2018年1月28日日曜日

platform cooperativismの文脈

プラットフォームコーポラティビスムについて過去にブログでもつづっていますが改めて関心が高まっていることを受けて用語としての理解だけではなくその背景となる部分をしっかり記しておきたいと思います。技術や戦略としてプラットフォームコーポラティビスムを日本で導入してもその裏にある思想がなければ部分的にしか意味をなさないからです。プラットフォームコーポラティビスムは制度設計ではなく文化的な運動だから。

プラットフォームコーポラティビスムは,ここ数年になって生まれた言葉でわかりやすく言えばその中心人物はドイツ出身でアメリカニューヨークにあるニュースクールという私立大学で教鞭をとるTrebor Scholzです。彼は労働運動史の観点から、現代のAmazonのメカニカルタークをはじめクラウドソーシングにおける労働の搾取や富の不均衡といったテーマに注目し「デジタルな労働」として問題提起してきました。ただしこれは彼の専売特許でもなく研究対象でもないリアルな課題への実践であることを十分承知する必要があります。

デジタルな労働に関する問題はグローバルなものでもありネットワークを通じて発生するものです。そこで「Digital Labor」という、関係者を交えた国際的シンポジウムによりその理解を深めようとニュースクールが主催となって2014年に開催されました。当時このブログでも取り上げていますが,副業を持たないとやっていけない、というようなライフスタイルは2000年代半ばのアメリカではすでに意識されるようになっていて、(たとえば当時話題になったウェブ動画「Story of Stuff」のなかでは持続可能性という視点から消費と仕事を掛け持ちすることについて触れている)、フリーランスユニオンみたいなのができていったり、学問としての労働運動が強いドイツなどをはじめヨーロッパでAmazonのメカニカルタークが批判されるようになり、さらにすすんでSharing Economyにおける労働とは言い難い新しい形の労働をどう捉えていくか、議論がさかんいなっていったという経緯があります。こうしたネットワークで発生する労働という問題に対する持続可能な代替手段としてプラットフォームコーポラティビスムは生まれてきました。

シェアリングエコノミーについて経済と労働の観点からもう一度振り返ってみます。ビジネスとしてはプラットフォーム戦略です。例えばUberなら交通のサービス化としてアプリを通じて乗車のシェアを提供することで運転手と乗客を結び付けるプラットフォームの役割を担うことで利益を発生させます。一方、ライドを提供する運転手といのは空いた時間にすでに所有している車を使ってタクシー行為をするわけであり、Uberの社員として労働契約を結ぶわけではないため労働者としての保護を受けないことになります。これがわかりやすい労働とプラットフォームの関係の一つの例です。

もう一つはWeb2.0以降から一層一般化していったソーシャルメディアに対する問題です。ソーシャルメディアはマイクロブログやメッセージのプラットフォームとしてソーシャルな社会的な交流を促す立場にあります。いくつかのソーシャルメディアはテクノロジーが駆り立てて始まりましたが自己持続のために私企業の形をとり、ユーザ数の増加を受けさらに投資家からの資金調達を経て上場していきます。例えばツイッターはビジネスとして始まったつもりはないのですが,投資を受けて広告によるビジネスモデルを展開していきます。この時点でも明らかですがツイッターを価値ある場所にしているのはツイッターユーザそのものです。ユーザがコンテンツを投稿しユーザ同士が子交流できるコミュニティを作っていったわけです。

広告モデルになったことでユーザのデータはコモディティに変換されマーケティング目的で提供され,ツイッター社は投資家から調達した資金のために自分のビジネスが有望であることを証明し続けなければいけなくなりました。ソーシャルメディアを利用することが労働とは言えませんがユーザが何らかの価値創造に貢献していることに注意が必要です。

多くのテクノロジースタートアップはサービス提供、ユーザ拡大,資金調達しIPOないしは買収というプロセスでビジネスを成り立たせています。こうした厳しい競争と企業のライフサイクルの中にソーシャルメディアも存在しています。またシリコンバレーや北米の若手起業家にとって資金調達してビジネスを拡張することや、買収されることというのが「成功」の出口であるという文化的な認識があります。端的にいえばそのほうがモテるという風土です。消費者が作り手になるWeb2.0はユーザの情報発信を手助けする大きな力となった一方,創造された価値の分配について誰が何をどのくらい享受できるのか明確なプランを持たないままテクノロジーが先行していったものです。(もしくはそのことを戦略的にわかっている人はそれをビジネスにしていったとも言えます。)

日本では話題になりませんでしたがアリアナ・ハフィントンが始めたハフィントンポストは彼女の目的に共鳴した多くの友人が寄稿したおかげでメディアとして強力になったわけですがAOLに買収されたことは多くの寄稿者にとってその価値の分配について疑問を抱くものとして大きなきっかけとなっています。

ユーザ投稿型のソーシャルメディアのデジタルな労働としての問題はそれそのもの単体としてではなく,ソーシャルメディアの広告モデルの鋭利化により一層顕著になったユーザデータの集積やデータの所有権、プライバシーの問題、アルゴリズムという見えない編集権によるコンテンツのコントロールという関連する様々な問題との相互作用でより英語圏で強く意識されるようになっていきました。なので単純に労働や価値といった要素単体で問題提起されているものではなく、サービスを提供するプラットフォーム側に不均衡に様々な権力が付与されている現状への疑問符の一つとして存在していることを認識する必要があります。特にアプリが自分のデータを「監視」し、第三者へ提供していることへの問題意識は、スノーデンの暴露(こちらも同じく日本ではあまりユーザの意識変革を生まなかったが,英語圏では多大な影響をあたえた)により顕在化された政府の監視の問題とも相互に関係しています。

上記に示したようにデジタルな労働は想像した価値の分配の不均衡について意識する運動としての側面とともに、所有権やメディアサービスの社会的説明責任を求めようという問題意識の二つが相まって高まりをみせていくことになります。その打開策としてプラットフォームコーポラティビスムが注目されることになります。

もう一つの大きな背景として見過ごしてはいけないのはアメリカ現代史におけるニュースクールの存在です。同大学でのデジタルな労働のシンポジウムは学際的取り組みで,文化・メディア学部が主体となっています。そして同時にニュウヨーク市立大学(CUNY, こちらも都市とメディア研究で非常に重要で先鋭的な取り組みがある)やそのほかの学術機関とのコラボレーションで開催されています。社会学でも労働の学会でもなく学際的にそして国内外のアクティビストと研究者を交えて行われているところは日本のアカデミアの姿にもう少し求めたいところです。

この舞台となっているニュースクールはニューヨークという土地柄もありメディア研究者にとってはアイビーリーグとはまた違う先鋭的な教育機関としての印象も強いです。その最大の所以となっているのが2011年秋のオキュパイウォールストリートとの関係です。オキュパイはリーマンショックやサブプライムローンの問題に対する民衆のデモといった印象を持たれるかもしれませんが,大学構造への再考の一手を担う重大な機会をもたらしていました。大学の実践,知へのアクセスと実践としてオキュパイの現場には大学教員が若者や学生と対話していました。知へのアクセスという観点と同時に富の分配に対する再考の場としてオキュパイ運動が重要なターニングポイントになっています。

