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2025年9月2日火曜日

映画クレヨンしんちゃんから読む~暴君の恣意性をめぐって

 しばらくまえに「十番目のミューズ」(片岡大右)を読んだ。私自身は、自分をポップカルチャーの虜だと見なす一方で、この種の批評で参照されるメジャー映画をことごとく避けて暮らしている。好みの問題で、みんなが大好きなポップカルチャーよりも自分の関心は少しずれているし、殺し合いが描かれる作品やミソジニーを感じる日本アニメが苦手だからか、『鬼滅の刃』も目にしないままである。「みんなが好き」と評価されるものに、なんとなく全体主義っぽさを感じてしまい、つい逃げてしまう。(そのせいで、ヒップホップ好きなのにKendrick Lamarが苦手、というややこしい事態になる。)結局は私の好みであり相対的なものなので、自分でもどう判断しているのかよくわからない。

参院選が終わって政局の安定もただならない中迎えた8月に公開となった『映画クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ』を映画館で観た。せっかくなので、このおバカ映画について、あくまで私の感覚と解釈で、賞賛の批評を試みたい。


同作品の舞台となるのはインドの架空の町。なにやら、春日部市と新たに姉妹都市交流協定が結ばれ、その一環で春日部市が記念に子どもダンス大会を開き、優勝チームがインドの姉妹都市での大会に出場できるというあらまし。

このところ世間(日本)では、一部に"外国人問題なるもの"が選挙の争点としてでっちあげられ、トランプ大統領さながらに自国民ファーストを擁護・支持する現象があったりして、私にとっては気味が悪かった。特に気味悪く感じたのは個人が自らの立場を安定させるため自国を擁護する姿である。この短絡的な思考は、間にある文脈を十分に検討することなく突如、自身と国とを関連付け、国家の単位を強化し、経済や安全上の理由から外国(外国人)を脅威とみなし敵対する。そんななか、本作品では、「姉妹都市」―国家の境界線ではなく「市」という自治行政区に収斂され、市民間の文化的な交流による相互理解を促進する―というビジョンを背負った国際政治上の用語が、話の展開の起点になっていることに心が洗われる。幼稚園児も保護者も、インドに行って踊りたい!とダンスの準備や練習に励む。ここでいう「インド」という語が参照するのは、国家というよりも、インド文化圏を表している印象だ。ちなみに、相手自治体の名前はハガシミール州ムシバイという名なんだけど、痛くなる場所を歯にしているのは偉かったのではないか。(賞賛のハードルが低くて申し訳ない。)

ところで、夏休みに合わせて子どもや家族向け映画を公開するのはアメリカも同じ。日本では秋公開予定の"Smurfs "(邦題『劇場版スマーフ/おどるキノコ村の時空大冒険』、配給: Paramount Pictures)。ベルギーの漫画を原作とし、キリスト教的な概念を色濃く反映している印象があるが、サウンドトラックにはインド文化圏の風が吹きまくっている※。まずはこのミュージックビデオを見てほしい。


サントラを手掛けるのはRoc Nation(Jay-ZらのRockafellaレコーズを思い出してくれ)の共同創業者であるTY-TY Smithで、Shabz Naqviと「Desi Trill」というヒップホップと南アジア音楽を掛け合わせたプロジェクトをプッシュしている。ビデオが公開されたのは、DOGEとトランプ大統領令が吹き荒れた4月。アメリカの高等教育機関ではこれまでダイバーシティ推進を進めてきたけど、再びトランプ政権になったことで「ダイバーシティ」という言葉を控えざるを得ない、というようなニュースが飛び交っていた時期。

「Higher Love」の歌詞は、天国とか救済とか愛とか、キリスト教的な意味を負った語が多いけれど、バングラデシュの言葉で歌っているパートもあって衝撃。思いっきりダイバーシティである。かつて2000年代前半、Daddy Yankee, シャキーラやサンタナ、ジェニファー・ロペスといったアーティストがスペイン語のシングルやアルバムをリリースして大ヒットしたことがあった(例えば、スペイン語のアルバムでシャキーラがグラミー賞をとったのが2006年。大規模な移民のデモがあったのもその頃)。ちなみにサントラに入っているリアーナの歌は、3年ぶりの新曲で期待されていたけど、ボーカルがはっきりしない合成音でがっかりとの評が多い。

