2023年5月12日金曜日

現場を退いたオッサンの話ばかり真に受けて記事にしてんじゃないよ、という話。

 今週月曜日、デジタルテクノロジーと社会正義の領域で戦っている女性およびノンバイナリの研究者や技術者らが、抗議声明を突出してます。

みんな見てたと思うんですけど、5月に入ってでしょうか、「生成AIに警鐘、AIのゴッドファーザーがGoogle退社」とか、「AI研究の第一人者がGoogle退職 生成AIに警鐘」という見出しが日本語圏の紙面を飾り、話題になりました。一般世論としても、こんな報道があると、なんだか社会的リスクを検討しなくちゃいけないのか、みたいになった人が多いと思います。こうした報道姿勢に対して、ふざけんなよ、ということをこれまでさんざんAI、テクノロジーがもたらす社会への害について、量的研究に基づいて、警鐘を鳴らし、職を追われたりした女性やノンバイナリの技術者や研究者たちが、批判しています。そりゃ頭に来るよな、、 怒りポイントとしては、今さらなに言ってんだ(ばっちり定年まで働いておいて?!かつ、これまで女性やノンバイナリの研究者たちがさんざんリスク喚起したときは、スルーしてたくせに!?)というところ、実害を被っている当事者についてよくわかってないのにどの口がそれを言ってるんだ(データやアルゴリズムなどによって、不当な差別を受け、暮らしに影響を受けるのは周縁化されたコミュニティ、で、特権的立場にある白人男性は、それらの害について、不勉強!)というところではないでしょうか。

彼女たちが、これらについて具体的な警鐘を鳴らしたときは、主流メディアでは大々的な報道には至らなかったし(少なくとも見出しに”ゴットファーザー”みたいな過度な凄みを添えらえたりはしていなかった)、職を追われたり、訴訟にあったりして、さんざんな目にあっていきました。退職金とか年金とかそういう世界じゃなかったわけです。 

 それを、ふざけんなよ、で終わらせずに、懇切丁寧な抗議文をリリースしていく強い皆様であります。 さんざんな目にあったうさはらしではなく、テクノロジーが社会にどのような影響をもたらしているか、コミュニティに根差して細やかに検証して知見をもってるのはこの署名に記されたオールスターたちが誰よりも専門家であり、ここ5~10年くらいずっとフォローしてきた人たちです。抗議文は次のように始まります。
報道関係者および政策関係者 各位
下記に署名した、人工知能やテクノロジー政策分野の最前線で働くグローバルマジョリティ※に属する女性およびノンバイナリの者である、我々は、政策立案者や報道機関に対し、デジタルテクノロジーがもたらす社会課題の報道や検討にあたって、こうした事柄を専門に扱う我々の集合知を利用するよう呼びかけます。 

※ここで書かれているグローバルマジョリティという言葉について、解説が必要そうなので補足します。これまで、「マイノリティ」(人種、性的指向など)とか、people of color (有色の人種)という言葉で表されてきましたが、「グローバルマジョリティ」は、2000年代以降に生まれた新しい語です。クリティカル・レイス・スタディーズや、教育リーダーシップマネジメントの分野における研究や社会正義に対する取り組みをきっかけに、言葉・表現のあり方と意味づけについて、白人との相対的な関係のなかで自らを定義するのではなく(有色とかpeople of colorという語は、これまで、色がついている、ついていないという対比に割り当てられて、自ら位置付けたものでない、という不自由があった)、まるで大多数が西洋文化の白人で、その周縁に存在する少数派であるような表現ではなく(実際には、世界の人口の大部分は白人ではない人たちによって構成される)自ら定義したリアリティを共有したいという意図から生まれてきたのがグローバルマジョリティという力強いことばです。こういう一語一句への気遣いが、みなさん知的でいらっしゃる。そしてこう続けます。


長きにわたってテクノロジーのリスクや脅威に関する報道は、テクノロジー企業のCEOや広報渉外担当者によって定義されてきました。その一方で、これらのテクノロジーがもたらす害は不均等に、我々が属すグローバルマジョリティのコミュニティに降りかかっています。同時に、世界中の政策立案者は技術の進歩に追いつくことに苦慮し、猛威を振るうテクノロジーから人々を保護することに苦労しています。 グローバル・マジョリティからの女性やノンバイナリーの人々は、個人的・職業的リスクを冒しながらも、テクノロジーが私たちのコミュニティに害を与えている方法について、一貫して懸念を表明しています。私たちは、特にAIが民主主義を破壊し、女性、人種・民族的マイノリティ、LGBTQIA+の人々、世界中の経済的に恵まれない人々など、歴史的に抑圧されてきたコミュニティに害を与えていることを検証してきました。私たちは、書籍を執筆し、勇敢な報道で圧制的な政権に立ち向かい、時代を代表するいくつかの大手テック企業に対して告発を行い、量的・参加型研究を実施し、テック企業に対する世論監視を高めるようなヘイトに対抗するキャンペーンを組織してきました。こうした立場をとったため、私たちは職業的・個人的な機会を失い、中には圧制的な政権に抗議したことで亡命を余儀なくされた者もいます。

 [中略]

