その日の朝、まだアメリカ時間では投票終了にならないころ、女性大統領が誕生する可能性があるのかも、とわくわくした気持ちで家を出た。ところが、数えるほどしか女性がいない会場での登壇を終えた夕刻には、トランプの当選確実が騒がれた。就寝前、スマホでSNSを眺める。前日まで、セレブたちが投稿した応援コメント―そのほとんどは暗に、女性の身体の自由を顕示するように見えた―待ちきれない祝福モードは、戸惑い、悲嘆に変わっていた。Youtubeではトーク番組のホストが、皮肉まみれな失意と希望を笑いの種にするのを目にした。こう書くと、私はリベラルな友達に囲まれ、リベラルなコンテンツを消費する認識バブル世界に住んでいるように見える。そんな社会的構造に暮らす私の世界の認識論によれば、トランプの再選は起きえない、ということになるが現実は違う。
何が起きているのか、改めて考えてみよう。実は、私の周りにはトランプ支持者の友人が一定数いる。特に、本来自分がもっとも強いつながりを持っていたカルチャーのコミュニティは、近年トランプ支持に染まっている。昔から、陰謀論者が一定数いるコミュニティではあったが、そんな彼らの反権威主義的な思考が、すっかりトランプ支持に回収されてしまった。もともと話が合ったのに、ここ5年で、反ワクチンやQアノンとの連動し、男らしさと国粋主義が強化され、彼らと音楽のことを話すことはほとんどなくなってしまった。わたしがSNSで消費するコンテンツには、夫婦に関する強い保守思想があふれている。わたしは、疲れた時に、ヨーロッパのどこかの田舎で4人の子供を育てる身でありながら、小麦からパンを発酵させて焼いたり、パスタを粉からつくったり、ガラス瓶にフルーツを漬けて健康的なジュースをつくるそばかす美人を見て、「いいね」を押している。特に熱心な関心も持たぬまま、私が流し見している米国ドラマは、
ラテンアメリカ系の主人公たちの自由恋愛を追っているようでキョーレツな保守思想の家族像を売っている。主人公の若い女性は、永遠の愛にあこがれているし、その兄弟のゲイも、パートナーとの結婚に至る。よく思い出してい見ると登場人物は、一人残さず学位不要のサービス業だ。部屋に落ちたごみを拾ったり、郵便受けに届いたピザのチラシを捨てたりしながら、たぶん私は、名前もろくだまし覚えていない登場人物たちがうまくいくことを応援している。このような世界に、トランプ政権は確実に誕生する。
一夜あけると、世界中の友人たちが、アメリカにいる友人たちの不安を取り除こうと思慮したコメントを投稿した。選挙はいくつかある民主主義国家の執り行う手段のうち一つでしかなく、いくら公式がそれを否定しても、ほかの方法でケアを組織し実現することはできること、選挙の敗北は、負けを意味するわけではなく、大多数の民意が自身のそれと異なることを表していることにすぎないため、必要なのは彼らと共に求め実現するために動く必要を意味していること、これまでだって望みとことなる結果と対峙しながらもなんとかやってきたこと。そうした思慮深いコメントは『負けないで、あきらめず闘い続けて』とは書かなかった。あきらめずに闘い続けるのは、賢明ではなさそうである。ある友人は「選挙結果は問題ではなく、問題に対する症状である」として、闘うのはもうやめて、と呼びかけた。彼女の真意はこうだ。わたしたちは、選挙結果として表象するよりもずっと深刻な問題を抱えている。それは構造的な分断であり双方が互いの見解を聞き入れる機会がないことだ。
ここ2年くらい、「市民社会」について語る機会が増え、わたしは改めて
市民社会は何か、集中的に考えてきた。一般的に、国連用語の市民社会は、政府組織に対するNGOと、営利企業に対するNPOとして解釈される。市民社会とは何か、知識を問うテストの選択問題であれば、NGOとNPOにマルをつければよい。ところが、
読み進めていくと、別の解釈にたどり着く。市民社会の形成こそ、国家の形成、つまり国家が市民社会なのだ。場合によっては、資本主義社会こそ市民社会とも言える。関連書籍を十分に読み、市民社会の関係者と話す機会を持つまで、私はテストの暗記問題のように、市民社会とは、NGOやNPOを含むコミュニティを代弁するエンパワメント目的の主体としてカテゴライズしていた。しかし、実際の世界ではそのようなカテゴリーの主体が市民社会なのではない。本人の自覚の有無を問わず、わたしたちはともに社会を作っているのだ。ともすれば、その手綱は、個人―家族―国家―社会のように。これに私はぞっとした。
第一次トランプ政権下の保守派判事による人工中絶の違憲判決、移民の強制送還といった出来事は、親しい人との関わり、個人の欲求、そして自分の身体に対する自律した意思決定に直接的に介入し、国家が持つ暴力装置ぶりをこれ見よがしに表した。それでもニュースで見聞きしただけでは、何が起きているかわからなかった。長い時間、私は「チョイス」について十分な意識を持たぬまま過ごしていた。都会での子育てや、新しいウイルス、子どもの代わりに選択をすることなどたくさんの不安を抱えながらそれらを無いものとして過ごしながらすごしていた。コロナで、ケア労働を担うはずの家族が来日しなくなって、家事育児とそれにかかわる金銭を一手に受けることになっても、不安な気持ちを正当化する理由はどこにもなかった。2022年、ウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのを見たときは、「一回きりの出来事でも許されないのだろうか?それともどういうことなんだろうか」とひどく困惑ししばらく陰鬱なきもちになった。
国連会議に参加して市民社会についての解釈を試みるなかで私は、本で見つけたヘーゲルが市民社会について書いた次の一節をノートにメモした。
