Free Basicsとは
Free Basicsはインターネットを世界の人々に届けようというミッションをもとにFacebookがはじめたInternet.orgの取り組みで、インドやアフリカでインターネットへのアクセスがない人たちに対し、K本的には無料でネットにアクセスできるようにするというもの。なんだか素敵な取り組みに聞こえるかもしれないが、仕組みとしてはテレコム事業者とFacebookが提携するような形をとって、そのテレコム事業者がインターネット接続を提供、Facebookはコンテンツを提供するようなものだと言えるだろうか。ウィキペディアとかFacebookなどが基本的に無料でアクセスできるんだけれども、その先を見るには課金が待っている。まあすばらしいビジネスプランだと思う。でもFacebookはこれをビジネスではなく、ミッションに駆り立てられた世界を良くする、アクセス不足問題を解決するものだと言っている。
Free Basicsについて説明したオフィシャルの動画
インドにおけるネット中立性の議論
Free Basicsの導入先となっていたインドについて、かなり雑(ごめんなさい)ですがまとめておきます。まず、2015年春ごろ、インド電気通信規制庁TRAI(米FCCとか日本の総務省みたいなところ)が、ネット規制について検討する協議書を出したところがきっかけとなって、ネットの中立性についてインドでの議論が盛んになった。この協議書には、例えばSkypeやWhatsAppなどのIMサービスや、AmazonのようなECに代表されるようなOver-the-Topサービスと呼ばれるものについて、規制をすべきかどうか検討していて、そのなかで、ネットの中立性について触れられていた。これはまずい、と思った人たちがSave the Internetというキャンペーンを展開。
そして、このビデオが面白い(英語字幕を出してみてね)
ネット中立性について解説しているオモシロ動画。
公園を例えにしているけど、観光地で乗馬して、そんなふうにお金取られたりすることってありますよね・・・
その後TRAIへのコメントはインパクトがあったようだが、ネット中立性の解釈を勝手に変更されてしまう・・・
そこで新たなキャンペーンについて説明するビデオ(Babuってなんだろう・・・官僚?)
こうしたネットの中立性について、議論がある程度なされている状態で、FacebookのFree BasicsについてTRAIは意思決定しなければいけない状態だったのではないかと。
ついに2016年2月8日、TRAIがデータサービスの差別的価格設定を禁じる規則を制定し(貴重な情報が日本語化されているのにこの記事全然読まれてないな・・・)Free Basicsは撤退することになったようです。
植民地化とレトリックの話・・・
ネット中立性の話をしたいんじゃなくてレトリックの話をしたくて書きはじめたがやっとここにきてそれができそうだ。今回、まず注目したいのはAtlanticの記事「Facebook and the New Colonialism」。記事では、Facebookの役員でベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンがツイートでFree Basicsを禁止するのは「倫理的に間違っている」と書き込み、さらに「植民地主義に反対することが、長年にわたってインドの人々を経済的崩壊においやってきた。今さらなに?」と書いた。これらのツイートはすでに削除されているけれど、どういうマインドセットで世界をみているかがちょっとバレている。
ここには、西洋=科学技術がもたらす進歩というのは優れていて、それに反対するのは経済的効率が悪い、遅れたものであるという意味合いが含まれていて、それはかつてインドが植民地だったころの支配者の理論(英国が支配したほうが経済的にインド人にとって恩恵が大きい、といったようなレトリック)とほとんど同じテイストになっている。
そこから今に至って、さかのぼってみてみると、状況があまり変わっていないというか、レイオーバーして見えてくる部分がある。たとえば、オーロンビンド・ゴーシュは、1900年代にBande Mataram(原文読める‽)のなかで
と書いていているし、(196ページ,アジア再興/パンカジ・ミシュラ,白水社)
タゴールにいたっては、『東洋と西洋』というエッセイのなかで
今回、つながる、ということで無料のアクセスを提供すると言っていますが、その先のコンテンツには課金されるわけだし、一定のテレコム会社を利用していないと、アクセスできない。Facebookと、現地企業が提携している、というなにか協業のような雰囲気ですが、あんときのアレとあまり変わらないのも想像に安いと思います。ザッカーバーグが、旧正月に投稿したメッセージは、私の目には喉から手が出るほど、グレイトウォールの向こう側の何億というユーザが欲しくてしょうがないのだろう、と感じました。(それができないから、インドを攻めていっているんだという印象)。滅国新方法論の中で梁啓超は西洋が弱体国を服従させる様々な手法をまとめていて(なんかこんなことばかりかいてるけど、引用してるだけで、特定の思想とかじゃないよ!)、その中に「鉱山採掘権、鉄道敷設権、そのほかの利権を外国人に譲渡すること」は、「国全体の主権を害する」という趣旨のことを書いていると、パンカジ・ミシュラが触れています。(217ページ,同書)。鉱山採掘が、今でいうところのデータマイニングにあたることを思うと、もうパラレルワールド過ぎて。
さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。
極めつけはアメリカの実業家マーク・キューバンの2014年のツイート。彼は、「もしランドが現代に生まれていたら、鉄道や製鉄ではなく、おそらくネット中立性について書いていただろう」と(ツイート消されてる・・・)書き込んでいました。実際のところ、ランドを信仰する人たちの組織のサイトには、2006年の時点で、ネット中立性よりもインターネットの自由を、という記事が書かれていたりもしている。
※上の鉄道利権のことと、リバタリアンなランドの話を横並びにするのは、ちょっと違う、というのも確かにそうだと思う。単に鉄道つながりで並べただけである。
