2025年2月21日金曜日

オニオンスープとジョルジェスク・レーゲン(もっと良くなることPart3、または、しないでおくこと )

年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。

 Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。

チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。


小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw

そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。

桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より 

 
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。

食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。

自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。

さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。

このような難しい考え事をするのには、バスタブに浸かるのがぴったりである。わたしにとって、とっておきのバスタブはColeman’s Bathtubだ。


「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。


そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。

ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。

奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。

生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。




2024年11月10日日曜日

いまどんな事態か―対立以外のなにか

その日の朝、まだアメリカ時間では投票終了にならないころ、女性大統領が誕生する可能性があるのかも、とわくわくした気持ちで家を出た。ところが、数えるほどしか女性がいない会場での登壇を終えた夕刻には、トランプの当選確実が騒がれた。就寝前、スマホでSNSを眺める。前日まで、セレブたちが投稿した応援コメント―そのほとんどは暗に、女性の身体の自由を顕示するように見えた―待ちきれない祝福モードは、戸惑い、悲嘆に変わっていた。Youtubeではトーク番組のホストが、皮肉まみれな失意と希望を笑いの種にするのを目にした。こう書くと、私はリベラルな友達に囲まれ、リベラルなコンテンツを消費する認識バブル世界に住んでいるように見える。そんな社会的構造に暮らす私の世界の認識論によれば、トランプの再選は起きえない、ということになるが現実は違う。



何が起きているのか、改めて考えてみよう。実は、私の周りにはトランプ支持者の友人が一定数いる。特に、本来自分がもっとも強いつながりを持っていたカルチャーのコミュニティは、近年トランプ支持に染まっている。昔から、陰謀論者が一定数いるコミュニティではあったが、そんな彼らの反権威主義的な思考が、すっかりトランプ支持に回収されてしまった。もともと話が合ったのに、ここ5年で、反ワクチンやQアノンとの連動し、男らしさと国粋主義が強化され、彼らと音楽のことを話すことはほとんどなくなってしまった。わたしがSNSで消費するコンテンツには、夫婦に関する強い保守思想があふれている。わたしは、疲れた時に、ヨーロッパのどこかの田舎で4人の子供を育てる身でありながら、小麦からパンを発酵させて焼いたり、パスタを粉からつくったり、ガラス瓶にフルーツを漬けて健康的なジュースをつくるそばかす美人を見て、「いいね」を押している。特に熱心な関心も持たぬまま、私が流し見している米国ドラマは、ラテンアメリカ系の主人公たちの自由恋愛を追っているようでキョーレツな保守思想の家族像を売っている。主人公の若い女性は、永遠の愛にあこがれているし、その兄弟のゲイも、パートナーとの結婚に至る。よく思い出してい見ると登場人物は、一人残さず学位不要のサービス業だ。部屋に落ちたごみを拾ったり、郵便受けに届いたピザのチラシを捨てたりしながら、たぶん私は、名前もろくだまし覚えていない登場人物たちがうまくいくことを応援している。このような世界に、トランプ政権は確実に誕生する。

 一夜あけると、世界中の友人たちが、アメリカにいる友人たちの不安を取り除こうと思慮したコメントを投稿した。選挙はいくつかある民主主義国家の執り行う手段のうち一つでしかなく、いくら公式がそれを否定しても、ほかの方法でケアを組織し実現することはできること、選挙の敗北は、負けを意味するわけではなく、大多数の民意が自身のそれと異なることを表していることにすぎないため、必要なのは彼らと共に求め実現するために動く必要を意味していること、これまでだって望みとことなる結果と対峙しながらもなんとかやってきたこと。そうした思慮深いコメントは『負けないで、あきらめず闘い続けて』とは書かなかった。あきらめずに闘い続けるのは、賢明ではなさそうである。ある友人は「選挙結果は問題ではなく、問題に対する症状である」として、闘うのはもうやめて、と呼びかけた。彼女の真意はこうだ。わたしたちは、選挙結果として表象するよりもずっと深刻な問題を抱えている。それは構造的な分断であり双方が互いの見解を聞き入れる機会がないことだ。 

 ここ2年くらい、「市民社会」について語る機会が増え、わたしは改めて市民社会は何か、集中的に考えてきた。一般的に、国連用語の市民社会は、政府組織に対するNGOと、営利企業に対するNPOとして解釈される。市民社会とは何か、知識を問うテストの選択問題であれば、NGOとNPOにマルをつければよい。ところが、読み進めていくと、別の解釈にたどり着く。市民社会の形成こそ、国家の形成、つまり国家が市民社会なのだ。場合によっては、資本主義社会こそ市民社会とも言える。関連書籍を十分に読み、市民社会の関係者と話す機会を持つまで、私はテストの暗記問題のように、市民社会とは、NGOやNPOを含むコミュニティを代弁するエンパワメント目的の主体としてカテゴライズしていた。しかし、実際の世界ではそのようなカテゴリーの主体が市民社会なのではない。本人の自覚の有無を問わず、わたしたちはともに社会を作っているのだ。ともすれば、その手綱は、個人―家族―国家―社会のように。これに私はぞっとした。

