2013年1月23日水曜日

“Collaborative & Open: Publishing Reloaded”

札幌SMAL.JPとベルリン・ガゼット誌の協力で行われた国際会議「デジタルの裏庭」。

私の参加したセッション「協働とオープン」では ドイツ緑の党のインターネット政策アドバイザー, クリス・ピアラさん、世界のクリエイティブカルチャーを紹介する札幌発のトライリンガルオンラインマガジンSHIFTの 大口 岳人さん、 ベルリンのオンライン新聞「ベルリン・ガゼット」誌で活動する研究者のマグダレーナ・タウベさんとともに、これからのオンライン出版の持続可能性~新しいニュースのカタチについて議論を重ねた。

グローバル・ボイスの日本地域を担当する私を含め、お互いネット上でコンテンツを発行している事はみな変わらないものの、その形態はさまざま。ざっとまとめるとこんな感じ。


でも、読者の欲しがる情報を集約して(aggregate)、選択して(curate)届ける、という点では3者とも同じなのかな、と。

会議3日目の報告会では、こうした対比を踏まえて展望をそれぞれが述べたのだが、他のセッション「明日のアート」、「ソーシャルインパクト」、「ユーザー生成コンテンツ」を聞いて「うん、やろうとしてることひょっとして一緒じゃない?」って少し思った。

どういうことかというと、「ソーシャルインパクト」の分科会では、市民が「センサー」のような役割を果たし、行政と連携して地域の問題を解決するモデルづくりについて話されていた。これは、市民が放射線量を測定してその情報を共有するサイト「測ってガイガー」を運営するゴーゴーラボの事例を受けて、札幌のような街で、除雪処理をより効率化できないかと分科会のメンバーが考えたドラフト。市民誰もがセンサーとなって、情報を提供し、行政と協力する、といったモデルの提案だった。そうすれば住民も行政もより良い暮らしになるだろうと。

「明日のアート」の分科会では芸術家教育の話のほかに、札幌国際芸術祭を迎えるにあたって行政とアートと市民がどう協業できるか、国際交流や市民参加の文脈から社会彫刻としてアートの役割はなにかという話だった。そして誰もがアートに携われる、と。

そして「ユーザー生成コンテンツ」の分科会では、誰もがコンテンツクリエイターになれる、メイカーズ・ムーヴメントについて言及された。

私の視覚や聴覚がとらえて、私の脳が解釈したことだから、本当は全然違う話だったかもしれないけど。

私の頭の中にあることは、人々が情報をもとに行動をするとき、適切な情報が届けられているか、そしてその情報が届けられるためには誰もが発信できるようになってほしい、ということばかりだから。

このことを考えると、従来の枠組みが全然意味をなさないことに気づく。

それが利益を生み出す情報発信なのか、非営利なのかということで互いを隔てあってもしょうがない。伝統的な報道倫理に則ったものなのか、それともハッカーの倫理にのっとたものなのか、(かたやスクープ報道であり、かたやハッキングと互いを隔てられる壁があるだろうか?)、ローカルなコンテンツなのか、グローバルなコンテンツなのか、市民VS行政プロVSアマチュアアートVS政治・・・。こうした二項対立は本当にもはや意味をなさないのではないだろうか。

わたしが区別がつかなくなって困っていることは例えばこんなことだ。

デモクラシーナウ!より
2010年3月8日、イラク生まれのアメリカ人芸術家ワファー・ビラールは、10万5000個のタトゥーを自らの背中に刻むことで、イラク戦争での死者(10万人:当時の公式発表)を風化させぬよう文字通り浮彫りにするアートパフォーマンスを行った。うち5000個のタトゥーは米軍兵士の戦没者数である。まさに体を張ったパフォーマンスであるが、10万のタトゥーは特殊インクで彫られており、紫外線を当てたときだけ浮かび上がるようになっている。数字がストーリーをもって伝えられるこのパフォーマンスは、イラク戦争のことを伝えようとするジャーナリストたちとどう違うだろうか。


放射線量を市民が測定し、地図で共有することは、放射線量について報道しようとしている記者たちの"はたらき"とどう違うだろうか。特にこうした地図にマッピングして情報を知らせることについて、海外ではジャーナリズムの一環だとする考えが強く、アメリカワシントンDCでLaura Amico が始めた殺人の被害情報をマッピングするHomicide Watchは、コロンビアジャーナリズムレビューなどにも取り上げられ注目されているのだが。

何を、誰が何によってどう伝えるか、それは様々だけれど、自分の知りたい情報があちこちから集まってやってきて、いい情報を見逃さないでいられる状況は、うーん、その、たぶん幸せだ。そして私が何か役に立つかもしれない情報を偽ることなく必要としている誰かに届けられるなら、うーん、それは幸せかなと。コレに関わる名もない集まりの生態系のことを、ジャーナリストでコンピューター科学者でもあるジョナサン・ストレイは2011年にこう書いている
僕は自分が語ろうとしているものの呼び名がわからないということに気づいた。僕が語ろうとしているのは―ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアとアカデミアなもの、これらを知識とコミュニケーションのシステムとして捉えたもの―呼び名はない。・・・ これを何て呼んでいるか、ある人は「メディア」だと答えたが僕はメディアの芸術性やエンターテイメントな側面を語ろうとしているわけじゃなく、もっとディスカッションとかコラボレーションを通じた調査、新しい知識がで生まれるような概念も含んだものを語りたいのだ。・・・なんでこんなことを今話しているかって?ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアにいろいろ・・は今こそ共通の目的のために協力しなくちゃいけないからだ。今あるネットワーク化された非中央集権的な生態系が形作るデジタルパブリックスフィアをみんなが大事だと思える目標のために協力していこう。
こんな交じり混ざったいろいろなものについて、明日は会議二日目にスカイプのビデオ通話で参加したハイブリットカルチャーの著者Yvonne Spielmannさんの話と、MITメディアラボの伊藤 穰一所長の話から考えたことを書きます。






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