運動とか世論形成の方に関心があったのでなんとなく合わないなと思いつつも、フォーク(folk、民衆)の日々を綴ってこそ!という思いがありつまりはジャーナリズムっという椅子に座って考えたりモノを見たりすればいいと思ってた。ところが大学卒業前の2007年に聞いた二つの話にダブルパンチを受けた。ひとつはジョン・ピルジャーのプロフェッショナルジャーナリズムは意図的につくられたものというシカゴでの演説、もうひとつはコロンビアのJスクール出身の日本人教授が最後に、コミュニケーション論もジャーナリズムも「学」ではないんだよねっと今更ながらに話してくれたこと。私が呼吸し考え夢見ることを後ろ盾てくれる「共同体」とか「民主主義の味方」みたいなものは裸の王様の衣装にすぎなかったと。おそらく中立公平のせめぎ合いなんて、王様のズボンのチャックか何かだろう。
非実践的、非問題解決的、古典的学問に嫌気がさし(しかも学問とも呼べない!)、なんとか気を取り直して「情報」とその「構造」に目を向けるようになった。今のところすごく混乱している。「共同体」っていう捉え方で解決できないのは自覚しているから、そこにネットワークとか非人間とかいうアプリケーションを入れるようにしている。なんだかすごいスピードでいろいろ解決してくれたような気もしたが、じゃあそのアクタンやネットワークを「認識」する主体は誰なんだよっていう仰天のブートストラップ問題にひとりで陥っている。
@jonathanstrayが名づけられなくて困っているものと私がわくわくしている好きなものは同じ。ジャーナリズムにパブリックディスコースに公園と美術館とハッカーを混ぜたような新種のうごく地図。彼はデジタルパブリックスフィアというあまりグっとこない名前をつけた。(それだったらシビックメディアとかシビックエンゲージメントで私はいい、と思ってしまう。)天気さえわからない公共圏を名づけるよりも、ソーシャルキャピタルの豊かにするという合意で生態系の発展を創造する共同作業に着手するのが間近の目標だろう。
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