ここで少し寄り道をして、もう少しSmurfのサントラを見てから、しんちゃんに戻りたい。

映画Smurfを配給しているパラマウントについて少し補足しなければならない。というのも、アメリカ映画産業は、財政面で軍需産業と結びつき、象徴面ではセクシズムや暴力助長を批判されてきた。また資本面では映画・テレビ・ラジオ・雑誌といった文化発信を独占的に支配するメディア・コングロマリットを形成している、と2006年頃から問題視されてきたここ数年はGAFAのようなIT企業による寡占が問題になっているけれど、ちょうど今年はパラマウントとSkyeMediaが合併してParamount Skymediaが誕生。(こちらの補足はトランプ政権で資金難に喘ぐアメリカ公共放送の報道を参考にしてほしい)

トランプがCBSに賠償金を支払わせている件も相まって、複雑さが増しますが、メディアのオーナーシップと表現の自由について少しだけ思いをはせていただき、もう一度Smurfのサントラ、Roc Nationに話を戻します。


もっぱらJay-Zがしてきたことというのは、実演家としての成功だけでなくビジネスマンとして、レーベルをつくり、スポーツチームを所有し、音楽配信のプラットフォーム事業を始める、所有権を強化していくアプローチでした。このようなアプローチに至ったのは、アフリカ系アメリカ人がエンターテインメント・カルチャー分野において強いコンテンツ発信力を持ちながらも、構造上の問題から、経営にかかわる意思決定者でもなく所有者でもないために不利益を被ってきた(例えば、ステレオタイプを助長するような描写、実演に対する一時的な支払を受け取っていたが、印税による長期的な資産形成を阻まれた、など)という経緯があります。デジタル封建主義という用語が出回って久しいですが、NBAでもヒップホップでも、地主と小作の関係のような構造的問題が共通して存在していたからこそ、Tidalを買収し、アーティストがプラットフォームを共同で所有するビジョンを示したという流れがあった。で、そういうお仲間のRoc Nationなので、Desi Trillみたいな自由な発想が生まれてくると思います(最後急に雑なまとめになった)。Roc Nationは、ユニバーサルミュージックとパートナ関係にあります。

さて、春日部防衛隊に話を戻しましょう。映画では、いつもぼーっとしてて心優しいぼーちゃんが、紙の力で暴君に変貌してしまいます。不思議な紙が鼻の穴に刺さると、ぼーちゃんの鼻水は出なくなり、刺さった人の欲望を実現する強いエネルギーが沸き起こる、というのもの。ぼーちゃんには、もっと力強く、てきぱきした人気者になってみんなの注目を浴びかっこよくいたいという欲望がありました。

暴君となるボーちゃんを支えるのが最新テクノロジーと金にものを言わす連続起業家で億万長者のウルフ。金持ちが暴君を支える絵は、思い当たる節がありますね…こちらも億万長者が暴君を相棒にしたい、という一方通行な感じがあります。

ウルフが最強の相棒を求める様はリチャード・フッカー(Richard Hooker, Of the Laws of Ecclesiastical Polity) を引用し、統治と人間の本性について語るジョン・ロックを彷彿とさせます。植村邦彦「市民社会とは何か」(p52)は次のように添えています。
われわれは、自分だけではわれわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、(中略)本性上、他者とのかかわりと共同関係を求めるように導かれる~(略)

 ちなみにロックは最大限の便宜を引き出すのは神の意図だというふうに捉えているのですが、クレヨンしんちゃんの映画で鼻に刺さる紙というのも、最大限の能力を引き出す作用があるのでちょっと面白い(神と紙)です。「社会の発展=より進化し洗練されること」を善とし、神の意図とみなすキリスト教的な視座※※に照らすと、紙との闘いがインドに置かれていることが非常に興味深い。

ボーちゃんは、自分のありたい姿(鼻水が垂れていない、てきぱきしたできる男)を望み、紙に導かれて暴走します。それは、みんなでインドで一緒に踊る、楽しく一緒に遊ぶという春日部防衛隊の共同体の理念と衝突してしまいます。すると、映画の流れ(ボーちゃんの暴走とそれを抑止しようとする春日部防衛隊)と、個人の欲求から市民社会が成立に至った経緯は、パラレルでとらえることができるようになります。そのためには、「自由」と「自分勝手」の違いについておさえておかねばなりません。完全にヘーゲルです。なんて哲学的で高尚で難しいんだ、クレヨンしんちゃん!と思うと同時に、このことは私たちが、おいしいカレーを食べたかったり、かっこよく一番グレイトな存在になりたかったりする欲望とその調整という日々の暮らしそのものなのです。

