2025年9月2日火曜日

映画クレヨンしんちゃんから読む~暴君の恣意性をめぐって

 しばらくまえに「十番目のミューズ」(片岡大右)を読んだ。私自身は、自分をポップカルチャーの虜だと見なす一方で、この種の批評で参照されるメジャー映画をことごとく避けて暮らしている。好みの問題で、みんなが大好きなポップカルチャーよりも自分の関心は少しずれているし、殺し合いが描かれる作品やミソジニーを感じる日本アニメが苦手だからか、『鬼滅の刃』も目にしないままである。「みんなが好き」と評価されるものに、なんとなく全体主義っぽさを感じてしまい、つい逃げてしまう。(そのせいで、ヒップホップ好きなのにKendrick Lamarが苦手、というややこしい事態になる。)結局は私の好みであり相対的なものなので、自分でもどう判断しているのかよくわからない。

参院選が終わって政局の安定もただならない中迎えた8月に公開となった『映画クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ』を映画館で観た。せっかくなので、このおバカ映画について、あくまで私の感覚と解釈で、賞賛の批評を試みたい。


同作品の舞台となるのはインドの架空の町。なにやら、春日部市と新たに姉妹都市交流協定が結ばれ、その一環で春日部市が記念に子どもダンス大会を開き、優勝チームがインドの姉妹都市での大会に出場できるというあらまし。

このところ世間(日本)では、一部に"外国人問題なるもの"が選挙の争点としてでっちあげられ、トランプ大統領さながらに自国民ファーストを擁護・支持する現象があったりして、私にとっては気味が悪かった。特に気味悪く感じたのは個人が自らの立場を安定させるため自国を擁護する姿である。この短絡的な思考は、間にある文脈を十分に検討することなく突如、自身と国とを関連付け、国家の単位を強化し、経済や安全上の理由から外国(外国人)を脅威とみなし敵対する。そんななか、本作品では、「姉妹都市」―国家の境界線ではなく「市」という自治行政区に収斂され、市民間の文化的な交流による相互理解を促進する―というビジョンを背負った国際政治上の用語が、話の展開の起点になっていることに心が洗われる。幼稚園児も保護者も、インドに行って踊りたい!とダンスの準備や練習に励む。ここでいう「インド」という語が参照するのは、国家というよりも、インド文化圏を表している印象だ。ちなみに、相手自治体の名前はハガシミール州ムシバイという名なんだけど、痛くなる場所を歯にしているのは偉かったのではないか。(賞賛のハードルが低くて申し訳ない。)

ところで、夏休みに合わせて子どもや家族向け映画を公開するのはアメリカも同じ。日本では秋公開予定の"Smurfs "(邦題『劇場版スマーフ/おどるキノコ村の時空大冒険』、配給: Paramount Pictures)。ベルギーの漫画を原作とし、キリスト教的な概念を色濃く反映している印象があるが、サウンドトラックにはインド文化圏の風が吹きまくっている※。まずはこのミュージックビデオを見てほしい。


サントラを手掛けるのはRoc Nation(Jay-ZらのRockafellaレコーズを思い出してくれ)の共同創業者であるTY-TY Smithで、Shabz Naqviと「Desi Trill」というヒップホップと南アジア音楽を掛け合わせたプロジェクトをプッシュしている。ビデオが公開されたのは、DOGEとトランプ大統領令が吹き荒れた4月。アメリカの高等教育機関ではこれまでダイバーシティ推進を進めてきたけど、再びトランプ政権になったことで「ダイバーシティ」という言葉を控えざるを得ない、というようなニュースが飛び交っていた時期。

「Higher Love」の歌詞は、天国とか救済とか愛とか、キリスト教的な意味を負った語が多いけれど、バングラデシュの言葉で歌っているパートもあって衝撃。思いっきりダイバーシティである。かつて2000年代前半、Daddy Yankee, シャキーラやサンタナ、ジェニファー・ロペスといったアーティストがスペイン語のシングルやアルバムをリリースして大ヒットしたことがあった(例えば、スペイン語のアルバムでシャキーラがグラミー賞をとったのが2006年。大規模な移民のデモがあったのもその頃)。ちなみにサントラに入っているリアーナの歌は、3年ぶりの新曲で期待されていたけど、ボーカルがはっきりしない合成音でがっかりとの評が多い。

