2017年1月18日水曜日

Platform Cooperativismについて

タイトルにあるPlatform Cooperativismについて日本語の情報がかなり少ない(というかほぼない)ので自分の理解のためにも、少しまとめたいと思います。

日本語で唯一ある記事は2015年のときのこれ。(素晴らしい記事なのにブックマーク数を見るとあまり読まれていないっぽい)

このブログでも何度か取り上げてきたシェアリングエコノミーの欠点に注目し、資本主義の中でのデジタル化がもたらす社会変革の負の側面への対抗策やアンチテーゼとして、生まれてきた考え方がPlatform Cooperativismである(とわたしは認識)、その潮流は労働運動的文脈もあれば、ネットワークや分散主義的な思想を起点とするようなもの、商業スペースとなる前のインターネットの理想を捨てずにいるカウンターカルチャー由来の担い手たちなど、わりと雑多な、しかし現状へのオルタナティブを目指そう価値観を共有する人たちのあつまりがうねりを作ったように感じられる。

わたしがPlatform Cooperativismを知るきっかけとなったのはもっぱら、Digital Labor(デジタルな労働)と総称されるデジタルな経済における労働の問題点について議論である。代表的なのはTrebor Scholz。さらにメディア理論家ながらその土台となるエコノミーの本質に目を向けThrowing Rocks at Google Busを著したDouglas Rushkoffらの論者。

近年国内ではさかんに言われる「だれもがクリエイターになる時代」というようなUGCへの楽観的な視座に対し、、いちユーザはチリツモ的なデータ経済の中で搾取され富はますます不均衡になっていてGoogleやFacebookのような特定のメジャーな企業が「帝国」をつくっている、という抵抗的な視座からDigital LaborとかPlatform Coopertivismについても考えるようになったわけです。もっというとそれはオーナーシップの問題でもあって、著作権のあり方とかを考えていくなかでパーソナルデータ、データのオーナーシップ、伝統的知識とビジネス上のインセンティブとしての知的財産制度の根本みたいなことについても考えざるを得なくなっていった経緯も併せてあります。

あと忘れてはいけないのは、経営や管理という視点から組織論として「組合(Coop)」にあらためて注目が集まったということ。これは雇用が流動化する中、「雇用」にあたらないようなマイクロタスクを請け負う小銭稼ぎをする労働者がアメリカで非常に増えてきたことや、斬新な組織形態としてベンチャー企業などが持続可能性を模索する中で組合形式のメリットに再度注目があつまってきたということだと認識しています。日本でも同様の流れで2000年代からフリーランス組合が注目をあつめるようになったし、クリエイター集団で組合形式を採用しているところがでてきたり、カウンターカルチャーやメディアの実践家でも組合形式( 気流舎やremoなど)をとるようになっていったというのがあるので、実のところ、Platform Cooperativismがキーワードとしてここ数年でてきたときに、個人的にはあまり目新しさを感じられなかった。

デジタルな労働に関する議論と、シェアリングエコノミー(ギグ・エコノミーについてはそれぞれ過去にこのブログでもまとめているのでそちらを参照のこと。

2016年に入って、アメリカにおけるシェアリングエコノミー(ギグ・エコノミー)の担い手について新しい調査結果がいくつか発表されている。これまで、ギグ・エコノミーの担い手がどのくらいアメリカ経済に影響をもたらしているかはっきりしたデータが出てきていなかったので、このリサーチ結果が出たのは重要だと思う。開いている部屋をAirb&bで貸す、空いた時間でUberドライバーになり乗車賃を稼ぐ、などスキマ時間にアプリで小銭稼ぎをするという行為は、「雇用」や「労働」に当てはまらないのでなかなか実態がつかめてこなかったが、フリーランスによる経済は1兆ドルを越え、5,500万人のアメリカ人(つまり35%)がなにかしらのフリーランス活動をしているとFreelancers Unionらが試算している。さらにPew Researchは24%のアメリカ人は何かしらの形でギグ・エコノミーに参加しているとの調査結果を発表していて、もはや既存の「雇用」や「労働」の枠からはみ出た行為がもたらす経済が無視できない規模になってきたことがわかる。併せて、スキマの小銭稼ぎは、これまでの経済基盤があったうえでの「オマケ」としての所得であるととらえられてきたが、実際には生き抜くためになくてはならない苦し紛れの稼ぎの一つであるという実態も明らかになってきた。

そうしたなかで、テクノロジーを通じた小銭稼ぎの枠組みそのものに問題があるんじゃないかという視座に立ち入った論者のひとりがDouglas Rushkoff。彼はシアター専攻出身のライター、メディア理論家なんですが、もともとサイバーパンクスとかに精通した語り部としてたくさんのドキュメンタリーに登場してて「バイラルマーケティング」の「バイラル」って語を広めた人でもあり(ところがその後全然日本語での翻訳本が出てないですが)、2010年の著書「Life.inc.」のなか(当時このブログで日本語訳を作成し紹介)でルネッサンス期の中央集権主義的な富の仕組みに着目し最近はCUNYで教鞭をとっている人です。(30代に入るまでマクルーハンを読まなかった、というのもかなり好感を持てるw)
Life.Inc.のビデオをみればイメージしやすいと思うが、必然的にビットコインも関係してくる。ユーザ同士が手作りのものを売買できるEtsyとかにかつて注目があつまったのも中央集権的な取引から分散ネットワーク後の社会でどういうった経済が可能なのかというのを模索する視点からである。(ここまでの話はついていけるんだけど、2016年のPlatform CooperativismのカンファレンスでBlockchainについてのセッションがあって、ブロックチェーンの考え方をplatform cooperativismに応用してくというところから先はわたしも十分にはわからん)