もっと言うと、このオキュパイの前進ともいえる出来事は2008年12月にニュースクールで起きています。それはオキュパイニュースクールというニュースクールの占拠としてニュースクールの学生だけでなく先にあげたCUNYの学生なども参加し学校に対する要求をしたものでした。その担い手にはSDSという反戦学生運動のグループがあります。SDSはベトナム戦争のころ組織されたものですがその後一度解散しており2000年代半ばになって復活しいくつかの州のカレッジなどで再びアクティブなネットワークを形成しています。その結びつきをもたらすのに幾分か貢献したのはインターネットです。直接的には911をきっかけに始まったアフガン侵攻やイラク戦争が学生運動の主要な要因です。メディア研究が関連するのは、これらの戦争に際し施行した愛国法や同時期のメディアの統合,それに所以する政府に批判的なキャスターの解雇があり、そのカウンターとしてインターネットやコミュニティ放送局などによるオルタナティブメディアが勃興していきます。ニュースクールの占拠行為は学生の反戦団体であり,2008年のイスラエルによるガザへの攻撃への反対運動とも無縁ではない,直接行動の実践でした。ちなみにアメリカメディアにおける中東の報道はイスラエルよりのものばかりであることが頻繁なメディア批評のトピックとなっています。

ついでに挙げておくとSDS復活と同時期に盛り上がりを見せた2000年代中盤の学生運動としてフリーカルチャーがあります。こちらはクリエイティブコモンズとも共闘して著作権の観点でシェアしたりアクセスしたりリミックスすることをもっと自由にやっていきたいという学生運動でハーバードにも組織がありNYUにもアクティブな学生グループがありました。あとでこのことが少し関連してくるので挙げておきます。

もう少しオキュパイ運動について触れておくとオキュパイ運動は反G8や「もう一つの世界は可能」といった反グロ―バリゼーション運動の系譜もあります。これはさらにさかのぼる1999年のシアトルでの反WTOの闘争と当時期に誕生したインターネット上の匿名の分散型のジャーナリストのネットワークであるインディメディアがその根幹となる思想を形作っています。さらにその後の反グローバリゼーションというイデオロギーの実践として、広告へのカウンターとしてのアドバスターズが存在します。ここにオルタナティブな世界を求める運動とカルチュラルスタディーズ,メディアの実践が融合します。わかりやすい反グローバリゼーションとして、シェル石油、ナイキやマクドナルド、ネスレやスターバックスへの不買運動などが挙げられます。ここに先に挙げた反戦運動とのオーバーラップがあり、イスラエルを支持する多国籍企業への不買運動(BDS)があります。

少し複雑になってきたのでこうした様々な点が接合するオキュパイ以前のアクティビズムの具体例を挙げて整理します。ザ・イエスメンと呼ばれるカウンターカルチャー,メディアアクティビズムを取り入れた戦術で反グローバリゼーションの運動を面白くしていった著名な二人組を例にとりましょう。イエスメンはエクソンモービルからダウやシェル石油などの多国籍企業(これに加えブッシュ大統領やニューヨークタイムズもいイエスメンの標的になっています笑)主導の南北格差や労働搾取を助長する自由貿易,石油戦争などといった富の不均衡に反対する手段として主に成り済まし的なパロディの手法により反対メッセージを掲げ支持を得てきました。こうしたカウンターのメッセージを届けるためのパロディはアドバスターズでもよく見られる「リミックス」行為です。リミックスを是としなければ反対運動のためのビジュアルは上がってこないのでここでもフリーカルチャー思想の存在がより有意になります。もう一つオキュパイウォールストリートの前身ともいえる運動はスペインでのMay15という広場の占拠運動でこちらもライブストリームで当時毎日配信されていましたが,この運動のきっかけとなっている趨勢の一つがスペインのフリーカルチャー運動です。(他にもいろいろあるけど割愛します)

回想シーンが長くなってしまいましたが(本当はもっと遡りたいところですが…)オキュパイにはなしを戻します。これまでの反グロ運動の系譜がありながらもオキュパイは完全に違う運動であったことを忘れてはいけません。(さんざん反グロの話をしたのにすいません)

オキュパイ以前の運動は,資本主義を終わらせるとか、行き過ぎた自由主義貿易への反対といった明確な要求があり、運動の担い手を導くような思想家なり行動の中心的人物やグループがいました。これに対し、オキュパイでは中心がなく、具体的な要求がないという前代未聞の運動です。以前の運動とはまったく違う性質のものです。とはいえ脱中心的思想や分散型,匿名というネットワークの思想がはすでに1999年のインディメディア登場時からあったものの、運動の現場においてそれが実践されたという意味でオキュパイは分岐点と考えていいのではないでしょうか。

いずれにせよデジタルな労働という課題が顕在化する前段階としてオキュパイ運動があったこと。その運動には学生がローンを背負って大学に通うという現状から大学や知へのアクセスの在り方が問われたこと、また所有権や富の分配という論点があり大学職員や学生なども参加していたことで、オキュパイ運動終焉後もニューヨークの大学機関に関係する人々にとって何らかのインパクトを持っていたという伏線があることを押さえておく必要があります。

デジタルな労働についての2014年のニュースクールのシンポジウムの副題には「スウェットショップ、ピケットライン、バリケード」とあります。まさに前述のような背景や問題意識の趨勢があってはじめてここにデジタルな労働という共有された課題が生まれてきます。またシンポジウムは前述した問題意識を体現するように,ライブストリームで誰でもその議論にアクセスできるよう中継、アーカイブされ、登壇者はパネルとしてではなく「参加者」としてプログラムに示され議論をする場を提供するキュレーター、プロデューサとしてTrebor Scholzが呼びかけ人となっている形であることは今後同類の試みをする人にとって注目に値します。アカデミアの集まりでもなくニュースクールのイベントでもないのです。

さらにデジタルな労働の「参加者」にこのイベントの性格を見ることができます。例えばアストラテイラーは、シジェクのドキュメンタリーを撮った映像監督として知られているかもしれませんが彼女の
アクティビズムの始めは環境問題でした。そしてオキュパイを通じて彼女は学生ローンの支払いを拒むキャンペーンの立ち上げを率いています。デヴィッド・キャロルは昨年、トランプの当選した大統領選挙戦を受けてその選挙キャンペーンの代理店でアメリカ国民のデータを不正に持ち利用したとしてケンブリッジアナリティカを相手取って裁判をしています。Trebor Sholzはデジタルな労働の会議の後、ミディアムにシェアリングエコノミーの対抗としてのプラットフォームコーポラティビスムについて書いています。その翌年のほぼ同時期にニュースクールで開催されたのがプラットフォームコーポラティビスムの会議になります。(ここまで長かった・・・

先に挙げた2000年代のアクティビズム諸々は2010年代に入って幾分姿かたちが変わってプラットフォームコーポラティビスムの親戚のような存在になっています。(2000年代からいたけれど2010年代になってより存在感を増したといったほうが正確です)。そのうちのひとつはP2P財団。それからP2P財団の支援も受けているシェアラブル。シェアラブルはシェアリングエコノミーが本来の
分かち合いの姿でないただのミドルマンビジネスになってしまっていることに辟易していたり、知識をシェアするプラットフォームとしてこれまでの文脈を十分にくみ取りながら精神性を体現しているステキな組織のひとつです。

ですからプラットフォームコーポラティビスムはICTで生協をアップデートすることでもなければアカデミアのための研究対象でもありません。もちろんこのコンセプトをつうじてそのようなことは可能ですが,それは本質的ではありません。

プラットフォームコーポラティビスムの根幹には先に挙げたような思想や様々な苦悩がありその打開策として実践可能な行動として体現しようとするものです。プラットフォームコーポラティビスム実現のプロセスの中に、不均衡な労働搾取や「知」の中央集権的コントロールが生まれることは努力によって防ぐべきであり、担い手は目的の精神性を欠くことなく実践によって広げていくことを強く求めます。

2017年4月1日土曜日

ウソの情報が広がる理由と対処方法は?