私たちは、「富裕な白人男性だけが社会に存在する脅威を決定する権限を持っている」という前提を否定し、政策立案者や報道機関に対して、情報源を多様化するよう呼びかけます。人種、女性、LGBTQIA+、宗教やカーストの少数派、先住民、移民、そのほか権力の端におかれたコミュニティにとって、技術とは、常に存在の脅威であり、社会的な権力構造においてわれわれを劣等たらしめるために何度となく利用されてきました。

そこで彼女たちは呼びかけます。要は白人のオッサンの話ばっかり聞いて記事執筆したり政策立案するんではなく、ちゃんと私たちの論を聞きに来いと。 

もうひとつ注目したいワードがexistential riskという語です。「存亡リスク」と訳されるでしょうか、実存そのものに関わるリスクを指していますが、主にきのこ雲が上がって人類が滅亡してしまうかも、といったような、将来的な人類の滅亡を起こしかねないと仮定されるリスクを指す、危機感溢れる単語です。人類滅亡のリスクのシーン、みなさん想像できますでしょうか。残念ながら、NYやLAが壊滅しアメリカ人が地球を救うハリウッド映画のようなイメージをされたではないでしょうか。メディアスタディーズが懸命に示してきましたが、存亡リスクのナラティブは、ずっと昔から白人男性中心で、現在のAIや技術革新にあたっても同じことを繰り返しています。存亡というのは、実存に関わるリスクをさしているのですが、その実存的リスクの主体となれるひとと、なれない人がいます。

たとえば実際にこれまで、FacebookやWhatsappを通じてデマが伝播したことによってメキシコで人が焼け死んだり、ミャンマーからロヒンギャ難民が迫害され殺されても、テクノロジー企業も、政策立案者も大した対策をとりませんでしたが、ホワイトハウス襲撃事件では大きく対応しました。自国の問題でない事柄には、どんな甚大な影響を及ぼしてしまっていようが、Section230があるもんね、っとそっぽを向いてしまう様子をRest of world問題と言ったりしますが、これ、Metaのまとめかたが雑で、業績グラフを、北米、アジア太平洋、ヨーロッパ、「その他」とその他はラテンアメリカ、中東、アフリカをまとめて残りその他扱い!していているところからきています。フランシス・ホーガン氏の暴露をきっかけにしたWSJの調査で、Facebook(Meta)が誤情報対策に費やした時間の87%が​アメリカと西ヨーロッパに対してであり、つまり、その他の地域(この言い方がまた頭に来るでしょ)の誤情報対策には残りのたった13%しか注がれてないことも予てから報道されています。インドやアフリカでも困ったことになっているのに!アメリカ国内でも、なんらかのAIが裏で入っているツールで、実害を被ってる人たちがいて、それが偏って、権力の端に置かれた人たちであることを、なんども指摘してきているのに。。。

ということで、White Savior Tropeから、誤情報対策の偏りの話まで、少しわき道にそれてしまいましたが、FreePressから抗議の全文がでてますのでぜひご欄ください。(各自翻訳ツールとかボットで日本語に変換して読める前提で申し上げます)何人か、直接紹介したいのだけど。


グローバルマジョリティという概念の背景とかは、この歌がしっくりくると思う!

Village women, tribal children
Native language, something's missing
Ripping spirit, no religion
This is what we teach our children
Mmm, the chapters we don't know, thеre's no ink to fill them
The visions of thе soul, need Stevie to see them

 

2023年4月20日木曜日

帰ってきたコーデュロイ

 ネオリベラリズムが終わるらしいという噂をきいて、やってきた。どうやらそのようである。確かになんだか変だなという感じがここ数年あったが、どうもあたらしいナラティブが優勢でリアリティが変わりつつある。

私が日頃関心を持っているメディア論や、知へのアクセスとちっとも近くない話題なのだが、経済や金融の話が実は結構好き。なぜかというと、その理由はようやくパンデミック以降、自分でもわかるようになったばかりなのだけれど、サプライチェーンの構造は伝達と価値の話に見えるし、それら経済を回す媒介人ーミドルマンー、もっというお金という人工物を介したトランザクションは、コミュニケーションとメディエーションの問題として捉え、それが町の暮らし(コミュニティ)や社会的アクションに影響を及ぼすこと面白いから。

さて、昨秋発売されてから注目を集めているFTのジャーナリストが書いたこの本「Homecoming: The Path to Prosperity in a Post-Global World」が話題になっていて原本は読めていないが、講演やインタビューをあっちこっちで聞いている。彼女曰く、ネオリベラリズム経済はそろそろ、お・し・ま・い。


部外者から見ると、FTのような金融市場を取材する会社でネオリベラリズム終わりとか言って大丈夫なのか?と思うんだけど、彼女曰くこれが意外と大丈夫で、どうしてかというと、上層の投資家とか金融世界の重鎮たちは、これからの世の中がどうなっていくのか、しっかりと見据えて理解したいと思っていて、いわゆるアメリカの空洞化、みたいなものも打撃だとわかっていて、そこからどう持ち直していくのか(≒レジリエンス)ということに真剣に関心をもっているから、だそうだ。そのうえ、マッキンゼーみたいなコンサルティング企業から、ポスト新自由主義のナラティブに相応しい本「The Titanium Economy」が出てたりして、明らかに潮の向きが変わっている。