Life.Inc.から6年経ってThrowing Rocks at the Google BusでRushkoffは、誰か特定の企業が悪いというわけではなく、この経済をまわしているオペレーティングシステムに問題がある、と指摘している。つまり通勤バスに怒りをとばしてもどうにもなんない、ということでこの講演の動画がわかりやすい。結局ルネサンスというのは活版印刷の世界なんだよね。

ソーシャルメディアやUGCプラットフォームが新進気鋭のスタートアップからIPOを経て株主主導になっていき、わくわくするようなインターネットらしいサービスが閉鎖になったりカルチャーが失われていく、というのをここ10年でもう一回体験したアメリカ(かつてのドットコムバブルで一回体験してるはずだから「もう一回」としました)だからこそ、どうやったら持続可能なかたちでウェブサービスにもとづいた集まり(会社)を続けていけるのか、Ello(どうなったんだろう・・・)みたいなちょっと幼稚なビジネスモデルに基づいたものだったりオープンソースだったり、いろいろな試行錯誤がされていくなかでオーナーシップを見直していくうえでplatform cooperativismという考え方にたどり着いたといえる。

冒頭でも述べたが、雑多な人たちがいまplatform cooperativismに着目していて、それはメディア論的な経緯もすごく強いと思う。何って、Astra Taylorも2016年のplatform cooperativismカンファレンスに登場している。それからEFFで知財制度に関連して日本ともかかわりの深かった方もcooperativismの推進に取り組むようになったときいてる。



生協とか農協になじみの深い日本に暮らす人にとっては、platform cooperativismがデジタルなエコノミーに対するソリューションとしてセクシーに見受けられにくいと思うんだけど(わたしもまったく目新しさを感じないし、ぐっとこない)、ここにきて協同組合がユネスコで無形文化遺産に認定された(2016年12月)ということは見逃してはならない潮流だとおもう。(協同組合はドイツ生まれのコンセプト)

デジタルな経済でどう富を生み出していくか、国や地域で舵取りがわかれるなかで、日本はどうしていきたい、か。アメリカの規制緩和やシリコンバレーの生き急いだ上澄みだけを見て、こうした重要な論点を見過ごしたままでは、ろくなことにならないと思う。あとここでは含むことができなかったけど「オーナーシップ」というキーワードで串刺しにしてクリエイティブやメディア、伝統知識などあらゆる人間活動を制度として見つめなおすような視座も欲しいと感じる。

2016年3月14日月曜日

人間観察モニタリングや寝起きドッキリの生みの親アレンファントと15分の名声


ドッキリの起源はあるラジオ番組にあった
アレン・ファントの初期のラジオ番組からドッキリが生まれるまでの経緯、その後を関係者のインタビューでつづった「Smile my Ass」というセグメントがRadiolabというポッドキャストの中で取り上げられて面白かったので紹介します。

★ポッドキャストはここから聴けます➡ http://www.radiolab.org/story/smile-my-ass/
なおこのブログ投稿では、番組制作の手法と、現代の生活とメディアの関わりについて議論する目的でその前提となる要素として、番組の抄訳を一部掲載しています。

補足:Radiolabの手法について
今回プロデューサーのアレン・ファントという人について取り上げたRadiolabというポッドキャスト(ラジオでも放送)について少し解説する。いつも風変りなエピソードを取り上げてくれて、ネタや視点そのものが面白い。さらにコミカルさを生んでいるのは、他のポッドキャストとは違う、大変ユニークなフォーマットにあると私は思っていて、具体的には

  • ナレーションにたくさんの効果音を織り交ぜたミクシングがしてある
  • 普通ならば一人のナビゲーターがナレーションを読むような部分を、2名の番組ホストやゲストに個別に話させそれぞれに録音しておき、特徴ある部分を編集して混ぜて使うという手法をとっている
  • 完パケなのに「ちょっと聞いてこんなことがあったんだって!」とソファに座って友人に今初めて伝えるような口調で語り掛けている
  • 一つのテーマに対し、かなりのリサーチをしていて、ボリュームのある取材音源がふんだんに使われている
  • インタビューの対象となる人の年齢やトーンに幅があり、高い声、低い声、なまりなど特徴があるしゃべり方が耳につくので飽きない
  • 制作裏話(インタビューの途中だったが予約時間を超えたのでスタジオから追い出された、とか、ブース外のプロデューサーの話し声を拾ったり)を混ぜながら届けている
などなど、聞いての分析だから、違うかもしれませんが、かなり珍しい手法を豊富にとった革新的な番組だと私は思う。

「ドッキリ」のスタイルが生まれるきっかけ
今や寝起きドッキリやインタビュードッキリなど、日本のテレビでもおなじみとなりましたが、最初にそのスタイルを生んだプロデューサー、アレン・ファントについてこの回では取り上げています。

番組によるとアレンはもともと、世界大戦中に軍人をゲストに呼んで話してもらうというラジオ番組をやっていたんだけれども、みんなON AIRライトが点灯するとガチガチに緊張して、全然しゃべれなくなっちゃう。そこで、ON AIRのライトを消して、試しに練習で話してみよう、とウソをついて(方便ですね)話してもらうと、いいものができる、という経験をする。これが、のちにアレンをドッキリの仕掛人へとさせていく最初の原体験となる。

次にアレンはマイク(録音機)を隠して他人の日常を録るラジオ番組「Candid Microphone」を始める。女子トイレや美容院、マイクを忍ばせていろいろなところにいく。ところが、どうも面白いのが録れない。そこで、アレンが割り入って、ちょっと仕掛けをする。例えば、箱の中に見えないように人を忍ばせ、運送業者を呼んで、運ぼうとすると変な声を出すように仕組んでおく。すると、運送業者は怪しがって困り果てて、アレンが運ぶように押し通そうとすると怒る。そんなやりとりを録音して、「Candid Microphone」が定着していく。