エイプリルフールですね。とはいえ、以下は真摯に書いてます。

偽りの情報について、昨今話題となっているフェイクニュースやネット上のデマ、事実と異なる検証されていない情報や誤報などをひっくるめたミスインフォメーションについて取り上げたいとおもいます。

コミュニケーションと社会変革との関係について取り上げるカンファレンス「Frank」(主催:フロリダ大学のCollege of Journalism and Communications)にて、misinformation をテーマに新書を出す予定の Brian Southwellが10分程度の講演をしています。 

Brian Southwell: “Why misinformation happens and what we can do about it”

短い時間で、マスコミニケーションと誤報、ファクトチェックとフェイクニュースについてどう解釈し対応すべきか、端的にまとめられています。 「情報の真偽に関わらず人々は、新しい情報がきたらまずその情報を受け入れ解釈した後に、正誤のラベルを貼り付ける」と論じたスピノサを参照し、つまりなんだかんだで情報を受け入れてしまう行為がさっそく誤報を受け入れる間口を作ってしまっているのだと話しています。

なお、ここで指している「ミスインフォメーション」は、報道機関の誤報に限らず、事実出ないにもかかわらず、まことしやかに拡散され受け手が鵜呑みにしてしまうケースや、捏造された虚偽の情報なども含んでおり、ジャーナリズム史を遡ること、米西戦争時のでっちあげ報道(新聞社が発行部数競争のさなか、事実に基づかないで捏造した記事で戦争をあおるなど)や、火星からの侵略(ラジオドラマ「宇宙戦争」のリスナーたちが火星人が本当に来たと勘違いして大混乱が起きた事件)を参照するだけでなく、最近のワクチンの危険性を訴える陰謀論の拡散を例にとり、昨今のネットに広がる科学的根拠に基づかないエセの健康情報、デマ、さらにはトランプ大統領にまつわるフェイクニュースについても総括しています。

そしてこれらのミスインフォメーションがやっかいな理由は次の3つの点であるとしています

  1. 人々は情報の正誤を問わず情報を受け入れる傾向にあること(脳の一部が情報を処理し、その情報の検証をするのは脳の別の部分である)
  2. アメリカの誤情報に対する規制は、予防でなく事後検知である。正確な情報であるかどうかは実際に起きてからでないと証明できない。(例:FCCやFDAは見つけた違反に対して取締りを行なうが、違反が起きないようにすることはできない) 情報を検閲しない社会であることが、ミスインフォメーションの入り口をつくってしまっているとSouthwell教授は論じている。
  3. 訂正は可能であるが困難。「害のあるメッセージを届ける広告キャンペーンに対抗するには、同じレベルのカウンターメッセージが必要」であり、「火をもって火を制す」しかない。
Southwellはユーモアを交えた面白いスピーチで、冗談から話を始めています。
ウソだって、じっくり聴いてしまうものです。後からウソをついていたとわかったら来年は講演できないでしょうが、その場でステージから引き釣り下ろされたりはしません。とても聴きやすい魅力的なスピーチなのでぜひビデオをご覧ください。

このトークの私が好きな点は、ミスインフォメーションの定義づけに終始するのではなく、現実問題について語っているところです。定義や分類に時間を費やしがちで本筋の議論ができてない学術的議論よりも、様々なタイプのミスインフォメーションについてひっくるめて話してくれていることで、現実に対処しようとしている実践的な意気込みが感じられます。また、ミスインフォメーションを生むやっかいな環境について、その3点そのものが「悪」であるとは論じてないところも好きです。一生懸命調べて報道しても後に訂正が必要なこともあるものです。規制体制が事後であり検閲がないことについて、情報を「sanitize(消毒する、クリーンにする)していない」のはいいことだと話しています。

日本でもキュレーションメディアによる不適切な引用が元で健康に関する、事実に基づかない情報がネット上にあふれたことが問題となりましたが、これもミスインフォメーションによるやっかいなできごとでした。こうしたミスインフォメーションが流れたことについて情報が「汚染」されたと呼ぶ考察がありましたが、私はそれは不適切な言葉の扱いだと強く感じます。クリーンなインターネットを望むことと、特定の情報について「汚染している」と呼ぶことは別です。「フェイクニュース」にしても「情報汚染」にしても、新しい語を用いて事象を解説しようとしがちです。そんな中、Southwellのスピーチは本質について考えさせてくれる楽しいきっかけを生んでくれているように思います。

Frankのそのほかの講演はこちらから視聴できます。
https://vimeo.com/frankgathering/videos

Frankについて
http://frank.jou.ufl.edu/

2017年3月8日水曜日

インサイドアウト:AIに仕事をとられる危機より憂慮すべき人類史の転換

 

Yuval Noah Harari: Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

バイオエンジニアリングや、データ主義が、人類を新たな進化へ導く、と語るのはイスラエルの歴史学者ユヴァルノアハラリ氏。先日のカーネギーカウンシルでの講演が興味深かったので少しかいつまんで、雑にですが、紹介したいと思います。(わたしは著書を読んだことはありません)

  • これまでホモ・サピエンスは、大した変化を遂げていないが、次にこれから起こる進化は、人間を全く変えてしまうものとなる
  • これまで人間は外的な環境に対して様々な働きかけをして改変していったが、今度はバイオエンジニアリングなどテクノロジーを通して内部(自分の脳や身体)を書き換えていくことになる
  • その結果、これまでにないほどの格差が巻き起こる
  • 人間が外的な環境に起こした変化には、環境問題をはじめとして好ましくないものも多々あり、今後、人間に起こる内的な変化も、同様にネガティヴな影響をもたらすだろう

人間の価値、巻き起こるだろう格差

これから起きる変化について、すでに起きている分野として軍事を例にあげている。かつて、国家が、強い軍隊を作りたければ、賢い参謀や学ある隊員が多数必要だった。ところが今は、アルゴリズム、ドローンなどが、すでに人間の知能や肉体を代替えしている。これと同等のことが、文民の経済にも起こる。この格差が起きたとき、途上国は、一層貧困に苦しむことになる、と話している。雇用が、自動化によって人間からAIを備えたマシンに取って代わったとき、例えばバングラデシュの織物工場で働く人たちは、急にプログラマーに転職することは不可能である。また次の世代がどんなスキルを習得すべきか全くわからない状態で従来どおりの教育を学校は提供したままであり、テクノロジーの発展で新たな雇用が創出されることを否定している。

権限の移譲~ヒューマニズムからデータ主義に~

人類史において、権威というのは最初雲の上にあった。つまり、宗教、神または神に担保された王位、聖書が、まつりごとに限らず全てを指し示す権威だった。それが、ルネッサンスを経て、権威は人間の意思にあるとしたヒューマニズムが興り、物事の善悪も、人が決めるようになり、経済においてはお客さまが王様というよう、民に(経済においては消費者に)権威は移った。今度はその権威が、また雲の上に戻ろうとしていて、それはAmazonクラウドであり、グーグルといったIT企業である、と語る。この比喩の示すところは、著者の言う"データ主義dataism "を指し、膨大なデータをもとにAIとアルゴリズムが、人間には認識できないようなパターンを算術して判断を下し、それが正となる世界が訪れる、と言うこと。身近なところで言えば、ローンの審査や、病気の診断において、AI、アルゴリズムが判断をしていくだろう。

わたしの感想

肝心な内的な変化について、具体的に紹介する記述をしませんでしたが人間をalterする、つまり人の有り様を変えてしまうことです。単に雇用がAIやマシンに取って代わってしまうことでなく、富める者はマシンやAIを持ち、自らの身体についても、その能力を拡張したり、健康、長寿を手に入れさらに富を増幅させるのに対して、持たざる者は、仕事もなく労働価値もなく、政府の福祉や保護があるわけでもなく、自らのデータは無料で提供する一方自分が何か得られるわけでもなく、時代についていくスキルもなく、新たに取得するのも困難で、路頭に迷うばかり。この格差の根源となるデータ主義というのは、権威はデータないしアルゴリズムにあり、人間は判断をマシンに委ねるだけでなく、その判断の理由さえ理解できないまま、アルゴリズムの判断に追従する世界が到来することを指しています。

