2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。

2023年8月19日土曜日

AIが著作権侵害だというのは、あんときのアレ

 最近、ニューヨークタイムズがOpenAIを知的財産侵害で訴えるかどうか検討しているらしい、ということが話題になりました。あくまで社内弁護士がその検討をしている、という程度のことでニュースにするなるのかいな、と思うけれど、ちょうど同紙は利用規約を更新し、記事の本文や写真、画像のスクレ―ピングを禁止、AIモデルの学習に使うのを禁止したという動きもあり。世の中的には、新聞や出版関係の業界団体が、LLMの台頭に対して、知的財産の侵害だとして快く思っていない意見を表明していたことも。



AIがどうしてこんなにも優秀に仕事ができ、そして今後どう活用されていくか、眉間にしわを寄せながら抗議しているのは文芸などのクリエイティブに携わる人たち。独立系クリエイターは、そんなニューヨークタイムズの動きを支持します、とのコメントがツイッターでも流れてきた。

これをみていて、どうも私は首をかしげたくなった。なぜかというと、思い出したことがある。昨今のAIと著作権の話は、法的な論点は置いておいて、感情的な部分を見る限りには、なんども同じことを繰り返している気がするからだ。

あんときのアレ

最初に頭をよぎったのは、2001年のNew York Times Co. v. Tasiniだ。執筆者の組合が、ニューヨークタイムズや今のProQuest、LexusNexusを相手に著作権侵害で訴え、2001年に判決が下った。紙媒体むけに提供されたフリーランス作家の著作物について、出版社が作家の明示的な許可や報酬なしにそれらの作品を電子データベースに提供することを認められないとして、原告たちが1800万ドルの補償を得た。

その次はやっぱりなんといっても、ハフィントンポストがAOLに買収されたとき、アリアナ・ハフィントンのよしみやらなんやらで報酬なく書いていた執筆者たちが、ふざけんなよ、という気持ちになった時に起こした訴訟。これは退けられAOLが勝った。


うーん。ナイーブかもしれないけど、繰り返している。どうやって富むんでしょう、というテーゼについては、もうおなじみで浸透していると思うけれども、Jaron Laniarが「デジタル小作人」という言葉を使っている。つまりこのクリエイターたち、作家たちは、サイバースペースで小作人。

どうやって富むんでしょう、せっかく頑張ってつくったのに。という気持ちに関しては、一昨年前、画像生成AIのブームの際、わたしが書いていた下記の論考を今回あらためて掘り起こしてみる。

<ここから>
Stable DiffusionやMidjourneyなどのツールを使って、いわゆる「呪文」(AIに出す指示、プロンプトとも呼ばれる)を入力することで誰でも芸術的な画像を生成することができることが話題になった一昨年。米国コロラド州で開催されたコンテストでAIによる画像生成ツールを使って作成したアートがデジタルアート部門で優勝すると、様々な論争が勃発した。例えば、(アメリカレコード協会に長年勤めた)知財コンサルタントの(上のツイートでも紹介)ニール・ターケウィッツ氏は、「アーティストの同意を得ず作品をスクレ―ピングしてAIの学習データに使うのは道義に反する」とStable Diffusionを非難した。

他方、ロックバンド、ナイン・インチ・ネイルズのアートディレクターとして知られるロブ・シェリダン氏は、「AIが学習しているのはスタイルであり、スタイルは著作権保護対象ではない。スタイルを著作権の保護対象にしてしまったら芸術や文化の発展を損なう」と冷静な見解を語っている。

AIが生成する画像はアーティストにとって脅威か

AIが画像をいとも簡単に生成できるなら、アーティストの仕事を奪うのではないか。AIアートの著作権については、法律家に任せるとして、残りについて検討したい。くだらない仕事は自動化し、なるべく働かなくていいようになってほしいと切に願う一方で、文芸のような芸術領域にまでAIの影響が及ぶとしたら、自分の生業がどうなるか心配にもなろう。テクノロジーがこれからの社会に与える影響力について探求するポッドキャストの司会者リジー・オレアリー氏は番組のなかで「人間と違って、AIには有給休暇も、労災保険も与える必要がない。」とAIアートの優位性について危惧を示した。

コンテストで受賞したAI作品を提出したジェイソン氏は、何百回以上作品を練り直し、生成された絵に、さらに加工したという。AIに望んだ画像を生成してもらうには、ちょうどいい呪文を唱える必要があり、コツや試行錯誤が必要だ。そこに商機を見出し、呪文を販売するマーケットまで生まれていることを米・技術系メディアのザ・ヴァージは伝えている。アートも、資本主義社会の一部だ。