 第一次トランプ政権下の保守派判事による人工中絶の違憲判決、移民の強制送還といった出来事は、親しい人との関わり、個人の欲求、そして自分の身体に対する自律した意思決定に直接的に介入し、国家が持つ暴力装置ぶりをこれ見よがしに表した。それでもニュースで見聞きしただけでは、何が起きているかわからなかった。長い時間、私は「チョイス」について十分な意識を持たぬまま過ごしていた。都会での子育てや、新しいウイルス、子どもの代わりに選択をすることなどたくさんの不安を抱えながらそれらを無いものとして過ごしながらすごしていた。コロナで、ケア労働を担うはずの家族が来日しなくなって、家事育児とそれにかかわる金銭を一手に受けることになっても、不安な気持ちを正当化する理由はどこにもなかった。2022年、ウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのを見たときは、「一回きりの出来事でも許されないのだろうか?それともどういうことなんだろうか」とひどく困惑ししばらく陰鬱なきもちになった。

 国連会議に参加して市民社会についての解釈を試みるなかで私は、本で見つけたヘーゲルが市民社会について書いた次の一節をノートにメモした。
「具体的な人格、すなわち特殊的なものとして自己にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性との恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。―しかし、特殊的人格は、本質的にはほかの目標的特殊性との関係のうちにあるものとしてある。それは、各々の人格が他の人格によって媒介されるとともに、同時にまさに他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとして自己を通用させ、満足させるというようにしてである」
植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」)


 職業団体の仕事をしながら明るく過ごしていたけれど、内面ではすっかり困ったことになっていた。ウィル・スミスのニュースを見るころには、困りごとを人に話せるようになってきていたが、何から手をつけていいのかわからなかった。いくつかの前向きなヒントを組み合わせて、ずっと叶わなかった大学進学を果たしたが、精神的に追いやられたまま、年明けてしばらくするとパニックを発症してしまった。息抜きに、と子どもを連れて、田舎のファミレスに行ったときに、博多風もつ鍋が季節メニューで登場してるのを見てはっとさせられた。だいたいみんなが欲しがる、カレーやハンバーグを出す、セントラルキッチンで効率化するのがファミレスの人格なのに、どのようにしてこんなにも特殊なもつ鍋が入り込んだのだろう。下処理済みの安価なもつと、キャベツとニラを調味スープで加熱すればファミレスでもつ鍋は提供できる。ファミレスの洗練された技能と習慣が、博多風もつ鍋を提供するファミレスを実現したと思うと、平和で自由で望みが叶うそこは市民社会の塊に見えた。数年前、松屋がジョージア料理を出した時には何とも思わなかったのだけど、いま啜るおまけの味噌汁は、社会基盤安定の味わい。

トランプの勝利で、もうこんなとこには住んでいられない、という気持ちになるリベラルや、同じ親族でも政治的対立から、話すのが難しくなってしまうなど、ここ数年のアメリカは分断が激しい。TOEFLの読解問題でもつい、どういうイデオロギーのもと書かれた問題文か、文章の解釈に時間をかけて点数を落としたことがあった。どうやらテストは受験者の英語力を測ろうとしているのであって、政治的解釈の読解能力は問わないことに途中から気づき、それだけで数十点アップした(どこに気を使っていたんだわたし)。ここ数年、わたしは分断を前提に、それが何か、まず振り分けをして、適応するような態度で臨んでいたと思う。 


 「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって、自分一人で孤立して生活しているときに、我々のうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、…(略)…本性上、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」(Hooker 1989 (Lock) おなじく植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」より)

 システム思考について読んでいると、私たちの問題への対処の方法は、いまだ局所的な対応にとどまっていることを思い知らされる。システム全体を考えれば、そんな過ちをしたりするはずはないのに!コミュニケーションを扱う人間として、自分の無学さを思い知らされるばかりだが、どうも私たちはうまくコミュニケートしていないようである。問題の症状を消し去っても問題解決にはならない、という友人の言葉は、自分でもずっと気づいていたいくつかの現れに対する問題意識と重なる。 わたしはニュース記事を執筆して、日本で起きていることをより多面的に伝え世界に知ってもらおうとした。ところが、100本ほど書いた後、ニュースのフォーマットでは、理解が深まらないのだと体感を強めた。分かり合えないことが問題なのに。ヘイトスピーチと政治的分断を描いた村田活彦の詩「Sweet Words」に心打たれた。 