総じて、テクノロジーの発展と社会への影響に関する言説はいつも性悪説的なものと性善説的なものの二者択一に陥りがちだと感じています。大概が、AIの本質を理解せず映画のようなロボットが人類を襲来するような危機をイメージさせるといったディストピア的論考か、技術を理解しながらお祭り騒ぎのように新たな技術が医療や寿命、経済、人間性まで解決し大儲けができるといった資金調達を招こうとするスタートアップないしIT企業側のユートピア的論考のいずれかです。そんな中、ユヴァル氏の歴史とテクノロジーの両者の深い理解に基づいた忠告は非常に貴重で価値あるものだと感じます。

おまけですが、著者が、イスラエルの占領について、イスラエルが、アルゴリズムを駆使して占領を行なっていることを示しているのが興味深かったです。(なんか、悠長な表現ですいません)。完全なる監視(surveillance)、ドローン、アルゴリズムによる行動パターン認識と判断…。これにより、集団で立ち上がる(organize)のは、全く無理になったことを話しています。イスラエルがアルゴリズム立国を掲げた占領の効率化(algorithmic occupation)を現在もう行なっていることは、これからの世界の秩序の有り様に、示唆するものが多いのではないでしょうか。


脳をテクノロジーで変化させあなたを変える

さて、ここで指す、人間を内側から変えてしまうような技術について、遺伝子工学やバイオエンジニアリングなどが挙げられていますが、中には既に大衆に入手可能な、内的変化をもたらす技術もあります。ユヴァル氏の指す、内的な変化への入り口として、講演とは直接関係ありませんが、このTHYNCについて注目してみたいと思います。

人間の脳に、電流を流すことで集中力を高めたり、リラックスさせたりするのを、、アプリで端末から操作可能にした電流を流して気分を変えるテクノロジーTHYNCについて、ラジオ番組Note to Selfのホストが自ら体感したレポートがこのほど公開されました。


Note to Self "Zapping Your Brain to Bliss" 2017年3月1日



Note to Selfの番組ホストは、THYNCを装着し、電流をかけられ、効能が浸透するあいだ建物をすこし散歩し、実験室に戻ってくると、まるで大麻でリラックスしきったようなトーンで、笑いながらいつもと明らかにちがう様子でTHYNC代表と会話します。中毒性があるかどうかはわかりませんが、録音されたホストの様子の変わりようは、放送禁止用語を連発し、「どうでもよくなっちゃった」と話すなど、まるでドラッグ服用中の人みたいです。

コーヒーで目を覚ましたりヨガでリラックスする代わりに、電流を流して脳に働きかけるといったものです。このタイプのプロダクトは、FDAの規制対象とならないので、なんの規制もなく、販売できる状態にあるとのこと。なんだか、原克の「気分はサイボーグ」で検証されている19世紀後半のイカサマ電流治療法と、シンクロしています。
 

THYNCの紹介動画:This Wearable Gives You a Low Voltage Pick Me Up

このブログ記事投稿のタイトルを「インサイドアウト:AIに仕事をとられる危機より憂慮すべき人類史の転換」 としたのは、人間の感情を擬人化して描いたディズニー映画「インサイドアウト(邦題はインサイドヘッド)」と、ユヴァル氏の「外から内」へ人間が対象を拡大していったと見るナラティブと、重なる部分があると感じたからです。我々が自分たちの謎につつまれた感情や脳の働きを理解するのに、ディズニー映画のナラティブに頼ってしまうのであれば、今後起こる内的な働きかけへの受容をきっとたやすくし、簡素化された司令塔をもったマシンのような脳の描写は、より機械と同化しやすくなるのではないかと杞憂ししまいます。(映画、見てませんがね)

電流とナラティブ

19世紀の怪しい治療を取り上げたDaily Mailの記事
 
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、さまざまなイカサマ電気治療商品が出回ったことを「気分はサイボーグ」は紹介しています。たとえば、最先端のテクノロジーでハゲているおっさんにも髪を育てることができるという「電気育毛器」や男性の生殖機能を元気にさせる「電気ベルト」など。電気神話と男らしさ(masculinity)とかが交差しているところが個人的にはとても興味深いです。
 
先述したとおり、当時も米国食品医療品法FFDAが成立するまでイカサマ医薬品を取り締まる規制がなく、その後も電気をつかった詐欺商品が多かったようです。
 
なお、すべての電気治療がイカサマなのではなく、現在軍隊では軍人の集中力を高める特別な装置としてtDCSという電流で神経刺激をするものが採用されているほか、電流をもちいた様々な神経刺激治療があります。番組ホスト自らが体験したTHYNCは効果があり、これといって害のない商品のようではありますが、こうした電気とアプリによる健康促進商品については「ライフスタイルプロダクト」のカテゴリーにはいるため、現在規制がないという点で、かなりかつての電気療法とのパラレルがあるように思えます。
 
同様に商品を宣伝する語り口も重なります。Wall Street JournalのTHYNCを紹介するビデオでは、コーヒーを飲むよりもTHYNCを使うほうが「モダンな方法である」と語っています。かつて電気治療のいかさま品が信じられたのも当時「電気」が「モダン」であるという語り口で信仰を広げていったことが「気分はサイボーグ」のなかでも述べられており、今後人間が内的な変化を求め実施していく上で、かつての語り口と同様のことが起きていることは、効能の是非とは別に注目しておくべきことでしょう。
 
冒頭の講演でユヴァル氏は、人類が外部への働きかけることで外的世界をコントロールしてきたこれまでに対し、今後は人間内部へ働きかけ、人間そのものをハックする内的世界のコントロールへと変化することを述べていました。「気分はサイボーグ」では機械と生体のハイブリッドサイボーグの先祖として高周波電流神話に注目していますが、同著のなかでも電流をつかった特許医薬品の表象世界を成立させているのが「外部から内部を操作する」という構図だとしています。
 
わくわくする革新的なテクノロジーが身近になりはじめる今こそ、その影響や是非のみならず、過去の言説から学び、改めてその語り口に注意していくことが求められているのではないでしょうか。

2017年1月18日水曜日

Platform Cooperativismについて

タイトルにあるPlatform Cooperativismについて日本語の情報がかなり少ない(というかほぼない)ので自分の理解のためにも、少しまとめたいと思います。

日本語で唯一ある記事は2015年のときのこれ。(素晴らしい記事なのにブックマーク数を見るとあまり読まれていないっぽい)

このブログでも何度か取り上げてきたシェアリングエコノミーの欠点に注目し、資本主義の中でのデジタル化がもたらす社会変革の負の側面への対抗策やアンチテーゼとして、生まれてきた考え方がPlatform Cooperativismである(とわたしは認識)、その潮流は労働運動的文脈もあれば、ネットワークや分散主義的な思想を起点とするようなもの、商業スペースとなる前のインターネットの理想を捨てずにいるカウンターカルチャー由来の担い手たちなど、わりと雑多な、しかし現状へのオルタナティブを目指そう価値観を共有する人たちのあつまりがうねりを作ったように感じられる。

わたしがPlatform Cooperativismを知るきっかけとなったのはもっぱら、Digital Labor(デジタルな労働)と総称されるデジタルな経済における労働の問題点について議論である。代表的なのはTrebor Scholz。さらにメディア理論家ながらその土台となるエコノミーの本質に目を向けThrowing Rocks at Google Busを著したDouglas Rushkoffらの論者。