AIはアートを殺してしまうのか。芸術を媒介するあらゆるメディアの発展史の延長にAIを置いて捉えてみよう。例えばかつて、生演奏によるコンサートを収益源に生業を営んでいた音楽家にとって、レコードの登場は脅威としてとらえられることもあった。しかし、一度生まれた技術は後戻りできない。レコードを始めとする記録媒体の普及は、ミュージシャンにとって新たな収益源となった。他方、媒体が門番となっていて、ミュージシャンはレコードレーベルと契約してデビューしなければ人々に自分の音楽を届けられなかった。そうかと思えば、MP3、バーチャル楽器ソフト等の登場によって、CDの売り上げを軸とした音楽ビジネスは終焉。一方で、実演家がいなくてもソフトウェアを使って音楽製作が叶い、ネットで配信し、SNSでファンとつながる、新しい形態を生んだ。技術の進化でアーティスト活動への参入障壁はどんどん取り外されていく。(ヤッパリ、繰り返してると思うんだよね)

今後、AIの画像生成ツールは、画像編集ソフトの付随機能となって手軽に人々に利用されることになるかもしれない。そうなれば、イラストやデザインに関わる人々の仕事のあり方に変化を及ぼす可能性があり、必要なスキルも変わってくるだろう。しかし、AIはアートの意味を知らない。作品にどのような意味を持たせ、解釈するかは人間にかかっている。

どちら側の立場にしても、いい加減、折り合いの勘所がよくなってきたりしてくれないものだろうか。同じこと何度もやってるんだから。そんなことより、AIすごいとか言っている間に水とか温度とかが大変なことになってるのもよろしくです。

2023年6月29日木曜日

老後が不安で婚活するという話~もっとよくなることのPart2

婚活イベントに参加した人の話を聞く機会があった。およそ絶対に行きたくないようなセッティングで、参加者は各々になぜ結婚したいのか順番に発言させられる機会が与えられたそうだ。そのうち、記憶に残ったものとして、老後ひとりになりたくないから、というコメントがあったそう。何かあった時に、ひとりではこまる、というのは確かにそうだと思う。

既婚者世帯は税制面で圧倒的に優遇されており、これは日本もアメリカも同じだ。しかしながら、独身を選ぶ女性の比率は高まっているらしい。

上記の番組では、メリーランド大学准教授でThe Love Jones Cohort: Single and Living Alone in the Black Middle Classの著者であるDr. Kris Marshが出演し、独身が不当な目に合っていること、その背景にある社会構造を解き明かしてくれる。新しい異性と出会ったり社交が趣味というわけではないのに、いやいや婚活しているなら、そんな無理しなくても、と思っていたところ、なんだか社会構造を見つめ直すことになりまして。

ちょうどNewYorkerに面白い風刺画があったのを見つけた。王子に求婚される白雪姫の絵だ。しかし下にはこう、白雪姫の言葉がある。「あなたがおっしゃっているのは、つまりこういうことですか。横暴な継母の企てから私を救ってくれた仲の良い7人の男友達と芸術コミュニティを作り上げて元気に暮らしているところ、それをわざわざ後にして、今度はあなたひとりのために、またも不条理な力関係の中で無力なおかざりになれと?」

接続詞が足りないかもしれませんが、結婚している場合の税制優遇について考えたときに思い起こすのが、坂口恭平の中学生のためのテストの段取りの一節です。

 国は好き勝手に生きられると、税金を巻き上げられないことを知っているわけですね! だから土地の所有者を確定するために法律を作るわけです。この土地は誰々のもの。だから、この人からどれだけの年貢をおさめてもらうと決めるわけです。だから、山の中の洞窟なんかに住まれたら、わけわからなくなるじゃないですか。だから、町みたいなものを作って、その中で生活してもらうことを考えたんですね。適当に暮らすとまずいのは、人々ではなく、国だったわけです。

未婚の人は不安があり、既婚の人は不満があります。どちらも、もっと良くなろうとする―このままではダメだ、から。

既婚女性と話すと、家事や子育て、仕事でいかに不平等な立場に置かれているか、つまりは配偶者への不満として表出しますが、いくつかのものは、どう考えても、社会構造の問題(なにに優先的価値があり、何に対してより一層どのような努力がなされるべきか、何をもってして楽しみや満足と捉えるか、という個人の考えにより強い影響力を与える機構の存在―会社であったりマーケティングされたイメージ―があるから)なのに、ほとんどの場合は夫婦間の問題として、対応されるようです。

一時的に主婦※生活だっときに、もっとよくなること、で書いたのですが、普通に生きているともっと良くなることに囚われます。

毎朝浮かぶ、こうしたらもっと生活が良くなるんじゃないか、というポジティブな着想は、陽が昇るにつれて懸命な思案となり、正午までにはネットでの商品の比較選択になり、午後には疲れと共に不満へと変わり、夕方には完全なるただの不平になっている。

※「主婦」であることについては、WAN(ウィメンズアクションネットワーク)のシンポジウムで、働く女も、主婦への距離が存在する点において主婦という概念から逃れられない、との名台詞をきいたけれど、引用元をしっかりと記憶できずごめんなさい。 

