2018年1月28日日曜日

platform cooperativismの文脈

プラットフォームコーポラティビスムについて過去にブログでもつづっていますが改めて関心が高まっていることを受けて用語としての理解だけではなくその背景となる部分をしっかり記しておきたいと思います。技術や戦略としてプラットフォームコーポラティビスムを日本で導入してもその裏にある思想がなければ部分的にしか意味をなさないからです。プラットフォームコーポラティビスムは制度設計ではなく文化的な運動だから。

プラットフォームコーポラティビスムは,ここ数年になって生まれた言葉でわかりやすく言えばその中心人物はドイツ出身でアメリカニューヨークにあるニュースクールという私立大学で教鞭をとるTrebor Scholzです。彼は労働運動史の観点から、現代のAmazonのメカニカルタークをはじめクラウドソーシングにおける労働の搾取や富の不均衡といったテーマに注目し「デジタルな労働」として問題提起してきました。ただしこれは彼の専売特許でもなく研究対象でもないリアルな課題への実践であることを十分承知する必要があります。

デジタルな労働に関する問題はグローバルなものでもありネットワークを通じて発生するものです。そこで「Digital Labor」という、関係者を交えた国際的シンポジウムによりその理解を深めようとニュースクールが主催となって2014年に開催されました。当時このブログでも取り上げていますが,副業を持たないとやっていけない、というようなライフスタイルは2000年代半ばのアメリカではすでに意識されるようになっていて、(たとえば当時話題になったウェブ動画「Story of Stuff」のなかでは持続可能性という視点から消費と仕事を掛け持ちすることについて触れている)、フリーランスユニオンみたいなのができていったり、学問としての労働運動が強いドイツなどをはじめヨーロッパでAmazonのメカニカルタークが批判されるようになり、さらにすすんでSharing Economyにおける労働とは言い難い新しい形の労働をどう捉えていくか、議論がさかんいなっていったという経緯があります。こうしたネットワークで発生する労働という問題に対する持続可能な代替手段としてプラットフォームコーポラティビスムは生まれてきました。

シェアリングエコノミーについて経済と労働の観点からもう一度振り返ってみます。ビジネスとしてはプラットフォーム戦略です。例えばUberなら交通のサービス化としてアプリを通じて乗車のシェアを提供することで運転手と乗客を結び付けるプラットフォームの役割を担うことで利益を発生させます。一方、ライドを提供する運転手といのは空いた時間にすでに所有している車を使ってタクシー行為をするわけであり、Uberの社員として労働契約を結ぶわけではないため労働者としての保護を受けないことになります。これがわかりやすい労働とプラットフォームの関係の一つの例です。

もう一つはWeb2.0以降から一層一般化していったソーシャルメディアに対する問題です。ソーシャルメディアはマイクロブログやメッセージのプラットフォームとしてソーシャルな社会的な交流を促す立場にあります。いくつかのソーシャルメディアはテクノロジーが駆り立てて始まりましたが自己持続のために私企業の形をとり、ユーザ数の増加を受けさらに投資家からの資金調達を経て上場していきます。例えばツイッターはビジネスとして始まったつもりはないのですが,投資を受けて広告によるビジネスモデルを展開していきます。この時点でも明らかですがツイッターを価値ある場所にしているのはツイッターユーザそのものです。ユーザがコンテンツを投稿しユーザ同士が子交流できるコミュニティを作っていったわけです。

広告モデルになったことでユーザのデータはコモディティに変換されマーケティング目的で提供され,ツイッター社は投資家から調達した資金のために自分のビジネスが有望であることを証明し続けなければいけなくなりました。ソーシャルメディアを利用することが労働とは言えませんがユーザが何らかの価値創造に貢献していることに注意が必要です。

多くのテクノロジースタートアップはサービス提供、ユーザ拡大,資金調達しIPOないしは買収というプロセスでビジネスを成り立たせています。こうした厳しい競争と企業のライフサイクルの中にソーシャルメディアも存在しています。またシリコンバレーや北米の若手起業家にとって資金調達してビジネスを拡張することや、買収されることというのが「成功」の出口であるという文化的な認識があります。端的にいえばそのほうがモテるという風土です。消費者が作り手になるWeb2.0はユーザの情報発信を手助けする大きな力となった一方,創造された価値の分配について誰が何をどのくらい享受できるのか明確なプランを持たないままテクノロジーが先行していったものです。(もしくはそのことを戦略的にわかっている人はそれをビジネスにしていったとも言えます。)

日本では話題になりませんでしたがアリアナ・ハフィントンが始めたハフィントンポストは彼女の目的に共鳴した多くの友人が寄稿したおかげでメディアとして強力になったわけですがAOLに買収されたことは多くの寄稿者にとってその価値の分配について疑問を抱くものとして大きなきっかけとなっています。

