2022年1月12日水曜日

Aaron Swartz追悼|アメリカ著作権法の成り立ちまで遡るポッドキャストを聴いて

1月、ということでAaron Swartzの追悼番組(ポッドキャスト)を聞いた。

番組は、Aaronについて本を執筆したJustin Petersが、"information wants to be free"―「つまり、情報はタダか?」という命題を軸に、ものすご~くわかりやすく、著作権の在り方、インターネットについて話してくれているインタビューだ。

↓この本です。

 

まず、有名なInformation wants to be freeについてのおさらいしよう。これは、ホールアースカタログのStewart Brandのフレーズに起因するが全文はもう少し長い、、、

"Information Wants To Be Free. Information also wants to be expensive. Information wants to be free because it has become so cheap to distribute, copy, and recombine---too cheap to meter. It wants to be expensive because it can be immeasurably valuable to the recipient. That tension will not go away. It leads to endless wrenching debate about price, copyright, 'intellectual property', the moral rightness of casual distribution, because each round of new devices makes the tension worse, not better."


そういえばちょうど今朝、こんなものをみていたところ。

今回紹介しているポッドキャストOntheMediaでのJustin Petersのインタビューは、なかなかアーロンの話にならない(笑)んだけど、そこが面白い。なんせこの本は、最初の3章をアメリカ建国期の著作権法の形成、とくに、辞書のイメージがまとわりついているノア・ウェブスターを中心に辿っていく。

まだ、文学や書籍がほとんどアメリカ国内で出版されていなかったころに教師をしていたウェブスターは、アメリカがせっかく独立したのに、英国の退屈な教科書を使ってアメリカのこどもたち英語を教え、ウェールズ地域の固有名詞でスペルを覚えさせるだなんて、恥ずかしいったらありゃしない!という思いから、その代替となるような本をつくって出版。自分で出版した書籍で食っていけるようにしたかったので、著作権法の成立に躍起になった。(アメリカ建国から100年くらいはほとんどまともな本がでていなくて、書籍とは金持ちが趣味で書いたもの=本は商材にならない、という状態だった)自分の本が売れるように、と著名人に押しかけたりしていた。


 ウェブスターがジョージワシントンの家でのディナーに招かれたときのこと。ジョージワシントンが「自分の子にはスコットランド出身の家庭教師を付けようとおもう」と話すのを聞いた20代の無名教師であるウェブスターは憤って、「せっかくアメリカが独立したというのにスコットランドから家庭教師を寄せるなんて英国はなんておもうでしょう、嘆かわしい!」と。そんなこんなでジョージワシントンから自分の書籍に大統領から帯コメント的なものをもらう。

そんなふうにして、著書は順調に売れ、著作権法も成立した。
その一方で、著作権法上の対象とならなかった海外の著作物については、出版社が今でいう海賊版を大量に刷って、安価に売って儲け放題だった。(これが出版ビジネスの始まりらしい、なんてこった!)

国際的な著作権が必要だと考えた著者たちは、倫理問題として、教会に展開。日曜のミサで、牧師がわかりやすく、海外作品を勝手に販売するのは倫理的ではない、人のものを盗んではならないはず、というようなことを説いていった。

ところがそうしているうちに、著者の権利をちゃんと守れば、みんな頑張って作品を世に出してくれる、そうれば世間も、いろんな本を読めてみんな幸せ。だから著者と出版社を中心に著作権を強化しよう、という流れになっていき、パブリックドメイン的な考え方はしぼむ。

パブリックドメインやオープンアクセスが盛り上がりを見せるには、マイケルハート(大学のPCを借りて使ってひたすらフリーの電子書籍化にはげむ人)による、プロジェクトグーテンベルクの登場を待つことになる。

(結局大学から追い出される、その時期は、人々がプロジェクトグーテンベルクの価値を理解し受け入れるようになった矢先だった)

マイケルハートと似てるところがあるよね、というのでようやくアーロンの話になる。長かったな、前置き。

アーロンが心打たれたチョムスキーの一冊はこちら。

あまり追悼になってない文章だがご容赦あれ。それにしても、the game don't change, just the playersな感じ。相変わらずだけど、いい年にしましょう。

2021年10月12日火曜日

フェイスブックを叩いてインターネットの自由を狭めたら思うつぼ

 前回の投稿で、フェイスブックの内部告発をきっかけとした、フェイスブックに対する大バッシングについて紹介しました。フェイスブックへの強まる批判とともに、規制強化へ共和党、民主党の両党の議員が強くうなづく、そんな風潮が高まっています。しかし、もしこの規制強化が、通信品位法の230条を改め、プラットフォーム企業に対してユーザの投稿の責任を持たせることとすれば、それはフェイスブックの思うつぼかもしれない、とテクノロジーとインターネットの自由に関するブログTechdirtのMike Masonicは懸念しています

適法に業務を行いながらも、どっちつかずで時代遅れの規制(もしくはそれが無いこと)のせいで、たびたび公聴会に呼ばれたり、多額のロビー費用をかけたり、年中裁判しなければいけないなら、もう、規制法つくってくれよ、その通りにするからさ、とさすがのフェイスブックも思いたいのではないでしょうか。  