ここで少し寄り道をして、もう少しSmurfのサントラを見てから、しんちゃんに戻りたい。

映画Smurfを配給しているパラマウントについて少し補足しなければならない。というのも、アメリカ映画産業は、財政面で軍需産業と結びつき、象徴面ではセクシズムや暴力助長を批判されてきた。また資本面では映画・テレビ・ラジオ・雑誌といった文化発信を独占的に支配するメディア・コングロマリットを形成している、と2006年頃から問題視されてきたここ数年はGAFAのようなIT企業による寡占が問題になっているけれど、ちょうど今年はパラマウントとSkyeMediaが合併してParamount Skymediaが誕生。(こちらの補足はトランプ政権で資金難に喘ぐアメリカ公共放送の報道を参考にしてほしい)

トランプがCBSに賠償金を支払わせている件も相まって、複雑さが増しますが、メディアのオーナーシップと表現の自由について少しだけ思いをはせていただき、もう一度Smurfのサントラ、Roc Nationに話を戻します。


もっぱらJay-Zがしてきたことというのは、実演家としての成功だけでなくビジネスマンとして、レーベルをつくり、スポーツチームを所有し、音楽配信のプラットフォーム事業を始める、所有権を強化していくアプローチでした。このようなアプローチに至ったのは、アフリカ系アメリカ人がエンターテインメント・カルチャー分野において強いコンテンツ発信力を持ちながらも、構造上の問題から、経営にかかわる意思決定者でもなく所有者でもないために不利益を被ってきた(例えば、ステレオタイプを助長するような描写、実演に対する一時的な支払を受け取っていたが、印税による長期的な資産形成を阻まれた、など)という経緯があります。デジタル封建主義という用語が出回って久しいですが、NBAでもヒップホップでも、地主と小作の関係のような構造的問題が共通して存在していたからこそ、Tidalを買収し、アーティストがプラットフォームを共同で所有するビジョンを示したという流れがあった。で、そういうお仲間のRoc Nationなので、Desi Trillみたいな自由な発想が生まれてくると思います(最後急に雑なまとめになった)。Roc Nationは、ユニバーサルミュージックとパートナ関係にあります。

さて、春日部防衛隊に話を戻しましょう。映画では、いつもぼーっとしてて心優しいぼーちゃんが、紙の力で暴君に変貌してしまいます。不思議な紙が鼻の穴に刺さると、ぼーちゃんの鼻水は出なくなり、刺さった人の欲望を実現する強いエネルギーが沸き起こる、というのもの。ぼーちゃんには、もっと力強く、てきぱきした人気者になってみんなの注目を浴びかっこよくいたいという欲望がありました。

暴君となるボーちゃんを支えるのが最新テクノロジーと金にものを言わす連続起業家で億万長者のウルフ。金持ちが暴君を支える絵は、思い当たる節がありますね…こちらも億万長者が暴君を相棒にしたい、という一方通行な感じがあります。

ウルフが最強の相棒を求める様はリチャード・フッカー(Richard Hooker, Of the Laws of Ecclesiastical Polity) を引用し、統治と人間の本性について語るジョン・ロックを彷彿とさせます。植村邦彦「市民社会とは何か」(p52)は次のように添えています。
われわれは、自分だけではわれわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、(中略)本性上、他者とのかかわりと共同関係を求めるように導かれる~(略)

 ちなみにロックは最大限の便宜を引き出すのは神の意図だというふうに捉えているのですが、クレヨンしんちゃんの映画で鼻に刺さる紙というのも、最大限の能力を引き出す作用があるのでちょっと面白い(神と紙)です。「社会の発展=より進化し洗練されること」を善とし、神の意図とみなすキリスト教的な視座※※に照らすと、紙との闘いがインドに置かれていることが非常に興味深い。

ボーちゃんは、自分のありたい姿(鼻水が垂れていない、てきぱきしたできる男)を望み、紙に導かれて暴走します。それは、みんなでインドで一緒に踊る、楽しく一緒に遊ぶという春日部防衛隊の共同体の理念と衝突してしまいます。すると、映画の流れ(ボーちゃんの暴走とそれを抑止しようとする春日部防衛隊)と、個人の欲求から市民社会が成立に至った経緯は、パラレルでとらえることができるようになります。そのためには、「自由」と「自分勝手」の違いについておさえておかねばなりません。完全にヘーゲルです。なんて哲学的で高尚で難しいんだ、クレヨンしんちゃん!と思うと同時に、このことは私たちが、おいしいカレーを食べたかったり、かっこよく一番グレイトな存在になりたかったりする欲望とその調整という日々の暮らしそのものなのです。