(この動画、Q&Aセッションのクオリティが高すぎて驚く。これまでみたあらゆる名門大学での講演動画より圧倒的に質問が素敵なのでぜひ最後まで見ていただきたい。おそらく、コミュニティに根差したDCの老舗書店Politics and Proseだからこそなせる業)

もっぱら、コロナ禍に明らかに感じられるようになった中国依存による品薄、表面的なESGにかこつけたウイグル問題云々、昨今の対中の緊張関係からサプライチェーンの見直しが起きているもんだとばっかり憶測していたけれども、Homecomingはもっと前に地殻変動があって、それは例えば2013年バングラディシュで起きたラナプラザ崩壊事件(そういえばそんなことあった!)くらい遡る。さらに最近の米中間の半導体に関しては、バイデンが中国からのチップはあきまへん!ではなく中国側が自国で完結して豊かになっていきたいから、というナラティブなのも少し触れてくれている。そもそもトマス・フリードマンのフラット化について、Rana氏は、そんなの最初からなかったし、フラット化とかもう終わり、と何度も批判していて、その根拠として、同時期の別の名著「End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporation」のほうがよっぽど的確にグローバル化とこれからを描写している、とお勧めしている。

End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporationの著者、Barry C Lynは、モノポリーに関する本で良く知られていて、そんな彼が、2020年にWiredに寄稿しているのを見つけた。もちろんGAFA規制に関して。タイトルが、テクノユートピアの夢をシリコンバレーはまだ見ることができる、としているので、少しアンビバレントな気持ちになるが、読んでみると、ルネッサンスのチャーター制(これはラシュコフのナラティブでおなじみ、デジタル封建制度とも)と独占の話、さらには、鉄道アナロジーまで登場(これはインドでフリーベーシックスというネットの中立性と対立するFacebookの取り組みに際して私が行ったアナロジー、ほかにGig Workやプラットフォーム経済について、Danah Boydが鉄道労働史までさかのぼってくれた論文もある。)してすごく読みごたえがあります。要は、未曾有でそんなこと初めて、規制が追いつかない、どうしたらいいかわからない、なんて無力な気持ちにならず、歴史を学ぼう、という気持ちにさせてくれる寄稿で、非常に私好みでした。

以上、金融経済畑から、メディアテクノロジーの話に一周した様子をつづりました。


2023年2月4日土曜日

メディアはSUSHI論(2019年)

メッセージだとか、マッサージだとか、いろいろな言い方がありますが、メディアは寿司です。寿司、と漢字で書くと少し語弊があるから、訂正しよう。メディアはSUSHIです。
(夏の疲れが溜まっております。お許しください。)
※これを書いたのは、2019年9月でした


今回は、SUSHI的メディア論を「SUSHI論」と呼んでお届けします。


そんな「SUSHI論」を展開するコラムが、TechCrunchに掲載されたのはしばらく前、今年2019年の春ごろのこと。

The Future of News is Conversation in Small Groups with Trusted Voices(未来のニュースの形は、信頼できる意見を共有する小グループでの会話だ」

なんとも、飾り気のないタイトルで、既に好感を抱きます。これを読んで考えたことなどを、すこしまとめたかったのですが、もう秋めいてきてしまって(汗)
寄稿者の意見はこうです。FacebookやTwitterのニュースフィードが、回転寿司(そして例えるなら、統計的な正しさから大衆が求めるマグロが立続けに流れるけど、あなたが本当に食べたいのはもっと別のもの。)で客が選り好みする世界だとすれば、我々はその面白さや効率性から脱却し、頼れる大将が開く上質な小さい寿司屋に行きつくべきだ、と。全体としては、いわゆる「ニュース消費」の在り方について、SNSの功罪に加え、技術的な変遷を踏まえ、昨今の興味深いニュースメディアの取組事例についても紹介しています。

2023年追記
スシローでいろいろ炎上する事態が起きた。フィードに流れてくる寿司が汚染されブランドに大きな被害。後には、別のYoutuberが回ってないスシローと追加のふざけ動画「回ってればいつかこうなると思ったよ」。


さて私はここ数年、ニュース消費スタイルについて、ニュースを基本的には全く消費しない、というスタイルをとっています。(小声です)

世の中には「ニュース・ジャンキー」呼ばれる、とにかくニュースが好きで読まないと気が済まない、というような傾向の人が欧米のニュース編集者とか知識層にいたりします。まったくもって個人の自由で、ニュースを読みたいひともそうでない人もどちらでもいいと正直思うのですが、近年では技術の発達によりニュース消費サイクルが短くなり、ニュース以外の様々な情報を常に消費し、意思決定せねばならない状況に人々があることから、情報過多によるストレスが社会問題化しています。実際には、問題の経緯はもう少し歴史をさかのぼります。アメリカの場合は80年代以降からケーブルのニュース専門チャンネルが発達したことでいわゆる「24 hour news cycle (24時間流れっぱなしのニュースサイクル)」が生まれたことが事の発端でした。そりゃもう、朝刊・夕刊だけとか、モーニングニュース、イブニングニュースだけで済んだことが四六時中流れ進展するとなれば一体その情報にどう向き合ったらいいのか、という悩みが発生するのは想像に易いでしょうが、それはテレビをつけている間だけの話でした。今度はインターネットによりプレス機関も徐々にデジタル化し、紙面や放送枠に縛られない報道が一層増え、ネットメディアも勃興。さらに今に至っては、自分が今いる現実世界と、メディアを介したニュースに加え、SNSやチャットアプリなどにより、常時知らせが届く状態が生まれました。このようにして現実社会で何か体験している中でもスマホを手放せない環境が生まれ、その背景には「FOMO(Fear of Missing Out:見逃すことの恐怖)」があるとしてちょっとしたバズワードにさえなっています。FOMOという用語が話題になり、それ自体が社会問題となる以前に、スマホによる情報過多について知覚的に解説、指摘したのがダグラス・ラシュコフでした。彼は2013年の自著「Present Shock - When Everything Happens Now」の中で触れています。(ところで、VRとか没入型メディアでわざわざニュースだけを見続けるということは今のところないんでしょうかね、あまり思い当たりませんが)