 実際に上記動画が表すのは、フェイスブックのがインターネット規制の立法を求める意見広告。実際に今年春の公聴会でもマークザッカーバーグは、230条項の改正賛成を示唆していました。通信品位法の230条によって、プラットフォーム企業はユーザ投稿についての責務を逃れてきました。もし、通信品位法230条の改定でユーザ投稿についてプラットフォームが責任を負うことになるとしたら、一見すると巨大プラットフォーム企業をお仕置きする手立てとなりそうに見えますが、実際には、寡占状態をさらに加速し、参入障壁を高くし、市場のバランスがさらに悪化することが懸念されるのです。

フェイスブックの問題を直すための正解はわかりませんが、いくつかの論点が明らかになってきています。感情的なフェイスブック批判が横行しがちな中、規制強化がかえって悪影響を及ぼすことについても十分に留意が必要です。

特に巨大プラットフォーム企業は、通信品位法で免除されていた責任を、新たに負わなければならなくなったところで、十分な法的対応資源を有し、準拠するよう舵取りをすることができます。しかし、もし新たなプラットフォームサービスをゼロからつくるようなスタートアップにとっては、ユーザ投稿についてまでぬかりなく、新たな事業を展開していくのは非常に障壁が高くなってしまうことが考えられます。

同様の指摘をCory Doctrowもしています今月のACMの雑誌に寄稿し、(フェイスブックのような)巨大テック企業を直すんじゃなくて、インターネットを直すんだという視座から、(そして得意の著作権侵害をリラックスさせることを含みつつ)ユーザ側のコントロールを優位にし、相互運用性を強化する仕組みをつくることを提案しています。
面白いことに、この案だと、改正すべきは、コンピュータ詐欺と濫用に関する法律と、デジタルミレニアム著作権法になります(笑!!)しかも、雑にとらえて種別分けするとしたら、規制緩和ですね。(一方で、併せてACCESS ACT=Augmenting Compatibility and Competition by Enabling Service Switching Act、ざっくりした説明をするなら、データポータビリティを保障する法律かな。。。の立法も支持しているようだし、おおよそEFFの主張とかぶる、というかそもそもEFFの特別顧問みたいな立場でもある)

内部告発に関連するなかででてくる問題解消案の一つの選択肢にビッグテック規制監督官庁の設立があります。

嗚呼、ビッグテック規制(Politicoが行った最近の国際パネルディスカッション)

元FCCのTom Wheelerはかなり前から、対象セクター向けの監督官庁Digital Platform Agency (DPA)を作るべきだと言っています。(前にも紹介したような気がするが、ブルッキングス研究所の寄稿や、あとパブリックナレッジも似たような規制官庁を提言してたので、今回改めてその語気を強めている)

監督官庁が有効かどうかわかりませんが、EFFやCory Doctrowが目指すような相互運用性を現実のものとするためには、その実施を義務付けるような根拠法のようなものがいるのかもしれない(もしくは、それを実施したときに、著作権侵害で訴えられたり買収されて消えたりしないように)ような気がします。ええ、法律の専門家じゃないからわかりませんけど。。この相互運用性は、もしかすると、ちょっとずれ気味だったフランシスフクヤマが過去に仕上げたホワイトペーパーで「ミドルウェア」と呼んでいたものを、実際にはオープンな相互運用性の実装で、担保するというところのような気がします。


巨大テック問題ーでも批判するマスコミも同じ

 フェイスブックの内部告発者が60ミニッツに出演し話題を呼んでいます。フェイスブックは、若い子たちへの有害性を知りながらも調査資料に蓋をし、コンテンツの掲示に関わるアルゴリズムについて利益を追求のために使い続けたことが批判されています。


ちょうど上院での公聴会の最中だったり、欧州が米巨大テック企業への規制を強めていたところという時勢的な状況も重なって、新聞テレビ等のマスコミはフェイスブックを大バッシング。国際的にも問題となっています。フェイスブックが独占的な立場を優位に利用して、ユーザのエンゲージメント(という名の従事時間)を最大化するよう、特に弱い立場にある10代への影響を知りながら、十分な対応をしてこなかったのは、そりゃーいかんだろう。(Timeの表紙はこんなふうになっちゃってる、キツっ)

一方、このメディアからの大バッシングに、冷めた目を向ける人もいます。(一言でいうと、もっとも基本的なU.Y.C.の事例) 落ち着いてみてみましょう。マスコミがフェイスブックを批判しているのは、「利益を最大化して、若者への悪影響を蔑ろにした」からですが、マスコミはその常習犯です。先ほどのTIMEの表紙がわかりやすいですが、今回の報道では、Facebook=ザッカーバーグとして象徴、一般化し、フェイスブックが悪い、というようにことをずいぶんと単純化してしまいがちです。これに対して、ウェブの世界の長老ともいうべきでしょうか(ブログ始めて27年だそう)Dave WinerはFacebookの内在する複雑性を単純化することを批判し、フェイスブックは我々だ、と投稿しています。その投稿の中では