ヘーゲルは、自由(freedom:freiheit)と身勝手(arbiturary:Willkür)を区別しています。リベラルな現代社会のなかで自由とは、選択として理解されがちです。このことについてYuk Huiは"Machine and Sovereignty"のなかでヘーゲルのWorld Spritについて触れ次のように書いています。(私の試訳です、ご容赦を)

もし、自由を選択(ないしは豊富な選択肢から選べること)であると理解するならば、われわれは未だもって意図的な参加と純粋な消費との間をさまよっているといえる。今日のマスメディアが甚大な影響を与えていることは、まさにこの文脈においてである。そしてもし、民主主義を、代議士を選ぶ自由だと理解するとしたら、そのような民主主義が有効なのは個人の利益や好みが優先される市民社会の視座からとらえたときのみである。

そこでヘーゲルは、市民社会が、特定の利益関係者によって強く影響を受けて、身勝手にならないように、主観と客観の双方で内省し、理性的な決定をすることが自由であるとしていると思われます。(Yuk Hui難しくてわかんないから自信がないよ!)

GenXにしか伝わらないかもしれませんが、例えば1996年のイギリスの映画「トレンスポッティング」の冒頭は、現代社会における選択の自由と理性(またはその欠如)を鮮明に訴えているように見えます。


ひょっとすると、ボーちゃんの人格かもしれない鼻たれを変えるには、偶然鼻に刺さった紙の力ではなく、鼻水を外に出して、習慣によって体質改善することだろう、もし変えることがボーちゃんにとって必要であれば。(Hegelianの皆さん、お判りいただけますでしょうか)

モダンでリベラルな生活は、好きなものを選んで手に入れることであり、欲というのは本性と関係していると仮定し圧するよりも調整してGETするのが善しとされるところですが、欲望や衝動に従った任意の選択は暴君さながらであり、そうならないように理性的な判断をすることで自由で快適で安全で平和な共同体をつくって暮らしましょう。このようにクレヨンしんちゃんを読むと、春日部防衛隊は理念としてはかすかべエリアを守る武装しない、支配関係のない、各人の欲求を満たす調整しより豊かな楽しみを得るちっちゃな市民社会の芽生えのようにもみえてかわいい。

本映画の主たるポイントは以上ですが、気に入った3点についても触れておく。

ここからは見どころのネタバレになります。

●みさえの自分語り


みさえとひまわりがフィーチャーされるシーンで、みさえが自分語りの歌を歌うんです。この部分は、私のような視聴者にとっては、個人ー家庭ー統治(主権)への線をつなぎ、思いを馳せるのに重要なシーンです。全マザー&フェミニストカウンセラーの多くが絶賛するであろうこのシーンは、みさえ個人がこの戦いに自分をどう位置付けているか力強く語られてて素敵。誰かLudacrisのMove Bitchの反撃ソングとしてつないで流してくれないだろうか。

●現代テクノロジーが入っている

顔認証、位置情報、SNS、そしてBoston DynamicsのSpotっぽいロボットなどが登場し、歌と踊りとカレーだけじゃないインドが描かれていてよい。

●ひろしのトップガンごっこ

ひろしがDanger Zoneをテキトーな英語っぽい日本語で歌います。このシーンのために権利処理したと思うと頭が下がる。(東京国際映画祭で毎年テレビ朝日の近くでMPAが著作権セミナーやってるだけある)

ハリウッドで一番かっこいいを規定するようなトム・クルーズのシーンを、ほにゃらら的な英語でひろしが歌うの、言語とかかっこよさにおける周縁(すまん,ひろし)が、中心的に描かれるシーン。このことに照らして、Smurfの挿入歌が非英語で歌われることを思い出すと、今度はアメリカの映画館で映画を見る人が、バングラデシュの言葉を、ほにゃららで口ずさむことになるんだ。

2025年、政治で映す社会の様と映画の映す世界は、ますます不一致なのに、どっちもリアリティなんだなぁ。なくとも後者を「ある」と認めることが、いま私たちにできることだ。