一応説明しておくと、私が今のニュースを習慣的には消費しないという過ごし方に至った経緯は、情報過多とはむしろ逆の経緯からでした。仕事で編集者としてニュースを読みまくる必要があった時期があり、それはストレスフルでしたが、それ自体はニュース消費習慣をなくす原因になりませんでした。自分自身でニュースを100本ほど執筆し、編集する・される行為を繰り返すうちに、自分の担当する媒体の使命「担当領域について、読者の理解を深める」を果たして成し遂げているか、自問自答するようになりました。(2010年のNicholas Carrの著書『The Shallow』を思い出しますね)そして、どうも「理解を深め」ているとは思えなくなり、どちらかというと断片的な情報が一時的に消費され、不均衡に日本について印象付けるだけ、というネガティブな印象を持つようになり、その原因にニュースの執筆スタイルやSEOがあると感じるようになりました。

併せて、複数の事件や事象を報道する中で、個別の複雑な出来事についてごく表面的にとりあげて、善し悪しの話をするということに嫌悪感を抱くようになりました。届けたい事柄について欲張りで身の丈知らずだったからかもしれません。でも、本当に何かを知りたかったら本を読むべし。

だいぶ寿司から離れてしまったので、こちらのビデオを(最後までご覧ください)

先ほどのTechCrunchの記事では、RSSやメルマガ、ポッドキャストなど様々な技術的表現形式について触れていて、中でもダイレクトなメディア表現に関心を寄せている様子がうかがえます。具体的には、メッセージアプリでの私信(Private Messaging)によりニュースを伝えるということです。荒らしだらけとなってしまうウェブ上のコメント欄よりも、ニュースフィードとプライベートメッセージを混ぜたような形式がよいのではないか、と考える取り組みはすでにいくつかあるようですが、いまのところあんまりグッときていません。
※2023年追記、その後プライベートメッセージが誤情報の温床になったね!

プラットフォームがプライベートメッセージへの比重を置くとすると、そのことは単にSUSHIを食べるお客側の問題ではなく、大将たちの縄張り争いを意味します。フェイスブックがケンブリッジ・アナリティカの一件で、大惨事に巻き込まれた時の報道の見出しは「史上最悪の情報漏洩」でしたが、実際には同意を得て取得したデータでした。(用途は問題あったけど)。この事件により、縄張り争いは悪化し、トップたちが辞め、対抗するサービスに移行するなど地獄絵図がWIREDの長文記事に描かれています。
※2023年追記、まあいまはWhatsappはFacebook,というかMetaだ。

ここから2023年の追記です~

昔NYのチェルシーマーケットでEnokiの寿司食べて、おいしかった。でも2023年的には、文化の流用ね。オーセンティックにSushiもEnokiも理解せずにネタにしてるわけ。Veganでヒップな感じだとおもったのかもしれないけど、加熱しないとリステリア菌いるの、エノキダケを採って、食べてた歴史や文化を顧みなかった。(わたしはセーフだったけど)

ちょうどTwitterが大量凍結、そしてフリーAPI公開おしまいの報道があった。
スシローの件は、なんていうか2009年のドミノピザ(ドミノピザ従業員がこちらもつばとか鼻くそいたずら動画をYoutubeにアップしてブランドを害した事件、その後のドミノピザがソーシャルメディアを活用したインタラクティブな評判回復対応を行い上手だったことで有名。多くの企業が従業員のSNS利用の研修させたりガイドライン導入する要因にもなった)を思い出させる。

国道沿いでは、回転ずし、どうしても仲間と訪れて、あれこれ食べ、「量」をカウントして勝負するようなところがあった。なんだか視聴回数カウントのようだ。
メディア寿司論、じっくりやるといろいろ出てきそうだし、ぜひ発酵してほしい。

2022年1月12日水曜日

Aaron Swartz追悼|アメリカ著作権法の成り立ちまで遡るポッドキャストを聴いて

1月、ということでAaron Swartzの追悼番組(ポッドキャスト)を聞いた。

番組は、Aaronについて本を執筆したJustin Petersが、"information wants to be free"―「つまり、情報はタダか?」という命題を軸に、ものすご~くわかりやすく、著作権の在り方、インターネットについて話してくれているインタビューだ。

↓この本です。

 

まず、有名なInformation wants to be freeについてのおさらいしよう。これは、ホールアースカタログのStewart Brandのフレーズに起因するが全文はもう少し長い、、、

"Information Wants To Be Free. Information also wants to be expensive. Information wants to be free because it has become so cheap to distribute, copy, and recombine---too cheap to meter. It wants to be expensive because it can be immeasurably valuable to the recipient. That tension will not go away. It leads to endless wrenching debate about price, copyright, 'intellectual property', the moral rightness of casual distribution, because each round of new devices makes the tension worse, not better."