「フェイスブックは言ってみればニューヨークみたいなものだ。もしタバコ会社の本拠地がすべてニューヨークにあったら、ニューヨーク市長が癌の元凶の犯罪者だって言っているようなもんだ。実際にフェイスブックはニューヨークの何百倍も大きいんだから、いろんなことがあるってことを理解してよ」と。

そして「フェイスブックがー」と言うのは焦点が定まらなさ過ぎので、その意味するところをしっかり検討するようにと口を酸っぱくして言っています。

Facebookとは・・・ 
1.マークザッカーバーグのこと
2.パブリックコーポレーションとしてのFB
3.60Kの従業員
4.サーバー、ソフトなどの技術
5. 広告プラットフォーム
6. ユーザコミュニティ
7.ウェブへと接続するもの
8. ビデオや画像、投稿、ライブ配信など、現在過去のあらゆるコンテンツのこと


マスコミのほとんども現在は、トラフィックの大部分やシステムをGAFAに頼っている(ニュースサイト訪問のほとんどはSNSからの流入)わけだし、確かにやっていることの構造はほとんど一緒です。

同様の指摘はこちらにも。

フェイスブックについて人よりもカネを優先する悪いと世間に伝えるなら、プレス(マスコミ)だって、同じことをしちゃいけないはずだ(でもしてる)。クリックベイト記事やとんでも記事でトラフィックを捻出したりしないってこと。

あと、面白かったのはコレ↓。新聞が、フェイスブック閉鎖や解体をに声を強めながら、この論争の最中、フェイスブックのサイトが一時アクセスできなかったことについて、咎める新聞記事に、どっちやねん!と突っ込みをいれている投稿。

新聞記事:「フェイスブックは邪悪!閉鎖すべき」
これも新聞記事:「フェイスブックは6時間落ちてたので、再発防止に努めるべき」(どっちやねん)

「私の言いたいことは、我々プレスが、他者にアカウンタビリティを求めるなら、自分自身についても、より高い水準を保つよう努めなければおかしい。もし、フェイスブックが人々のプライバシーを侵害していると、世間に伝えるならば、我々プレスも、同じように人々のプライバシーを侵害してはならないはず(だが、している) 」

内部告発から、単なるフェイスブック叩きに終始してしまうと、ことの論点を単純化しゆがめてしまい、本来議論すべき事柄や検討すべき選択肢がぼやけてしまうように見えます。

今回は、フェイスブックの内部告発により明らかにされた巨大テックの持つ強いパワーや不均衡について報道するはずのプレス(マスコミ)に対する批評をいくつか紹介しました。フェイスブックの問題をひも解いていくと、実はそれは自然と、インターネット以前の時代に、これまでマスコミが指摘されてきたことといくつかは同じ性質を持っている、ということに気づくと、マスコミ批評がこれまで展開してきた論点や規制のありかた(うまくいってないけど!)を巨大テック企業にも応用することができるというヒントをくれているように思います。

もちろん、編集者によるニュースの選別と、アルゴリズムにより自動化された選別や掲示というのは、背景の仕組みやその規模のインパクトが大きくちがうし、テック周りの法整備が未発達である、テクノロジーの複雑性への理解をほとんどの人は持ち合わせていないことから、巨大テック問題をどう解消すべきか、みんなで落ち着て議論するのがかなり難しい現状にあります。そうすると、今回の一件で、マスコミがフェイスブック叩きに走ることで、なんだか違う、インターネットの自由を侵す方向に走ってしまう可能性もあるということは留意しておかなければいけなさそうです。

次回は、くわしくそれ。

2021年7月1日木曜日

Argument for Micro-Credentials ゾンビとの戦い、再び。

 ここ数年から、教育のオープン化、その延長線上でのデジタルクレデンシャルについて調べてきたのだが、ここにきて、昔の敵がまためぐってきた。


ネオリベラリズムだ。


お前が出てこないレイヤーに私はシフトしたはずだったのだぞ。だいたいややこしいんだよ君は。なぜまたここにいるんだ。


かつて、奴を倒すことはできなかったし、誰にもそれは無理だった。一部、功を奏したのはパロディと、実直な現代思想だろうか、わたしの猫パンチでは、あまりに無力だし、圧倒的に手がかかる。しかし、また巡り合ったのはしょうがない宿敵だ。

 
マイクロクレデンシャルも奴に囚われているのだとあるものがいう。おおよそそのとおり。公的資金を絶たれたアメリカの高等教育機関は、競争原理の中の生存戦略として産業界、シリコンバレーと手を組み、雇用主が求めるスキルを身に付けるような短い講座を多くの場合eラーニング等のスケール可能な手段で提供し、その学習成果としてのマイクロクレデンシャルを付与することにした。それは、学ぶことで最新の市場価値を持つスキルが得られるようでいて、必ずや廃れることが予期できる予定調和のなかに存在する。そのうえ、雇用主が求めるスキルというのは、世の中に変革をもたらす知ではなく、基本的に現状維持機能しかもたない。知は、本来人間を自由にするはずのものだったにもかかわらず。ここで予見される未来は、学べども、学べども、我が暮らし楽にならず、だ。