ヘーゲルは、自由(freedom:freiheit)と身勝手(arbiturary:Willkür)を区別しています。リベラルな現代社会のなかで自由とは、選択として理解されがちです。このことについてYuk Huiは"Machine and Sovereignty"のなかでヘーゲルのWorld Spritについて触れ次のように書いています。(私の試訳です、ご容赦を)

もし、自由を選択(ないしは豊富な選択肢から選べること)であると理解するならば、われわれは未だもって意図的な参加と純粋な消費との間をさまよっているといえる。今日のマスメディアが甚大な影響を与えていることは、まさにこの文脈においてである。そしてもし、民主主義を、代議士を選ぶ自由だと理解するとしたら、そのような民主主義が有効なのは個人の利益や好みが優先される市民社会の視座からとらえたときのみである。

そこでヘーゲルは、市民社会が、特定の利益関係者によって強く影響を受けて、身勝手にならないように、主観と客観の双方で内省し、理性的な決定をすることが自由であるとしていると思われます。(Yuk Hui難しくてわかんないから自信がないよ!)

GenXにしか伝わらないかもしれませんが、例えば1996年のイギリスの映画「トレンスポッティング」の冒頭は、現代社会における選択の自由と理性(またはその欠如)を鮮明に訴えているように見えます。


ひょっとすると、ボーちゃんの人格かもしれない鼻たれを変えるには、偶然鼻に刺さった紙の力ではなく、鼻水を外に出して、習慣によって体質改善することだろう、もし変えることがボーちゃんにとって必要であれば。(Hegelianの皆さん、お判りいただけますでしょうか)

モダンでリベラルな生活は、好きなものを選んで手に入れることであり、欲というのは本性と関係していると仮定し圧するよりも調整してGETするのが善しとされるところですが、欲望や衝動に従った任意の選択は暴君さながらであり、そうならないように理性的な判断をすることで自由で快適で安全で平和な共同体をつくって暮らしましょう。このようにクレヨンしんちゃんを読むと、春日部防衛隊は理念としてはかすかべエリアを守る武装しない、支配関係のない、各人の欲求を満たす調整しより豊かな楽しみを得るちっちゃな市民社会の芽生えのようにもみえてかわいい。

本映画の主たるポイントは以上ですが、気に入った3点についても触れておく。

ここからは見どころのネタバレになります。

●みさえの自分語り


みさえとひまわりがフィーチャーされるシーンで、みさえが自分語りの歌を歌うんです。この部分は、私のような視聴者にとっては、個人ー家庭ー統治(主権)への線をつなぎ、思いを馳せるのに重要なシーンです。全マザー&フェミニストカウンセラーの多くが絶賛するであろうこのシーンは、みさえ個人がこの戦いに自分をどう位置付けているか力強く語られてて素敵。誰かLudacrisのMove Bitchの反撃ソングとしてつないで流してくれないだろうか。

●現代テクノロジーが入っている

顔認証、位置情報、SNS、そしてBoston DynamicsのSpotっぽいロボットなどが登場し、歌と踊りとカレーだけじゃないインドが描かれていてよい。

●ひろしのトップガンごっこ

ひろしがDanger Zoneをテキトーな英語っぽい日本語で歌います。このシーンのために権利処理したと思うと頭が下がる。(東京国際映画祭で毎年テレビ朝日の近くでMPAが著作権セミナーやってるだけある)

ハリウッドで一番かっこいいを規定するようなトム・クルーズのシーンを、ほにゃらら的な英語でひろしが歌うの、言語とかかっこよさにおける周縁(すまん,ひろし)が、中心的に描かれるシーン。このことに照らして、Smurfの挿入歌が非英語で歌われることを思い出すと、今度はアメリカの映画館で映画を見る人が、バングラデシュの言葉を、ほにゃららで口ずさむことになるんだ。