レトリックに戻りますが、Atlanticの記事のなかで触れられている興味深い点のひとつにWhite Man's Burdenという表現があります。先ほどの植民地支配の話にもどりますが、白人は未開の地に経済的社会的安定をもたらすために、彼ら自身では統治能力に欠けるので、白人が支配してやるのが義務である、というような観点から作られた英国女王にささげた詩、およびそれに由来する考え方を指す。記事では、FacebookのFree Basicsにまつわる言い訳は、ほとんどこれと同じだと、MITのEthan Zuckermanが批判している。
恩知らずでいてはいけない、と。あなたたち自身では得られなかった恩恵を、代わりに負荷を背負ってでも提供するんだ、せっかく無料のアクセスを提供するのだから、恩を忘れるなよと。それってJerry HellerのN.W.A.との関係となんだか同じように見えてくる。
ここには、西洋=科学技術がもたらす進歩というのは優れていて、それに反対するのは経済的効率が悪い、遅れたものであるという意味合いが含まれていて、それはかつてインドが植民地だったころの支配者の理論(英国が支配したほうが経済的にインド人にとって恩恵が大きい、といったようなレトリック)とほとんど同じテイストになっている。
そこから今に至って、さかのぼってみてみると、状況があまり変わっていないというか、レイオーバーして見えてくる部分がある。たとえば、オーロンビンド・ゴーシュは、1900年代にBande Mataram(原文読める‽)のなかで
「帝国主義はこうした近代的な信条に訴求する自己正当化をはたさなければならなかったわけだが、そのためには自由を委託された者のふりをし、野蛮の文明化と未熟者の訓練を天から委任された期間はわれら慈悲心に満ちた征服者が任務を終えて恬淡と立ち去るまでのこと、とごまかすしかなかったのである。これこそが英国がムガル帝国の遺産を強奪したときの、そして英国流の高潔と寛大さでわれわれの目をくらませて隷属に黙従させたときの、正当化のための誓言なのだ」
と書いていているし、(196ページ,アジア再興/パンカジ・ミシュラ,白水社)
タゴールにいたっては、『東洋と西洋』というエッセイのなかで
「人間的というよりも科学的であることが世界全体を席捲している…(中略)…それは攻撃的で仲間を食い散らす傾向にあり、他人の財産を侵食して育ち、他人に残された未来を残らず飲み込んでしまう。(…)ひとつの目的だけに専念するから魂を売り渡してでも金を稼ごうとする大富豪のように、その力はすさまじい。」と書いて(198ページ,同上)いたりして、歴史の終焉なんてとんでもないなあ、なんて感じることもできる。
あんときのアレ(鉄道利権)とネット中立性
インターネットへのアクセスが権利であるという言い方についても、トラップがあると思っていて、それは鉄道と同じトラップに似ているように思います。蒸気機関車の発明から、鉄道網の整備、交通革命で、都市が“つながる”というのをもたらしたが、鉄道網というインフラが未開の地において開発されるときに、それがほぼ帝国主義とセットで、綿花やアヘンを運ぶ、とか資源をぶんどるのにあたって、鉄道が敷かれていた、ということを容易に思い出せると思います。いわゆる鉄道利権で、思い出せばいろいろ・・・。さらに注目すべきは、産業革命で富を成したのは新勢力だったというのも、変革のさなかの世界情勢として、今と相通じるところが多い。つながる~といったが均衡ではなく、都市部に安い労働者が居残った。今回、つながる、ということで無料のアクセスを提供すると言っていますが、その先のコンテンツには課金されるわけだし、一定のテレコム会社を利用していないと、アクセスできない。Facebookと、現地企業が提携している、というなにか協業のような雰囲気ですが、あんときのアレとあまり変わらないのも想像に安いと思います。ザッカーバーグが、旧正月に投稿したメッセージは、私の目には喉から手が出るほど、グレイトウォールの向こう側の何億というユーザが欲しくてしょうがないのだろう、と感じました。(それができないから、インドを攻めていっているんだという印象)。滅国新方法論の中で梁啓超は西洋が弱体国を服従させる様々な手法をまとめていて(なんかこんなことばかりかいてるけど、引用してるだけで、特定の思想とかじゃないよ!)、その中に「鉱山採掘権、鉄道敷設権、そのほかの利権を外国人に譲渡すること」は、「国全体の主権を害する」という趣旨のことを書いていると、パンカジ・ミシュラが触れています。(217ページ,同書)。鉱山採掘が、今でいうところのデータマイニングにあたることを思うと、もうパラレルワールド過ぎて。
さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。
極めつけはアメリカの実業家マーク・キューバンの2014年のツイート。彼は、「もしランドが現代に生まれていたら、鉄道や製鉄ではなく、おそらくネット中立性について書いていただろう」と(ツイート消されてる・・・)書き込んでいました。実際のところ、ランドを信仰する人たちの組織のサイトには、2006年の時点で、ネット中立性よりもインターネットの自由を、という記事が書かれていたりもしている。
※上の鉄道利権のことと、リバタリアンなランドの話を横並びにするのは、ちょっと違う、というのも確かにそうだと思う。単に鉄道つながりで並べただけである。
レトリックに戻りますが、Atlanticの記事のなかで触れられている興味深い点のひとつにWhite Man's Burdenという表現があります。先ほどの植民地支配の話にもどりますが、白人は未開の地に経済的社会的安定をもたらすために、彼ら自身では統治能力に欠けるので、白人が支配してやるのが義務である、というような観点から作られた英国女王にささげた詩、およびそれに由来する考え方を指す。記事では、FacebookのFree Basicsにまつわる言い訳は、ほとんどこれと同じだと、MITのEthan Zuckermanが批判している。
恩知らずでいてはいけない、と。あなたたち自身では得られなかった恩恵を、代わりに負荷を背負ってでも提供するんだ、せっかく無料のアクセスを提供するのだから、恩を忘れるなよと。それってJerry HellerのN.W.A.との関係となんだか同じように見えてくる。