ユーザ投稿型のソーシャルメディアのデジタルな労働としての問題はそれそのもの単体としてではなく,ソーシャルメディアの広告モデルの鋭利化により一層顕著になったユーザデータの集積やデータの所有権、プライバシーの問題、アルゴリズムという見えない編集権によるコンテンツのコントロールという関連する様々な問題との相互作用でより英語圏で強く意識されるようになっていきました。なので単純に労働や価値といった要素単体で問題提起されているものではなく、サービスを提供するプラットフォーム側に不均衡に様々な権力が付与されている現状への疑問符の一つとして存在していることを認識する必要があります。特にアプリが自分のデータを「監視」し、第三者へ提供していることへの問題意識は、スノーデンの暴露(こちらも同じく日本ではあまりユーザの意識変革を生まなかったが,英語圏では多大な影響をあたえた)により顕在化された政府の監視の問題とも相互に関係しています。

上記に示したようにデジタルな労働は想像した価値の分配の不均衡について意識する運動としての側面とともに、所有権やメディアサービスの社会的説明責任を求めようという問題意識の二つが相まって高まりをみせていくことになります。その打開策としてプラットフォームコーポラティビスムが注目されることになります。

もう一つの大きな背景として見過ごしてはいけないのはアメリカ現代史におけるニュースクールの存在です。同大学でのデジタルな労働のシンポジウムは学際的取り組みで,文化・メディア学部が主体となっています。そして同時にニュウヨーク市立大学(CUNY, こちらも都市とメディア研究で非常に重要で先鋭的な取り組みがある)やそのほかの学術機関とのコラボレーションで開催されています。社会学でも労働の学会でもなく学際的にそして国内外のアクティビストと研究者を交えて行われているところは日本のアカデミアの姿にもう少し求めたいところです。

この舞台となっているニュースクールはニューヨークという土地柄もありメディア研究者にとってはアイビーリーグとはまた違う先鋭的な教育機関としての印象も強いです。その最大の所以となっているのが2011年秋のオキュパイウォールストリートとの関係です。オキュパイはリーマンショックやサブプライムローンの問題に対する民衆のデモといった印象を持たれるかもしれませんが,大学構造への再考の一手を担う重大な機会をもたらしていました。大学の実践,知へのアクセスと実践としてオキュパイの現場には大学教員が若者や学生と対話していました。知へのアクセスという観点と同時に富の分配に対する再考の場としてオキュパイ運動が重要なターニングポイントになっています。

もっと言うと、このオキュパイの前進ともいえる出来事は2008年12月にニュースクールで起きています。それはオキュパイニュースクールというニュースクールの占拠としてニュースクールの学生だけでなく先にあげたCUNYの学生なども参加し学校に対する要求をしたものでした。その担い手にはSDSという反戦学生運動のグループがあります。SDSはベトナム戦争のころ組織されたものですがその後一度解散しており2000年代半ばになって復活しいくつかの州のカレッジなどで再びアクティブなネットワークを形成しています。その結びつきをもたらすのに幾分か貢献したのはインターネットです。直接的には911をきっかけに始まったアフガン侵攻やイラク戦争が学生運動の主要な要因です。メディア研究が関連するのは、これらの戦争に際し施行した愛国法や同時期のメディアの統合,それに所以する政府に批判的なキャスターの解雇があり、そのカウンターとしてインターネットやコミュニティ放送局などによるオルタナティブメディアが勃興していきます。ニュースクールの占拠行為は学生の反戦団体であり,2008年のイスラエルによるガザへの攻撃への反対運動とも無縁ではない,直接行動の実践でした。ちなみにアメリカメディアにおける中東の報道はイスラエルよりのものばかりであることが頻繁なメディア批評のトピックとなっています。

ついでに挙げておくとSDS復活と同時期に盛り上がりを見せた2000年代中盤の学生運動としてフリーカルチャーがあります。こちらはクリエイティブコモンズとも共闘して著作権の観点でシェアしたりアクセスしたりリミックスすることをもっと自由にやっていきたいという学生運動でハーバードにも組織がありNYUにもアクティブな学生グループがありました。あとでこのことが少し関連してくるので挙げておきます。

もう少しオキュパイ運動について触れておくとオキュパイ運動は反G8や「もう一つの世界は可能」といった反グロ―バリゼーション運動の系譜もあります。これはさらにさかのぼる1999年のシアトルでの反WTOの闘争と当時期に誕生したインターネット上の匿名の分散型のジャーナリストのネットワークであるインディメディアがその根幹となる思想を形作っています。さらにその後の反グローバリゼーションというイデオロギーの実践として、広告へのカウンターとしてのアドバスターズが存在します。ここにオルタナティブな世界を求める運動とカルチュラルスタディーズ,メディアの実践が融合します。わかりやすい反グローバリゼーションとして、シェル石油、ナイキやマクドナルド、ネスレやスターバックスへの不買運動などが挙げられます。ここに先に挙げた反戦運動とのオーバーラップがあり、イスラエルを支持する多国籍企業への不買運動(BDS)があります。