Adam CurtisのドキュメンタリーCentury of Selfでは、フロイトからエドワード・バーネイズと、心理学をマーケティングに援用し、個人主義を促進することでアメリカの消費文化を作っていった様子が描かれていますが、その途中で、主婦に処方されるリチウム(鬱に処方される)の話がでてきた記憶(たしか、、)があります。

人それぞれだと思うけど、結婚してもしなくても先行きは不安なのでは…と思っただろうか。なんとそこそこの暮らしをする我々どころか、ちょっと余裕のある人たちや、大金持ちさえ、将来が不安で困っている。だって、カナダの山火事でNYの空も煙く、安全できれいな水や空気が必ずや与えられるものではなくなってきていることを思えばその不安は妥当だろうけれど。

ダグラス・ラシュコフが「Survival of the Richest(邦題:デジタル生存競争)」でも触れているけど、ITで成功した金持ちが、火星に逃げようとしたり、不死を目指したり、と終末論的な視点にあること。それからその手前の富裕層も、どのESG株に投資したらいいのかしらと、良い意図でありながらも、先行きの不安から、個人主義的、後期資本主義的な価値観から逃れられず不安を極め、自分達だけでもなんとか逃れようという、もはや何言ってるんだ、というような馬鹿げたお金のかかる対策をとろうとしていることについてポッドキャストのなかでも何度も触れている。

婚活コンサルタントのブログが面白いのでしょっちゅう読んでしまうのだけど、身だしなみやメイクであったり、ファッションであったり、男女ともにどのような点をもっとよくする必要があるか、よく解説されていることを思い出した途端、アストラ・テイラーがこう来た。




 

"An advertisement will never say, 'Hey, you're enough, you're great as you are,' right? It's always going to say, 'Gosh, your teeth could be …whiter. That's a very banal example, but it's ubiquitous."

 現代の暮らしにおいては、不安は購買意欲創出のための基本的な機能として構造的に作られている、ということ。それから、この不安の解消に当たっては、他と競争して、自分だけが高みに到ることで事故を実現し競争に勝つことが前提になってくる。だって、テストは、みんなで一緒に解くのではなく、自分一人で解くから偏差値が変わるんだ。

そこで再び、もっと良くなることについて思い出してみる。

実際にしたことはないので憶測だけれど、婚活イベントにおいてはその数十人の参加者の中から、自分の価値基準(これも、その数十年にわたって、ディズニーとか、理想の家族を描いた洗剤のCMとかによってmanufactureされた)に見合う、ぐっとくる相手(ぐっとじゃなくって、なんかもうちょっとふさわしい言葉があった気がするんだけどなんっていうんだっけw忘れたw)を見つけなければいけない、数学的にめちゃめや可能性が低い気がするんだけど、ないしはアプリとか相談所とかあるんだろうけど、その成功のために、美容とか身だしなみなど、「自分」に投資し、他者を選別し、もっと良くなろうとすることだろう。まさにWhy Love HurtsでEva Illouzが示している等価値の交換としての市場のなかの恋愛。いや、良くなることはいいと思うんだけど、不安の解消を自分だけが背負い続ける感じを思い知らされる。

私の場合、インテリアとかもっときれいな部屋に、とかもっと栄養のあり安価で健康的でエシカルな食事を、ということに向かうのだけど、そのすべてが、私個人でなかったとして、家庭、家の中だけに閉じていることに気づいた。これはもっと良くなることを書いた時には気づかなかった。ちなみに、もっときれいな部屋やもっと良い食事を創出するというゴールを描いたり、そこに向かって走るのは私個人だ。

いずれの場合も、他者と協力していないし、自分だけ(または家族まで)が受益者となるものだ。その数十人の婚活イベント参加者は、配偶者を求めずに、共済ないしは合弁事業でも立ち上げたほうが、偶然いい人がみつかり、かつ、不慮の事故などに会わず、独身だった場合よりも追加の害が発生することが無く無事添い遂げられる場合のに比べて、圧倒的に計画実行可能なものではないだろうか。つまり、配偶者に安定をもとめるのではなく、頼れる近所、友達、村、コミュニティ、なんなら、ましな地球を維持するためのアクションがとれる共同体を作ったほうが、誰かひとりに頼るよりはいいような気がするんだけど。その共済ないしは事業の運営や維持において、偶然配偶者関係になることはあるとしても逆は絶対にないんじゃないだろうか。自治体も、婚活イベントに助成して、徴税するよりも、結婚しなくても楽しく生きていける街づくりをしたらどうだろうか。や、婚活したことないからすべて憶測だけれど。わたしはもっときれいな部屋をつくるのもいいけれども、部屋にすがることなくおおらかに過ごせる環境を整えたら…、自炊しなくても、素敵な食事が提供される店が溢れる地域につくりかえられたら…、いいんじゃないだろうか。それはもっといいことを指しているようにも思うけれど💦

Astra Taylorは決して婚活や老後の話をしているのではないけれども、結局「必要なのはコレクティブ・アクション」だと言っている。彼女は環境活動家でありドキュメンタリー作家なのだけど、私の書いたことは女性でいることの諸問題という視点でもあるから、根源的に地球の問題とつながっている。