2025年、政治で映す社会の様と映画の映す世界は、ますます不一致なのに、どっちもリアリティなんだなぁ。なくとも後者を「ある」と認めることが、いま私たちにできることだ。

※これはヨーロッパ、これはインド文化、と名指す行為は、あんまり好ましくないと思っているのだが、今回話したいことを伝えるうえで、このような名指しになってしまった。

※※ここではそのように記したが、キリスト教的な視座のなかでも、なにが善い開発なのか、ということは直近100年さらに内省されており、さらにさかのぼっても、啓蒙期においては(ロックのようなキリスト教的自然思想というより、キリスト教の背景をもつ世俗化した社会道徳、哲学としてとらえるべきなんだろうけど、日本にいる自分からみれば、どっちもある程度キリスト教と近いと雑に捉えさせてもらう)ファーガソンが洗練の効果を「情念の偶然的な悪用を除去すること」そして、そこから、個人が公共善を自らの主たる目的として自覚すること、と導いているのでキリスト教だと開発すすめる、っていうのはちょっと乱暴だと自覚しているから補足しておく。本ブログの「もっと良くなること」シリーズでも扱っているテーマでもある。


2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。

2021年10月12日火曜日

巨大テック問題ーでも批判するマスコミも同じ

 フェイスブックの内部告発者が60ミニッツに出演し話題を呼んでいます。フェイスブックは、若い子たちへの有害性を知りながらも調査資料に蓋をし、コンテンツの掲示に関わるアルゴリズムについて利益を追求のために使い続けたことが批判されています。


ちょうど上院での公聴会の最中だったり、欧州が米巨大テック企業への規制を強めていたところという時勢的な状況も重なって、新聞テレビ等のマスコミはフェイスブックを大バッシング。国際的にも問題となっています。フェイスブックが独占的な立場を優位に利用して、ユーザのエンゲージメント(という名の従事時間)を最大化するよう、特に弱い立場にある10代への影響を知りながら、十分な対応をしてこなかったのは、そりゃーいかんだろう。(Timeの表紙はこんなふうになっちゃってる、キツっ)

一方、このメディアからの大バッシングに、冷めた目を向ける人もいます。(一言でいうと、もっとも基本的なU.Y.C.の事例) 落ち着いてみてみましょう。マスコミがフェイスブックを批判しているのは、「利益を最大化して、若者への悪影響を蔑ろにした」からですが、マスコミはその常習犯です。先ほどのTIMEの表紙がわかりやすいですが、今回の報道では、Facebook=ザッカーバーグとして象徴、一般化し、フェイスブックが悪い、というようにことをずいぶんと単純化してしまいがちです。これに対して、ウェブの世界の長老ともいうべきでしょうか(ブログ始めて27年だそう)Dave WinerはFacebookの内在する複雑性を単純化することを批判し、フェイスブックは我々だ、と投稿しています。その投稿の中では

「フェイスブックは言ってみればニューヨークみたいなものだ。もしタバコ会社の本拠地がすべてニューヨークにあったら、ニューヨーク市長が癌の元凶の犯罪者だって言っているようなもんだ。実際にフェイスブックはニューヨークの何百倍も大きいんだから、いろんなことがあるってことを理解してよ」と。

そして「フェイスブックがー」と言うのは焦点が定まらなさ過ぎので、その意味するところをしっかり検討するようにと口を酸っぱくして言っています。

Facebookとは・・・ 
1.マークザッカーバーグのこと
2.パブリックコーポレーションとしてのFB
3.60Kの従業員
4.サーバー、ソフトなどの技術
5. 広告プラットフォーム
6. ユーザコミュニティ
7.ウェブへと接続するもの
8. ビデオや画像、投稿、ライブ配信など、現在過去のあらゆるコンテンツのこと


マスコミのほとんども現在は、トラフィックの大部分やシステムをGAFAに頼っている(ニュースサイト訪問のほとんどはSNSからの流入)わけだし、確かにやっていることの構造はほとんど一緒です。

同様の指摘はこちらにも。

フェイスブックについて人よりもカネを優先する悪いと世間に伝えるなら、プレス(マスコミ)だって、同じことをしちゃいけないはずだ(でもしてる)。クリックベイト記事やとんでも記事でトラフィックを捻出したりしないってこと。