1947年の放送を聞いてみてほしい。
http://www.oldtimeradiodownloads.com/comedy/candid-microphone/highlights-of-the-first-nine-shows-1947-08-24

厭われていたのが、ありがとうと言われるように
番組はまもなくテレビへ移行して「Candid Camera」というタイトルに変わるが、一部の視聴者からかなりの反感を買ってしまう。人の生活にヌケヌケと入ってきて、図々しくスパイする悪しきものだと酷評されるのだ。ある時アレンは、カメラが回っている間に仕掛けられたターゲットに対してドッキリであることを明かすと、その人がさっきまでの怒りを消して笑顔になることに気づき、ネタ晴らしが番組のハイライトに変わっていき、視聴者の反応も変わる。アレンはもはや厭われる相手ではなく、はめてくれてありがとうと言われるようになった。番組のテーマ曲はこう歌う。
「まったく予想してなかったときに、あなたが選ばれたの。今日のスターはあなた。スマイル!笑って!だってあなたは今番組に出ているんだから~♪」

僕は仕掛け人じゃない、本当の事件なんだ--No use in crying wolf, towards "candid" reality
ポッドキャストの一番面白かった部分はここ。アレンとその家族が登場している飛行機がなんとハイジャックされる。機長が行先をキューバに変えたことをアナウンスすると、乗客は凍り付く。しかししばらくすると一人のおばさんが、アレンが乗っていることに気づく。もしかしてこれは・・・ひとり考え込むおばさん。しばらくすると起立してシーンとした空間にこう言い放つ。「ハイジャックなんてされてないわ!見て、あそこにアレンファントがいる!ドッキリなのよこれは!」 気づかされた乗客たちは笑い転げ、一部にはシャンパンを開け始めている。自分が仕掛けたつもりはないアレンはぞっとし、近くに乗っていた聖教者に迫る。「助けてくれ、おれは仕掛けてなんかいない!」しかし聖職者は「な~に、その手には騙されないぞ!笑」と答え、アレンの要求は軽々しくはじかれてしまう。彼は自分の成功が、自分自身を罠にはめてしまったような感覚に陥る。仕掛けと現実が交差し人々にその境界線がわからなくなってしまった。(最後にリアルに起きたオチがポッドキャストで紹介されているので、そこは端折って、要約はここまでとします)

今や、誰もが仕掛人で誰もがスターという日常
仕掛け人という舞台上の役割と、日常とがごちゃまぜになってしまうことで混同が起きたのはアレン・ファントというテレビマンだからこそ、であった。しかし、今やスマートフォンのカメラで誰もがアレン・ファントのような仕掛人になれる。誰もがプロデューサーになりうる時代、だ。それはUGCという意味で力づけられた、民主化されたナラティブでのみ語られているが、成功と知名度を高めようとするプロデューサーの苦悩と、カメラの計り知れない影響を誰もが自覚しなければならにという要請の始まりでもある。プライバシーを侵害する嫌な奴だと思われ、成功のための手法を模索したファントと同様の苦悩と努力を今やだれもがしなければならないわけである。

透明な仕掛けたち
ドッキリの場合、被写体は記録されていることを知らない。記録することの許可も出していない。しかし、そこらじゅうにカメラがあり、カメラと音声認識が設備されたスマートフォンを誰もが手にしている今、ネタ晴らしさえ必要なく、常に仕掛けが日常に溶け込んでいるような状態である。リアリティへの認識は、演出されたリアリティ番組だけではなく、ソーシャルメディアのフィードのフレームに映り込んだ写真や動画たちが作っている。

被写体としての我々もカメラを意識し、行動を変化せざるをえなくなっている。普通ならばしないようなことも、カメラが回っていればやってしまう、カメラがあることでリスクを背負わせてしまうことの危険や、仕掛の舞台装置における不備などによる事故が放送にはずっとつきものだった。それらの事故はあまり知られていないけれど。今やそれらを選ばれた数人ではなくあらゆる個人が買って出るわけである。もっと視聴者に承認されるコンテンツを、と求めていくうちに過激になっていく。かつてアンディ・ウォーホールの説いた一生のうちの15分の名声では事足らなくなってきた。人々の注目といいね!を常に集めようとする全てのソーシャルメディアユーザにとって。

仕掛けとリアリティの境界線、見世物と現実の狭間がごっちゃになってしまうと、現実を切り売りし、自らの身体をもコモディティにしていくようになる。キム・カーダシアンがやってそれを自由と呼ぶ*1のであれば、これからは映画フェームのココがカメラの前で泣い*2てしまうようなことはないだろう。究極は自撮り事故死(selfie death)で、現実を舞台に自らを客体にした結果、現実のリスクを考慮できなくなってしまう事態が起きてしまう。


レンズとの関係と、そこにつながるネットワーク、グローバルな視聴者。
何が起きてもカメラの前なので、笑っていなければいけない。

2016年2月13日土曜日

ネット中立性をめぐるレトリックと鉄道

このところ長らく話題になっていたFacebookのFree Basicsについての議論をとっかかりに、ネット中立性と鉄道をめぐるレトリックについて少し考えてみる。ちょうど、私がパンカジ・ミシュラのアジア再興を読んでいる間の出来事なので、コンパスがあっち向いているかも。


Free Basicsとは

Free Basicsはインターネットを世界の人々に届けようというミッションをもとにFacebookがはじめたInternet.orgの取り組みで、インドやアフリカでインターネットへのアクセスがない人たちに対し、K本的には無料でネットにアクセスできるようにするというもの。