近年国内ではさかんに言われる「だれもがクリエイターになる時代」というようなUGCへの楽観的な視座に対し、、いちユーザはチリツモ的なデータ経済の中で搾取され富はますます不均衡になっていてGoogleやFacebookのような特定のメジャーな企業が「帝国」をつくっている、という抵抗的な視座からDigital LaborとかPlatform Coopertivismについても考えるようになったわけです。もっというとそれはオーナーシップの問題でもあって、著作権のあり方とかを考えていくなかでパーソナルデータ、データのオーナーシップ、伝統的知識とビジネス上のインセンティブとしての知的財産制度の根本みたいなことについても考えざるを得なくなっていった経緯も併せてあります。

あと忘れてはいけないのは、経営や管理という視点から組織論として「組合(Coop)」にあらためて注目が集まったということ。これは雇用が流動化する中、「雇用」にあたらないようなマイクロタスクを請け負う小銭稼ぎをする労働者がアメリカで非常に増えてきたことや、斬新な組織形態としてベンチャー企業などが持続可能性を模索する中で組合形式のメリットに再度注目があつまってきたということだと認識しています。日本でも同様の流れで2000年代からフリーランス組合が注目をあつめるようになったし、クリエイター集団で組合形式を採用しているところがでてきたり、カウンターカルチャーやメディアの実践家でも組合形式( 気流舎やremoなど)をとるようになっていったというのがあるので、実のところ、Platform Cooperativismがキーワードとしてここ数年でてきたときに、個人的にはあまり目新しさを感じられなかった。

デジタルな労働に関する議論と、シェアリングエコノミー(ギグ・エコノミーについてはそれぞれ過去にこのブログでもまとめているのでそちらを参照のこと。

2016年に入って、アメリカにおけるシェアリングエコノミー(ギグ・エコノミー)の担い手について新しい調査結果がいくつか発表されている。これまで、ギグ・エコノミーの担い手がどのくらいアメリカ経済に影響をもたらしているかはっきりしたデータが出てきていなかったので、このリサーチ結果が出たのは重要だと思う。開いている部屋をAirb&bで貸す、空いた時間でUberドライバーになり乗車賃を稼ぐ、などスキマ時間にアプリで小銭稼ぎをするという行為は、「雇用」や「労働」に当てはまらないのでなかなか実態がつかめてこなかったが、フリーランスによる経済は1兆ドルを越え、5,500万人のアメリカ人(つまり35%)がなにかしらのフリーランス活動をしているとFreelancers Unionらが試算している。さらにPew Researchは24%のアメリカ人は何かしらの形でギグ・エコノミーに参加しているとの調査結果を発表していて、もはや既存の「雇用」や「労働」の枠からはみ出た行為がもたらす経済が無視できない規模になってきたことがわかる。併せて、スキマの小銭稼ぎは、これまでの経済基盤があったうえでの「オマケ」としての所得であるととらえられてきたが、実際には生き抜くためになくてはならない苦し紛れの稼ぎの一つであるという実態も明らかになってきた。

そうしたなかで、テクノロジーを通じた小銭稼ぎの枠組みそのものに問題があるんじゃないかという視座に立ち入った論者のひとりがDouglas Rushkoff。彼はシアター専攻出身のライター、メディア理論家なんですが、もともとサイバーパンクスとかに精通した語り部としてたくさんのドキュメンタリーに登場してて「バイラルマーケティング」の「バイラル」って語を広めた人でもあり(ところがその後全然日本語での翻訳本が出てないですが)、2010年の著書「Life.inc.」のなか(当時このブログで日本語訳を作成し紹介)でルネッサンス期の中央集権主義的な富の仕組みに着目し最近はCUNYで教鞭をとっている人です。(30代に入るまでマクルーハンを読まなかった、というのもかなり好感を持てるw)
Life.Inc.のビデオをみればイメージしやすいと思うが、必然的にビットコインも関係してくる。ユーザ同士が手作りのものを売買できるEtsyとかにかつて注目があつまったのも中央集権的な取引から分散ネットワーク後の社会でどういうった経済が可能なのかというのを模索する視点からである。(ここまでの話はついていけるんだけど、2016年のPlatform CooperativismのカンファレンスでBlockchainについてのセッションがあって、ブロックチェーンの考え方をplatform cooperativismに応用してくというところから先はわたしも十分にはわからん)

Life.Inc.から6年経ってThrowing Rocks at the Google BusでRushkoffは、誰か特定の企業が悪いというわけではなく、この経済をまわしているオペレーティングシステムに問題がある、と指摘している。つまり通勤バスに怒りをとばしてもどうにもなんない、ということでこの講演の動画がわかりやすい。結局ルネサンスというのは活版印刷の世界なんだよね。

ソーシャルメディアやUGCプラットフォームが新進気鋭のスタートアップからIPOを経て株主主導になっていき、わくわくするようなインターネットらしいサービスが閉鎖になったりカルチャーが失われていく、というのをここ10年でもう一回体験したアメリカ(かつてのドットコムバブルで一回体験してるはずだから「もう一回」としました)だからこそ、どうやったら持続可能なかたちでウェブサービスにもとづいた集まり(会社)を続けていけるのか、Ello(どうなったんだろう・・・)みたいなちょっと幼稚なビジネスモデルに基づいたものだったりオープンソースだったり、いろいろな試行錯誤がされていくなかでオーナーシップを見直していくうえでplatform cooperativismという考え方にたどり着いたといえる。

冒頭でも述べたが、雑多な人たちがいまplatform cooperativismに着目していて、それはメディア論的な経緯もすごく強いと思う。何って、Astra Taylorも2016年のplatform cooperativismカンファレンスに登場している。それからEFFで知財制度に関連して日本ともかかわりの深かった方もcooperativismの推進に取り組むようになったときいてる。



生協とか農協になじみの深い日本に暮らす人にとっては、platform cooperativismがデジタルなエコノミーに対するソリューションとしてセクシーに見受けられにくいと思うんだけど(わたしもまったく目新しさを感じないし、ぐっとこない)、ここにきて協同組合がユネスコで無形文化遺産に認定された(2016年12月)ということは見逃してはならない潮流だとおもう。(協同組合はドイツ生まれのコンセプト)

デジタルな経済でどう富を生み出していくか、国や地域で舵取りがわかれるなかで、日本はどうしていきたい、か。アメリカの規制緩和やシリコンバレーの生き急いだ上澄みだけを見て、こうした重要な論点を見過ごしたままでは、ろくなことにならないと思う。あとここでは含むことができなかったけど「オーナーシップ」というキーワードで串刺しにしてクリエイティブやメディア、伝統知識などあらゆる人間活動を制度として見つめなおすような視座も欲しいと感じる。

2016年3月14日月曜日

人間観察モニタリングや寝起きドッキリの生みの親アレンファントと15分の名声


ドッキリの起源はあるラジオ番組にあった
アレン・ファントの初期のラジオ番組からドッキリが生まれるまでの経緯、その後を関係者のインタビューでつづった「Smile my Ass」というセグメントがRadiolabというポッドキャストの中で取り上げられて面白かったので紹介します。

★ポッドキャストはここから聴けます➡ http://www.radiolab.org/story/smile-my-ass/
なおこのブログ投稿では、番組制作の手法と、現代の生活とメディアの関わりについて議論する目的でその前提となる要素として、番組の抄訳を一部掲載しています。

補足:Radiolabの手法について
今回プロデューサーのアレン・ファントという人について取り上げたRadiolabというポッドキャスト(ラジオでも放送)について少し解説する。いつも風変りなエピソードを取り上げてくれて、ネタや視点そのものが面白い。さらにコミカルさを生んでいるのは、他のポッドキャストとは違う、大変ユニークなフォーマットにあると私は思っていて、具体的には