 保護者になって、およそ形骸化している、お礼やお礼へのお礼という関係構築プロセスが存在していることを思い知らされた。保護者同士や保護者と恩師の間など、感謝の意のプロキシーとして、お菓子とかを渡しあうのである。公教育を堂々と享受する家庭に育ったため、必要以上の礼品は、かえって迷惑かつ面倒という認識でいたから、大変に面倒である。「贈与」をもう一度訪ねる必要がありそうであるが、社会資本の構築に、別のプロキシーが入っていて、共助の本質からずれている気がしてならない。とくにこのクリスマスシーズン、そんな批判思考がはたらくのは私なら当然である。だけど、菓子折りも、学位記も、履歴書もパスポートもお金も、個人の欲求を媒介するメディアになる。 


 何かが国家で何かがエンタプライズでまた別の何かが市民社会である、という区分して切り離すのにもう限界があると思う。本当はしっかりと線をひいて意志があったろうに、社会生活のうちに私は見境をなくしてしまったので、昨年、自分はボーダーライン障害なのではないかと疑った。まだぐにゃぐにゃの思考だけれど、そうではなくて、私は全体としてとらえることを試みているはずである。しかもこの全体は、直線状の因果関係とはたぶんちがう。(よって、都合よくビールを売るための生産管理システムをどう円滑にするか、はいまだ腑に落ちていない)

ちょうどYuk HuiがテクノロジーとSovereigntyの本をオープンアクセスで出してくれていて、今読んでいるところ、ヘーゲルの精神を出発点にしていてツボである。同時にいくつかのことをしようとしているのでできていないのだけれど習慣に関する本や、社会資本に関する本と合わせて。 

そんなこんなで、 一応自分なりに考えて、コレクティブな暮らしをするところに引っ越し、PTAで運動クラブに入ったり、経費精算をマメにおこなうようになった。今週末は、部屋を照らすあかりと、きれいな水、ごはんを炊く電気鍋、あったかい布団が用意できました。

対立以外のなにかができるといい☮


2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。

2023年8月19日土曜日

AIが著作権侵害だというのは、あんときのアレ

 最近、ニューヨークタイムズがOpenAIを知的財産侵害で訴えるかどうか検討しているらしい、ということが話題になりました。あくまで社内弁護士がその検討をしている、という程度のことでニュースにするなるのかいな、と思うけれど、ちょうど同紙は利用規約を更新し、記事の本文や写真、画像のスクレ―ピングを禁止、AIモデルの学習に使うのを禁止したという動きもあり。世の中的には、新聞や出版関係の業界団体が、LLMの台頭に対して、知的財産の侵害だとして快く思っていない意見を表明していたことも。



AIがどうしてこんなにも優秀に仕事ができ、そして今後どう活用されていくか、眉間にしわを寄せながら抗議しているのは文芸などのクリエイティブに携わる人たち。独立系クリエイターは、そんなニューヨークタイムズの動きを支持します、とのコメントがツイッターでも流れてきた。

これをみていて、どうも私は首をかしげたくなった。なぜかというと、思い出したことがある。昨今のAIと著作権の話は、法的な論点は置いておいて、感情的な部分を見る限りには、なんども同じことを繰り返している気がするからだ。

あんときのアレ

最初に頭をよぎったのは、2001年のNew York Times Co. v. Tasiniだ。執筆者の組合が、ニューヨークタイムズや今のProQuest、LexusNexusを相手に著作権侵害で訴え、2001年に判決が下った。紙媒体むけに提供されたフリーランス作家の著作物について、出版社が作家の明示的な許可や報酬なしにそれらの作品を電子データベースに提供することを認められないとして、原告たちが1800万ドルの補償を得た。

その次はやっぱりなんといっても、ハフィントンポストがAOLに買収されたとき、アリアナ・ハフィントンのよしみやらなんやらで報酬なく書いていた執筆者たちが、ふざけんなよ、という気持ちになった時に起こした訴訟。これは退けられAOLが勝った。


うーん。ナイーブかもしれないけど、繰り返している。どうやって富むんでしょう、というテーゼについては、もうおなじみで浸透していると思うけれども、Jaron Laniarが「デジタル小作人」という言葉を使っている。つまりこのクリエイターたち、作家たちは、サイバースペースで小作人。

どうやって富むんでしょう、せっかく頑張ってつくったのに。という気持ちに関しては、一昨年前、画像生成AIのブームの際、わたしが書いていた下記の論考を今回あらためて掘り起こしてみる。

<ここから>
Stable DiffusionやMidjourneyなどのツールを使って、いわゆる「呪文」(AIに出す指示、プロンプトとも呼ばれる)を入力することで誰でも芸術的な画像を生成することができることが話題になった一昨年。米国コロラド州で開催されたコンテストでAIによる画像生成ツールを使って作成したアートがデジタルアート部門で優勝すると、様々な論争が勃発した。例えば、(アメリカレコード協会に長年勤めた)知財コンサルタントの(上のツイートでも紹介)ニール・ターケウィッツ氏は、「アーティストの同意を得ず作品をスクレ―ピングしてAIの学習データに使うのは道義に反する」とStable Diffusionを非難した。