そういえばちょうど今朝、こんなものをみていたところ。

今回紹介しているポッドキャストOntheMediaでのJustin Petersのインタビューは、なかなかアーロンの話にならない(笑)んだけど、そこが面白い。なんせこの本は、最初の3章をアメリカ建国期の著作権法の形成、とくに、辞書のイメージがまとわりついているノア・ウェブスターを中心に辿っていく。

まだ、文学や書籍がほとんどアメリカ国内で出版されていなかったころに教師をしていたウェブスターは、アメリカがせっかく独立したのに、英国の退屈な教科書を使ってアメリカのこどもたち英語を教え、ウェールズ地域の固有名詞でスペルを覚えさせるだなんて、恥ずかしいったらありゃしない!という思いから、その代替となるような本をつくって出版。自分で出版した書籍で食っていけるようにしたかったので、著作権法の成立に躍起になった。(アメリカ建国から100年くらいはほとんどまともな本がでていなくて、書籍とは金持ちが趣味で書いたもの=本は商材にならない、という状態だった)自分の本が売れるように、と著名人に押しかけたりしていた。


 ウェブスターがジョージワシントンの家でのディナーに招かれたときのこと。ジョージワシントンが「自分の子にはスコットランド出身の家庭教師を付けようとおもう」と話すのを聞いた20代の無名教師であるウェブスターは憤って、「せっかくアメリカが独立したというのにスコットランドから家庭教師を寄せるなんて英国はなんておもうでしょう、嘆かわしい!」と。そんなこんなでジョージワシントンから自分の書籍に大統領から帯コメント的なものをもらう。

そんなふうにして、著書は順調に売れ、著作権法も成立した。
その一方で、著作権法上の対象とならなかった海外の著作物については、出版社が今でいう海賊版を大量に刷って、安価に売って儲け放題だった。(これが出版ビジネスの始まりらしい、なんてこった!)

国際的な著作権が必要だと考えた著者たちは、倫理問題として、教会に展開。日曜のミサで、牧師がわかりやすく、海外作品を勝手に販売するのは倫理的ではない、人のものを盗んではならないはず、というようなことを説いていった。

ところがそうしているうちに、著者の権利をちゃんと守れば、みんな頑張って作品を世に出してくれる、そうれば世間も、いろんな本を読めてみんな幸せ。だから著者と出版社を中心に著作権を強化しよう、という流れになっていき、パブリックドメイン的な考え方はしぼむ。

パブリックドメインやオープンアクセスが盛り上がりを見せるには、マイケルハート(大学のPCを借りて使ってひたすらフリーの電子書籍化にはげむ人)による、プロジェクトグーテンベルクの登場を待つことになる。

(結局大学から追い出される、その時期は、人々がプロジェクトグーテンベルクの価値を理解し受け入れるようになった矢先だった)

マイケルハートと似てるところがあるよね、というのでようやくアーロンの話になる。長かったな、前置き。

アーロンが心打たれたチョムスキーの一冊はこちら。

あまり追悼になってない文章だがご容赦あれ。それにしても、the game don't change, just the playersな感じ。相変わらずだけど、いい年にしましょう。

2021年10月12日火曜日

フェイスブックを叩いてインターネットの自由を狭めたら思うつぼ

 前回の投稿で、フェイスブックの内部告発をきっかけとした、フェイスブックに対する大バッシングについて紹介しました。フェイスブックへの強まる批判とともに、規制強化へ共和党、民主党の両党の議員が強くうなづく、そんな風潮が高まっています。しかし、もしこの規制強化が、通信品位法の230条を改め、プラットフォーム企業に対してユーザの投稿の責任を持たせることとすれば、それはフェイスブックの思うつぼかもしれない、とテクノロジーとインターネットの自由に関するブログTechdirtのMike Masonicは懸念しています

適法に業務を行いながらも、どっちつかずで時代遅れの規制(もしくはそれが無いこと)のせいで、たびたび公聴会に呼ばれたり、多額のロビー費用をかけたり、年中裁判しなければいけないなら、もう、規制法つくってくれよ、その通りにするからさ、とさすがのフェイスブックも思いたいのではないでしょうか。  

 実際に上記動画が表すのは、フェイスブックのがインターネット規制の立法を求める意見広告。実際に今年春の公聴会でもマークザッカーバーグは、230条項の改正賛成を示唆していました。通信品位法の230条によって、プラットフォーム企業はユーザ投稿についての責務を逃れてきました。もし、通信品位法230条の改定でユーザ投稿についてプラットフォームが責任を負うことになるとしたら、一見すると巨大プラットフォーム企業をお仕置きする手立てとなりそうに見えますが、実際には、寡占状態をさらに加速し、参入障壁を高くし、市場のバランスがさらに悪化することが懸念されるのです。

フェイスブックの問題を直すための正解はわかりませんが、いくつかの論点が明らかになってきています。感情的なフェイスブック批判が横行しがちな中、規制強化がかえって悪影響を及ぼすことについても十分に留意が必要です。