  • ナレーションにたくさんの効果音を織り交ぜたミクシングがしてある
  • 普通ならば一人のナビゲーターがナレーションを読むような部分を、2名の番組ホストやゲストに個別に話させそれぞれに録音しておき、特徴ある部分を編集して混ぜて使うという手法をとっている
  • 完パケなのに「ちょっと聞いてこんなことがあったんだって!」とソファに座って友人に今初めて伝えるような口調で語り掛けている
  • 一つのテーマに対し、かなりのリサーチをしていて、ボリュームのある取材音源がふんだんに使われている
  • インタビューの対象となる人の年齢やトーンに幅があり、高い声、低い声、なまりなど特徴があるしゃべり方が耳につくので飽きない
  • 制作裏話(インタビューの途中だったが予約時間を超えたのでスタジオから追い出された、とか、ブース外のプロデューサーの話し声を拾ったり)を混ぜながら届けている
などなど、聞いての分析だから、違うかもしれませんが、かなり珍しい手法を豊富にとった革新的な番組だと私は思う。

「ドッキリ」のスタイルが生まれるきっかけ
今や寝起きドッキリやインタビュードッキリなど、日本のテレビでもおなじみとなりましたが、最初にそのスタイルを生んだプロデューサー、アレン・ファントについてこの回では取り上げています。

番組によるとアレンはもともと、世界大戦中に軍人をゲストに呼んで話してもらうというラジオ番組をやっていたんだけれども、みんなON AIRライトが点灯するとガチガチに緊張して、全然しゃべれなくなっちゃう。そこで、ON AIRのライトを消して、試しに練習で話してみよう、とウソをついて(方便ですね)話してもらうと、いいものができる、という経験をする。これが、のちにアレンをドッキリの仕掛人へとさせていく最初の原体験となる。

次にアレンはマイク(録音機)を隠して他人の日常を録るラジオ番組「Candid Microphone」を始める。女子トイレや美容院、マイクを忍ばせていろいろなところにいく。ところが、どうも面白いのが録れない。そこで、アレンが割り入って、ちょっと仕掛けをする。例えば、箱の中に見えないように人を忍ばせ、運送業者を呼んで、運ぼうとすると変な声を出すように仕組んでおく。すると、運送業者は怪しがって困り果てて、アレンが運ぶように押し通そうとすると怒る。そんなやりとりを録音して、「Candid Microphone」が定着していく。

1947年の放送を聞いてみてほしい。
http://www.oldtimeradiodownloads.com/comedy/candid-microphone/highlights-of-the-first-nine-shows-1947-08-24

厭われていたのが、ありがとうと言われるように
番組はまもなくテレビへ移行して「Candid Camera」というタイトルに変わるが、一部の視聴者からかなりの反感を買ってしまう。人の生活にヌケヌケと入ってきて、図々しくスパイする悪しきものだと酷評されるのだ。ある時アレンは、カメラが回っている間に仕掛けられたターゲットに対してドッキリであることを明かすと、その人がさっきまでの怒りを消して笑顔になることに気づき、ネタ晴らしが番組のハイライトに変わっていき、視聴者の反応も変わる。アレンはもはや厭われる相手ではなく、はめてくれてありがとうと言われるようになった。番組のテーマ曲はこう歌う。
「まったく予想してなかったときに、あなたが選ばれたの。今日のスターはあなた。スマイル!笑って!だってあなたは今番組に出ているんだから~♪」

僕は仕掛け人じゃない、本当の事件なんだ--No use in crying wolf, towards "candid" reality
ポッドキャストの一番面白かった部分はここ。アレンとその家族が登場している飛行機がなんとハイジャックされる。機長が行先をキューバに変えたことをアナウンスすると、乗客は凍り付く。しかししばらくすると一人のおばさんが、アレンが乗っていることに気づく。もしかしてこれは・・・ひとり考え込むおばさん。しばらくすると起立してシーンとした空間にこう言い放つ。「ハイジャックなんてされてないわ!見て、あそこにアレンファントがいる!ドッキリなのよこれは!」 気づかされた乗客たちは笑い転げ、一部にはシャンパンを開け始めている。自分が仕掛けたつもりはないアレンはぞっとし、近くに乗っていた聖教者に迫る。「助けてくれ、おれは仕掛けてなんかいない!」しかし聖職者は「な~に、その手には騙されないぞ!笑」と答え、アレンの要求は軽々しくはじかれてしまう。彼は自分の成功が、自分自身を罠にはめてしまったような感覚に陥る。仕掛けと現実が交差し人々にその境界線がわからなくなってしまった。(最後にリアルに起きたオチがポッドキャストで紹介されているので、そこは端折って、要約はここまでとします)

今や、誰もが仕掛人で誰もがスターという日常
仕掛け人という舞台上の役割と、日常とがごちゃまぜになってしまうことで混同が起きたのはアレン・ファントというテレビマンだからこそ、であった。しかし、今やスマートフォンのカメラで誰もがアレン・ファントのような仕掛人になれる。誰もがプロデューサーになりうる時代、だ。それはUGCという意味で力づけられた、民主化されたナラティブでのみ語られているが、成功と知名度を高めようとするプロデューサーの苦悩と、カメラの計り知れない影響を誰もが自覚しなければならにという要請の始まりでもある。プライバシーを侵害する嫌な奴だと思われ、成功のための手法を模索したファントと同様の苦悩と努力を今やだれもがしなければならないわけである。

透明な仕掛けたち
ドッキリの場合、被写体は記録されていることを知らない。記録することの許可も出していない。しかし、そこらじゅうにカメラがあり、カメラと音声認識が設備されたスマートフォンを誰もが手にしている今、ネタ晴らしさえ必要なく、常に仕掛けが日常に溶け込んでいるような状態である。リアリティへの認識は、演出されたリアリティ番組だけではなく、ソーシャルメディアのフィードのフレームに映り込んだ写真や動画たちが作っている。

被写体としての我々もカメラを意識し、行動を変化せざるをえなくなっている。普通ならばしないようなことも、カメラが回っていればやってしまう、カメラがあることでリスクを背負わせてしまうことの危険や、仕掛の舞台装置における不備などによる事故が放送にはずっとつきものだった。それらの事故はあまり知られていないけれど。今やそれらを選ばれた数人ではなくあらゆる個人が買って出るわけである。もっと視聴者に承認されるコンテンツを、と求めていくうちに過激になっていく。かつてアンディ・ウォーホールの説いた一生のうちの15分の名声では事足らなくなってきた。人々の注目といいね!を常に集めようとする全てのソーシャルメディアユーザにとって。

仕掛けとリアリティの境界線、見世物と現実の狭間がごっちゃになってしまうと、現実を切り売りし、自らの身体をもコモディティにしていくようになる。キム・カーダシアンがやってそれを自由と呼ぶ*1のであれば、これからは映画フェームのココがカメラの前で泣い*2てしまうようなことはないだろう。究極は自撮り事故死(selfie death)で、現実を舞台に自らを客体にした結果、現実のリスクを考慮できなくなってしまう事態が起きてしまう。


レンズとの関係と、そこにつながるネットワーク、グローバルな視聴者。
何が起きてもカメラの前なので、笑っていなければいけない。

2016年2月13日土曜日

ネット中立性をめぐるレトリックと鉄道

このところ長らく話題になっていたFacebookのFree Basicsについての議論をとっかかりに、ネット中立性と鉄道をめぐるレトリックについて少し考えてみる。ちょうど、私がパンカジ・ミシュラのアジア再興を読んでいる間の出来事なので、コンパスがあっち向いているかも。


