しばらくまえに「十番目のミューズ」(片岡大右)を読んだ。私自身は、自分をポップカルチャーの虜だと見なす一方で、この種の批評で参照されるメジャー映画をことごとく避けて暮らしている。好みの問題で、みんなが大好きなポップカルチャーよりも自分の関心は少しずれているし、殺し合いが描かれる作品やミソジニーを感じる日本アニメが苦手だからか、『鬼滅の刃』も目にしないままである。「みんなが好き」と評価されるものに、なんとなく全体主義っぽさを感じてしまい、つい逃げてしまう。(そのせいで、ヒップホップ好きなのにKendrick Lamarが苦手、というややこしい事態になる。)結局は私の好みであり相対的なものなので、自分でもどう判断しているのかよくわからない。
参院選が終わって政局の安定もただならない中迎えた8月に公開となった『映画クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ』を映画館で観た。せっかくなので、このおバカ映画について、あくまで私の感覚と解釈で、賞賛の批評を試みたい。
同作品の舞台となるのはインドの架空の町。なにやら、春日部市と新たに姉妹都市交流協定が結ばれ、その一環で春日部市が記念に子どもダンス大会を開き、優勝チームがインドの姉妹都市での大会に出場できるというあらまし。
このところ世間(日本)では、一部に"外国人問題なるもの"が選挙の争点としてでっちあげられ、トランプ大統領さながらに自国民ファーストを擁護・支持する現象があったりして、私にとっては気味が悪かった。特に気味悪く感じたのは、個人が自らの立場を安定させるため自国を擁護する姿である。この短絡的な思考は、間にある文脈を十分に検討することなく突如、自身と国とを関連付け、国家の単位を強化し、経済や安全上の理由から外国(外国人)を脅威とみなし敵対する。そんななか、本作品では、「姉妹都市」―国家の境界線ではなく「市」という自治行政区に収斂され、市民間の文化的な交流による相互理解を促進する―というビジョンを背負った国際政治上の用語が、話の展開の起点になっていることに心が洗われる。幼稚園児も保護者も、インドに行って踊りたい!とダンスの準備や練習に励む。ここでいう「インド」という語が参照するのは、国家というよりも、インド文化圏を表している印象だ。ちなみに、相手自治体の名前はハガシミール州ムシバイという名なんだけど、痛くなる場所を歯にしているのは偉かったのではないか。(賞賛のハードルが低くて申し訳ない。)
ところで、夏休みに合わせて子どもや家族向け映画を公開するのはアメリカも同じ。日本では秋公開予定の"Smurfs "(邦題『劇場版スマーフ/おどるキノコ村の時空大冒険』、配給: Paramount Pictures)。ベルギーの漫画を原作とし、キリスト教的な概念を色濃く反映している印象があるが、サウンドトラックにはインド文化圏の風が吹きまくっている※。まずはこのミュージックビデオを見てほしい。
サントラを手掛けるのはRoc Nation(Jay-ZらのRockafellaレコーズを思い出してくれ)の共同創業者であるTY-TY Smithで、Shabz Naqviと「Desi Trill」というヒップホップと南アジア音楽を掛け合わせたプロジェクトをプッシュしている。ビデオが公開されたのは、DOGEとトランプ大統領令が吹き荒れた4月。アメリカの高等教育機関ではこれまでダイバーシティ推進を進めてきたけど、再びトランプ政権になったことで「ダイバーシティ」という言葉を控えざるを得ない、というようなニュースが飛び交っていた時期。
「Higher Love」の歌詞は、天国とか救済とか愛とか、キリスト教的な意味を負った語が多いけれど、バングラデシュの言葉で歌っているパートもあって衝撃。思いっきりダイバーシティである。かつて2000年代前半、Daddy Yankee, シャキーラやサンタナ、ジェニファー・ロペスといったアーティストがスペイン語のシングルやアルバムをリリースして大ヒットしたことがあった(例えば、スペイン語のアルバムでシャキーラがグラミー賞をとったのが2006年。大規模な移民のデモがあったのもその頃)。ちなみにサントラに入っているリアーナの歌は、3年ぶりの新曲で期待されていたけど、ボーカルがはっきりしない合成音でがっかりとの評が多い。
ここで少し寄り道をして、もう少しSmurfのサントラを見てから、しんちゃんに戻りたい。
