2014年11月26日水曜日

インターネットアンガバナンスフォーラムが言い張りたいこと

外因的なものを使って環境に合わせる,という定義に則れば、私たちはもはやサイボーグと言える、とAmber Caseが TEDでスピーチしたのは2010年のことだった。


いつでもスマートフォンを手放せない我々にとって、インターネットは[『常時接続(always on)状態』だしかし、情報があふれるオンライン環境で昨今話題になることといえば、漏洩、監視、規制・・・。こうした問題山積のインターネットに対し、民主的なてこ入れでWW本来のもたらす自由やオープン性を保とうとするのが、インターネットガバナンスフォーラム(通称IGF)と呼ばれるマルチステークホールダーMSH)式の会議だ。IGFは、インターネットに関わる多様な利害関係者を議論の席に付け、ネット政策に関する国際的な議論をする場所となっているが、誰がその主導権を握るのかという点では、ほかの政治的国際会議と似たような装いを持ちつつある。というのも、インターネットのルールづくり最も関わるドメインを管理するのはアメリカを拠点としている非営利組織のICANNであるからだ。


2014年4月ブラジルで行なわれたNet Mundialでは、さもなければ一極支配的なインターネットガバナンスを分散的にしようと、ブラジル議会は会議開催前に「インターネットのマグナ・カルタ」だと呼び声の高い「Marco Civil」を可決している。


しかし、それでは全然足りない。このままではインターネットが「私たちの欲しいインターネット」(The Web We Want)とは違うという声も広がる最中、2014年9月にトルコで開催されたIGFに対抗するかのように開かれたのが「Internet Ungovernance Forum」である。企業による監視(つまり、アップルやグーグルの製品やサービスが利用者の情報をキャッチし続けるような設計になっていること)に反対し、独自のテクノロジーで利用者の情報をキャッチしないようなモバイル端末の開発を行なうind.ieのAral BalkanはIGF開催中にツイッターでこう話している。「まったく、グーグルのヴィントン・サーフはIGFのセッションにパネルとして何回登場するんだ。インターネットアンガバナンスフォーラムが提案したセッションは全然通してくれなかったのに」


インターネットアンガバナンスフォーラムのIGFに対し、こう書いている
「インターネットの問題のなかで、最も早急に解決されるべき最大の問題はIGFの存在そのものである。マルチステークホールダー主義は、政府と企業体の声を必要以上に大きくしている。こうした状況に対し、市民社会、活動家や一般の人が声をあげることのできるスペースを作るため、イニシアティブをとった」
つまり、本来なら大多数を占めている一般ユーザーの声よりも、政府と企業がとりわけルール作りの主導権を持っているということに憤りを感じているのだ。なんだか聞いたことのある話だと思うのも無理無い。主要8カ国サミット(G8)への反対運動で言われる「G8は世界人口の14パーセント程度なのに、経済的力を背景に、多国籍企業の方を持ち、さらなるグローバリゼーションにより不均衡を世界にもたらしている」という言葉と問題の根源は類似しているようだ。


トルコでこうしたイニシアティブが始まったのには、いくつか背景があると考えられる。世界的にもエドワード・スノーデンの暴露を英雄視するような時代の流れがあったり、WWW25周年を向かえ改めてインターネットのあり方に注目も集まった。また、2013年トルコ反政府デモではツイッターやFacebookを使ったデモの呼びかけに対し、政府が利用制限をするようなケースや、ツイッターでの発言で逮捕者が出るようなケースがあり、ソーシャルメディアが一般的に利用される一方、政府の裁量で情報の自由が滞る事態が発生し、反感を買った。ただでさえ、報道の自由度も低く、報道の自由世界ランキングでは154位(ちなみに日本は2013年53位)という情勢も、インターネットの自由への切望と駆り立てているかもしれない。


しかし、こういった状況はトルコ特有だとは言い切れない。同フォーラムのブックレットには、トルコのインターネットの現状や問題がいくつか挙げられている。その中には、「ネット上のヘイトに関するディスコース」と題した章があり、選挙期間中のデマアカウント、隣国に関係する民族対立をあおるようなコメントがインターネットと政府間両方で悪影響を及ぼしている模様が詳細に記されている。日本も、ネット上の差別発言やヘイトスピーチについては国連の人権委員会で注意喚起を受けている(2010年)から、他人事ではない。ほかにも、「新しいメディアに対するリテラシー教育の欠如」という章もあり、日本の情報リテラシー教育を想起する。トルコと大きく違う点といえば、日本はこうした問題点をひと揃えにして表面化させるような取り組みが無いというところだろうか。


Internet Ungovernance Forumでは「対処すべき分断」として次の3つを課題として取り上げている。
  1. オンラインとオフラインを区切って考えることには限界があり、デジタルな人権を求めるだけでは不十分である。根本的な権利と正義を求める。
  2. インターネットはその他のインフラと関係しており、つまるところ、インターネットは環境活動家にとっての種であり、都市活動家にとっての公共空間と同義である。政府や独占企業に対し、我々の権利を取り戻そうと闘争とともにある。
  3. 技術開発者と、政策決定者の間には分断が存在し、互いに不満を持つことが往々にしてあるが、どっちもどっちだ。単なる制度変更やアプリ開発といった解決主義(solutionism)のいずれでも不十分だ。人民にとってのインターネットをつくるために、何ができるかという問い正すべき。
オンラインとオフラインを区別せず、包括的な権利を求めるというのも、誰もがサイボーグである時代には自然であろう。また、「解決主義」(solutionism)に対す批判については、著書「To Save Everything Click Here」で何でもテクノロジーで解決しようするシリコンバレーに冷ややかな目を向けるEvgeny Morozovも同様に指摘している。脱中心主義的なインターネットを求めるのなら、今は軌道修正の最後のチャンスかもしれない。

ここ数年、IGFで「市民社会の不在」や「誰をもって市民社会というのか」といった懸念が目立ってきた中、草の根の視点での言い分(Internet Ungovernance Forumでに関わった人たちの多くは、もともとIGFにセッションを提案していたのだが、通らなかった)に、耳を貸す必要はありそうだ。

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