さらに事態を悪くすることに、マルクス経済学から見れば、クレデンシャルを持つことがブルジョア的価値となり、資本主義を自らの中で生成する終わりなき渇望をもたす。そのうえ、大学などのなんらかの信頼付けのされた権威が発行するのなら、工場労働者が生産手段をもたないごとく、学ぶ手段とその証明を権威ある機関に依存することになる。スキルが廃れるのも、学習が足りないのも、労働者の側に責任が置かれてしまう。Shane J. Ralstonはこうした事柄を含む10つの点で、マイクロクレデンシャルがけしからん理由を述べている。

知識のバラバラ殺人事件

via GIPHY

Shane J. Ralstonの指摘には、大学事務が合理化、効率化を目指す中で、私企業と同じ方策を取ってきたことにあり、その一つがUnbundling(個別に分解すること)、もう一つがサービス化であるとしている。学位より単位よりもさらに小さなまとまりとして、マイクロクレデンシャル発行プログラムを設置するのはまさにunbundlingの現れ。チャンクダウンすること自体になんら問題ないと私は思うのだけれど、教育学、思想的にそれをひも解くと、全体無き部分の提供に自らを格下げしてしまうことにほかならない。

知というもっと複雑で捉えどころのない、産業界で直接的な有益性を示さない、そんな全体性をもった学びをになったはずの高等教育が、急遽、プログラミングブートキャンプ程度だけのものになってしまうとしたら、事件だ。元来マイクロクレデンシャルはスタッカブル(積み上げ可能)なのだが、これが本当にそうだとしたら、実際には積み上げていっても、全体像をもたなくなってしまう。

古い宿敵が難題であるだけでなく、そこに刃向かう剣があの時研ぎそびれたままのものだという点でも辛み。

Leesa WheelahanとGavin Moodieは、高等教育のマイクロクレデンシャルについてバジル・バーンステイン的分析を通して批判していく。フレーミングだとかコーディング(言語コードのほうです)というメディア論っぽい言葉尻が続く中、基本的にはカリキュラム設計上の問題点があげられていく。(クレデンシャルの話なのになぜ?ってなるけどそこにはヒューマンキャピタル~人材は資本です~という考え方を色濃く反映してしまっている点との関係性でひも解かれる)ここでも、atomizationという語で、学習の原子化のことが触れられている点で、先ほどのunbundlingと共通する。


結局、読み進めていくと教育たるものは何かという話になってきて勘弁してもらいたくなるが崇高かつ真っ当な批判。そして教育のナラティブが、非常にネオリベに偏っていて、教育たるものを考える術が判然としないまま語られてしまっている問題を明らかにしている。前述は、カリキュラムやペダゴジーの問題がごっちゃになっていることの問題。

UNESCOのバックグラウンドペーパーは、そこのごっちゃになったものを、真っ向から批判している。そもそも貧困とか失業とかの問題を教育で解決できるというのは誤りで、政治経済上の政策をやったうえで教育を扱うべきならわかるが、政治経済上無策なくせに、教育に解決させようというのがけしからん。その解決策としてマイクロクレデンシャルに目を向けてる流れがけしからん。と。先にもカリキュラム上の問題が言及されていが、こちらでも21世紀スキルとか本質的じゃないんだよ!という突っ込みが入っている。労働市場上の問題が解決されないまま、マイクロクレデンシャルが進むと、資格のインフレがおきる、とまで指摘。そして極めつけは、失業を引き起こしているのはテクノロジーの入れ方の問題であるとし、短期利益追求型の自由主義的な能力主義的資本主義(長い・・・)の中で、技術ある職人をクビにして、その分AIでオートメーションさせるというコストカット手段としてテクノロジーを入れているところが諸悪の根源なのである。(反対に、ドイツでは職人の技能を高める形でのテクノロジーを導入した例があり、技術の進展と市場の在り方は不可避ではない、と捉える)そのくせに、テクノロジー企業が失業や貧困の解決を謳って、教育商材に乗り出すのは、ふざけているぞ、と。なんならイノベーションはシリコンバレーじゃなく、良く調べてみるとアメリカ軍需産業という機関が長期的な取り組みで生んでいるのだし、教育機関を堅牢にしていくことが教育のあるべき姿を高められる、と。え、守り・・・?

これを踏まえてまた、Shane J. Ralstonにもどってくるとこの部分が非常に刺さる。

Technicians often lack a sufficiently wide-ranging or general (Liberal Arts) education to appreciate the limits of their own knowledge—or stated differently, the extent of their own ignorance. Thus, tech entrepreneurs such as Mark Zuckerberg, Elon Musk, and Bill Gates are often too willing to position themselves as authorities in fields where they lack expertise (e.g. concerning world poverty, global climate change and, most recently, epidemiology).