特に巨大プラットフォーム企業は、通信品位法で免除されていた責任を、新たに負わなければならなくなったところで、十分な法的対応資源を有し、準拠するよう舵取りをすることができます。しかし、もし新たなプラットフォームサービスをゼロからつくるようなスタートアップにとっては、ユーザ投稿についてまでぬかりなく、新たな事業を展開していくのは非常に障壁が高くなってしまうことが考えられます。

同様の指摘をCory Doctrowもしています今月のACMの雑誌に寄稿し、(フェイスブックのような)巨大テック企業を直すんじゃなくて、インターネットを直すんだという視座から、(そして得意の著作権侵害をリラックスさせることを含みつつ)ユーザ側のコントロールを優位にし、相互運用性を強化する仕組みをつくることを提案しています。
面白いことに、この案だと、改正すべきは、コンピュータ詐欺と濫用に関する法律と、デジタルミレニアム著作権法になります(笑!!)しかも、雑にとらえて種別分けするとしたら、規制緩和ですね。(一方で、併せてACCESS ACT=Augmenting Compatibility and Competition by Enabling Service Switching Act、ざっくりした説明をするなら、データポータビリティを保障する法律かな。。。の立法も支持しているようだし、おおよそEFFの主張とかぶる、というかそもそもEFFの特別顧問みたいな立場でもある)

内部告発に関連するなかででてくる問題解消案の一つの選択肢にビッグテック規制監督官庁の設立があります。

嗚呼、ビッグテック規制(Politicoが行った最近の国際パネルディスカッション)

元FCCのTom Wheelerはかなり前から、対象セクター向けの監督官庁Digital Platform Agency (DPA)を作るべきだと言っています。(前にも紹介したような気がするが、ブルッキングス研究所の寄稿や、あとパブリックナレッジも似たような規制官庁を提言してたので、今回改めてその語気を強めている)

監督官庁が有効かどうかわかりませんが、EFFやCory Doctrowが目指すような相互運用性を現実のものとするためには、その実施を義務付けるような根拠法のようなものがいるのかもしれない(もしくは、それを実施したときに、著作権侵害で訴えられたり買収されて消えたりしないように)ような気がします。ええ、法律の専門家じゃないからわかりませんけど。。この相互運用性は、もしかすると、ちょっとずれ気味だったフランシスフクヤマが過去に仕上げたホワイトペーパーで「ミドルウェア」と呼んでいたものを、実際にはオープンな相互運用性の実装で、担保するというところのような気がします。


巨大テック問題ーでも批判するマスコミも同じ

 フェイスブックの内部告発者が60ミニッツに出演し話題を呼んでいます。フェイスブックは、若い子たちへの有害性を知りながらも調査資料に蓋をし、コンテンツの掲示に関わるアルゴリズムについて利益を追求のために使い続けたことが批判されています。


ちょうど上院での公聴会の最中だったり、欧州が米巨大テック企業への規制を強めていたところという時勢的な状況も重なって、新聞テレビ等のマスコミはフェイスブックを大バッシング。国際的にも問題となっています。フェイスブックが独占的な立場を優位に利用して、ユーザのエンゲージメント(という名の従事時間)を最大化するよう、特に弱い立場にある10代への影響を知りながら、十分な対応をしてこなかったのは、そりゃーいかんだろう。(Timeの表紙はこんなふうになっちゃってる、キツっ)

一方、このメディアからの大バッシングに、冷めた目を向ける人もいます。(一言でいうと、もっとも基本的なU.Y.C.の事例) 落ち着いてみてみましょう。マスコミがフェイスブックを批判しているのは、「利益を最大化して、若者への悪影響を蔑ろにした」からですが、マスコミはその常習犯です。先ほどのTIMEの表紙がわかりやすいですが、今回の報道では、Facebook=ザッカーバーグとして象徴、一般化し、フェイスブックが悪い、というようにことをずいぶんと単純化してしまいがちです。これに対して、ウェブの世界の長老ともいうべきでしょうか(ブログ始めて27年だそう)Dave WinerはFacebookの内在する複雑性を単純化することを批判し、フェイスブックは我々だ、と投稿しています。その投稿の中では

「フェイスブックは言ってみればニューヨークみたいなものだ。もしタバコ会社の本拠地がすべてニューヨークにあったら、ニューヨーク市長が癌の元凶の犯罪者だって言っているようなもんだ。実際にフェイスブックはニューヨークの何百倍も大きいんだから、いろんなことがあるってことを理解してよ」と。

そして「フェイスブックがー」と言うのは焦点が定まらなさ過ぎので、その意味するところをしっかり検討するようにと口を酸っぱくして言っています。

Facebookとは・・・ 
1.マークザッカーバーグのこと
2.パブリックコーポレーションとしてのFB
3.60Kの従業員
4.サーバー、ソフトなどの技術
5. 広告プラットフォーム
6. ユーザコミュニティ
7.ウェブへと接続するもの
8. ビデオや画像、投稿、ライブ配信など、現在過去のあらゆるコンテンツのこと


マスコミのほとんども現在は、トラフィックの大部分やシステムをGAFAに頼っている(ニュースサイト訪問のほとんどはSNSからの流入)わけだし、確かにやっていることの構造はほとんど一緒です。