他方、ロックバンド、ナイン・インチ・ネイルズのアートディレクターとして知られるロブ・シェリダン氏は、「AIが学習しているのはスタイルであり、スタイルは著作権保護対象ではない。スタイルを著作権の保護対象にしてしまったら芸術や文化の発展を損なう」と冷静な見解を語っている。

AIが生成する画像はアーティストにとって脅威か

AIが画像をいとも簡単に生成できるなら、アーティストの仕事を奪うのではないか。AIアートの著作権については、法律家に任せるとして、残りについて検討したい。くだらない仕事は自動化し、なるべく働かなくていいようになってほしいと切に願う一方で、文芸のような芸術領域にまでAIの影響が及ぶとしたら、自分の生業がどうなるか心配にもなろう。テクノロジーがこれからの社会に与える影響力について探求するポッドキャストの司会者リジー・オレアリー氏は番組のなかで「人間と違って、AIには有給休暇も、労災保険も与える必要がない。」とAIアートの優位性について危惧を示した。

コンテストで受賞したAI作品を提出したジェイソン氏は、何百回以上作品を練り直し、生成された絵に、さらに加工したという。AIに望んだ画像を生成してもらうには、ちょうどいい呪文を唱える必要があり、コツや試行錯誤が必要だ。そこに商機を見出し、呪文を販売するマーケットまで生まれていることを米・技術系メディアのザ・ヴァージは伝えている。アートも、資本主義社会の一部だ。

AIはアートを殺してしまうのか。芸術を媒介するあらゆるメディアの発展史の延長にAIを置いて捉えてみよう。例えばかつて、生演奏によるコンサートを収益源に生業を営んでいた音楽家にとって、レコードの登場は脅威としてとらえられることもあった。しかし、一度生まれた技術は後戻りできない。レコードを始めとする記録媒体の普及は、ミュージシャンにとって新たな収益源となった。他方、媒体が門番となっていて、ミュージシャンはレコードレーベルと契約してデビューしなければ人々に自分の音楽を届けられなかった。そうかと思えば、MP3、バーチャル楽器ソフト等の登場によって、CDの売り上げを軸とした音楽ビジネスは終焉。一方で、実演家がいなくてもソフトウェアを使って音楽製作が叶い、ネットで配信し、SNSでファンとつながる、新しい形態を生んだ。技術の進化でアーティスト活動への参入障壁はどんどん取り外されていく。(ヤッパリ、繰り返してると思うんだよね)

今後、AIの画像生成ツールは、画像編集ソフトの付随機能となって手軽に人々に利用されることになるかもしれない。そうなれば、イラストやデザインに関わる人々の仕事のあり方に変化を及ぼす可能性があり、必要なスキルも変わってくるだろう。しかし、AIはアートの意味を知らない。作品にどのような意味を持たせ、解釈するかは人間にかかっている。

どちら側の立場にしても、いい加減、折り合いの勘所がよくなってきたりしてくれないものだろうか。同じこと何度もやってるんだから。そんなことより、AIすごいとか言っている間に水とか温度とかが大変なことになってるのもよろしくです。

2023年6月29日木曜日

老後が不安で婚活するという話~もっとよくなることのPart2

婚活イベントに参加した人の話を聞く機会があった。およそ絶対に行きたくないようなセッティングで、参加者は各々になぜ結婚したいのか順番に発言させられる機会が与えられたそうだ。そのうち、記憶に残ったものとして、老後ひとりになりたくないから、というコメントがあったそう。何かあった時に、ひとりではこまる、というのは確かにそうだと思う。

既婚者世帯は税制面で圧倒的に優遇されており、これは日本もアメリカも同じだ。しかしながら、独身を選ぶ女性の比率は高まっているらしい。

上記の番組では、メリーランド大学准教授でThe Love Jones Cohort: Single and Living Alone in the Black Middle Classの著者であるDr. Kris Marshが出演し、独身が不当な目に合っていること、その背景にある社会構造を解き明かしてくれる。新しい異性と出会ったり社交が趣味というわけではないのに、いやいや婚活しているなら、そんな無理しなくても、と思っていたところ、なんだか社会構造を見つめ直すことになりまして。

ちょうどNewYorkerに面白い風刺画があったのを見つけた。王子に求婚される白雪姫の絵だ。しかし下にはこう、白雪姫の言葉がある。「あなたがおっしゃっているのは、つまりこういうことですか。横暴な継母の企てから私を救ってくれた仲の良い7人の男友達と芸術コミュニティを作り上げて元気に暮らしているところ、それをわざわざ後にして、今度はあなたひとりのために、またも不条理な力関係の中で無力なおかざりになれと?」