あと、面白かったのはコレ↓。新聞が、フェイスブック閉鎖や解体をに声を強めながら、この論争の最中、フェイスブックのサイトが一時アクセスできなかったことについて、咎める新聞記事に、どっちやねん!と突っ込みをいれている投稿。

新聞記事:「フェイスブックは邪悪!閉鎖すべき」
これも新聞記事:「フェイスブックは6時間落ちてたので、再発防止に努めるべき」(どっちやねん)

「私の言いたいことは、我々プレスが、他者にアカウンタビリティを求めるなら、自分自身についても、より高い水準を保つよう努めなければおかしい。もし、フェイスブックが人々のプライバシーを侵害していると、世間に伝えるならば、我々プレスも、同じように人々のプライバシーを侵害してはならないはず(だが、している) 」

内部告発から、単なるフェイスブック叩きに終始してしまうと、ことの論点を単純化しゆがめてしまい、本来議論すべき事柄や検討すべき選択肢がぼやけてしまうように見えます。

今回は、フェイスブックの内部告発により明らかにされた巨大テックの持つ強いパワーや不均衡について報道するはずのプレス(マスコミ)に対する批評をいくつか紹介しました。フェイスブックの問題をひも解いていくと、実はそれは自然と、インターネット以前の時代に、これまでマスコミが指摘されてきたことといくつかは同じ性質を持っている、ということに気づくと、マスコミ批評がこれまで展開してきた論点や規制のありかた(うまくいってないけど!)を巨大テック企業にも応用することができるというヒントをくれているように思います。

もちろん、編集者によるニュースの選別と、アルゴリズムにより自動化された選別や掲示というのは、背景の仕組みやその規模のインパクトが大きくちがうし、テック周りの法整備が未発達である、テクノロジーの複雑性への理解をほとんどの人は持ち合わせていないことから、巨大テック問題をどう解消すべきか、みんなで落ち着て議論するのがかなり難しい現状にあります。そうすると、今回の一件で、マスコミがフェイスブック叩きに走ることで、なんだか違う、インターネットの自由を侵す方向に走ってしまう可能性もあるということは留意しておかなければいけなさそうです。

次回は、くわしくそれ。

2021年3月19日金曜日

ミドルウェアはテックから民主主義を取り戻すか

珍しく、Foreign Affairsから。フランシス・フクヤマ(The End of Historyの人)や何人かスタンフォードのグループが、寡占テック産業がどのように民主主義の脅威となるか説明する記事を公開した。 

Foreign Affairs ビッグテックが民主主義を脅す

ビッグテックが民主主義を脅かす―― 情報の独占と操作を阻止するには ――フランシス・フクヤマ  スタンフォード大学 フリーマン・スポグリ国際研究所シニアフェロー バラク・リッチマン  デューク大学法科大学院教授、経営学教授 アシシュ・ゴエル  スタンフォード大学教授(経営科学)...

ここ数年英語圏では、テクノロジー企業が様々なコントロールパワーを持っていることへの批判が増大し、「テックラッシュ(techlash)」と呼ばれるテクノロジー企業の台頭へのバックラッシュを意味する造語が生まれた。同時に、巨大な力を持つプラットフォーム企業はGAFAという四文字となって、GAFAに対する批評がIT専門誌だけでなく、AtlanticやSalonなど現代文芸系の媒体で展開されてきた。こういう流れの中で、フランシス・フクヤマのような著名な政治経済学者が、民主主義の脅威という文脈でテクノロジー企業の寡占とその対策について執筆するのは自然だ。

記事の元となったのは、フランシス・フクヤマらによるスタンフォードの「プラットフォーム・スケール」ワーキンググループのホワイトペーパーだ。

Stanford Cyber Policy Center | Report of the Working Group on Platform Scale

The Program on Democracy and the Internet at Stanford University convened a working group in January 2020 to consider the scale, scope, and power exhibited by the digital platforms, study the potential harms they cause, and, if appropriate, recommend remedial policies....