2023年5月12日金曜日

現場を退いたオッサンの話ばかり真に受けて記事にしてんじゃないよ、という話。

 今週月曜日、デジタルテクノロジーと社会正義の領域で戦っている女性およびノンバイナリの研究者や技術者らが、抗議声明を突出してます。

みんな見てたと思うんですけど、5月に入ってでしょうか、「生成AIに警鐘、AIのゴッドファーザーがGoogle退社」とか、「AI研究の第一人者がGoogle退職 生成AIに警鐘」という見出しが日本語圏の紙面を飾り、話題になりました。一般世論としても、こんな報道があると、なんだか社会的リスクを検討しなくちゃいけないのか、みたいになった人が多いと思います。こうした報道姿勢に対して、ふざけんなよ、ということをこれまでさんざんAI、テクノロジーがもたらす社会への害について、量的研究に基づいて、警鐘を鳴らし、職を追われたりした女性やノンバイナリの技術者や研究者たちが、批判しています。そりゃ頭に来るよな、、 怒りポイントとしては、今さらなに言ってんだ(ばっちり定年まで働いておいて?!かつ、これまで女性やノンバイナリの研究者たちがさんざんリスク喚起したときは、スルーしてたくせに!?)というところ、実害を被っている当事者についてよくわかってないのにどの口がそれを言ってるんだ(データやアルゴリズムなどによって、不当な差別を受け、暮らしに影響を受けるのは周縁化されたコミュニティ、で、特権的立場にある白人男性は、それらの害について、不勉強!)というところではないでしょうか。

彼女たちが、これらについて具体的な警鐘を鳴らしたときは、主流メディアでは大々的な報道には至らなかったし(少なくとも見出しに”ゴットファーザー”みたいな過度な凄みを添えらえたりはしていなかった)、職を追われたり、訴訟にあったりして、さんざんな目にあっていきました。退職金とか年金とかそういう世界じゃなかったわけです。 

 それを、ふざけんなよ、で終わらせずに、懇切丁寧な抗議文をリリースしていく強い皆様であります。 さんざんな目にあったうさはらしではなく、テクノロジーが社会にどのような影響をもたらしているか、コミュニティに根差して細やかに検証して知見をもってるのはこの署名に記されたオールスターたちが誰よりも専門家であり、ここ5~10年くらいずっとフォローしてきた人たちです。抗議文は次のように始まります。
報道関係者および政策関係者 各位
下記に署名した、人工知能やテクノロジー政策分野の最前線で働くグローバルマジョリティ※に属する女性およびノンバイナリの者である、我々は、政策立案者や報道機関に対し、デジタルテクノロジーがもたらす社会課題の報道や検討にあたって、こうした事柄を専門に扱う我々の集合知を利用するよう呼びかけます。 

※ここで書かれているグローバルマジョリティという言葉について、解説が必要そうなので補足します。これまで、「マイノリティ」(人種、性的指向など)とか、people of color (有色の人種)という言葉で表されてきましたが、「グローバルマジョリティ」は、2000年代以降に生まれた新しい語です。クリティカル・レイス・スタディーズや、教育リーダーシップマネジメントの分野における研究や社会正義に対する取り組みをきっかけに、言葉・表現のあり方と意味づけについて、白人との相対的な関係のなかで自らを定義するのではなく(有色とかpeople of colorという語は、これまで、色がついている、ついていないという対比に割り当てられて、自ら位置付けたものでない、という不自由があった)、まるで大多数が西洋文化の白人で、その周縁に存在する少数派であるような表現ではなく(実際には、世界の人口の大部分は白人ではない人たちによって構成される)自ら定義したリアリティを共有したいという意図から生まれてきたのがグローバルマジョリティという力強いことばです。こういう一語一句への気遣いが、みなさん知的でいらっしゃる。そしてこう続けます。


長きにわたってテクノロジーのリスクや脅威に関する報道は、テクノロジー企業のCEOや広報渉外担当者によって定義されてきました。その一方で、これらのテクノロジーがもたらす害は不均等に、我々が属すグローバルマジョリティのコミュニティに降りかかっています。同時に、世界中の政策立案者は技術の進歩に追いつくことに苦慮し、猛威を振るうテクノロジーから人々を保護することに苦労しています。 グローバル・マジョリティからの女性やノンバイナリーの人々は、個人的・職業的リスクを冒しながらも、テクノロジーが私たちのコミュニティに害を与えている方法について、一貫して懸念を表明しています。私たちは、特にAIが民主主義を破壊し、女性、人種・民族的マイノリティ、LGBTQIA+の人々、世界中の経済的に恵まれない人々など、歴史的に抑圧されてきたコミュニティに害を与えていることを検証してきました。私たちは、書籍を執筆し、勇敢な報道で圧制的な政権に立ち向かい、時代を代表するいくつかの大手テック企業に対して告発を行い、量的・参加型研究を実施し、テック企業に対する世論監視を高めるようなヘイトに対抗するキャンペーンを組織してきました。こうした立場をとったため、私たちは職業的・個人的な機会を失い、中には圧制的な政権に抗議したことで亡命を余儀なくされた者もいます。