同様の指摘はこちらにも。

フェイスブックについて人よりもカネを優先する悪いと世間に伝えるなら、プレス(マスコミ)だって、同じことをしちゃいけないはずだ(でもしてる)。クリックベイト記事やとんでも記事でトラフィックを捻出したりしないってこと。

あと、面白かったのはコレ↓。新聞が、フェイスブック閉鎖や解体をに声を強めながら、この論争の最中、フェイスブックのサイトが一時アクセスできなかったことについて、咎める新聞記事に、どっちやねん!と突っ込みをいれている投稿。

新聞記事:「フェイスブックは邪悪!閉鎖すべき」
これも新聞記事:「フェイスブックは6時間落ちてたので、再発防止に努めるべき」(どっちやねん)

「私の言いたいことは、我々プレスが、他者にアカウンタビリティを求めるなら、自分自身についても、より高い水準を保つよう努めなければおかしい。もし、フェイスブックが人々のプライバシーを侵害していると、世間に伝えるならば、我々プレスも、同じように人々のプライバシーを侵害してはならないはず(だが、している) 」

内部告発から、単なるフェイスブック叩きに終始してしまうと、ことの論点を単純化しゆがめてしまい、本来議論すべき事柄や検討すべき選択肢がぼやけてしまうように見えます。

今回は、フェイスブックの内部告発により明らかにされた巨大テックの持つ強いパワーや不均衡について報道するはずのプレス(マスコミ)に対する批評をいくつか紹介しました。フェイスブックの問題をひも解いていくと、実はそれは自然と、インターネット以前の時代に、これまでマスコミが指摘されてきたことといくつかは同じ性質を持っている、ということに気づくと、マスコミ批評がこれまで展開してきた論点や規制のありかた(うまくいってないけど!)を巨大テック企業にも応用することができるというヒントをくれているように思います。

もちろん、編集者によるニュースの選別と、アルゴリズムにより自動化された選別や掲示というのは、背景の仕組みやその規模のインパクトが大きくちがうし、テック周りの法整備が未発達である、テクノロジーの複雑性への理解をほとんどの人は持ち合わせていないことから、巨大テック問題をどう解消すべきか、みんなで落ち着て議論するのがかなり難しい現状にあります。そうすると、今回の一件で、マスコミがフェイスブック叩きに走ることで、なんだか違う、インターネットの自由を侵す方向に走ってしまう可能性もあるということは留意しておかなければいけなさそうです。

次回は、くわしくそれ。

2021年7月1日木曜日

Argument for Micro-Credentials ゾンビとの戦い、再び。

 ここ数年から、教育のオープン化、その延長線上でのデジタルクレデンシャルについて調べてきたのだが、ここにきて、昔の敵がまためぐってきた。


ネオリベラリズムだ。


お前が出てこないレイヤーに私はシフトしたはずだったのだぞ。だいたいややこしいんだよ君は。なぜまたここにいるんだ。


かつて、奴を倒すことはできなかったし、誰にもそれは無理だった。一部、功を奏したのはパロディと、実直な現代思想だろうか、わたしの猫パンチでは、あまりに無力だし、圧倒的に手がかかる。しかし、また巡り合ったのはしょうがない宿敵だ。

 
マイクロクレデンシャルも奴に囚われているのだとあるものがいう。おおよそそのとおり。公的資金を絶たれたアメリカの高等教育機関は、競争原理の中の生存戦略として産業界、シリコンバレーと手を組み、雇用主が求めるスキルを身に付けるような短い講座を多くの場合eラーニング等のスケール可能な手段で提供し、その学習成果としてのマイクロクレデンシャルを付与することにした。それは、学ぶことで最新の市場価値を持つスキルが得られるようでいて、必ずや廃れることが予期できる予定調和のなかに存在する。そのうえ、雇用主が求めるスキルというのは、世の中に変革をもたらす知ではなく、基本的に現状維持機能しかもたない。知は、本来人間を自由にするはずのものだったにもかかわらず。ここで予見される未来は、学べども、学べども、我が暮らし楽にならず、だ。


さらに事態を悪くすることに、マルクス経済学から見れば、クレデンシャルを持つことがブルジョア的価値となり、資本主義を自らの中で生成する終わりなき渇望をもたす。そのうえ、大学などのなんらかの信頼付けのされた権威が発行するのなら、工場労働者が生産手段をもたないごとく、学ぶ手段とその証明を権威ある機関に依存することになる。スキルが廃れるのも、学習が足りないのも、労働者の側に責任が置かれてしまう。Shane J. Ralstonはこうした事柄を含む10つの点で、マイクロクレデンシャルがけしからん理由を述べている。

知識のバラバラ殺人事件

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Shane J. Ralstonの指摘には、大学事務が合理化、効率化を目指す中で、私企業と同じ方策を取ってきたことにあり、その一つがUnbundling(個別に分解すること)、もう一つがサービス化であるとしている。学位より単位よりもさらに小さなまとまりとして、マイクロクレデンシャル発行プログラムを設置するのはまさにunbundlingの現れ。チャンクダウンすること自体になんら問題ないと私は思うのだけれど、教育学、思想的にそれをひも解くと、全体無き部分の提供に自らを格下げしてしまうことにほかならない。

