日本のジャーナリズム全体の底上げを目指して、市民記者、フリー記者の皆さんの活動支援を積極的に行って参ります。8bitNewsではご賛同頂いた皆様からの寄付をお待ちしております。ぜひお力をお貸し下さい。8bitNews 8bitne.ws/Z0HDOl
— 堀 潤 JUN HORIさん (@8bit_HORIJUN) 2013年4月1日
大変すばらしい。ぜひ頑張ってほしい。期待する。
Okay, here's what I really feel about all this.
Please note that this is nothing personal and I'm 100 % for whatever Jun Hori is up to, to make this country and the world a better place through Journalism. But he's ignoring a whole scale of issue in public sphere that he may need to learn from now on.
My language may not be appropriate for I'm dealing with my purest emotions.
First, I don't want no more of ex-NHK, former TV producers, ex-news reporter to represent or act like they are the leaders the movement of civic journalism. Your existing here alone is harming the ecosystem of what civic media thrive to be.
これまで、せき止めの部隊にいた人間が、そこから”降りて”、みんなでせき止めをあけよう、オープンジャーナリズムだ、などというのは、「砂場遊びのパブリックアクセス」なんかと同義な気がする。
市民メディアの会やパブリックアクセスのアドボカシー運動を見ていてうんざりするのは、彼らが語られるときはたいがい、「元NHK記者」、「元テレビプロデューサー」、「元アナウンサー」が登場するときだけだ。ほとんどの場合、”経験のある”こうした人たちが、一般市民がいまだ知らずしているアクセスする権利について声高に唱え、「今こそ市民が~」と言い張って止まない。
もちろん、彼らにあらがってしまえばせっかくのメディアへのアクセスの道がさらに停滞してしまうので、大声で異を唱えることは私はしないが(だからこの記事が一年以上蔵入りしていたわけ)、心の底では元既存メディア出身者で市民メデァイ代弁者のひとたちを張り倒したい気持ちだよ。元テレビ局の人たちが先頭切っているうちは絶対に市民のための市民メディアはできない。そんな革命がどこにあったかよ?
まるでここ数年のインターネット技術やその普及、ソーシャルメディアによって「誰もが情報の送り手となった」だなんて言っているけど70年代にはホームビデオにおさめられる映像が娘の運動会だけじゃないことをすでに知っていたし、もっと遡れば電波はこんなふうに管理されていなかったー無線ラジオが始まって管理され、その後自由ラジオやLow Power FM運動、プロメテウスラジオや海賊ラジオなど・・・Facebookページに行かなくても、ペンパルやミニコミ誌を通じて情報を入手することができた。もっとも、一般市民の取得した情報を糧にモンスターのように巨大化していったのはマスメディアのほうだった。あなたのかわいい子犬がしっぽにじゃれてぐるぐる回転するのが面白いからビデオに収め、それをテレビ局に送ったこと、お昼ご飯の残り物片手に世論調査の電話に答えたこと、今日も残業か、とつぶやくかわりに芸能人の離婚騒動について職場で同僚とはなしたこと、カラーコンタクトをつけて染色したこと、ディオールの広告に登場する女優の肌を手に入れるために化粧品を購入したこと、鳥インフルエンザや増加する凶悪犯罪に恐怖心を覚えること・・・これらのいずれかについて身に覚えがあるのならあなたはモンスターにタダで餌をあげてくれていたのだから。あなた自身をよりみすぼらしい環境に陥れ、消費による幸せを手に入れ、ルール以上に厳しい社会規範を見せつける装置を見つめてくれたおかげでこのモンスターはよく育った。あなたなしにモンスターは存在し続けることができないーだからモンスターは、あなたが強力なパワーの持ち主だと最初からわかっていた。それを今になって、テクノロジーだ、イノベーションだ、ボトムアップだ、だなんて聞いていられない。
怪物の懐から降りてきた彼らは、またも私たちに餌をせがんでいる。時として托鉢の僧侶の姿を取るが。彼らはこう言う。「私は僧侶として仏の道を通じ人々の生活がよくなるためにこれからの人生を注ぐことにした。ぜひこの旅路にあなたも参加してほしい。なぜなら変革を起こす主役はあなたなのだ。」と。
托鉢の僧侶は旧システムに頼っている。彼らは伽藍の外の人々が耳や口を持っていることを知っていたが、まさか意見を発したり考えたり、新しいアイディアを交換し合っているとはゆめゆめ知らない。旧システムに頼る僧侶は、余ったイチゴで作りすぎたジャムではなく、現ナマを与えよと言っているのだーどこの仏の道に金が要ったか?(私が知る限りには餞別だけだ)。この俗世(旧システム)のものである貨幣に軸を置いたまま、悟りを開けるとは到底思えない。そして自分自身が主役になるために、どうして他人の懐をあたためなければいけないのか。
こうして悟りを開くことなく、道半ばに諦める僧侶は多い。これまでいくつもの自称「市民メディア」が日本で興り、音わずかに消えていったか。
彼らの役割は砂場を用意することでも、底上げすることでもない。底上げとはなんという言葉だろう!彼らにとって、我々は底側である。もしネットワークの意味することがわかっていればボトムアップなんて言葉は使えないだろう?
ここで個別の問題について触れたい。
オープンジャーナリズムとは、SNS・ソーシャルネットワークの発達に伴い存在が議論されるようになった概念で、従来、編集権を主張し特定の職業メディア人たちによって行わ れてきた取材、執筆・撮影、編集作業に、市民をはじめとした非メディア人が制作者の1人として関わる取り組みを指す。You cannot refer citizen as "non-media person". It's been long since Dan said "we the media".
ここからもわかるように、彼にとって市民というのは永遠に非メディア人なのだ。オープンジャーナリズムにメディア人も非メディア人もない。Participatory Journalismだったら、非メディア人って言ってもいいけど。その後ろのガーディアンを称賛する部分もまったくモンスターのプロットに気づいていないよ。マイクロタスク化して、オープンにすることで、労働が廃絶すると思ったか?
我々はもっと台所に焦点を当てるべきだ。それは私にとって関心ごとである。プロのジャーナリストにとって戦場が関心ごとであるように。
よろしく頼んだ。あなたが必要なのは托鉢でお布施から硬貨を集めることではない。托鉢に代わる行為、お布施にかわる行為をあなた自身が発明する必要があるー人々の協力と共に、だ。全てのジャーナリズムは同時にアントレプレナーである必要がある。お経を読むことではなく、他の人の頭の中にある道理を教えてもらうために、読み書きを教えることだ。