Foreign Affairsの記事では、アメリカが直面する巨大テック企業がいかに民主主義を脅しているか、その脅威に気づいた規制当局がここ数年になって訴訟を起こしていること、こうした規制の強化は、テクノロジーの進化のペースにあまり効果を持たないこと、イノベーションの余地を残そうと解体してもまた同じようなことが起こること、と既存の取り組みの方向性が不十分であることをわかりやすく示している。これについてはその通りだと思う。

そして提案するのが、「ミドルウェア」なのである。
Image: Francis Fukuyama, Barak Richman, Ashish Goel,Roberta R. Katz, A. Douglas Melamed,Marietje Schaake,"REPORTOF THE WORKING GROUPON PLATFORM SCALE", STANFORD UNIVERSITY



雑に説明すると、プラットフォームとユーザの間にミドルウェアをかましましょう、それによってユーザが主体的に意思決定ができる、ないしはミドルウェアは機能として信頼性の高い情報をラベリングする、などというものだそうである。正直申し上げてシステムの絵としてしっくりこないのだが、ひとまず記事の描くミドルウェアを私の解釈に基づいて説明するとすればつぎのようなものがあると考えられる;

①プラットフォーム企業がミドルウェアを提供する。
ミドルウェアが情報に適切なラベル付けをする(例えば未検証情報のラベルをつけるなど)ことで、ユーザはミドルウェアを通じて信頼度の高い情報を入手できる。

②独立したミドルウェア提供会社がミドルウェアサービスを提供する。
ユーザの志向に合わせて、GAFAのコンテンツの上位に表示されるアイテムの重みを変動させるミドルウェアを提供する。例えば、国産のエコな商品だけを上位に表示させるなど。

③学校や非営利機関がミドルウェアを提供する。
地域の教育委員会が地域の出来事に比重を置いた結果を表示させるミドルウェアを提供するなどの例が考えらる。

①~③のいずれのパターンであっても、実現するうえで満たさなければいけない次のような要件があると考えられている。
  • まず、ミドルウェア提供側が技術的な透明性を持たなければならない。
  • またミドルウェア提供側が巨大な力を持つプラットフォーム上の別レイヤーとならないような仕組みが必要である。 
  • また、政策面ではプラットフォーム企業がAPIを提供するように義務付けなければいけない。 
  • さらに、ミドルウェアの健全な市場競争のために、プラットフォームへのアクセスによってミドルウェアにその収益の一部が入るようにしなければならない。(つまり、GAFAの利益をミドルウェアとシェアする)その共益がまともな関係になるよう政府が監督する。
正直、夢物語のように聞こえる。

この記事への反応をみると、テクノロジーによる民主主義への脅威や寡占問題の本質を詳細に定義していると評価するコメントが目立った。一方で、「ミドルウェア」という技術的な解決策については、あまりコメントがなかった。どうしてゆめっ物語のように聞こえるかというと、かつてミドルウェアのようなサービスがあったような気がするんだけど、GAFAにつぶされたんじゃなかったっけ?

その記憶を少したどってみよう。

そうでした、そんなようなサービスありました。
(ミドルウェアではなくサードパーティでしたが)

記憶①FriendFeed(その後Facebookが買収)
いろんなソーシャルメディアのフィードを一度に見れるサービスだった。Facebookに買収されてサービスは停止した。
@akihitoさんのブログの画像をお借りしています

記憶②Power.com

2008年頃にあったブラジル発のソーシャルメディアのアグリゲーションサービス。プラットフォームを跨ってコミュニケーションできるツールだった。が、著作権侵害等でFacebookに訴えられる。Power.com側はFacebookを外したが、裁判中にサービス終了。

記憶③Meebo(Googleが買収)
いろんなプラットフォームを跨いでチャット・メッセージができたが、のちにGoogleが買収してサービス終了


記事は決してサードパーティーサービスを指しているのではなくミドルウェアを指しているので、この記憶というのは直接記事に疑いをかける論点にはならないが、どうもミドルウェア解決案が腑に落ちない・・・。

記事中のミドルウェアは、オープンAPIのことを指しているのだろうか、と読んでいる最中に思った。しかし、ホワイトペーパーのほうにもオープンAPIによる解決策というような視点は出てこない。あくまで、プラットフォームのAPIを使う、なんらかの主体が提供するミドルウェアのようである。

そこに私はますます困惑。そもそもAPIを義務付けるぐらいなら、一層のこと相互運用性とオープンAPIを義務付ければプラットフォーム企業と共益関係を結ぶミドルウェア企業を制御しなくてもいいのでは・・・。

このあたりの理解を悩んでいたところ、TechdirtのMike Masonicが明確な指摘をツイートしていました。

ちょっと、安心。

フランシスフクヤマの指すのミドルウェアとはちょっと違うけれども、ユーザが選択するというような意味あいでは、元FCCのTom Wheelerが支持するOpen APIの形があるのを思い出した。これ聞いたのけっこう前だぞ・・・。

 

How to Monitor Fake News |Opinion NYT Tom Wheeler

This is true. And one effective form of information-sharing would be legally mandated open application programming interfaces for social media platforms. They would help the public identify what is being delivered by social media algorithms, and thus help protect our democracy...