 [中略]

私たちは、「富裕な白人男性だけが社会に存在する脅威を決定する権限を持っている」という前提を否定し、政策立案者や報道機関に対して、情報源を多様化するよう呼びかけます。人種、女性、LGBTQIA+、宗教やカーストの少数派、先住民、移民、そのほか権力の端におかれたコミュニティにとって、技術とは、常に存在の脅威であり、社会的な権力構造においてわれわれを劣等たらしめるために何度となく利用されてきました。

そこで彼女たちは呼びかけます。要は白人のオッサンの話ばっかり聞いて記事執筆したり政策立案するんではなく、ちゃんと私たちの論を聞きに来いと。 

もうひとつ注目したいワードがexistential riskという語です。「存亡リスク」と訳されるでしょうか、実存そのものに関わるリスクを指していますが、主にきのこ雲が上がって人類が滅亡してしまうかも、といったような、将来的な人類の滅亡を起こしかねないと仮定されるリスクを指す、危機感溢れる単語です。人類滅亡のリスクのシーン、みなさん想像できますでしょうか。残念ながら、NYやLAが壊滅しアメリカ人が地球を救うハリウッド映画のようなイメージをされたではないでしょうか。メディアスタディーズが懸命に示してきましたが、存亡リスクのナラティブは、ずっと昔から白人男性中心で、現在のAIや技術革新にあたっても同じことを繰り返しています。存亡というのは、実存に関わるリスクをさしているのですが、その実存的リスクの主体となれるひとと、なれない人がいます。

たとえば実際にこれまで、FacebookやWhatsappを通じてデマが伝播したことによってメキシコで人が焼け死んだり、ミャンマーからロヒンギャ難民が迫害され殺されても、テクノロジー企業も、政策立案者も大した対策をとりませんでしたが、ホワイトハウス襲撃事件では大きく対応しました。自国の問題でない事柄には、どんな甚大な影響を及ぼしてしまっていようが、Section230があるもんね、っとそっぽを向いてしまう様子をRest of world問題と言ったりしますが、これ、Metaのまとめかたが雑で、業績グラフを、北米、アジア太平洋、ヨーロッパ、「その他」とその他はラテンアメリカ、中東、アフリカをまとめて残りその他扱い!していているところからきています。フランシス・ホーガン氏の暴露をきっかけにしたWSJの調査で、Facebook(Meta)が誤情報対策に費やした時間の87%が​アメリカと西ヨーロッパに対してであり、つまり、その他の地域(この言い方がまた頭に来るでしょ)の誤情報対策には残りのたった13%しか注がれてないことも予てから報道されています。インドやアフリカでも困ったことになっているのに!アメリカ国内でも、なんらかのAIが裏で入っているツールで、実害を被ってる人たちがいて、それが偏って、権力の端に置かれた人たちであることを、なんども指摘してきているのに。。。

ということで、White Savior Tropeから、誤情報対策の偏りの話まで、少しわき道にそれてしまいましたが、FreePressから抗議の全文がでてますのでぜひご欄ください。(各自翻訳ツールとかボットで日本語に変換して読める前提で申し上げます)何人か、直接紹介したいのだけど。


グローバルマジョリティという概念の背景とかは、この歌がしっくりくると思う!

Village women, tribal children
Native language, something's missing
Ripping spirit, no religion
This is what we teach our children
Mmm, the chapters we don't know, thеre's no ink to fill them
The visions of thе soul, need Stevie to see them

 

2023年4月20日木曜日

帰ってきたコーデュロイ

 ネオリベラリズムが終わるらしいという噂をきいて、やってきた。どうやらそのようである。確かになんだか変だなという感じがここ数年あったが、どうもあたらしいナラティブが優勢でリアリティが変わりつつある。

私が日頃関心を持っているメディア論や、知へのアクセスとちっとも近くない話題なのだが、経済や金融の話が実は結構好き。なぜかというと、その理由はようやくパンデミック以降、自分でもわかるようになったばかりなのだけれど、サプライチェーンの構造は伝達と価値の話に見えるし、それら経済を回す媒介人ーミドルマンー、もっというお金という人工物を介したトランザクションは、コミュニケーションとメディエーションの問題として捉え、それが町の暮らし(コミュニティ)や社会的アクションに影響を及ぼすこと面白いから。

さて、昨秋発売されてから注目を集めているFTのジャーナリストが書いたこの本「Homecoming: The Path to Prosperity in a Post-Global World」が話題になっていて原本は読めていないが、講演やインタビューをあっちこっちで聞いている。彼女曰く、ネオリベラリズム経済はそろそろ、お・し・ま・い。