技術が実装できるからといって、リベラルアーツを最後まで学びそびれたこの人たちは、自分の専門外のこともわかると勘違いしている、と心地よいほどざっくり。

21世紀スキルがどのくらいまがい物なのか、ということはさておき(わたしには、一見良さそうに見える)、クレデンシャルがデジタル化され、冒頭のビデオのような世界になる「学習経済」は、直感的に気持ち悪い。


ただし、これらの批判には機械叩きな感じを自認する面もかなり残るので、もう少し落ち着いて考えるべきこととしては

  • マイクロクレデンシャルは、あくまで学位と共存する主旨で、部分的な学位に担えないことを実現するためだけに限定的に利用するはず
  • クレデンシャルがスキルを相互参照可能なものとして実装すれば、偏差値とか学歴を尺度にしてしまっている現状を打破できる可能性も技術的には充分ある
  • 認定の権威や作業のガバナンスがどのように可能か、ウェーバー的ないしはマルクス的に捉えた場合の懸念が、学習認定のオープン化(Opening up validation)をした場合、解消できる可能性について触れられていないし、これは技術的にある程度可能性がある

なんだろう、いったいどうすればよかったんだろう。
Wissenschaft als Beruf(職業としての科学)でウェーバーはこう語っていた。

残された、本質的に増大しつつある要素は、大学での職に独特なものです。つまり、そのような私講師、あるいはなおさら助手が、晴れて正教授の地位かあるいはさらに研究所の長につけるかどうかという問題です。これは単純に運です。もちろん、偶然のみがすべてを支配するわけではありませんが、それでも偶然が尋常ならざる支配力をもつことは確かです。


それも、やだな。 

2021年3月19日金曜日

ミドルウェアはテックから民主主義を取り戻すか

珍しく、Foreign Affairsから。フランシス・フクヤマ(The End of Historyの人)や何人かスタンフォードのグループが、寡占テック産業がどのように民主主義の脅威となるか説明する記事を公開した。 

Foreign Affairs ビッグテックが民主主義を脅す

ビッグテックが民主主義を脅かす―― 情報の独占と操作を阻止するには ――フランシス・フクヤマ  スタンフォード大学 フリーマン・スポグリ国際研究所シニアフェロー バラク・リッチマン  デューク大学法科大学院教授、経営学教授 アシシュ・ゴエル  スタンフォード大学教授(経営科学)...

ここ数年英語圏では、テクノロジー企業が様々なコントロールパワーを持っていることへの批判が増大し、「テックラッシュ(techlash)」と呼ばれるテクノロジー企業の台頭へのバックラッシュを意味する造語が生まれた。同時に、巨大な力を持つプラットフォーム企業はGAFAという四文字となって、GAFAに対する批評がIT専門誌だけでなく、AtlanticやSalonなど現代文芸系の媒体で展開されてきた。こういう流れの中で、フランシス・フクヤマのような著名な政治経済学者が、民主主義の脅威という文脈でテクノロジー企業の寡占とその対策について執筆するのは自然だ。

記事の元となったのは、フランシス・フクヤマらによるスタンフォードの「プラットフォーム・スケール」ワーキンググループのホワイトペーパーだ。

Stanford Cyber Policy Center | Report of the Working Group on Platform Scale

The Program on Democracy and the Internet at Stanford University convened a working group in January 2020 to consider the scale, scope, and power exhibited by the digital platforms, study the potential harms they cause, and, if appropriate, recommend remedial policies....

Foreign Affairsの記事では、アメリカが直面する巨大テック企業がいかに民主主義を脅しているか、その脅威に気づいた規制当局がここ数年になって訴訟を起こしていること、こうした規制の強化は、テクノロジーの進化のペースにあまり効果を持たないこと、イノベーションの余地を残そうと解体してもまた同じようなことが起こること、と既存の取り組みの方向性が不十分であることをわかりやすく示している。これについてはその通りだと思う。

そして提案するのが、「ミドルウェア」なのである。
Image: Francis Fukuyama, Barak Richman, Ashish Goel,Roberta R. Katz, A. Douglas Melamed,Marietje Schaake,"REPORTOF THE WORKING GROUPON PLATFORM SCALE", STANFORD UNIVERSITY



雑に説明すると、プラットフォームとユーザの間にミドルウェアをかましましょう、それによってユーザが主体的に意思決定ができる、ないしはミドルウェアは機能として信頼性の高い情報をラベリングする、などというものだそうである。正直申し上げてシステムの絵としてしっくりこないのだが、ひとまず記事の描くミドルウェアを私の解釈に基づいて説明するとすればつぎのようなものがあると考えられる;

①プラットフォーム企業がミドルウェアを提供する。
ミドルウェアが情報に適切なラベル付けをする(例えば未検証情報のラベルをつけるなど)ことで、ユーザはミドルウェアを通じて信頼度の高い情報を入手できる。

②独立したミドルウェア提供会社がミドルウェアサービスを提供する。
ユーザの志向に合わせて、GAFAのコンテンツの上位に表示されるアイテムの重みを変動させるミドルウェアを提供する。例えば、国産のエコな商品だけを上位に表示させるなど。