Free Basicsとは

Free Basicsはインターネットを世界の人々に届けようというミッションをもとにFacebookがはじめたInternet.orgの取り組みで、インドやアフリカでインターネットへのアクセスがない人たちに対し、K本的には無料でネットにアクセスできるようにするというもの。

なんだか素敵な取り組みに聞こえるかもしれないが、仕組みとしてはテレコム事業者とFacebookが提携するような形をとって、そのテレコム事業者がインターネット接続を提供、Facebookはコンテンツを提供するようなものだと言えるだろうか。ウィキペディアとかFacebookなどが基本的に無料でアクセスできるんだけれども、その先を見るには課金が待っている。まあすばらしいビジネスプランだと思う。でもFacebookはこれをビジネスではなく、ミッションに駆り立てられた世界を良くする、アクセス不足問題を解決するものだと言っている。

Free Basicsについて説明したオフィシャルの動画

インドにおけるネット中立性の議論

Free Basicsの導入先となっていたインドについて、かなり雑(ごめんなさい)ですがまとめておきます。
まず、2015年春ごろ、インド電気通信規制庁TRAI(米FCCとか日本の総務省みたいなところ)が、ネット規制について検討する協議書を出したところがきっかけとなって、ネットの中立性についてインドでの議論が盛んになった。この協議書には、例えばSkypeやWhatsAppなどのIMサービスや、AmazonのようなECに代表されるようなOver-the-Topサービスと呼ばれるものについて、規制をすべきかどうか検討していて、そのなかで、ネットの中立性について触れられていた。これはまずい、と思った人たちがSave the Internetというキャンペーンを展開。

そして、このビデオが面白い(英語字幕を出してみてね)

ネット中立性について解説しているオモシロ動画。

公園を例えにしているけど、観光地で乗馬して、そんなふうにお金取られたりすることってありますよね・・・


その後TRAIへのコメントはインパクトがあったようだが、ネット中立性の解釈を勝手に変更されてしまう・・・

そこで新たなキャンペーンについて説明するビデオ(Babuってなんだろう・・・官僚?)


こうしたネットの中立性について、議論がある程度なされている状態で、FacebookのFree BasicsについてTRAIは意思決定しなければいけない状態だったのではないかと。

ついに2016年2月8日、TRAIがデータサービスの差別的価格設定を禁じる規則を制定し(貴重な情報が日本語化されているのにこの記事全然読まれてないな・・・)Free Basicsは撤退することになったようです。

植民地化とレトリックの話・・・

ネット中立性の話をしたいんじゃなくてレトリックの話をしたくて書きはじめたがやっとここにきてそれができそうだ。今回、まず注目したいのはAtlanticの記事「Facebook and the New Colonialism」。記事では、Facebookの役員でベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンがツイートでFree Basicsを禁止するのは「倫理的に間違っている」と書き込み、さらに「植民地主義に反対することが、長年にわたってインドの人々を経済的崩壊においやってきた。今さらなに?」と書いた。これらのツイートはすでに削除されているけれど、どういうマインドセットで世界をみているかがちょっとバレている。

ここには、西洋=科学技術がもたらす進歩というのは優れていて、それに反対するのは経済的効率が悪い、遅れたものであるという意味合いが含まれていて、それはかつてインドが植民地だったころの支配者の理論(英国が支配したほうが経済的にインド人にとって恩恵が大きい、といったようなレトリック)とほとんど同じテイストになっている。

そこから今に至って、さかのぼってみてみると、状況があまり変わっていないというか、レイオーバーして見えてくる部分がある。たとえば、オーロンビンド・ゴーシュは、1900年代にBande Mataram(原文読める‽)のなかで
帝国主義はこうした近代的な信条に訴求する自己正当化をはたさなければならなかったわけだが、そのためには自由を委託された者のふりをし、野蛮の文明化と未熟者の訓練を天から委任された期間はわれら慈悲心に満ちた征服者が任務を終えて恬淡と立ち去るまでのこと、とごまかすしかなかったのである。これこそが英国がムガル帝国の遺産を強奪したときの、そして英国流の高潔と寛大さでわれわれの目をくらませて隷属に黙従させたときの、正当化のための誓言なのだ

と書いていているし、(196ページ,アジア再興/パンカジ・ミシュラ,白水社)
タゴールにいたっては、『東洋と西洋』というエッセイのなかで
人間的というよりも科学的であることが世界全体を席捲している…(中略)…それは攻撃的で仲間を食い散らす傾向にあり、他人の財産を侵食して育ち、他人に残された未来を残らず飲み込んでしまう。(…)ひとつの目的だけに専念するから魂を売り渡してでも金を稼ごうとする大富豪のように、その力はすさまじい。
と書いて(198ページ,同上)いたりして、歴史の終焉なんてとんでもないなあ、なんて感じることもできる。

あんときのアレ(鉄道利権)とネット中立性

インターネットへのアクセスが権利であるという言い方についても、トラップがあると思っていて、それは鉄道と同じトラップに似ているように思います。蒸気機関車の発明から、鉄道網の整備、交通革命で、都市が“つながる”というのをもたらしたが、鉄道網というインフラが未開の地において開発されるときに、それがほぼ帝国主義とセットで、綿花やアヘンを運ぶ、とか資源をぶんどるのにあたって、鉄道が敷かれていた、ということを容易に思い出せると思います。いわゆる鉄道利権で、思い出せばいろいろ・・・。さらに注目すべきは、産業革命で富を成したのは新勢力だったというのも、変革のさなかの世界情勢として、今と相通じるところが多い。つながる~といったが均衡ではなく、都市部に安い労働者が居残った。

今回、つながる、ということで無料のアクセスを提供すると言っていますが、その先のコンテンツには課金されるわけだし、一定のテレコム会社を利用していないと、アクセスできない。Facebookと、現地企業が提携している、というなにか協業のような雰囲気ですが、あんときのアレとあまり変わらないのも想像に安いと思います。ザッカーバーグが、旧正月に投稿したメッセージは、私の目には喉から手が出るほど、グレイトウォールの向こう側の何億というユーザが欲しくてしょうがないのだろう、と感じました。(それができないから、インドを攻めていっているんだという印象)。滅国新方法論の中で梁啓超は西洋が弱体国を服従させる様々な手法をまとめていて(なんかこんなことばかりかいてるけど、引用してるだけで、特定の思想とかじゃないよ!)、その中に「鉱山採掘権、鉄道敷設権、そのほかの利権を外国人に譲渡すること」は、「国全体の主権を害する」という趣旨のことを書いていると、パンカジ・ミシュラが触れています。(217ページ,同書)。鉱山採掘が、今でいうところのデータマイニングにあたることを思うと、もうパラレルワールド過ぎて。

さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。

極めつけはアメリカの実業家マーク・キューバンの2014年のツイート。彼は、「もしランドが現代に生まれていたら、鉄道や製鉄ではなく、おそらくネット中立性について書いていただろう」と(ツイート消されてる・・・)書き込んでいました。実際のところ、ランドを信仰する人たちの組織のサイトには、2006年の時点で、ネット中立性よりもインターネットの自由を、という記事が書かれていたりもしている。
※上の鉄道利権のことと、リバタリアンなランドの話を横並びにするのは、ちょっと違う、というのも確かにそうだと思う。単に鉄道つながりで並べただけである。