なんだか素敵な取り組みに聞こえるかもしれないが、仕組みとしてはテレコム事業者とFacebookが提携するような形をとって、そのテレコム事業者がインターネット接続を提供、Facebookはコンテンツを提供するようなものだと言えるだろうか。ウィキペディアとかFacebookなどが基本的に無料でアクセスできるんだけれども、その先を見るには課金が待っている。まあすばらしいビジネスプランだと思う。でもFacebookはこれをビジネスではなく、ミッションに駆り立てられた世界を良くする、アクセス不足問題を解決するものだと言っている。

Free Basicsについて説明したオフィシャルの動画

インドにおけるネット中立性の議論

Free Basicsの導入先となっていたインドについて、かなり雑(ごめんなさい)ですがまとめておきます。
まず、2015年春ごろ、インド電気通信規制庁TRAI(米FCCとか日本の総務省みたいなところ)が、ネット規制について検討する協議書を出したところがきっかけとなって、ネットの中立性についてインドでの議論が盛んになった。この協議書には、例えばSkypeやWhatsAppなどのIMサービスや、AmazonのようなECに代表されるようなOver-the-Topサービスと呼ばれるものについて、規制をすべきかどうか検討していて、そのなかで、ネットの中立性について触れられていた。これはまずい、と思った人たちがSave the Internetというキャンペーンを展開。

そして、このビデオが面白い(英語字幕を出してみてね)

ネット中立性について解説しているオモシロ動画。

公園を例えにしているけど、観光地で乗馬して、そんなふうにお金取られたりすることってありますよね・・・


その後TRAIへのコメントはインパクトがあったようだが、ネット中立性の解釈を勝手に変更されてしまう・・・

そこで新たなキャンペーンについて説明するビデオ(Babuってなんだろう・・・官僚?)


こうしたネットの中立性について、議論がある程度なされている状態で、FacebookのFree BasicsについてTRAIは意思決定しなければいけない状態だったのではないかと。

ついに2016年2月8日、TRAIがデータサービスの差別的価格設定を禁じる規則を制定し(貴重な情報が日本語化されているのにこの記事全然読まれてないな・・・)Free Basicsは撤退することになったようです。

植民地化とレトリックの話・・・

ネット中立性の話をしたいんじゃなくてレトリックの話をしたくて書きはじめたがやっとここにきてそれができそうだ。今回、まず注目したいのはAtlanticの記事「Facebook and the New Colonialism」。記事では、Facebookの役員でベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンがツイートでFree Basicsを禁止するのは「倫理的に間違っている」と書き込み、さらに「植民地主義に反対することが、長年にわたってインドの人々を経済的崩壊においやってきた。今さらなに?」と書いた。これらのツイートはすでに削除されているけれど、どういうマインドセットで世界をみているかがちょっとバレている。

ここには、西洋=科学技術がもたらす進歩というのは優れていて、それに反対するのは経済的効率が悪い、遅れたものであるという意味合いが含まれていて、それはかつてインドが植民地だったころの支配者の理論(英国が支配したほうが経済的にインド人にとって恩恵が大きい、といったようなレトリック)とほとんど同じテイストになっている。

そこから今に至って、さかのぼってみてみると、状況があまり変わっていないというか、レイオーバーして見えてくる部分がある。たとえば、オーロンビンド・ゴーシュは、1900年代にBande Mataram(原文読める‽)のなかで
帝国主義はこうした近代的な信条に訴求する自己正当化をはたさなければならなかったわけだが、そのためには自由を委託された者のふりをし、野蛮の文明化と未熟者の訓練を天から委任された期間はわれら慈悲心に満ちた征服者が任務を終えて恬淡と立ち去るまでのこと、とごまかすしかなかったのである。これこそが英国がムガル帝国の遺産を強奪したときの、そして英国流の高潔と寛大さでわれわれの目をくらませて隷属に黙従させたときの、正当化のための誓言なのだ

と書いていているし、(196ページ,アジア再興/パンカジ・ミシュラ,白水社)
タゴールにいたっては、『東洋と西洋』というエッセイのなかで
人間的というよりも科学的であることが世界全体を席捲している…(中略)…それは攻撃的で仲間を食い散らす傾向にあり、他人の財産を侵食して育ち、他人に残された未来を残らず飲み込んでしまう。(…)ひとつの目的だけに専念するから魂を売り渡してでも金を稼ごうとする大富豪のように、その力はすさまじい。
と書いて(198ページ,同上)いたりして、歴史の終焉なんてとんでもないなあ、なんて感じることもできる。

あんときのアレ(鉄道利権)とネット中立性

インターネットへのアクセスが権利であるという言い方についても、トラップがあると思っていて、それは鉄道と同じトラップに似ているように思います。蒸気機関車の発明から、鉄道網の整備、交通革命で、都市が“つながる”というのをもたらしたが、鉄道網というインフラが未開の地において開発されるときに、それがほぼ帝国主義とセットで、綿花やアヘンを運ぶ、とか資源をぶんどるのにあたって、鉄道が敷かれていた、ということを容易に思い出せると思います。いわゆる鉄道利権で、思い出せばいろいろ・・・。さらに注目すべきは、産業革命で富を成したのは新勢力だったというのも、変革のさなかの世界情勢として、今と相通じるところが多い。つながる~といったが均衡ではなく、都市部に安い労働者が居残った。

今回、つながる、ということで無料のアクセスを提供すると言っていますが、その先のコンテンツには課金されるわけだし、一定のテレコム会社を利用していないと、アクセスできない。Facebookと、現地企業が提携している、というなにか協業のような雰囲気ですが、あんときのアレとあまり変わらないのも想像に安いと思います。ザッカーバーグが、旧正月に投稿したメッセージは、私の目には喉から手が出るほど、グレイトウォールの向こう側の何億というユーザが欲しくてしょうがないのだろう、と感じました。(それができないから、インドを攻めていっているんだという印象)。滅国新方法論の中で梁啓超は西洋が弱体国を服従させる様々な手法をまとめていて(なんかこんなことばかりかいてるけど、引用してるだけで、特定の思想とかじゃないよ!)、その中に「鉱山採掘権、鉄道敷設権、そのほかの利権を外国人に譲渡すること」は、「国全体の主権を害する」という趣旨のことを書いていると、パンカジ・ミシュラが触れています。(217ページ,同書)。鉱山採掘が、今でいうところのデータマイニングにあたることを思うと、もうパラレルワールド過ぎて。

さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。

極めつけはアメリカの実業家マーク・キューバンの2014年のツイート。彼は、「もしランドが現代に生まれていたら、鉄道や製鉄ではなく、おそらくネット中立性について書いていただろう」と(ツイート消されてる・・・)書き込んでいました。実際のところ、ランドを信仰する人たちの組織のサイトには、2006年の時点で、ネット中立性よりもインターネットの自由を、という記事が書かれていたりもしている。
※上の鉄道利権のことと、リバタリアンなランドの話を横並びにするのは、ちょっと違う、というのも確かにそうだと思う。単に鉄道つながりで並べただけである。

レトリックに戻りますが、Atlanticの記事のなかで触れられている興味深い点のひとつにWhite Man's Burdenという表現があります。先ほどの植民地支配の話にもどりますが、白人は未開の地に経済的社会的安定をもたらすために、彼ら自身では統治能力に欠けるので、白人が支配してやるのが義務である、というような観点から作られた英国女王にささげた詩、およびそれに由来する考え方を指す。記事では、FacebookのFree Basicsにまつわる言い訳は、ほとんどこれと同じだと、MITのEthan Zuckermanが批判している。

恩知らずでいてはいけない、と。あなたたち自身では得られなかった恩恵を、代わりに負荷を背負ってでも提供するんだ、せっかく無料のアクセスを提供するのだから、恩を忘れるなよと。それってJerry HellerのN.W.A.との関係となんだか同じように見えてくる。













2016年1月26日火曜日

最近読んだもの。ランサムウェアの被害にあうオバチャン、情報過多など。

最近読んだり、聞いたりして興味深かったものをいくつか紹介。

■シリコンバレーを真似しないほうがいい。代わりにフローレンスなんかはどうだい?
https://hbr.org/2016/01/renaissance-florence-was-a-better-model-for-innovation-than-silicon-valley-is
Urban Plannerはみなシリコンバレーのまねをした町をつくりたがるが、だいたい失敗に終わる。なぜかというとシリコンバレーは新しすぎてそこからレッスンを学ぶには旬すぎる。だからそう、もっと昔のイノベーションのハブとなった町を見本とするべきだ。フローレンスとかね。(→イノベーションシティについて調べた本を絶賛発売中の人による寄稿だった)

■RadioLabのストーリー「Darkode」がすごく面白い。
http://www.radiolab.org/story/darkode/
もうすぐサンクスギビングだという頃、マサチューセッツ在住のふつうのおばちゃんに大惨事が訪れる。突如自分のPCが身代金要求型不正プログラムであるCryptoランサムウェアの被害にあい、ファイルを取り戻すために身代金をビットコインで払う羽目になる。いろいろな偶然が重なって散々な目にあう。このおばちゃんはウクライナ-ロシア系で、「ビットコイン」なんて言葉は初めて聞いたが、ランサムウェアのメッセージから、このランサムウェアの主はロシアとかウクライナ方面からの悪者に違いないということも察して、ロシア語で「あんたら地獄に落ちるわよ」と返信したりもしている。(笑)TORを初めてダウンロードしたり、ビットコインを手に入れるために大雪の中郵便局にいったり、レートが変動したり、乳児がいて忙しい娘にママ友との約束をキャンセルしてATMに行かせたり、笑えない話ですが、てんてこ舞いなおばちゃんの姿が笑えます。タイトルのDarkodeはスパムやボットネット、ランサムウェアを流布させるような一味の名称で、後半には某機関に転向したその創設者のインタビューも。

Cryptowallについては(日本語)
http://blog.trendmicro.co.jp/archives/11739

■所有者だけがアンロックできるスマート銃で、、ステキで劇的な射撃体験をシェアしよう
http://www.npr.org/sections/alltechconsidered/2013/05/15/184223110/new-rifle-on-sale
2013年に話題になった「スマートライフル」。wifiやカメラ、センサーがついてきて、トラッキングポイントという技術を使って、正確に射撃したり、録画した映像をソーシャルメディアに投稿できるものだ。悲惨な銃撃事件が耐えないアメリカですが、2016年に入ってからはオバマ大統領が銃規制の目的でスマート銃の導入を視野について検討するよう国土安全保障省に呼びかけをしたりしています。そうすれば、銃の所有者が、スマートディバイスとしての銃を持つようになれば、利用データなどの把握が可能になり、事件を防ぐことができるという考えのようですが・・・。

■3Dカメラで、容疑者の顔写真を照合し識別、これで東京オリンピックも安全だ
http://gizmodo.com/3d-cameras-will-help-tokyo-cops-take-futuristic-mugshot-1754924981
警視庁は、客観証拠の確保に努めようと技術的に進んだ取り組みを行なうことにしたようだ。朝日新聞が報じた、NPAの報告書の原文を見ると、「防犯カメラ等で撮影された人物の顔画像と、別に取得した被疑者の三次元顔画像とを照合し、個人を識別する」三次元顔画像識別システムを今年4月からすべての都内の交番に設置するとのことだ。この報告書には、他にもいろいろと興味深いテクノロジーについて掲載されている。通信傍受、高度情報技術解析センターの設置(済み)など。これらの取り組みの背景としては、「司法改革や否認事件の増加を受けて」とのことである。
(→NPAの報告書はわりと毎年読むようにしてるけど、記事の参照先がH26なのがちょっと不思議。朝日の元の記事は、警察周りあがりの記事を英語で執筆ものだろうからちゃんと調べたほうがよさそう。)