少し複雑になってきたのでこうした様々な点が接合するオキュパイ以前のアクティビズムの具体例を挙げて整理します。ザ・イエスメンと呼ばれるカウンターカルチャー,メディアアクティビズムを取り入れた戦術で反グローバリゼーションの運動を面白くしていった著名な二人組を例にとりましょう。イエスメンはエクソンモービルからダウやシェル石油などの多国籍企業(これに加えブッシュ大統領やニューヨークタイムズもいイエスメンの標的になっています笑)主導の南北格差や労働搾取を助長する自由貿易,石油戦争などといった富の不均衡に反対する手段として主に成り済まし的なパロディの手法により反対メッセージを掲げ支持を得てきました。こうしたカウンターのメッセージを届けるためのパロディはアドバスターズでもよく見られる「リミックス」行為です。リミックスを是としなければ反対運動のためのビジュアルは上がってこないのでここでもフリーカルチャー思想の存在がより有意になります。もう一つオキュパイウォールストリートの前身ともいえる運動はスペインでのMay15という広場の占拠運動でこちらもライブストリームで当時毎日配信されていましたが,この運動のきっかけとなっている趨勢の一つがスペインのフリーカルチャー運動です。(他にもいろいろあるけど割愛します)

回想シーンが長くなってしまいましたが(本当はもっと遡りたいところですが…)オキュパイにはなしを戻します。これまでの反グロ運動の系譜がありながらもオキュパイは完全に違う運動であったことを忘れてはいけません。(さんざん反グロの話をしたのにすいません)

オキュパイ以前の運動は,資本主義を終わらせるとか、行き過ぎた自由主義貿易への反対といった明確な要求があり、運動の担い手を導くような思想家なり行動の中心的人物やグループがいました。これに対し、オキュパイでは中心がなく、具体的な要求がないという前代未聞の運動です。以前の運動とはまったく違う性質のものです。とはいえ脱中心的思想や分散型,匿名というネットワークの思想がはすでに1999年のインディメディア登場時からあったものの、運動の現場においてそれが実践されたという意味でオキュパイは分岐点と考えていいのではないでしょうか。

いずれにせよデジタルな労働という課題が顕在化する前段階としてオキュパイ運動があったこと。その運動には学生がローンを背負って大学に通うという現状から大学や知へのアクセスの在り方が問われたこと、また所有権や富の分配という論点があり大学職員や学生なども参加していたことで、オキュパイ運動終焉後もニューヨークの大学機関に関係する人々にとって何らかのインパクトを持っていたという伏線があることを押さえておく必要があります。

デジタルな労働についての2014年のニュースクールのシンポジウムの副題には「スウェットショップ、ピケットライン、バリケード」とあります。まさに前述のような背景や問題意識の趨勢があってはじめてここにデジタルな労働という共有された課題が生まれてきます。またシンポジウムは前述した問題意識を体現するように,ライブストリームで誰でもその議論にアクセスできるよう中継、アーカイブされ、登壇者はパネルとしてではなく「参加者」としてプログラムに示され議論をする場を提供するキュレーター、プロデューサとしてTrebor Scholzが呼びかけ人となっている形であることは今後同類の試みをする人にとって注目に値します。アカデミアの集まりでもなくニュースクールのイベントでもないのです。

さらにデジタルな労働の「参加者」にこのイベントの性格を見ることができます。例えばアストラテイラーは、シジェクのドキュメンタリーを撮った映像監督として知られているかもしれませんが彼女の
アクティビズムの始めは環境問題でした。そしてオキュパイを通じて彼女は学生ローンの支払いを拒むキャンペーンの立ち上げを率いています。デヴィッド・キャロルは昨年、トランプの当選した大統領選挙戦を受けてその選挙キャンペーンの代理店でアメリカ国民のデータを不正に持ち利用したとしてケンブリッジアナリティカを相手取って裁判をしています。Trebor Sholzはデジタルな労働の会議の後、ミディアムにシェアリングエコノミーの対抗としてのプラットフォームコーポラティビスムについて書いています。その翌年のほぼ同時期にニュースクールで開催されたのがプラットフォームコーポラティビスムの会議になります。(ここまで長かった・・・

先に挙げた2000年代のアクティビズム諸々は2010年代に入って幾分姿かたちが変わってプラットフォームコーポラティビスムの親戚のような存在になっています。(2000年代からいたけれど2010年代になってより存在感を増したといったほうが正確です)。そのうちのひとつはP2P財団。それからP2P財団の支援も受けているシェアラブル。シェアラブルはシェアリングエコノミーが本来の
分かち合いの姿でないただのミドルマンビジネスになってしまっていることに辟易していたり、知識をシェアするプラットフォームとしてこれまでの文脈を十分にくみ取りながら精神性を体現しているステキな組織のひとつです。

ですからプラットフォームコーポラティビスムはICTで生協をアップデートすることでもなければアカデミアのための研究対象でもありません。もちろんこのコンセプトをつうじてそのようなことは可能ですが,それは本質的ではありません。

プラットフォームコーポラティビスムの根幹には先に挙げたような思想や様々な苦悩がありその打開策として実践可能な行動として体現しようとするものです。プラットフォームコーポラティビスム実現のプロセスの中に、不均衡な労働搾取や「知」の中央集権的コントロールが生まれることは努力によって防ぐべきであり、担い手は目的の精神性を欠くことなく実践によって広げていくことを強く求めます。

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