映画Smurfを配給しているパラマウントについて少し補足しなければならない。というのも、アメリカ映画産業は、財政面で軍需産業と結びつき、象徴面ではセクシズムや暴力助長を批判されてきた。また資本面では映画・テレビ・ラジオ・雑誌といった文化発信を独占的に支配するメディア・コングロマリットを形成している、と2006年頃から問題視されてきた。ここ数年はGAFAのようなIT企業による寡占が問題になっているけれど、ちょうど今年はパラマウントとSkyeMediaが合併してParamount Skymediaが誕生。(こちらの補足はトランプ政権で資金難に喘ぐアメリカ公共放送の報道を参考にしてほしい)
トランプがCBSに賠償金を支払わせている件も相まって、複雑さが増しますが、メディアのオーナーシップと表現の自由について少しだけ思いをはせていただき、もう一度Smurfのサントラ、Roc Nationに話を戻します。われわれは、自分だけではわれわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、(中略)本性上、他者とのかかわりと共同関係を求めるように導かれる~(略)
ちなみにロックは最大限の便宜を引き出すのは神の意図だというふうに捉えているのですが、クレヨンしんちゃんの映画で鼻に刺さる紙というのも、最大限の能力を引き出す作用があるのでちょっと面白い(神と紙)です。「社会の発展=より進化し洗練されること」を善とし、神の意図とみなすキリスト教的な視座※※に照らすと、紙との闘いがインドに置かれていることが非常に興味深い。
ボーちゃんは、自分のありたい姿(鼻水が垂れていない、てきぱきしたできる男)を望み、紙に導かれて暴走します。それは、みんなでインドで一緒に踊る、楽しく一緒に遊ぶという春日部防衛隊の共同体の理念と衝突してしまいます。すると、映画の流れ(ボーちゃんの暴走とそれを抑止しようとする春日部防衛隊)と、個人の欲求から市民社会が成立に至った経緯は、パラレルでとらえることができるようになります。そのためには、「自由」と「自分勝手」の違いについておさえておかねばなりません。完全にヘーゲルです。なんて哲学的で高尚で難しいんだ、クレヨンしんちゃん!と思うと同時に、このことは私たちが、おいしいカレーを食べたかったり、かっこよく一番グレイトな存在になりたかったりする欲望とその調整という日々の暮らしそのものなのです。
ヘーゲルは、自由(freedom:freiheit)と身勝手(arbiturary:Willkür)を区別しています。リベラルな現代社会のなかで自由とは、選択として理解されがちです。このことについてYuk Huiは"Machine and Sovereignty"のなかでヘーゲルのWorld Spritについて触れ次のように書いています。(私の試訳です、ご容赦を)
もし、自由を選択(ないしは豊富な選択肢から選べること)であると理解するならば、われわれは未だもって意図的な参加と純粋な消費との間をさまよっているといえる。今日のマスメディアが甚大な影響を与えていることは、まさにこの文脈においてである。そしてもし、民主主義を、代議士を選ぶ自由だと理解するとしたら、そのような民主主義が有効なのは個人の利益や好みが優先される市民社会の視座からとらえたときのみである。
そこでヘーゲルは、市民社会が、特定の利益関係者によって強く影響を受けて、身勝手にならないように、主観と客観の双方で内省し、理性的な決定をすることが自由であるとしていると思われます。(Yuk Hui難しくてわかんないから自信がないよ!)
GenXにしか伝わらないかもしれませんが、例えば1996年のイギリスの映画「トレンスポッティング」の冒頭は、現代社会における選択の自由と理性(またはその欠如)を鮮明に訴えているように見えます。
ひょっとすると、ボーちゃんの人格かもしれない鼻たれを変えるには、偶然鼻に刺さった紙の力ではなく、鼻水を外に出して、習慣によって体質改善することだろう、もし変えることがボーちゃんにとって必要であれば。(Hegelianの皆さん、お判りいただけますでしょうか)
モダンでリベラルな生活は、好きなものを選んで手に入れることであり、欲というのは本性と関係していると仮定し圧するよりも調整してGETするのが善しとされるところですが、欲望や衝動に従った任意の選択は暴君さながらであり、そうならないように理性的な判断をすることで自由で快適で安全で平和な共同体をつくって暮らしましょう。このようにクレヨンしんちゃんを読むと、春日部防衛隊は理念としてはかすかべエリアを守る武装しない、支配関係のない、各人の欲求を満たす調整しより豊かな楽しみを得るちっちゃな市民社会の芽生えのようにもみえてかわいい。
※これはヨーロッパ、これはインド文化、と名指す行為は、あんまり好ましくないと思っているのだが、今回話したいことを伝えるうえで、このような名指しになってしまった。
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