③学校や非営利機関がミドルウェアを提供する。
地域の教育委員会が地域の出来事に比重を置いた結果を表示させるミドルウェアを提供するなどの例が考えらる。

①~③のいずれのパターンであっても、実現するうえで満たさなければいけない次のような要件があると考えられている。
  • まず、ミドルウェア提供側が技術的な透明性を持たなければならない。
  • またミドルウェア提供側が巨大な力を持つプラットフォーム上の別レイヤーとならないような仕組みが必要である。 
  • また、政策面ではプラットフォーム企業がAPIを提供するように義務付けなければいけない。 
  • さらに、ミドルウェアの健全な市場競争のために、プラットフォームへのアクセスによってミドルウェアにその収益の一部が入るようにしなければならない。(つまり、GAFAの利益をミドルウェアとシェアする)その共益がまともな関係になるよう政府が監督する。
正直、夢物語のように聞こえる。

この記事への反応をみると、テクノロジーによる民主主義への脅威や寡占問題の本質を詳細に定義していると評価するコメントが目立った。一方で、「ミドルウェア」という技術的な解決策については、あまりコメントがなかった。どうしてゆめっ物語のように聞こえるかというと、かつてミドルウェアのようなサービスがあったような気がするんだけど、GAFAにつぶされたんじゃなかったっけ?

その記憶を少したどってみよう。

そうでした、そんなようなサービスありました。
(ミドルウェアではなくサードパーティでしたが)

記憶①FriendFeed(その後Facebookが買収)
いろんなソーシャルメディアのフィードを一度に見れるサービスだった。Facebookに買収されてサービスは停止した。
@akihitoさんのブログの画像をお借りしています

記憶②Power.com

2008年頃にあったブラジル発のソーシャルメディアのアグリゲーションサービス。プラットフォームを跨ってコミュニケーションできるツールだった。が、著作権侵害等でFacebookに訴えられる。Power.com側はFacebookを外したが、裁判中にサービス終了。

記憶③Meebo(Googleが買収)
いろんなプラットフォームを跨いでチャット・メッセージができたが、のちにGoogleが買収してサービス終了


記事は決してサードパーティーサービスを指しているのではなくミドルウェアを指しているので、この記憶というのは直接記事に疑いをかける論点にはならないが、どうもミドルウェア解決案が腑に落ちない・・・。

記事中のミドルウェアは、オープンAPIのことを指しているのだろうか、と読んでいる最中に思った。しかし、ホワイトペーパーのほうにもオープンAPIによる解決策というような視点は出てこない。あくまで、プラットフォームのAPIを使う、なんらかの主体が提供するミドルウェアのようである。

そこに私はますます困惑。そもそもAPIを義務付けるぐらいなら、一層のこと相互運用性とオープンAPIを義務付ければプラットフォーム企業と共益関係を結ぶミドルウェア企業を制御しなくてもいいのでは・・・。

このあたりの理解を悩んでいたところ、TechdirtのMike Masonicが明確な指摘をツイートしていました。

ちょっと、安心。

フランシスフクヤマの指すのミドルウェアとはちょっと違うけれども、ユーザが選択するというような意味あいでは、元FCCのTom Wheelerが支持するOpen APIの形があるのを思い出した。これ聞いたのけっこう前だぞ・・・。

 

How to Monitor Fake News |Opinion NYT Tom Wheeler

This is true. And one effective form of information-sharing would be legally mandated open application programming interfaces for social media platforms. They would help the public identify what is being delivered by social media algorithms, and thus help protect our democracy...


しかし、Tom Wheelerさん、最近では、プラットフォーム規制監督庁(DPA)をつくるのがよい、というようなことも言っているようである。え・・・。


もう少し、テック企業のモノポリーについて、暗くならないように考えてみたいのだけど、いろいろてんこ盛りなので、次回に。

2020年6月8日月曜日

イタリアとCOVID19陽性接触者アプリ #MoneyLab8 (前半)

スロベニアにある非営利の文化機関であるAksiomaが主催しているMoneyLabというカンファレンスがとても面白いので紹介します。

Aksiomaはクリティカルな視座から新しいメディアアートや倫理等について学際的に研究・実践する取組を行っています。そのプロジェクトの一つであるMoneyLabは「お金」という切り口から社会を根底から考え直すカンファレンスです。今年のMoneyLabは約1か月にわたり毎週バーチャルに開催しているので、毎週リアルタイムに(または事後の動画)を視聴することができます。

MoneyLab #8

SHARE IDEAS, COMMENTS, QUESTIONS 👇🏿 OPEN CHAT IN NEW WINDOW The next appointment with the MoneyLab #8 streaming series is set for Monday, 1 June at 5 PM CET. The panel Care: Solidarity is Disobedience foresees the participation of Tomislav Medak as representative of the Pirate.Care research project, which focuses on autonomous responses to the...


