2025年2月21日金曜日

オニオンスープとジョルジェスク・レーゲン(もっと良くなることPart3、または、しないでおくこと )

年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。

 Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。

チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。


小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw

そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。

桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より 

 
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。

食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。

自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。

さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。

このような難しい考え事をするのには、バスタブに浸かるのがぴったりである。わたしにとって、とっておきのバスタブはColeman’s Bathtubだ。


「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。


そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。

ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。

奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。

生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。




2024年11月10日日曜日

いまどんな事態か―対立以外のなにか

その日の朝、まだアメリカ時間では投票終了にならないころ、女性大統領が誕生する可能性があるのかも、とわくわくした気持ちで家を出た。ところが、数えるほどしか女性がいない会場での登壇を終えた夕刻には、トランプの当選確実が騒がれた。就寝前、スマホでSNSを眺める。前日まで、セレブたちが投稿した応援コメント―そのほとんどは暗に、女性の身体の自由を顕示するように見えた―待ちきれない祝福モードは、戸惑い、悲嘆に変わっていた。Youtubeではトーク番組のホストが、皮肉まみれな失意と希望を笑いの種にするのを目にした。こう書くと、私はリベラルな友達に囲まれ、リベラルなコンテンツを消費する認識バブル世界に住んでいるように見える。そんな社会的構造に暮らす私の世界の認識論によれば、トランプの再選は起きえない、ということになるが現実は違う。



何が起きているのか、改めて考えてみよう。実は、私の周りにはトランプ支持者の友人が一定数いる。特に、本来自分がもっとも強いつながりを持っていたカルチャーのコミュニティは、近年トランプ支持に染まっている。昔から、陰謀論者が一定数いるコミュニティではあったが、そんな彼らの反権威主義的な思考が、すっかりトランプ支持に回収されてしまった。もともと話が合ったのに、ここ5年で、反ワクチンやQアノンとの連動し、男らしさと国粋主義が強化され、彼らと音楽のことを話すことはほとんどなくなってしまった。わたしがSNSで消費するコンテンツには、夫婦に関する強い保守思想があふれている。わたしは、疲れた時に、ヨーロッパのどこかの田舎で4人の子供を育てる身でありながら、小麦からパンを発酵させて焼いたり、パスタを粉からつくったり、ガラス瓶にフルーツを漬けて健康的なジュースをつくるそばかす美人を見て、「いいね」を押している。特に熱心な関心も持たぬまま、私が流し見している米国ドラマは、ラテンアメリカ系の主人公たちの自由恋愛を追っているようでキョーレツな保守思想の家族像を売っている。主人公の若い女性は、永遠の愛にあこがれているし、その兄弟のゲイも、パートナーとの結婚に至る。よく思い出してい見ると登場人物は、一人残さず学位不要のサービス業だ。部屋に落ちたごみを拾ったり、郵便受けに届いたピザのチラシを捨てたりしながら、たぶん私は、名前もろくだまし覚えていない登場人物たちがうまくいくことを応援している。このような世界に、トランプ政権は確実に誕生する。

 一夜あけると、世界中の友人たちが、アメリカにいる友人たちの不安を取り除こうと思慮したコメントを投稿した。選挙はいくつかある民主主義国家の執り行う手段のうち一つでしかなく、いくら公式がそれを否定しても、ほかの方法でケアを組織し実現することはできること、選挙の敗北は、負けを意味するわけではなく、大多数の民意が自身のそれと異なることを表していることにすぎないため、必要なのは彼らと共に求め実現するために動く必要を意味していること、これまでだって望みとことなる結果と対峙しながらもなんとかやってきたこと。そうした思慮深いコメントは『負けないで、あきらめず闘い続けて』とは書かなかった。あきらめずに闘い続けるのは、賢明ではなさそうである。ある友人は「選挙結果は問題ではなく、問題に対する症状である」として、闘うのはもうやめて、と呼びかけた。彼女の真意はこうだ。わたしたちは、選挙結果として表象するよりもずっと深刻な問題を抱えている。それは構造的な分断であり双方が互いの見解を聞き入れる機会がないことだ。 

 ここ2年くらい、「市民社会」について語る機会が増え、わたしは改めて市民社会は何か、集中的に考えてきた。一般的に、国連用語の市民社会は、政府組織に対するNGOと、営利企業に対するNPOとして解釈される。市民社会とは何か、知識を問うテストの選択問題であれば、NGOとNPOにマルをつければよい。ところが、読み進めていくと、別の解釈にたどり着く。市民社会の形成こそ、国家の形成、つまり国家が市民社会なのだ。場合によっては、資本主義社会こそ市民社会とも言える。関連書籍を十分に読み、市民社会の関係者と話す機会を持つまで、私はテストの暗記問題のように、市民社会とは、NGOやNPOを含むコミュニティを代弁するエンパワメント目的の主体としてカテゴライズしていた。しかし、実際の世界ではそのようなカテゴリーの主体が市民社会なのではない。本人の自覚の有無を問わず、わたしたちはともに社会を作っているのだ。ともすれば、その手綱は、個人―家族―国家―社会のように。これに私はぞっとした。

 第一次トランプ政権下の保守派判事による人工中絶の違憲判決、移民の強制送還といった出来事は、親しい人との関わり、個人の欲求、そして自分の身体に対する自律した意思決定に直接的に介入し、国家が持つ暴力装置ぶりをこれ見よがしに表した。それでもニュースで見聞きしただけでは、何が起きているかわからなかった。長い時間、私は「チョイス」について十分な意識を持たぬまま過ごしていた。都会での子育てや、新しいウイルス、子どもの代わりに選択をすることなどたくさんの不安を抱えながらそれらを無いものとして過ごしながらすごしていた。コロナで、ケア労働を担うはずの家族が来日しなくなって、家事育児とそれにかかわる金銭を一手に受けることになっても、不安な気持ちを正当化する理由はどこにもなかった。2022年、ウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのを見たときは、「一回きりの出来事でも許されないのだろうか?それともどういうことなんだろうか」とひどく困惑ししばらく陰鬱なきもちになった。