しかし、Tom Wheelerさん、最近では、プラットフォーム規制監督庁(DPA)をつくるのがよい、というようなことも言っているようである。え・・・。


もう少し、テック企業のモノポリーについて、暗くならないように考えてみたいのだけど、いろいろてんこ盛りなので、次回に。

2020年1月30日木曜日

新型コロナウイルスと誤情報の拡散

香港大学のジャーナリズム・メディアスタディーズ研究所がアジアニュース情報教育者ネットワークと協働で立ち上げたファクトチェックのためのプロジェクトで、新型コロナウイルスに関する誤情報をとりまとめてくれています。

香港大学が、2月17日まで開講延期となっていることを受けて、手軽にニュース等をキュレーションすることができるFlipboardというアプリを使って、新型コロナウイルスについての検証記事を集積したもので、英語に限らず、フランス語や日本語の検証記事も寄せられております。

現在のコロナウイルスに関するネット上の言論は、誤情報の温床となる要因が整っています。まず、ウイルスが新型でありわかっていないことが多く、情報が欠如していることです。これは、マイケル・ゴールビーウースキーとダナ・ボイドらマイクロソフトの研究者が、誤情報の原因環境を分析したペーパーで2018年に「Data void」(データが空である状態) と名付けています。

Data Voids

Michael Golebiewski of Microsoft coined the term "data void" in May 2018 to describe search engine queries that turn up little to no results, especially when the query is rather obscure, or not searched often.
実際にvoid状態にあったかどうか、検索トレンドを確認してみましょう。2020年1月の途中から急遽検索ワードとして上昇したのであって、新型ウイルスであることからすれば当然ですが、それまでは検索されておらず、それらのニーズを満たす検索結果も欠如していたことがわかります。

二つ目の要因として、異文化・多言語などの国際的な要因です。ウイルスは国境を越えて影響をもたらします。初期の発症は中国であり、中国語の一次情報を得て読解することが難しいという環境にあります。その後はWHOの公式見解などが英語で発表され、フランスやオーストラリアなど各国の対応策についても報道されるところとなります。いずれも国境・言語・文化を越えた解釈が必要です。武漢がシャットダウンされるとより、現地の情報を収集しづらくなってしまし、その一方でSNSでは現地人と自称する出所のわからない動画などが拡散されています。よく誤情報の温床となる事件速報に対する消費者向けガイドとしてWNYCがまとめた速報ニュースを見るときの9つの心得には、「事件と距離の近い地元メディアの報道に着目しよう」「複数の情報源を比較しよう」「最初は報道機関も間違えるということを意識しよう」などと書かれています。

しかし武漢が地元だという人以外にとって、現地メディアの情報を取得するのはハードルが高すぎますし、中国の報道の自由を考えると地元メディアや現地語ニュースさえも信頼しにくい状況にあり、ますますVoid状態を加速させます。AtlanticのHow to Misinform Yourself About the Coronavirus「コロナウイルスについて誤情報を受け取る方法」という逆説的な記事では、アメリカ英語圏において拡散された誤情報についてその背景として「ほとんどのアメリカ人は中国語を理解しない」「WeiboやWeChatを利用していない」ことから、WeiboやWechatを使って情報収集し英語でツイッターに投稿するだけで、塵が金の価値になるというメディア環境についても触れています。さらに米中二国間の政治経済的な競争も忘れてはならない要因の一つです。

記事では、公衆衛生学の研究者で博士号を持つユーザーがツイッターに投稿したSARSよりも危険だと主張する論文を読んだリアクションコメントが大いに注目されてしまい、のちにその論文に査読がなかったことや、配慮すべき数値や環境が不十分であることを指摘されツイートを削除しているのですが、誤解を招く投稿のほうが、指摘の事実を述べるほかのユーザの投稿より圧倒的に拡散されてしまっていることも罹れています。