レトリックに戻りますが、Atlanticの記事のなかで触れられている興味深い点のひとつにWhite Man's Burdenという表現があります。先ほどの植民地支配の話にもどりますが、白人は未開の地に経済的社会的安定をもたらすために、彼ら自身では統治能力に欠けるので、白人が支配してやるのが義務である、というような観点から作られた英国女王にささげた詩、およびそれに由来する考え方を指す。記事では、FacebookのFree Basicsにまつわる言い訳は、ほとんどこれと同じだと、MITのEthan Zuckermanが批判している。

恩知らずでいてはいけない、と。あなたたち自身では得られなかった恩恵を、代わりに負荷を背負ってでも提供するんだ、せっかく無料のアクセスを提供するのだから、恩を忘れるなよと。それってJerry HellerのN.W.A.との関係となんだか同じように見えてくる。













2016年1月26日火曜日

最近読んだもの。ランサムウェアの被害にあうオバチャン、情報過多など。

最近読んだり、聞いたりして興味深かったものをいくつか紹介。

■シリコンバレーを真似しないほうがいい。代わりにフローレンスなんかはどうだい?
https://hbr.org/2016/01/renaissance-florence-was-a-better-model-for-innovation-than-silicon-valley-is
Urban Plannerはみなシリコンバレーのまねをした町をつくりたがるが、だいたい失敗に終わる。なぜかというとシリコンバレーは新しすぎてそこからレッスンを学ぶには旬すぎる。だからそう、もっと昔のイノベーションのハブとなった町を見本とするべきだ。フローレンスとかね。(→イノベーションシティについて調べた本を絶賛発売中の人による寄稿だった)

■RadioLabのストーリー「Darkode」がすごく面白い。
http://www.radiolab.org/story/darkode/
もうすぐサンクスギビングだという頃、マサチューセッツ在住のふつうのおばちゃんに大惨事が訪れる。突如自分のPCが身代金要求型不正プログラムであるCryptoランサムウェアの被害にあい、ファイルを取り戻すために身代金をビットコインで払う羽目になる。いろいろな偶然が重なって散々な目にあう。このおばちゃんはウクライナ-ロシア系で、「ビットコイン」なんて言葉は初めて聞いたが、ランサムウェアのメッセージから、このランサムウェアの主はロシアとかウクライナ方面からの悪者に違いないということも察して、ロシア語で「あんたら地獄に落ちるわよ」と返信したりもしている。(笑)TORを初めてダウンロードしたり、ビットコインを手に入れるために大雪の中郵便局にいったり、レートが変動したり、乳児がいて忙しい娘にママ友との約束をキャンセルしてATMに行かせたり、笑えない話ですが、てんてこ舞いなおばちゃんの姿が笑えます。タイトルのDarkodeはスパムやボットネット、ランサムウェアを流布させるような一味の名称で、後半には某機関に転向したその創設者のインタビューも。

Cryptowallについては(日本語)
http://blog.trendmicro.co.jp/archives/11739

■所有者だけがアンロックできるスマート銃で、、ステキで劇的な射撃体験をシェアしよう
http://www.npr.org/sections/alltechconsidered/2013/05/15/184223110/new-rifle-on-sale
2013年に話題になった「スマートライフル」。wifiやカメラ、センサーがついてきて、トラッキングポイントという技術を使って、正確に射撃したり、録画した映像をソーシャルメディアに投稿できるものだ。悲惨な銃撃事件が耐えないアメリカですが、2016年に入ってからはオバマ大統領が銃規制の目的でスマート銃の導入を視野について検討するよう国土安全保障省に呼びかけをしたりしています。そうすれば、銃の所有者が、スマートディバイスとしての銃を持つようになれば、利用データなどの把握が可能になり、事件を防ぐことができるという考えのようですが・・・。

■3Dカメラで、容疑者の顔写真を照合し識別、これで東京オリンピックも安全だ
http://gizmodo.com/3d-cameras-will-help-tokyo-cops-take-futuristic-mugshot-1754924981
警視庁は、客観証拠の確保に努めようと技術的に進んだ取り組みを行なうことにしたようだ。朝日新聞が報じた、NPAの報告書の原文を見ると、「防犯カメラ等で撮影された人物の顔画像と、別に取得した被疑者の三次元顔画像とを照合し、個人を識別する」三次元顔画像識別システムを今年4月からすべての都内の交番に設置するとのことだ。この報告書には、他にもいろいろと興味深いテクノロジーについて掲載されている。通信傍受、高度情報技術解析センターの設置(済み)など。これらの取り組みの背景としては、「司法改革や否認事件の増加を受けて」とのことである。
(→NPAの報告書はわりと毎年読むようにしてるけど、記事の参照先がH26なのがちょっと不思議。朝日の元の記事は、警察周りあがりの記事を英語で執筆ものだろうからちゃんと調べたほうがよさそう。)

NPAの報告書(H26)
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h26/honbun/html/qf320000.html

■インフォメーションオーバーロード~情報過多からの叫び~
https://hbr.org/2016/01/what-youre-hiding-from-when-you-constantly-check-your-phone
ちょっと前まではデジタルネイティブなんて呼ばれてもてはやされていたミレニアル世代ですが、現実はもっと暗いものよう。ニールセンやPEWの調査、それから最近増加しつつある「テクノロジー中毒」分野の研究によって、ミレニアル世代は、寝るギリギリまで常時モバイル端末などを手にしながらも、テクノロジーによってストレスを感じている。さらに、手元に携帯がないことは更なる大きなストレスともなり、どっちにしてもストレス!根本的にはミレニアムたちは職やお金といった基本的なところでのストレスが最も大きい。そして気を紛らわしたり活用することで他より抜きん出ることができる伴侶としてのテクノロジーと共に過ごすしかない。このところ、東海岸では情報過多についての議論が増えているような気がする。

■FOMOからJOMOへ。
http://www.wnyc.org/story/fomo-jomo/
上で紹介した「情報過多」について話す時に、使われるよく使われる英単語がFOMOだ。FOMOとはFear Of Missing Out(見逃すことの恐れ)。あなたも今週は一回くらい、どこかで、SMAP解散騒動に関する何らかの記事や、ベッキーとゲスの極みに関する何らかのコラムを読んだことだろう。(私は読まなかったし、テレビもないので、正直なんだかさっぱりだし、知らなくていいや)そして、職場や友人とそれらのトピックについて参照したおしゃべりを少なくとも一回は耳にしただろう。知らないとヤバイ、仲間はずれにされたくない、損した気分になりたくない、そんな気持ちがFear of Missing Outだ。このFOMOという言葉を生み出したメイカーベースの創設者、Anil Dashは、見逃すことを楽しめ!とJOMO(Joy Of Missing Out)を提唱。FOMOを生み出すようなプログラム、ソフトウェア、テック企業の文化背景などについても触れています。(ネット黎明期はそんなんじゃなかったって!)

■魂を売ったコンピュータ、プライバシー、データ保護の国際会議CDPD
https://ar.al/notes/why-im-not-speaking-at-cpdp/
その名のとおり、コンピュータ、プライバシー、データ保護という甚大なテーマを扱う年次会議、略称CDPDは今年もビッグネームスポンサーたちを抱えて素晴らしい会議を行なう予定だ。Google, Facebookはもちろんのこと、Palantirも。日本からは中央大学、明治大学も。もっとも国際的で大規模なタイプの会議だと思われますが、オープンソースでインディペンデントなモバイルハードウェアを作るプロジェクトindieのAral Balkanは怒って招待を断った。テック系のカンファレンスだったらやむをえないなと思う一方、彼はCDPDにはある程度期待感を持っていたんだろう。Palantirのロゴが記された会議で皮膚癌で亡くなったプライバシーアドボケートのCaspar Bowdenに功労賞を与えるなんて、侮辱行為に等しいとAralは感じているが、過去のスポンサーのロゴを見ると、そもそもそんなに期待できるものでもないかもね。