部外者から見ると、FTのような金融市場を取材する会社でネオリベラリズム終わりとか言って大丈夫なのか?と思うんだけど、彼女曰くこれが意外と大丈夫で、どうしてかというと、上層の投資家とか金融世界の重鎮たちは、これからの世の中がどうなっていくのか、しっかりと見据えて理解したいと思っていて、いわゆるアメリカの空洞化、みたいなものも打撃だとわかっていて、そこからどう持ち直していくのか(≒レジリエンス)ということに真剣に関心をもっているから、だそうだ。そのうえ、マッキンゼーみたいなコンサルティング企業から、ポスト新自由主義のナラティブに相応しい本「The Titanium Economy」が出てたりして、明らかに潮の向きが変わっている。

(この動画、Q&Aセッションのクオリティが高すぎて驚く。これまでみたあらゆる名門大学での講演動画より圧倒的に質問が素敵なのでぜひ最後まで見ていただきたい。おそらく、コミュニティに根差したDCの老舗書店Politics and Proseだからこそなせる業)

もっぱら、コロナ禍に明らかに感じられるようになった中国依存による品薄、表面的なESGにかこつけたウイグル問題云々、昨今の対中の緊張関係からサプライチェーンの見直しが起きているもんだとばっかり憶測していたけれども、Homecomingはもっと前に地殻変動があって、それは例えば2013年バングラディシュで起きたラナプラザ崩壊事件(そういえばそんなことあった!)くらい遡る。さらに最近の米中間の半導体に関しては、バイデンが中国からのチップはあきまへん!ではなく中国側が自国で完結して豊かになっていきたいから、というナラティブなのも少し触れてくれている。そもそもトマス・フリードマンのフラット化について、Rana氏は、そんなの最初からなかったし、フラット化とかもう終わり、と何度も批判していて、その根拠として、同時期の別の名著「End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporation」のほうがよっぽど的確にグローバル化とこれからを描写している、とお勧めしている。

End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporationの著者、Barry C Lynは、モノポリーに関する本で良く知られていて、そんな彼が、2020年にWiredに寄稿しているのを見つけた。もちろんGAFA規制に関して。タイトルが、テクノユートピアの夢をシリコンバレーはまだ見ることができる、としているので、少しアンビバレントな気持ちになるが、読んでみると、ルネッサンスのチャーター制(これはラシュコフのナラティブでおなじみ、デジタル封建制度とも)と独占の話、さらには、鉄道アナロジーまで登場(これはインドでフリーベーシックスというネットの中立性と対立するFacebookの取り組みに際して私が行ったアナロジー、ほかにGig Workやプラットフォーム経済について、Danah Boydが鉄道労働史までさかのぼってくれた論文もある。)してすごく読みごたえがあります。要は、未曾有でそんなこと初めて、規制が追いつかない、どうしたらいいかわからない、なんて無力な気持ちにならず、歴史を学ぼう、という気持ちにさせてくれる寄稿で、非常に私好みでした。

以上、金融経済畑から、メディアテクノロジーの話に一周した様子をつづりました。


2023年2月4日土曜日

メディアはSUSHI論(2019年)

メッセージだとか、マッサージだとか、いろいろな言い方がありますが、メディアは寿司です。寿司、と漢字で書くと少し語弊があるから、訂正しよう。メディアはSUSHIです。
(夏の疲れが溜まっております。お許しください。)
※これを書いたのは、2019年9月でした


今回は、SUSHI的メディア論を「SUSHI論」と呼んでお届けします。


そんな「SUSHI論」を展開するコラムが、TechCrunchに掲載されたのはしばらく前、今年2019年の春ごろのこと。

The Future of News is Conversation in Small Groups with Trusted Voices(未来のニュースの形は、信頼できる意見を共有する小グループでの会話だ」

なんとも、飾り気のないタイトルで、既に好感を抱きます。これを読んで考えたことなどを、すこしまとめたかったのですが、もう秋めいてきてしまって(汗)
寄稿者の意見はこうです。FacebookやTwitterのニュースフィードが、回転寿司(そして例えるなら、統計的な正しさから大衆が求めるマグロが立続けに流れるけど、あなたが本当に食べたいのはもっと別のもの。)で客が選り好みする世界だとすれば、我々はその面白さや効率性から脱却し、頼れる大将が開く上質な小さい寿司屋に行きつくべきだ、と。全体としては、いわゆる「ニュース消費」の在り方について、SNSの功罪に加え、技術的な変遷を踏まえ、昨今の興味深いニュースメディアの取組事例についても紹介しています。

2023年追記
スシローでいろいろ炎上する事態が起きた。フィードに流れてくる寿司が汚染されブランドに大きな被害。後には、別のYoutuberが回ってないスシローと追加のふざけ動画「回ってればいつかこうなると思ったよ」。


さて私はここ数年、ニュース消費スタイルについて、ニュースを基本的には全く消費しない、というスタイルをとっています。(小声です)