 国連会議に参加して市民社会についての解釈を試みるなかで私は、本で見つけたヘーゲルが市民社会について書いた次の一節をノートにメモした。
「具体的な人格、すなわち特殊的なものとして自己にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性との恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。―しかし、特殊的人格は、本質的にはほかの目標的特殊性との関係のうちにあるものとしてある。それは、各々の人格が他の人格によって媒介されるとともに、同時にまさに他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとして自己を通用させ、満足させるというようにしてである」
植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」)


 職業団体の仕事をしながら明るく過ごしていたけれど、内面ではすっかり困ったことになっていた。ウィル・スミスのニュースを見るころには、困りごとを人に話せるようになってきていたが、何から手をつけていいのかわからなかった。いくつかの前向きなヒントを組み合わせて、ずっと叶わなかった大学進学を果たしたが、精神的に追いやられたまま、年明けてしばらくするとパニックを発症してしまった。息抜きに、と子どもを連れて、田舎のファミレスに行ったときに、博多風もつ鍋が季節メニューで登場してるのを見てはっとさせられた。だいたいみんなが欲しがる、カレーやハンバーグを出す、セントラルキッチンで効率化するのがファミレスの人格なのに、どのようにしてこんなにも特殊なもつ鍋が入り込んだのだろう。下処理済みの安価なもつと、キャベツとニラを調味スープで加熱すればファミレスでもつ鍋は提供できる。ファミレスの洗練された技能と習慣が、博多風もつ鍋を提供するファミレスを実現したと思うと、平和で自由で望みが叶うそこは市民社会の塊に見えた。数年前、松屋がジョージア料理を出した時には何とも思わなかったのだけど、いま啜るおまけの味噌汁は、社会基盤安定の味わい。

トランプの勝利で、もうこんなとこには住んでいられない、という気持ちになるリベラルや、同じ親族でも政治的対立から、話すのが難しくなってしまうなど、ここ数年のアメリカは分断が激しい。TOEFLの読解問題でもつい、どういうイデオロギーのもと書かれた問題文か、文章の解釈に時間をかけて点数を落としたことがあった。どうやらテストは受験者の英語力を測ろうとしているのであって、政治的解釈の読解能力は問わないことに途中から気づき、それだけで数十点アップした(どこに気を使っていたんだわたし)。ここ数年、わたしは分断を前提に、それが何か、まず振り分けをして、適応するような態度で臨んでいたと思う。 


 「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって、自分一人で孤立して生活しているときに、我々のうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、…(略)…本性上、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」(Hooker 1989 (Lock) おなじく植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」より)

 システム思考について読んでいると、私たちの問題への対処の方法は、いまだ局所的な対応にとどまっていることを思い知らされる。システム全体を考えれば、そんな過ちをしたりするはずはないのに!コミュニケーションを扱う人間として、自分の無学さを思い知らされるばかりだが、どうも私たちはうまくコミュニケートしていないようである。問題の症状を消し去っても問題解決にはならない、という友人の言葉は、自分でもずっと気づいていたいくつかの現れに対する問題意識と重なる。 わたしはニュース記事を執筆して、日本で起きていることをより多面的に伝え世界に知ってもらおうとした。ところが、100本ほど書いた後、ニュースのフォーマットでは、理解が深まらないのだと体感を強めた。分かり合えないことが問題なのに。ヘイトスピーチと政治的分断を描いた村田活彦の詩「Sweet Words」に心打たれた。 



 保護者になって、およそ形骸化している、お礼やお礼へのお礼という関係構築プロセスが存在していることを思い知らされた。保護者同士や保護者と恩師の間など、感謝の意のプロキシーとして、お菓子とかを渡しあうのである。公教育を堂々と享受する家庭に育ったため、必要以上の礼品は、かえって迷惑かつ面倒という認識でいたから、大変に面倒である。「贈与」をもう一度訪ねる必要がありそうであるが、社会資本の構築に、別のプロキシーが入っていて、共助の本質からずれている気がしてならない。とくにこのクリスマスシーズン、そんな批判思考がはたらくのは私なら当然である。だけど、菓子折りも、学位記も、履歴書もパスポートもお金も、個人の欲求を媒介するメディアになる。 


 何かが国家で何かがエンタプライズでまた別の何かが市民社会である、という区分して切り離すのにもう限界があると思う。本当はしっかりと線をひいて意志があったろうに、社会生活のうちに私は見境をなくしてしまったので、昨年、自分はボーダーライン障害なのではないかと疑った。まだぐにゃぐにゃの思考だけれど、そうではなくて、私は全体としてとらえることを試みているはずである。しかもこの全体は、直線状の因果関係とはたぶんちがう。(よって、都合よくビールを売るための生産管理システムをどう円滑にするか、はいまだ腑に落ちていない)

ちょうどYuk HuiがテクノロジーとSovereigntyの本をオープンアクセスで出してくれていて、今読んでいるところ、ヘーゲルの精神を出発点にしていてツボである。同時にいくつかのことをしようとしているのでできていないのだけれど習慣に関する本や、社会資本に関する本と合わせて。 

そんなこんなで、 一応自分なりに考えて、コレクティブな暮らしをするところに引っ越し、PTAで運動クラブに入ったり、経費精算をマメにおこなうようになった。今週末は、部屋を照らすあかりと、きれいな水、ごはんを炊く電気鍋、あったかい布団が用意できました。

対立以外のなにかができるといい☮


2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。