接続詞が足りないかもしれませんが、結婚している場合の税制優遇について考えたときに思い起こすのが、坂口恭平の中学生のためのテストの段取りの一節です。

 国は好き勝手に生きられると、税金を巻き上げられないことを知っているわけですね! だから土地の所有者を確定するために法律を作るわけです。この土地は誰々のもの。だから、この人からどれだけの年貢をおさめてもらうと決めるわけです。だから、山の中の洞窟なんかに住まれたら、わけわからなくなるじゃないですか。だから、町みたいなものを作って、その中で生活してもらうことを考えたんですね。適当に暮らすとまずいのは、人々ではなく、国だったわけです。

未婚の人は不安があり、既婚の人は不満があります。どちらも、もっと良くなろうとする―このままではダメだ、から。

既婚女性と話すと、家事や子育て、仕事でいかに不平等な立場に置かれているか、つまりは配偶者への不満として表出しますが、いくつかのものは、どう考えても、社会構造の問題(なにに優先的価値があり、何に対してより一層どのような努力がなされるべきか、何をもってして楽しみや満足と捉えるか、という個人の考えにより強い影響力を与える機構の存在―会社であったりマーケティングされたイメージ―があるから)なのに、ほとんどの場合は夫婦間の問題として、対応されるようです。

一時的に主婦※生活だっときに、もっとよくなること、で書いたのですが、普通に生きているともっと良くなることに囚われます。

毎朝浮かぶ、こうしたらもっと生活が良くなるんじゃないか、というポジティブな着想は、陽が昇るにつれて懸命な思案となり、正午までにはネットでの商品の比較選択になり、午後には疲れと共に不満へと変わり、夕方には完全なるただの不平になっている。

※「主婦」であることについては、WAN(ウィメンズアクションネットワーク)のシンポジウムで、働く女も、主婦への距離が存在する点において主婦という概念から逃れられない、との名台詞をきいたけれど、引用元をしっかりと記憶できずごめんなさい。 

Adam CurtisのドキュメンタリーCentury of Selfでは、フロイトからエドワード・バーネイズと、心理学をマーケティングに援用し、個人主義を促進することでアメリカの消費文化を作っていった様子が描かれていますが、その途中で、主婦に処方されるリチウム(鬱に処方される)の話がでてきた記憶(たしか、、)があります。

人それぞれだと思うけど、結婚してもしなくても先行きは不安なのでは…と思っただろうか。なんとそこそこの暮らしをする我々どころか、ちょっと余裕のある人たちや、大金持ちさえ、将来が不安で困っている。だって、カナダの山火事でNYの空も煙く、安全できれいな水や空気が必ずや与えられるものではなくなってきていることを思えばその不安は妥当だろうけれど。

ダグラス・ラシュコフが「Survival of the Richest(邦題:デジタル生存競争)」でも触れているけど、ITで成功した金持ちが、火星に逃げようとしたり、不死を目指したり、と終末論的な視点にあること。それからその手前の富裕層も、どのESG株に投資したらいいのかしらと、良い意図でありながらも、先行きの不安から、個人主義的、後期資本主義的な価値観から逃れられず不安を極め、自分達だけでもなんとか逃れようという、もはや何言ってるんだ、というような馬鹿げたお金のかかる対策をとろうとしていることについてポッドキャストのなかでも何度も触れている。

婚活コンサルタントのブログが面白いのでしょっちゅう読んでしまうのだけど、身だしなみやメイクであったり、ファッションであったり、男女ともにどのような点をもっとよくする必要があるか、よく解説されていることを思い出した途端、アストラ・テイラーがこう来た。




 

"An advertisement will never say, 'Hey, you're enough, you're great as you are,' right? It's always going to say, 'Gosh, your teeth could be …whiter. That's a very banal example, but it's ubiquitous."

 現代の暮らしにおいては、不安は購買意欲創出のための基本的な機能として構造的に作られている、ということ。それから、この不安の解消に当たっては、他と競争して、自分だけが高みに到ることで事故を実現し競争に勝つことが前提になってくる。だって、テストは、みんなで一緒に解くのではなく、自分一人で解くから偏差値が変わるんだ。

そこで再び、もっと良くなることについて思い出してみる。

実際にしたことはないので憶測だけれど、婚活イベントにおいてはその数十人の参加者の中から、自分の価値基準(これも、その数十年にわたって、ディズニーとか、理想の家族を描いた洗剤のCMとかによってmanufactureされた)に見合う、ぐっとくる相手(ぐっとじゃなくって、なんかもうちょっとふさわしい言葉があった気がするんだけどなんっていうんだっけw忘れたw)を見つけなければいけない、数学的にめちゃめや可能性が低い気がするんだけど、ないしはアプリとか相談所とかあるんだろうけど、その成功のために、美容とか身だしなみなど、「自分」に投資し、他者を選別し、もっと良くなろうとすることだろう。まさにWhy Love HurtsでEva Illouzが示している等価値の交換としての市場のなかの恋愛。いや、良くなることはいいと思うんだけど、不安の解消を自分だけが背負い続ける感じを思い知らされる。