世の中には「ニュース・ジャンキー」呼ばれる、とにかくニュースが好きで読まないと気が済まない、というような傾向の人が欧米のニュース編集者とか知識層にいたりします。まったくもって個人の自由で、ニュースを読みたいひともそうでない人もどちらでもいいと正直思うのですが、近年では技術の発達によりニュース消費サイクルが短くなり、ニュース以外の様々な情報を常に消費し、意思決定せねばならない状況に人々があることから、情報過多によるストレスが社会問題化しています。実際には、問題の経緯はもう少し歴史をさかのぼります。アメリカの場合は80年代以降からケーブルのニュース専門チャンネルが発達したことでいわゆる「24 hour news cycle (24時間流れっぱなしのニュースサイクル)」が生まれたことが事の発端でした。そりゃもう、朝刊・夕刊だけとか、モーニングニュース、イブニングニュースだけで済んだことが四六時中流れ進展するとなれば一体その情報にどう向き合ったらいいのか、という悩みが発生するのは想像に易いでしょうが、それはテレビをつけている間だけの話でした。今度はインターネットによりプレス機関も徐々にデジタル化し、紙面や放送枠に縛られない報道が一層増え、ネットメディアも勃興。さらに今に至っては、自分が今いる現実世界と、メディアを介したニュースに加え、SNSやチャットアプリなどにより、常時知らせが届く状態が生まれました。このようにして現実社会で何か体験している中でもスマホを手放せない環境が生まれ、その背景には「FOMO(Fear of Missing Out:見逃すことの恐怖)」があるとしてちょっとしたバズワードにさえなっています。FOMOという用語が話題になり、それ自体が社会問題となる以前に、スマホによる情報過多について知覚的に解説、指摘したのがダグラス・ラシュコフでした。彼は2013年の自著「Present Shock - When Everything Happens Now」の中で触れています。(ところで、VRとか没入型メディアでわざわざニュースだけを見続けるということは今のところないんでしょうかね、あまり思い当たりませんが)

一応説明しておくと、私が今のニュースを習慣的には消費しないという過ごし方に至った経緯は、情報過多とはむしろ逆の経緯からでした。仕事で編集者としてニュースを読みまくる必要があった時期があり、それはストレスフルでしたが、それ自体はニュース消費習慣をなくす原因になりませんでした。自分自身でニュースを100本ほど執筆し、編集する・される行為を繰り返すうちに、自分の担当する媒体の使命「担当領域について、読者の理解を深める」を果たして成し遂げているか、自問自答するようになりました。(2010年のNicholas Carrの著書『The Shallow』を思い出しますね)そして、どうも「理解を深め」ているとは思えなくなり、どちらかというと断片的な情報が一時的に消費され、不均衡に日本について印象付けるだけ、というネガティブな印象を持つようになり、その原因にニュースの執筆スタイルやSEOがあると感じるようになりました。

併せて、複数の事件や事象を報道する中で、個別の複雑な出来事についてごく表面的にとりあげて、善し悪しの話をするということに嫌悪感を抱くようになりました。届けたい事柄について欲張りで身の丈知らずだったからかもしれません。でも、本当に何かを知りたかったら本を読むべし。

だいぶ寿司から離れてしまったので、こちらのビデオを(最後までご覧ください)

先ほどのTechCrunchの記事では、RSSやメルマガ、ポッドキャストなど様々な技術的表現形式について触れていて、中でもダイレクトなメディア表現に関心を寄せている様子がうかがえます。具体的には、メッセージアプリでの私信(Private Messaging)によりニュースを伝えるということです。荒らしだらけとなってしまうウェブ上のコメント欄よりも、ニュースフィードとプライベートメッセージを混ぜたような形式がよいのではないか、と考える取り組みはすでにいくつかあるようですが、いまのところあんまりグッときていません。
※2023年追記、その後プライベートメッセージが誤情報の温床になったね!

プラットフォームがプライベートメッセージへの比重を置くとすると、そのことは単にSUSHIを食べるお客側の問題ではなく、大将たちの縄張り争いを意味します。フェイスブックがケンブリッジ・アナリティカの一件で、大惨事に巻き込まれた時の報道の見出しは「史上最悪の情報漏洩」でしたが、実際には同意を得て取得したデータでした。(用途は問題あったけど)。この事件により、縄張り争いは悪化し、トップたちが辞め、対抗するサービスに移行するなど地獄絵図がWIREDの長文記事に描かれています。
※2023年追記、まあいまはWhatsappはFacebook,というかMetaだ。

ここから2023年の追記です~

昔NYのチェルシーマーケットでEnokiの寿司食べて、おいしかった。でも2023年的には、文化の流用ね。オーセンティックにSushiもEnokiも理解せずにネタにしてるわけ。Veganでヒップな感じだとおもったのかもしれないけど、加熱しないとリステリア菌いるの、エノキダケを採って、食べてた歴史や文化を顧みなかった。(わたしはセーフだったけど)