ほかに、Buzzfeedでも指摘されていますが、身元不明のツイッターアカウント(Youtuberらしいが偽名)が、ひたすらコロナウイルスに関する動画をあちこちからリップして再投稿し、多くの人たちが情報源として誤って信頼してしまっています。

近年、誤情報の拡散に歯止めをかけようと伝統的な報道機関だけでなく、ネットニュース企業、プラットフォームも様々な対策を取り組んでくれています。例えばAFPは、コロナウイルスの誤情報の問題についてまとめた記事を公開しています。(正直、書き方はイマイチだと思う)。Buzzfeedは、ネットの誤報、誤情報と戦い続けてもう15年以上の経歴を持つ、打倒・誤情報のゴッドファーザーとも言えるRegret the Error創始者のCraig Silvermanが率いていることもあり、戦略的にも、いわゆる”Debunk”記事に力をいれています。

Youtube/Googleは、フェイクニュースや陰謀論対策として、2018年に「authoritative contents」の導入を発表して、信頼できる報道機関による情報を検索結果に対して優位に位置づける仕組みを始めましたが、今回も新型コロナウイルスについてより権威付けされた情報が結果に反映されるよう動いているようです。

Facebook, Google and Twitter scramble to stop misinformation about coronavirus

The rapid spread of the coronavirus in China and around the world has sent Facebook, Google and Twitter scrambling to prevent a different sort of malady - a surge of half-truths and outright falsehoods about the deadly outbreak.
2018年当時このauthoritative contentsの発表を聞いたときは、対策措置として動いてくれたことに安堵する一方、インターネットが目指したメディアって何だったんだろう…というちょっとした心の穴ができました。だって、その語彙といい、なんかもうthe end of the internet as we know it ネットのおしまい感が半端なくって、どう受け止めたらよいやら、という感じでしたし、今も受け止め方がわかりません(苦笑)。ちなみにAuthoritative Cotentsの仕組みは、例えば陰謀論者がよく「人類の月面着陸は嘘だった」と主張しますが、「月面着陸」と検索したときに、ブリタニカ国際大百科事典の説明を表示させ、さらに検索結果の動画のうち、信頼できる報道機関のアカウント(USA TODAYやNASAなど)の動画を上位にする、というものです。いや~陰謀論者は「Googleも一緒に隠ぺいしている!」と逆に燃えそうですが…。新型コロナウイルスはまだ百科事典にも載ってないでしょうし、英語と中国語で全く別のプラットフォームを使う別の言論空間でどのくらい効果が発揮できるものかなぁ、と💦

YouTube has a plan to boost "authoritative" news sources and give grants to news video operations (2018)

Google-owned YouTube on Tuesday announced a few improvements it intends to make to the news discovery and viewing experience. The platform has had a bit of a bad run recently: surfacing videos that accuse mass-shooting survivors of being crisis actors, hosting disturbing videos targeting children, ...


ファクトチェック記事も様々です。(例えば、INSIDERの記事は、アドブロックなしにはとても読めないぐらい広告が貼られています・・・)誤情報は悪、ファクトチェックは善と完全に決めつけずに、それぞれの媒体の特徴を配慮しながら読解するのがいい訓練になるように思います。(場合によっては書き方が不適切なファクトチェック記事は、かえって誤情報を拡散するとも言われています)

そして、生真面目に情報の真偽を確かめたいという場合、実際にどんなプロセスを踏めばいいのか、FirstDraftのチェックリストを見ておきましょう。(日本語字幕)

2011年8月1日月曜日

The Independent Television Service (ITVS) 20周年!

インディペンデントのドキュメンタリー作家を公共メディアでサポートするThe Independent Television Service (ITVS) が20周年を祝って選りすぐりのドキュメンタリーをオンラインで放送しますhttp://itvs.org/indies-showcase(一応アメリカ国内しか見れない、ということになっているみたいですが)

公共メディア、多様な意見を支えるITVSのページには、パブリックメディアで働く人たちの声が短い動画でまとめてあります。

http://itvs.org/indies-showcase/media-leaders


チェックしてみる甲斐があると思うので是非!