知というもっと複雑で捉えどころのない、産業界で直接的な有益性を示さない、そんな全体性をもった学びをになったはずの高等教育が、急遽、プログラミングブートキャンプ程度だけのものになってしまうとしたら、事件だ。元来マイクロクレデンシャルはスタッカブル(積み上げ可能)なのだが、これが本当にそうだとしたら、実際には積み上げていっても、全体像をもたなくなってしまう。

古い宿敵が難題であるだけでなく、そこに刃向かう剣があの時研ぎそびれたままのものだという点でも辛み。

Leesa WheelahanとGavin Moodieは、高等教育のマイクロクレデンシャルについてバジル・バーンステイン的分析を通して批判していく。フレーミングだとかコーディング(言語コードのほうです)というメディア論っぽい言葉尻が続く中、基本的にはカリキュラム設計上の問題点があげられていく。(クレデンシャルの話なのになぜ?ってなるけどそこにはヒューマンキャピタル~人材は資本です~という考え方を色濃く反映してしまっている点との関係性でひも解かれる)ここでも、atomizationという語で、学習の原子化のことが触れられている点で、先ほどのunbundlingと共通する。


結局、読み進めていくと教育たるものは何かという話になってきて勘弁してもらいたくなるが崇高かつ真っ当な批判。そして教育のナラティブが、非常にネオリベに偏っていて、教育たるものを考える術が判然としないまま語られてしまっている問題を明らかにしている。前述は、カリキュラムやペダゴジーの問題がごっちゃになっていることの問題。

UNESCOのバックグラウンドペーパーは、そこのごっちゃになったものを、真っ向から批判している。そもそも貧困とか失業とかの問題を教育で解決できるというのは誤りで、政治経済上の政策をやったうえで教育を扱うべきならわかるが、政治経済上無策なくせに、教育に解決させようというのがけしからん。その解決策としてマイクロクレデンシャルに目を向けてる流れがけしからん。と。先にもカリキュラム上の問題が言及されていが、こちらでも21世紀スキルとか本質的じゃないんだよ!という突っ込みが入っている。労働市場上の問題が解決されないまま、マイクロクレデンシャルが進むと、資格のインフレがおきる、とまで指摘。そして極めつけは、失業を引き起こしているのはテクノロジーの入れ方の問題であるとし、短期利益追求型の自由主義的な能力主義的資本主義(長い・・・)の中で、技術ある職人をクビにして、その分AIでオートメーションさせるというコストカット手段としてテクノロジーを入れているところが諸悪の根源なのである。(反対に、ドイツでは職人の技能を高める形でのテクノロジーを導入した例があり、技術の進展と市場の在り方は不可避ではない、と捉える)そのくせに、テクノロジー企業が失業や貧困の解決を謳って、教育商材に乗り出すのは、ふざけているぞ、と。なんならイノベーションはシリコンバレーじゃなく、良く調べてみるとアメリカ軍需産業という機関が長期的な取り組みで生んでいるのだし、教育機関を堅牢にしていくことが教育のあるべき姿を高められる、と。え、守り・・・?

これを踏まえてまた、Shane J. Ralstonにもどってくるとこの部分が非常に刺さる。

Technicians often lack a sufficiently wide-ranging or general (Liberal Arts) education to appreciate the limits of their own knowledge—or stated differently, the extent of their own ignorance. Thus, tech entrepreneurs such as Mark Zuckerberg, Elon Musk, and Bill Gates are often too willing to position themselves as authorities in fields where they lack expertise (e.g. concerning world poverty, global climate change and, most recently, epidemiology).

技術が実装できるからといって、リベラルアーツを最後まで学びそびれたこの人たちは、自分の専門外のこともわかると勘違いしている、と心地よいほどざっくり。

21世紀スキルがどのくらいまがい物なのか、ということはさておき(わたしには、一見良さそうに見える)、クレデンシャルがデジタル化され、冒頭のビデオのような世界になる「学習経済」は、直感的に気持ち悪い。


ただし、これらの批判には機械叩きな感じを自認する面もかなり残るので、もう少し落ち着いて考えるべきこととしては

  • マイクロクレデンシャルは、あくまで学位と共存する主旨で、部分的な学位に担えないことを実現するためだけに限定的に利用するはず
  • クレデンシャルがスキルを相互参照可能なものとして実装すれば、偏差値とか学歴を尺度にしてしまっている現状を打破できる可能性も技術的には充分ある
  • 認定の権威や作業のガバナンスがどのように可能か、ウェーバー的ないしはマルクス的に捉えた場合の懸念が、学習認定のオープン化(Opening up validation)をした場合、解消できる可能性について触れられていないし、これは技術的にある程度可能性がある

なんだろう、いったいどうすればよかったんだろう。
Wissenschaft als Beruf(職業としての科学)でウェーバーはこう語っていた。

残された、本質的に増大しつつある要素は、大学での職に独特なものです。つまり、そのような私講師、あるいはなおさら助手が、晴れて正教授の地位かあるいはさらに研究所の長につけるかどうかという問題です。これは単純に運です。もちろん、偶然のみがすべてを支配するわけではありませんが、それでも偶然が尋常ならざる支配力をもつことは確かです。


それも、やだな。