私の場合、インテリアとかもっときれいな部屋に、とかもっと栄養のあり安価で健康的でエシカルな食事を、ということに向かうのだけど、そのすべてが、私個人でなかったとして、家庭、家の中だけに閉じていることに気づいた。これはもっと良くなることを書いた時には気づかなかった。ちなみに、もっときれいな部屋やもっと良い食事を創出するというゴールを描いたり、そこに向かって走るのは私個人だ。

いずれの場合も、他者と協力していないし、自分だけ(または家族まで)が受益者となるものだ。その数十人の婚活イベント参加者は、配偶者を求めずに、共済ないしは合弁事業でも立ち上げたほうが、偶然いい人がみつかり、かつ、不慮の事故などに会わず、独身だった場合よりも追加の害が発生することが無く無事添い遂げられる場合のに比べて、圧倒的に計画実行可能なものではないだろうか。つまり、配偶者に安定をもとめるのではなく、頼れる近所、友達、村、コミュニティ、なんなら、ましな地球を維持するためのアクションがとれる共同体を作ったほうが、誰かひとりに頼るよりはいいような気がするんだけど。その共済ないしは事業の運営や維持において、偶然配偶者関係になることはあるとしても逆は絶対にないんじゃないだろうか。自治体も、婚活イベントに助成して、徴税するよりも、結婚しなくても楽しく生きていける街づくりをしたらどうだろうか。や、婚活したことないからすべて憶測だけれど。わたしはもっときれいな部屋をつくるのもいいけれども、部屋にすがることなくおおらかに過ごせる環境を整えたら…、自炊しなくても、素敵な食事が提供される店が溢れる地域につくりかえられたら…、いいんじゃないだろうか。それはもっといいことを指しているようにも思うけれど💦

Astra Taylorは決して婚活や老後の話をしているのではないけれども、結局「必要なのはコレクティブ・アクション」だと言っている。彼女は環境活動家でありドキュメンタリー作家なのだけど、私の書いたことは女性でいることの諸問題という視点でもあるから、根源的に地球の問題とつながっている。



2023年5月12日金曜日

現場を退いたオッサンの話ばかり真に受けて記事にしてんじゃないよ、という話。

 今週月曜日、デジタルテクノロジーと社会正義の領域で戦っている女性およびノンバイナリの研究者や技術者らが、抗議声明を突出してます。

みんな見てたと思うんですけど、5月に入ってでしょうか、「生成AIに警鐘、AIのゴッドファーザーがGoogle退社」とか、「AI研究の第一人者がGoogle退職 生成AIに警鐘」という見出しが日本語圏の紙面を飾り、話題になりました。一般世論としても、こんな報道があると、なんだか社会的リスクを検討しなくちゃいけないのか、みたいになった人が多いと思います。こうした報道姿勢に対して、ふざけんなよ、ということをこれまでさんざんAI、テクノロジーがもたらす社会への害について、量的研究に基づいて、警鐘を鳴らし、職を追われたりした女性やノンバイナリの技術者や研究者たちが、批判しています。そりゃ頭に来るよな、、 怒りポイントとしては、今さらなに言ってんだ(ばっちり定年まで働いておいて?!かつ、これまで女性やノンバイナリの研究者たちがさんざんリスク喚起したときは、スルーしてたくせに!?)というところ、実害を被っている当事者についてよくわかってないのにどの口がそれを言ってるんだ(データやアルゴリズムなどによって、不当な差別を受け、暮らしに影響を受けるのは周縁化されたコミュニティ、で、特権的立場にある白人男性は、それらの害について、不勉強!)というところではないでしょうか。

彼女たちが、これらについて具体的な警鐘を鳴らしたときは、主流メディアでは大々的な報道には至らなかったし(少なくとも見出しに”ゴットファーザー”みたいな過度な凄みを添えらえたりはしていなかった)、職を追われたり、訴訟にあったりして、さんざんな目にあっていきました。退職金とか年金とかそういう世界じゃなかったわけです。 

 それを、ふざけんなよ、で終わらせずに、懇切丁寧な抗議文をリリースしていく強い皆様であります。 さんざんな目にあったうさはらしではなく、テクノロジーが社会にどのような影響をもたらしているか、コミュニティに根差して細やかに検証して知見をもってるのはこの署名に記されたオールスターたちが誰よりも専門家であり、ここ5~10年くらいずっとフォローしてきた人たちです。抗議文は次のように始まります。
報道関係者および政策関係者 各位
下記に署名した、人工知能やテクノロジー政策分野の最前線で働くグローバルマジョリティ※に属する女性およびノンバイナリの者である、我々は、政策立案者や報道機関に対し、デジタルテクノロジーがもたらす社会課題の報道や検討にあたって、こうした事柄を専門に扱う我々の集合知を利用するよう呼びかけます。 