ちょうどTwitterが大量凍結、そしてフリーAPI公開おしまいの報道があった。
スシローの件は、なんていうか2009年のドミノピザ(ドミノピザ従業員がこちらもつばとか鼻くそいたずら動画をYoutubeにアップしてブランドを害した事件、その後のドミノピザがソーシャルメディアを活用したインタラクティブな評判回復対応を行い上手だったことで有名。多くの企業が従業員のSNS利用の研修させたりガイドライン導入する要因にもなった)を思い出させる。

国道沿いでは、回転ずし、どうしても仲間と訪れて、あれこれ食べ、「量」をカウントして勝負するようなところがあった。なんだか視聴回数カウントのようだ。
メディア寿司論、じっくりやるといろいろ出てきそうだし、ぜひ発酵してほしい。

2022年1月12日水曜日

Aaron Swartz追悼|アメリカ著作権法の成り立ちまで遡るポッドキャストを聴いて

1月、ということでAaron Swartzの追悼番組(ポッドキャスト)を聞いた。

番組は、Aaronについて本を執筆したJustin Petersが、"information wants to be free"―「つまり、情報はタダか?」という命題を軸に、ものすご~くわかりやすく、著作権の在り方、インターネットについて話してくれているインタビューだ。

↓この本です。

 

まず、有名なInformation wants to be freeについてのおさらいしよう。これは、ホールアースカタログのStewart Brandのフレーズに起因するが全文はもう少し長い、、、

"Information Wants To Be Free. Information also wants to be expensive. Information wants to be free because it has become so cheap to distribute, copy, and recombine---too cheap to meter. It wants to be expensive because it can be immeasurably valuable to the recipient. That tension will not go away. It leads to endless wrenching debate about price, copyright, 'intellectual property', the moral rightness of casual distribution, because each round of new devices makes the tension worse, not better."


そういえばちょうど今朝、こんなものをみていたところ。

今回紹介しているポッドキャストOntheMediaでのJustin Petersのインタビューは、なかなかアーロンの話にならない(笑)んだけど、そこが面白い。なんせこの本は、最初の3章をアメリカ建国期の著作権法の形成、とくに、辞書のイメージがまとわりついているノア・ウェブスターを中心に辿っていく。

まだ、文学や書籍がほとんどアメリカ国内で出版されていなかったころに教師をしていたウェブスターは、アメリカがせっかく独立したのに、英国の退屈な教科書を使ってアメリカのこどもたち英語を教え、ウェールズ地域の固有名詞でスペルを覚えさせるだなんて、恥ずかしいったらありゃしない!という思いから、その代替となるような本をつくって出版。自分で出版した書籍で食っていけるようにしたかったので、著作権法の成立に躍起になった。(アメリカ建国から100年くらいはほとんどまともな本がでていなくて、書籍とは金持ちが趣味で書いたもの=本は商材にならない、という状態だった)自分の本が売れるように、と著名人に押しかけたりしていた。


 ウェブスターがジョージワシントンの家でのディナーに招かれたときのこと。ジョージワシントンが「自分の子にはスコットランド出身の家庭教師を付けようとおもう」と話すのを聞いた20代の無名教師であるウェブスターは憤って、「せっかくアメリカが独立したというのにスコットランドから家庭教師を寄せるなんて英国はなんておもうでしょう、嘆かわしい!」と。そんなこんなでジョージワシントンから自分の書籍に大統領から帯コメント的なものをもらう。

そんなふうにして、著書は順調に売れ、著作権法も成立した。
その一方で、著作権法上の対象とならなかった海外の著作物については、出版社が今でいう海賊版を大量に刷って、安価に売って儲け放題だった。(これが出版ビジネスの始まりらしい、なんてこった!)

国際的な著作権が必要だと考えた著者たちは、倫理問題として、教会に展開。日曜のミサで、牧師がわかりやすく、海外作品を勝手に販売するのは倫理的ではない、人のものを盗んではならないはず、というようなことを説いていった。

ところがそうしているうちに、著者の権利をちゃんと守れば、みんな頑張って作品を世に出してくれる、そうれば世間も、いろんな本を読めてみんな幸せ。だから著者と出版社を中心に著作権を強化しよう、という流れになっていき、パブリックドメイン的な考え方はしぼむ。

パブリックドメインやオープンアクセスが盛り上がりを見せるには、マイケルハート(大学のPCを借りて使ってひたすらフリーの電子書籍化にはげむ人)による、プロジェクトグーテンベルクの登場を待つことになる。

(結局大学から追い出される、その時期は、人々がプロジェクトグーテンベルクの価値を理解し受け入れるようになった矢先だった)

マイケルハートと似てるところがあるよね、というのでようやくアーロンの話になる。長かったな、前置き。

アーロンが心打たれたチョムスキーの一冊はこちら。

あまり追悼になってない文章だがご容赦あれ。それにしても、the game don't change, just the playersな感じ。相変わらずだけど、いい年にしましょう。