NPAの報告書(H26)
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h26/honbun/html/qf320000.html

■インフォメーションオーバーロード~情報過多からの叫び~
https://hbr.org/2016/01/what-youre-hiding-from-when-you-constantly-check-your-phone
ちょっと前まではデジタルネイティブなんて呼ばれてもてはやされていたミレニアル世代ですが、現実はもっと暗いものよう。ニールセンやPEWの調査、それから最近増加しつつある「テクノロジー中毒」分野の研究によって、ミレニアル世代は、寝るギリギリまで常時モバイル端末などを手にしながらも、テクノロジーによってストレスを感じている。さらに、手元に携帯がないことは更なる大きなストレスともなり、どっちにしてもストレス!根本的にはミレニアムたちは職やお金といった基本的なところでのストレスが最も大きい。そして気を紛らわしたり活用することで他より抜きん出ることができる伴侶としてのテクノロジーと共に過ごすしかない。このところ、東海岸では情報過多についての議論が増えているような気がする。

■FOMOからJOMOへ。
http://www.wnyc.org/story/fomo-jomo/
上で紹介した「情報過多」について話す時に、使われるよく使われる英単語がFOMOだ。FOMOとはFear Of Missing Out(見逃すことの恐れ)。あなたも今週は一回くらい、どこかで、SMAP解散騒動に関する何らかの記事や、ベッキーとゲスの極みに関する何らかのコラムを読んだことだろう。(私は読まなかったし、テレビもないので、正直なんだかさっぱりだし、知らなくていいや)そして、職場や友人とそれらのトピックについて参照したおしゃべりを少なくとも一回は耳にしただろう。知らないとヤバイ、仲間はずれにされたくない、損した気分になりたくない、そんな気持ちがFear of Missing Outだ。このFOMOという言葉を生み出したメイカーベースの創設者、Anil Dashは、見逃すことを楽しめ!とJOMO(Joy Of Missing Out)を提唱。FOMOを生み出すようなプログラム、ソフトウェア、テック企業の文化背景などについても触れています。(ネット黎明期はそんなんじゃなかったって!)

■魂を売ったコンピュータ、プライバシー、データ保護の国際会議CDPD
https://ar.al/notes/why-im-not-speaking-at-cpdp/
その名のとおり、コンピュータ、プライバシー、データ保護という甚大なテーマを扱う年次会議、略称CDPDは今年もビッグネームスポンサーたちを抱えて素晴らしい会議を行なう予定だ。Google, Facebookはもちろんのこと、Palantirも。日本からは中央大学、明治大学も。もっとも国際的で大規模なタイプの会議だと思われますが、オープンソースでインディペンデントなモバイルハードウェアを作るプロジェクトindieのAral Balkanは怒って招待を断った。テック系のカンファレンスだったらやむをえないなと思う一方、彼はCDPDにはある程度期待感を持っていたんだろう。Palantirのロゴが記された会議で皮膚癌で亡くなったプライバシーアドボケートのCaspar Bowdenに功労賞を与えるなんて、侮辱行為に等しいとAralは感じているが、過去のスポンサーのロゴを見ると、そもそもそんなに期待できるものでもないかもね。

2016年1月8日金曜日

数値で測ることの恐怖

あけましておめでとうございます。
年始早々に暗くてすいませんが(年末に書いたんです)
データドリブンな世界における注意に続きがあるんです。続きというのは後からでてくるものですが、後ろにあるわけではなくて前にありました。なんだかもう、過去のゲームをもう一回やっているんじゃないかという気分になってきました。

Alexis C. Madrigalが、データドリブンな世界に潜む欺瞞を語るときに、自分の健康を計るうえで向き合う―がそれはうそっぱちであるもの―体重計について触れていましたが、最近手にした原克の著書「身体補完計画 すべてはサイボーグになる」はその源流となるところを紐解いているように感じます。

振り返ってみるとこの『計る』という行為の裏側には、アメリカ建国から自らの国力を高めるためという目的があった。クリーンで健康なアメリカ国民というのを広めるうえで、優性な血統が汚されることなきよう最新の科学を応用して測定する。そこに標準体型が数値として表され、見本となるような像(ノームとノーマ)まで作られていった。

ところで計るという行為と優性思想を考えたときに、私が思い出すのはベルギーの植民地であったルワンダで起きたジェノサイドである。学生のころ文化人類学の権威(と同じ苗字!)の講義を受けられる!とわくわくして聞きにいくと、ツチ族とフツ族の対立について少数派と多数派の文脈で語られるのみであったが、そののちにルワンダ虐殺についての映画作品「Sometimes in April」を見て、その背景のおぞましさを改めて思い知らされた。入植者が、鼻の高さで現地の人々をツチ族とフツ族に種別分けしたのだった。そして携帯を義務付けられている身分証に計測に基づき、いずれに属すか記されている。それがどちらかであるか、というもののみが登場人物たちの生死を分かつことになる。

身体の特定の部位を優性思想のもとに測定しソートする行為。もっと言うと、ツチかフツか明記した身分証を必携させており、識別子となって身分証に書かれていることが生死を分ける。ジグムント・バウマンのリキッドサベーランスとともに、これからのデータドリブンな社会が何を描いていくか、過去は十分に語っているような気がしてならない。最新の科学の力で数値化し、ソートするその行く末は「適合者」のみをあぶりだす行為だ。そしてその計測・解釈がすべて正しいという前提でのみ適合、不適合の二元性から、私たちは逃げることができない。