※ここで書かれているグローバルマジョリティという言葉について、解説が必要そうなので補足します。これまで、「マイノリティ」(人種、性的指向など)とか、people of color (有色の人種)という言葉で表されてきましたが、「グローバルマジョリティ」は、2000年代以降に生まれた新しい語です。クリティカル・レイス・スタディーズや、教育リーダーシップマネジメントの分野における研究や社会正義に対する取り組みをきっかけに、言葉・表現のあり方と意味づけについて、白人との相対的な関係のなかで自らを定義するのではなく(有色とかpeople of colorという語は、これまで、色がついている、ついていないという対比に割り当てられて、自ら位置付けたものでない、という不自由があった)、まるで大多数が西洋文化の白人で、その周縁に存在する少数派であるような表現ではなく(実際には、世界の人口の大部分は白人ではない人たちによって構成される)自ら定義したリアリティを共有したいという意図から生まれてきたのがグローバルマジョリティという力強いことばです。こういう一語一句への気遣いが、みなさん知的でいらっしゃる。そしてこう続けます。


長きにわたってテクノロジーのリスクや脅威に関する報道は、テクノロジー企業のCEOや広報渉外担当者によって定義されてきました。その一方で、これらのテクノロジーがもたらす害は不均等に、我々が属すグローバルマジョリティのコミュニティに降りかかっています。同時に、世界中の政策立案者は技術の進歩に追いつくことに苦慮し、猛威を振るうテクノロジーから人々を保護することに苦労しています。 グローバル・マジョリティからの女性やノンバイナリーの人々は、個人的・職業的リスクを冒しながらも、テクノロジーが私たちのコミュニティに害を与えている方法について、一貫して懸念を表明しています。私たちは、特にAIが民主主義を破壊し、女性、人種・民族的マイノリティ、LGBTQIA+の人々、世界中の経済的に恵まれない人々など、歴史的に抑圧されてきたコミュニティに害を与えていることを検証してきました。私たちは、書籍を執筆し、勇敢な報道で圧制的な政権に立ち向かい、時代を代表するいくつかの大手テック企業に対して告発を行い、量的・参加型研究を実施し、テック企業に対する世論監視を高めるようなヘイトに対抗するキャンペーンを組織してきました。こうした立場をとったため、私たちは職業的・個人的な機会を失い、中には圧制的な政権に抗議したことで亡命を余儀なくされた者もいます。

 [中略]

私たちは、「富裕な白人男性だけが社会に存在する脅威を決定する権限を持っている」という前提を否定し、政策立案者や報道機関に対して、情報源を多様化するよう呼びかけます。人種、女性、LGBTQIA+、宗教やカーストの少数派、先住民、移民、そのほか権力の端におかれたコミュニティにとって、技術とは、常に存在の脅威であり、社会的な権力構造においてわれわれを劣等たらしめるために何度となく利用されてきました。

そこで彼女たちは呼びかけます。要は白人のオッサンの話ばっかり聞いて記事執筆したり政策立案するんではなく、ちゃんと私たちの論を聞きに来いと。 

もうひとつ注目したいワードがexistential riskという語です。「存亡リスク」と訳されるでしょうか、実存そのものに関わるリスクを指していますが、主にきのこ雲が上がって人類が滅亡してしまうかも、といったような、将来的な人類の滅亡を起こしかねないと仮定されるリスクを指す、危機感溢れる単語です。人類滅亡のリスクのシーン、みなさん想像できますでしょうか。残念ながら、NYやLAが壊滅しアメリカ人が地球を救うハリウッド映画のようなイメージをされたではないでしょうか。メディアスタディーズが懸命に示してきましたが、存亡リスクのナラティブは、ずっと昔から白人男性中心で、現在のAIや技術革新にあたっても同じことを繰り返しています。存亡というのは、実存に関わるリスクをさしているのですが、その実存的リスクの主体となれるひとと、なれない人がいます。

たとえば実際にこれまで、FacebookやWhatsappを通じてデマが伝播したことによってメキシコで人が焼け死んだり、ミャンマーからロヒンギャ難民が迫害され殺されても、テクノロジー企業も、政策立案者も大した対策をとりませんでしたが、ホワイトハウス襲撃事件では大きく対応しました。自国の問題でない事柄には、どんな甚大な影響を及ぼしてしまっていようが、Section230があるもんね、っとそっぽを向いてしまう様子をRest of world問題と言ったりしますが、これ、Metaのまとめかたが雑で、業績グラフを、北米、アジア太平洋、ヨーロッパ、「その他」とその他はラテンアメリカ、中東、アフリカをまとめて残りその他扱い!していているところからきています。フランシス・ホーガン氏の暴露をきっかけにしたWSJの調査で、Facebook(Meta)が誤情報対策に費やした時間の87%が​アメリカと西ヨーロッパに対してであり、つまり、その他の地域(この言い方がまた頭に来るでしょ)の誤情報対策には残りのたった13%しか注がれてないことも予てから報道されています。インドやアフリカでも困ったことになっているのに!アメリカ国内でも、なんらかのAIが裏で入っているツールで、実害を被ってる人たちがいて、それが偏って、権力の端に置かれた人たちであることを、なんども指摘してきているのに。。。

ということで、White Savior Tropeから、誤情報対策の偏りの話まで、少しわき道にそれてしまいましたが、FreePressから抗議の全文がでてますのでぜひご欄ください。(各自翻訳ツールとかボットで日本語に変換して読める前提で申し上げます)何人か、直接紹介したいのだけど。


グローバルマジョリティという概念の背景とかは、この歌がしっくりくると思う!