なぜマネーなのか、というと公平な社会をつくり出すためのディスコースとして、欧州では非常にインパクトの強かったタックスヘイブンという社会問題を含みつつ、暗号通貨やキャッシュレス、グローバル金融システムなどについてアーティストや技術者、アクティビストらとともに検討するという目的意識からです。タックスヘイブンの問題は、日本ではスノーデンの暴露と同様に過少に見過ごされてしまった社会的問題のひとつですね・・・。タックスヘイブン問題が欧州で意識されるのは、日頃の文芸・哲学系の研究者のさかんな議論と欧州の芸術・学術研究支援の助成金の成果だと個人的には感じます。いわゆる”ボーダースタディ”という領域があって、以前から国境、境界という概念について議論・検討がなされていたからこそ、パナマ文書がでてきたときに、その哲学的示唆をより深く考察できています。

さて、今回は「データ主権(data soverignty)と接触記録(Proximity Tracing)」をテーマにスロベニアで活動するNGO Citizen DのCEOであるDomen Savičさんが、イタリア南部にいるJeromiの通称で知られるDenis Roioさん(フリーソフトウェアを創造する非営利組織のDYNE.ORGの設立者でEUのDECODEプロジェクトのCTO)へインタビューするもの。Jeromiは開発者でありながら、社会正義や倫理について強い意識を持っていることで知られています。Jeromiの発言が、すごく本質的で私の問題意識をうまく表現してくれているので救われます。

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インタビューが始まるとDomenはこう口火を切ります。
「ジェロミーにぜひ聞きたい。COVID19パンデミック以来、いつパンデミックの世界を救ってくれるアプリが登場するのか、ボタンで解決できるようななんらかの技術、またそういった問題についてどう思われますか?」

//ちょっとある意味でエフゲニー・モロゾフの本CLICK HERE TO SAVE EVERYTHINGを彷彿とさせる 問いですね。

この問いに対してジェロミーは「簡潔に答えるとどんなアプリが現れようとも私たちが現在直面している問題を解決できません。なんでそんな問いから始めるんでしょう」ときっぱり。そして次のように補足します。「まずは問題の定義から始めましょう。今起きていることは、あらゆるやりとり(interaction)において媒介(mediation)が増大していることです。」

媒介(mediation)とその増大というフレームから社会を捉える、というのはまさにメディアコミュニケーション研究の根っこの部分。

「デジタル技術の発展による媒介の増大は、新たなコミュニケーションの形やアートを生み出しています。媒介するということは、人間の表現、思想、コミュニケーションになんらかの第三者※の側面が介入し、場合によっては所謂『ミドルマン』となってそのコミュニケーションに対し盗聴、追加、削除、逸脱することがあります。」
「ほかのメディアのことを思い出してください。例えば電話、メール、写真。それぞれ良い点、悪い点をもたらしました。それぞれが人々の認識をどう変えたか。」

そしてさらに、哲学者ヴィレム・フルッサーの理論を踏まえ、次のようにコメントしています。(本気で理解したいと、ここここが参考になるかと)
「フルッサーが予見したようなテクノイメージの置かれる状況、つまりテクノイメージがリアリティに先行し、テクノイメージがその後を作る、ということは、まさに今我々が困っているフェイクニュース問題に相当すると考えられます。画像や音声の合成(synthesis)によるCovid19にまつわる陰謀論の拡散などは見事にフルッサーの理論が言い当たっているのではないでしょうか。」
「またデータビジュアライゼーションはテクノイメージの創造であると捉えることができるとすれば、データビジュアライゼーションもまた、リアリティを定義し説明するもので、やり様によっては、真実を隠したり明らかにすることになるので、どうデータを使うかが重要。」

さて、ようやく接触アプリの話に移ります。ジェロミーは、接触アプリが果たすべき役割は、あくまで個人が自身のリスクアセスメントをし、それに基づいて意思決定することであるとしています。SARS-COV2は、無症状の潜伏期間が長く、その期間中に接触したことを知ることができれば、個人がよりよい判断(自己隔離をしたり、その期間に接触した友人や家族にリスクを伝える)をすることができる、という前提からです。これに対し、接触アプリの悪い例は、トップダウンで、個人をトラッキングし、リスク評価をされる(リスク評価をするのは個人ではなく、上意下達的にモニタリングする側)ようなケースだとしています。あるべき姿はプライベートなアプリであり、自分に関するデータが他者によって集積され、そのことが自分にはわからないような状態であれば問題のあるアプリになってしまう、と述べています。

2020年5月18日月曜日

自警団とアプリ(自粛ポリス考 その2)

自粛ポリス考その1では、パンデミックによる不安・ストレスと、インターネット利用時間が増えデータ(ニュースやSNSでの情報)との付き合いが多くなっていく中、Web2.0以前から指摘されてきたヘイトやデマの問題に加え、より効率的に最適化された近年のアルゴリズム等によって拍車がかかっていくこと、その背景にる広告ビジネスモデルについて目を向けてみました。

考えてみるとインターネット以前においても、デマとヘイト・人種差別と私刑行為はいつもタッグを組んで厭うべき対象を共有し、排斥行為を繰り返してきました。私刑行為の正当化はほとんどの場合、不安の中、デマや誤情報が拡散されヘイトの対象となるグループにより命の危険にされるとして自身や家族(特に女性や子供)を守るためとして自警団を組織していきます。

銃の所有が容認されている米国ではボランティアでパトロールを行う自警団員が、丸腰の少年を結果的に銃殺してしまったケースがありその背景として世間からは人種差別が指摘されました。さらに古くは検証済みでないデマが発端となり自警団の行動が大量虐殺を引き起こした100年前のケースなど、挙げればきりがありません。ヘイトの被害にあうのは、特定のグループに属する人種に限定されず、実際にはその特定グループ以外の人々も被害が及びます。

'Watchmen' revived it. But the history of the 1921 Tulsa race massacre was nearly lost

The explosive opening in the first episode of HBO's "Watchmen," with citizens of a black Tulsa, Okla., neighborhood being gunned down by white vigilantes, black businesses deliberately burned and even aerial attacks, has brought new attention to the nearly buried history of what the Oklahoma Historical Society calls "the single worst incident of racial violence in American history."