「具体的な人格、すなわち特殊的なものとして自己にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性との恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。―しかし、特殊的人格は、本質的にはほかの目標的特殊性との関係のうちにあるものとしてある。それは、各々の人格が他の人格によって媒介されるとともに、同時にまさに他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとして自己を通用させ、満足させるというようにしてである」
(植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」)
職業団体の仕事をしながら明るく過ごしていたけれど、内面ではすっかり困ったことになっていた。ウィル・スミスのニュースを見るころには、困りごとを人に話せるようになってきていたが、何から手をつけていいのかわからなかった。いくつかの前向きなヒントを組み合わせて、ずっと叶わなかった大学進学を果たしたが、精神的に追いやられたまま、年明けてしばらくするとパニックを発症してしまった。息抜きに、と子どもを連れて、田舎のファミレスに行ったときに、博多風もつ鍋が季節メニューで登場してるのを見てはっとさせられた。だいたいみんなが欲しがる、カレーやハンバーグを出す、セントラルキッチンで効率化するのがファミレスの人格なのに、どのようにしてこんなにも特殊なもつ鍋が入り込んだのだろう。下処理済みの安価なもつと、キャベツとニラを調味スープで加熱すればファミレスでもつ鍋は提供できる。ファミレスの洗練された技能と習慣が、博多風もつ鍋を提供するファミレスを実現したと思うと、平和で自由で望みが叶うそこは市民社会の塊に見えた。数年前、松屋がジョージア料理を出した時には何とも思わなかったのだけど、いま啜るおまけの味噌汁は、社会基盤安定の味わい。
トランプの勝利で、もうこんなとこには住んでいられない、という気持ちになるリベラルや、同じ親族でも政治的対立から、話すのが難しくなってしまうなど、ここ数年のアメリカは分断が激しい。TOEFLの読解問題でもつい、どういうイデオロギーのもと書かれた問題文か、文章の解釈に時間をかけて点数を落としたことがあった。どうやらテストは受験者の英語力を測ろうとしているのであって、政治的解釈の読解能力は問わないことに途中から気づき、それだけで数十点アップした(どこに気を使っていたんだわたし)。ここ数年、わたしは分断を前提に、それが何か、まず振り分けをして、適応するような態度で臨んでいたと思う。
「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって、自分一人で孤立して生活しているときに、我々のうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、…(略)…本性上、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」(Hooker 1989 (Lock) おなじく植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」より)
システム思考について読んでいると、私たちの問題への対処の方法は、いまだ局所的な対応にとどまっていることを思い知らされる。システム全体を考えれば、そんな過ちをしたりするはずはないのに!コミュニケーションを扱う人間として、自分の無学さを思い知らされるばかりだが、どうも私たちはうまくコミュニケートしていないようである。問題の症状を消し去っても問題解決にはならない、という友人の言葉は、自分でもずっと気づいていたいくつかの現れに対する問題意識と重なる。
わたしはニュース記事を執筆して、日本で起きていることをより多面的に伝え世界に知ってもらおうとした。ところが、100本ほど書いた後、ニュースのフォーマットでは、理解が深まらないのだと体感を強めた。分かり合えないことが問題なのに。ヘイトスピーチと政治的分断を描いた村田活彦の詩「Sweet Words」に心打たれた。
保護者になって、およそ形骸化している、お礼やお礼へのお礼という関係構築プロセスが存在していることを思い知らされた。保護者同士や保護者と恩師の間など、感謝の意のプロキシーとして、お菓子とかを渡しあうのである。公教育を堂々と享受する家庭に育ったため、必要以上の礼品は、かえって迷惑かつ面倒という認識でいたから、大変に面倒である。「贈与」をもう一度訪ねる必要がありそうであるが、社会資本の構築に、別のプロキシーが入っていて、共助の本質からずれている気がしてならない。とくにこのクリスマスシーズン、そんな批判思考がはたらくのは私なら当然である。だけど、菓子折りも、
学位記も、履歴書もパスポートも
お金も、個人の欲求を媒介するメディアになる。
何かが国家で何かがエンタプライズでまた別の何かが市民社会である、という区分して切り離すのにもう限界があると思う。本当はしっかりと線をひいて意志があったろうに、社会生活のうちに私は見境をなくしてしまったので、昨年、自分はボーダーライン障害なのではないかと疑った。まだぐにゃぐにゃの思考だけれど、そうではなくて、私は全体としてとらえることを試みているはずである。しかもこの全体は、直線状の因果関係とはたぶんちがう。(よって、
都合よくビールを売るための生産管理システムをどう円滑にするか、はいまだ腑に落ちていない)
そんなこんなで、 一応自分なりに考えて、コレクティブな暮らしをするところに引っ越し、PTAで運動クラブに入ったり、経費精算をマメにおこなうようになった。今週末は、部屋を照らすあかりと、きれいな水、ごはんを炊く電気鍋、あったかい布団が用意できました。
対立以外のなにかができるといい☮