Village women, tribal children
Native language, something's missing
Ripping spirit, no religion
This is what we teach our children
Mmm, the chapters we don't know, thеre's no ink to fill them
The visions of thе soul, need Stevie to see them

 

2023年4月20日木曜日

帰ってきたコーデュロイ

 ネオリベラリズムが終わるらしいという噂をきいて、やってきた。どうやらそのようである。確かになんだか変だなという感じがここ数年あったが、どうもあたらしいナラティブが優勢でリアリティが変わりつつある。

私が日頃関心を持っているメディア論や、知へのアクセスとちっとも近くない話題なのだが、経済や金融の話が実は結構好き。なぜかというと、その理由はようやくパンデミック以降、自分でもわかるようになったばかりなのだけれど、サプライチェーンの構造は伝達と価値の話に見えるし、それら経済を回す媒介人ーミドルマンー、もっというお金という人工物を介したトランザクションは、コミュニケーションとメディエーションの問題として捉え、それが町の暮らし(コミュニティ)や社会的アクションに影響を及ぼすこと面白いから。

さて、昨秋発売されてから注目を集めているFTのジャーナリストが書いたこの本「Homecoming: The Path to Prosperity in a Post-Global World」が話題になっていて原本は読めていないが、講演やインタビューをあっちこっちで聞いている。彼女曰く、ネオリベラリズム経済はそろそろ、お・し・ま・い。


部外者から見ると、FTのような金融市場を取材する会社でネオリベラリズム終わりとか言って大丈夫なのか?と思うんだけど、彼女曰くこれが意外と大丈夫で、どうしてかというと、上層の投資家とか金融世界の重鎮たちは、これからの世の中がどうなっていくのか、しっかりと見据えて理解したいと思っていて、いわゆるアメリカの空洞化、みたいなものも打撃だとわかっていて、そこからどう持ち直していくのか(≒レジリエンス)ということに真剣に関心をもっているから、だそうだ。そのうえ、マッキンゼーみたいなコンサルティング企業から、ポスト新自由主義のナラティブに相応しい本「The Titanium Economy」が出てたりして、明らかに潮の向きが変わっている。

(この動画、Q&Aセッションのクオリティが高すぎて驚く。これまでみたあらゆる名門大学での講演動画より圧倒的に質問が素敵なのでぜひ最後まで見ていただきたい。おそらく、コミュニティに根差したDCの老舗書店Politics and Proseだからこそなせる業)

もっぱら、コロナ禍に明らかに感じられるようになった中国依存による品薄、表面的なESGにかこつけたウイグル問題云々、昨今の対中の緊張関係からサプライチェーンの見直しが起きているもんだとばっかり憶測していたけれども、Homecomingはもっと前に地殻変動があって、それは例えば2013年バングラディシュで起きたラナプラザ崩壊事件(そういえばそんなことあった!)くらい遡る。さらに最近の米中間の半導体に関しては、バイデンが中国からのチップはあきまへん!ではなく中国側が自国で完結して豊かになっていきたいから、というナラティブなのも少し触れてくれている。そもそもトマス・フリードマンのフラット化について、Rana氏は、そんなの最初からなかったし、フラット化とかもう終わり、と何度も批判していて、その根拠として、同時期の別の名著「End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporation」のほうがよっぽど的確にグローバル化とこれからを描写している、とお勧めしている。

End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporationの著者、Barry C Lynは、モノポリーに関する本で良く知られていて、そんな彼が、2020年にWiredに寄稿しているのを見つけた。もちろんGAFA規制に関して。タイトルが、テクノユートピアの夢をシリコンバレーはまだ見ることができる、としているので、少しアンビバレントな気持ちになるが、読んでみると、ルネッサンスのチャーター制(これはラシュコフのナラティブでおなじみ、デジタル封建制度とも)と独占の話、さらには、鉄道アナロジーまで登場(これはインドでフリーベーシックスというネットの中立性と対立するFacebookの取り組みに際して私が行ったアナロジー、ほかにGig Workやプラットフォーム経済について、Danah Boydが鉄道労働史までさかのぼってくれた論文もある。)してすごく読みごたえがあります。要は、未曾有でそんなこと初めて、規制が追いつかない、どうしたらいいかわからない、なんて無力な気持ちにならず、歴史を学ぼう、という気持ちにさせてくれる寄稿で、非常に私好みでした。

以上、金融経済畑から、メディアテクノロジーの話に一周した様子をつづりました。