日本においても不安やストレスが強い環境において特定のグループへのヘイトが高まり、ヘイトの対象と同一視され殺害されてしまった歴史もあります。自粛ポリスをインターネットのせいだ、として悪者扱いしても(というかインターネットを相手にしても・・・)何の糸口にもなりません。自粛ポリス考その1で書いたように、サイバースペースの問題と物理世界の問題をそれぞれ別の問題として断絶させてしまう事態が続かないよう包括的なアプローチが必要です。

パンデミックにおけるテクノロジーへのまなざしも分断しています。情報の加工や収集、拡散が容易になったことでインフォデミックが起こり、その原因として予てから指摘されてきたリテラシー教育の不十分さや、プラットフォームの推薦アルゴリズムどを問題視する声も生まれます。一方で、感染拡大の防止にテクノロジーが打開策を提供してくれるだろうとして、データの集積やGPS等に希望を見出すものもいます。

人間の尊い命を奪うウイルスによる未曽有の事態においてテクノロジーとどう向き合い、取り組むべきなのか。このブログでも過去に何度か参照し、テクノロジーの解決主義(Solutionism)批判で知られるEvegeny Morozoffは、今般もガーディアン紙に「パンデミックを”IT政策”で乗り切るのは大間違い」と寄せています。相手が未知のウイルスであっても、教訓となる事柄は充分にあると考えます。同様に過去に参照したユヴァル・ノア・ハラリは「パンデミックよりも恐ろしいのは人間のヘイト、欲、無知」だとし、さらに個人データ収集については「市民への監視が進むのであれば、政府への監視も併せて強めなければならない」と話しています。


私が思い出したのは、過去に国内で議論を巻き起こしたテクノロジーによる浅はかな解決主義に対する批判です。日本のGoogleによるインパクトチャレンジという社会課題解決にICTを使うビジネスコンテストで、あるNPOが起案した「GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」が、ホームレスの当事者支援団体などにより批判を浴びました。突っ込みどころが多すぎるから詳しくは書きませんが、先に触れたパトロールや不安と差別、ヘイトなど様々な問題を含有します。善意が、意図せずこういう方向に向かってしまうのは残念と思うとともに、では何を理解しておくべきだったのか、というと大学の講義で体系だって教わることでもないのかもしれないので、想像しようもなかったのかもと思うと、どのような手立てでこうしたことが防げるのかな、というのが私にとってテーマでもあります。

NPO法人Homedoor「CRIMELESS(GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」への批判

Googleインパクトチャレンジ受賞『CRIMELESS(GPS による治安維持とホームレス雇用の両立)』の問題点 参考:「日本におけるGoogleインパクトチャレンジ」のグランプリを受賞した事業「CRIMELESS」についての意見書 http://lluvia.tea-nifty.com/homelesssogosodan/2015/03/googlecrimeless.html

テクノロジーをどう利用するのか、政治とデータの関係は一層密を極めています。個人がデータの行きつく先について理解せずともテクノロジーの利用は増える一方です。最近ではトランプ陣営が新たなアプリをリリースし話題になっています。これに対し、シンクタンクのTactical Technology Collectiveは、「キャンペーンアプリは同じ考えを持つユーザを集めるので、思想的多様性が避けられてしまい一層フィルターバブルやコンファメーションバイアスを強化するリスクがある.  」と警鐘を鳴らしています。

また最近になって、トランプ陣営が勝利したのは単に他の候補者よりもFacebookに莫大な広告費をかけ、Facebook広告が算出した最適化された広告を活用したことが勝因になったのでは(つまりキャンペーンマネージャーという人間による戦略的に案を練って低コストで最適な効果を得る広告を作るという意思決定ではなく、Facebook広告に内在する計算機が導いた)との分析も改めて注目されています。そして政治的キャンペーン、選挙活動としてトランプ陣営はパンデミックを利用し、憎悪を増幅させるキャンペーンを展開しています。
画像:https://www.anotheracronym.orgによる選挙広告に関する分析記事


 問題は、こうした憎悪は特定のグループに作用するだけでなく、ひいてはそれ以外の人々にも被害をもたらします。パンデミックをもたらしたウイルスを裁いたりリンチしたりできないフラストレーションが、さらなる憎悪や分断を生むなか、過去の教訓に学びながらテクノロジーへのバランスの取れた視座を得ようと試みることが必要なのではないでしょうか。