インターネットは歪んだ現実のみを流布する。それは「テクノロジー」と「健康」に偏っている。そして我々は哀れにも金を払ってフィットネスに通わなければならない。そしてフィットすべき標準のスコープとサンプルは、もっとずっと偏っている。

2015年10月20日火曜日

データドリブンな世界の注意書き

少し時間がたってしまったが、データドリブン依存について批判する記事が目に付いたのでいくつか紹介する。

ひとつは学術論文で、もうひとつはABCニューズネットワークがファンドしているポップカルチャー中心のネットメディアFusion。一般においても、学術分野においても、データから求めた解に依存することへ注意が必要だと認識する段階にあるということが見て取れる。

ではひとつめ、Sophie ChouRace and the Machine

MITの学生(と思わしき)で、ブルームバーグが開いたデータフォーグッドエクスチェンジ(#D4GX)というカンファレンスにて発表したもの。

ペーパーもプレゼン資料も、そんなに時間をかけてつくったものじゃない印象をうけますが、彼女のメッセージをかいつまんで要約すると次のようなことではないだろうか。
ユーザの行動を分析するデータマイニングは物事を断片的に決め付けて、ステレオタイプを助長しがち。人種(race)は文脈や行動、社会の中で変容するものだという構築主義の考え方に則れば、アルゴリズムで人種を断定するのはレイシズム。しかもこれらのデータを元に知識処理をしてステレオタイプを元に増幅させたり、医療、犯罪などの重大な判断を下そうとするものなのだから、もっと注意が必要。よって、社会構築主義的な人種の概念を持つことで偏見をさける新たな方法が必要。

うん、そうだね。と思うがずいぶんさらりとした内容である。

ふたつめ。Fusion.net掲載
The deception that lurks in our data-driven world(データドリブンな世界に潜む欺瞞)

こっちのほうが読み応えがあります。というのも、the AtlanticやWiredの編集長してたAlexis C. Madrigalが書いた記事だから。内容はざっとこんな感じ。
毎日、儀式のように私はウソっぱちデータと向き合っている。体重計にのって、自分をデブだと思ったり痩せたと思ったり・・・でも何キロあるからデブなんていうことではないだろう。本当はいろいろな尺度のなかで体重を併せて考えた結果、太りすぎだという応えに行き着くのだから。体重という生のデータは変動するから僕はわざと自分に厳しくしたいときはランニング後汗を書いてすぐに体重計に乗るんじゃなくて、一服しておなかを満たしてから乗るんだ。そうすると、ああまだ重い、がんばって運動しなくちゃ、って自分に言い聞かせることができる。ウソも方便だ。

というナラティブの中に、データと付き合う上で考えるべき3、4つの逸話が詰まっています。かなり簡単に言い換えると次のようなこと。(もちろん私独自の解釈や言い換えが混ざってます)

・権威ある科学雑誌「サイエンス」が調査したところ、同誌で発表された実験結果のうち、もう一回やってみて同じ結果がでたのはたった36パーセントで、データを扱う立派なサイエンティストたちの間でさえゆがみが出てしまっている。その背景にあるのは統計的に有意なデータばかりを使って有意な結果をもたらすp値のハッキングやセレクションバイアスなどがある。 
・複雑な世の中を簡易に処理できるよう統計を用いていった結果、森が死んだ。複雑な自然のエコシステムを、長い視野で見ようとせず、文字通り木を見て森を見ない行動。 (この話を読んで私は、ドキュメンタリー「All Watched Over By Machines of Loving Grace  - The Use and Abuse of Vegetational Concepts」のことを想起した)
・トラッキングにより分析が可能なウェブ広告は正確だと思ったらおお間違い。ブルームバーグの調査によると、トラフィックのうち多くの割合を非人間であるボット(ソフトウェア)が締めていて、これらの偽トラフィックによって広告費がつりあがっている状態にあり、これが今のウェブを煽動しているから、ろくな内容のない切り貼りの記事をまとめたサイトが広告費で儲かったりしている。

科学者じゃなくて一般ユーザも否応なしにデータ漬けの日々を送らなければいけない今、データとの付き合い方、向き合い方について誰もが考えなければいけない(AND 考えてもわりとやりようが無い)ようになっているのをよくあらわした読み物だったので取り上げてみました。

2015年9月3日木曜日

シェアリングエコノミーの力関係と分け前

ソーシャルメディア疲れでほとんどインターネットに嫌気がさしていた2014年末に、偶然耳にしてすぐファンになったポッドキャストがある。「Benjamen Walker's Theory of Everything」というフィクションとノンフィクションを織り交ぜたスタイルの番組だ。最初に聞いたのは広告にあふれたFacebookへの皮肉にみちたシリーズ「Dislike Club」だった。創作だと思われる物語の部分と、インターネット批評家や先駆者のインタビューが巧妙に織り交ぜられていて、とても面白い。皮肉を交えてFacebook風に言うならば、ナオミ・クラインのNo Logoに「いいね!」している人と、非営利メディアに「いいね!」している方におすすめだ。

そんなBenjamen Walkerが新たにテーマとして取り上げたのは「共有経済(Sharing Economy)」。車を相乗りしたり、空き部屋を貸したり…インターネット上のサービスなどを活用して余った資源を活用して生まれる経済圏で、欧米のサービスが注目を集めている。日本語で「共有経済」について検索してみると、21世紀らしいアプリやソーシャルメディアを通じた共有経済のビジネスモデルのきらびやかな革新性に焦点をあてているものがほとんどで、批評はあまり目に付かない。

状況はアメリカでも同じようで、シェアリングエコノミー系スタートアップ企業についての記事は概ねインターフェイスがどうすばらしいか、ユーザにとってどんな利点があるかといったポジティブな内容が目に付きやすい一方、シェアリングエコノミーの担い手となる人々についてはあまり焦点が当たらない。例えば車両やその駐車場、従業員としての運転手といった仕組みでタクシー会社を運営するよりも、一定基準を満たした自家用車をつかって空いている時間にアプリを介してお客を見つけ、その乗車賃の歩合で売り上げを立てるUberのほうが効率的だというのは誰もが感じるところでだろう。しかし、タクシー業界がUberやLyftなどの台頭で先行かなくなった社会はどんな様子なのか、番組ではまさにそれが現実になったサンフランシスコでインターンが調査を報告している。

3回にわたり共有経済の担い手を潜入ルポしたシリーズ「Instaserfs」は意図的に奇妙な構成になっている。プロデューサーのベンジャミンは自分で調査しようとせず、サンフランシスコ在住のインターン、アンドリューに代行させ、報告させるのだ。予算も意思決定権ももっているプロデューサーのベンジャミンに対し、インターンのアンドリューは明らかに選択肢が少ない立場にあるが、ベンジャミンはアンドリューに対し「パートナー」と呼びかける。これは番組の仕組みそのものを共有経済仕立てにして、その力学を見つめようという体裁をとっている。アンドリューは一ヶ月間、共有経済モデルのアプリを使って生活し、必要な稼ぎもこれらの共有型経済から捻出する。アンドリューは、買い物代行や洗濯代行、交通系、宅配などさまざまなアプリをダウンロードし、これらの共有経済から小遣いを稼ぐ。

シリーズを通して聞いたところ(皮肉にもポッドキャストを聞いたのはスタートアップ企業の集まるカリフォルニアのサニーベールを旅行中、バスや電車の中だった)アンドリューの小遣い稼ぎは共有経済の二つの大きな特徴を示していると感た。一つは、新しい労働の形(労働者でないから保護がない)、もう一つは、機能(役割)を重視し人間性を貶する傾向だ。以下、自分なりににまとめてみる。

1.小遣い稼ぎは、決して労働ではない 

空いた時間に稼げる、自由で新しい働き方として注目されているシェアリングエコノミーだが、ひとたびその担い手に焦点を当ててみると様々な影が見えてくる。労働者であれば保護されていることが保護されず、例えば運転を代行して事故にあったときの保険をUberが保証するわけではない。また、急に買い物代行の依頼がこなくなって仕事にあぶれてもアプリ運営会社が雇用機会を保証するわけでもない。

2.アプリは司令塔、命令は一方向、中の人には会えない 

余分な接触を避けることで、小遣い稼ぎをしている人とお客さんがトラブルにならないよう様々なルールが設けられていることをアンドリューが伝えている。買い物代行については、ドアの前において顔もあわせるなというものも。こうした体験を通じアンドリューは非人間的だ(dehumanizing)と語っている。運営会社としては顧客が依頼していることだけをやってほしいのであって、その業務をする人がどんな人間性であるかというのは関係がない、という構造がそうさせているのだろうか。
またアプリやSMSで仕事を引き受ける時、何か問題があればサポートセンターのようなところに連絡をすることができる場合もあるが、ほとんどは受動的なものでUberを介して働いているからといって運営会社の人と直接今後のUberの改善について会議をするような機会は設けられないうえ、配達業務であれば商品を買って顧客に届ける間中ずっと顧客と運営会社にその行動をGPSなどを通じて監視され、最後には顧客が一方的に評価(rating)をする。

//ところで、シリーズの最後にアンドリューは「Manserve」というお姫様(顧客)に仕える執事代行のようなサービスで小遣い稼ぎをします。どこまでがノンフィクションかわからない部分がありますが、ベンジャミンとの問答が笑えます。


このシリーズは大変な反響を呼び、共有経済について再検討すべきとのメッセージに呼応する記事が次々と投稿された。たとえば、メリーランド大学の教授(法学)によるこの記事など。(番組の面白さについて語れる仲間が少ないと感じていたので、反響をみて話し相手がいるかも、という希望が生まれた!でももっと気軽な相手だといいのですが…)

共有経済の影に注目したニュースは増えつつある。8月26日、Airbnbのアジアの宿主として首位であったkelly Kampenのアカウントが急遽、何の説明もなく差し止められたことで議論を呼んでいる。過去2年間に700人が泊まり、40,000ドルの純益を上げているKellyにとって突然のアカウント差し止めは死活問題だ。

また共有経済の担い手が訴訟を起こすケースもあり、つい先日(2015年9月1日)サンフランシスコの地方裁判所判事が、Uberの運転手を独立請負人(independent contractor)ではなく雇用者(employee)として扱うよう求める訴訟を集団訴訟として認めた。Uberは何度も規約を変更しており、最近のものは運転手がUberに対し訴えることができない条項を含んでいるそうだが、Uberが各運転手を等しく独立請負人として扱っていることで、運転手たちが集団訴訟を起こすことは可能だと判事が認めたようだ。(裁判の日程は決まっていないので、今後注目)

いずれの出来事も、「共有経済」におけるパワーバランスに問題があることを示唆している。「シェアリングエコノミー」という呼び名についてアンドリューは「俺だったらピラミッドスキーム経済と呼びたい」と番組の中で話している。共有というと何だかバランスのとれた対等関係な印象があるが、「パートナー」と言われながらもむしりとられるだけな気持ちを番組全体で表象しているようでもある。
9月2日に公開された矢野経済研究所の調査によると、日本では2020年の東京オリンピックに向けて国家戦略特区での個人宅での宿泊が規制緩和されるほか、外国人観光客がUberのような乗り物系シェアリングエコノミーサービスを利用する機会が増える展望にある。新しい働き方や経済の仕組みにこれから勢いをつけようとするのなら、先達の絶えてきた批判の復習くらいはしておいて欲しいと思う。