※これはヨーロッパ、これはインド文化、と名指す行為は、あんまり好ましくないと思っているのだが、今回話したいことを伝えるうえで、このような名指しになってしまった。

※※ここではそのように記したが、キリスト教的な視座のなかでも、なにが善い開発なのか、ということは直近100年さらに内省されており、さらにさかのぼっても、啓蒙期においては(ロックのようなキリスト教的自然思想というより、キリスト教の背景をもつ世俗化した社会道徳、哲学としてとらえるべきなんだろうけど、日本にいる自分からみれば、どっちもある程度キリスト教と近いと雑に捉えさせてもらう)ファーガソンが洗練の効果を「情念の偶然的な悪用を除去すること」そして、そこから、個人が公共善を自らの主たる目的として自覚すること、と導いているのでキリスト教だと開発すすめる、っていうのはちょっと乱暴だと自覚しているから補足しておく。本ブログの「もっと良くなること」シリーズでも扱っているテーマでもある。


2025年2月21日金曜日

オニオンスープとジョルジェスク・レーゲン(もっと良くなることPart3、または、しないでおくこと )

年が明け、年少の家族にどんな世界を夢みているか尋ねた。すると、思いもよらぬ回答が返ってきた。回答によれば、その世界は、戦争もなく、どろぼうもおらず、そして都会と、田舎とに分かれており、新幹線(のようなもの)で交通できるものの、それぞれの生活様式が全く異なり、田舎では江戸時代のような暮らしをし、都会では、個人の希望に応じてカスタマイズされた洗練されたデザインの個室完備の避難所で暮らし、働くというものであった。田舎では、原則的に電機等の現代的な技術は使用しないものとし、疲れた時や大変なときは、家ごとの納屋にかくしてしまってある電子レンジ等を一時的につかってもよいようになっているという。およそほとんどのホワイトカラーの仕事が、都会で遂行され、都会の住民は、時折田舎を訪れ暮らすことができるし、その逆もできるように聞こえた。学校で歴史を学ぶ前の、人類史のイメージを付与される前の、子どもの想像というのは、現代生活に慣れ切った大人には思いもよらないものだと感心した。そういう自分も、学校に上がって歴史を学ぶまでは、かつて人類は近未来的な先進兵器による戦争をしていたが、そういう兵器の技術は破棄し、平和にゆっくり暮らすようになって今があるのだと思っていた。

 Yuk Huiの「Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking 」がオープンアクセスで公開されていることについては、前回の投稿で記載した。わたしは、というと、7つあるチャプターのうち、ようやく3つ目を読んだ。日本語で哲学をまともに学んだことがなく、おもに10代のころ政治学や国際関係論で少しかじった知識と、大人になってから学んだコミュニケーション論、教育(知るということ)の哲学をどうにか援用しながら読み進めているところ。すごく雑にシンプルに振り返るとチャプタ1,2はヘーゲルの思想と近代国家との関係を紐解きながら、organicなものと、mechanicなものの違いを整理し、これからの時代に生まれ得るplanetary thinkingはどんなものでどんな形をとるか検討してきた。私にとっては、市民社会の論考で扱ってきた個人の自由と、国家や市場とのかかわりを頼りにどうにか読めたし、器官を身体の拡張として扱うことで、さまざまな人工物を人間の進化に位置付ける考え方は、マクルーハン的というかメディア論的に飲み込みやすかった。(それを雄弁に語っているのがEarnest KappのElements of a philosophy of technology : on the evolutionary history of cultureとして紹介されていた)。文字とか思考をそっちのけで、同書をバイブスだけで読んだとしたら、Chapter 1あたりはSun Ra、Chapter 2はGeorge Clinton and Parliament-Funkadelic 、Chapter2の後半からChapter3に向かってAfrika Bambaata とSonic ForceのPlanet Rockって感じで、もうエナジーの話。

チャプター3は、ジョルジェスク・レーゲンの生態経済学の理論を援用して話が展開されるので、わたしにとっては何が何だかさっぱり・・・。


小学生のころ「豊かさ再考」を国語の教科書で読んだりしていたし、経済の本質の話はなんとなくジェイコブスで、脱成長の話はダグラス・ラシュコフで、一程度読んでるとはいえ、だいぶアウェイ(💦)、、、それでも経済もsocial scienceだからね!という感じでどうにかアウェイな気持ちを落ち着かせ、読んでるところ。どうしても気功を練習していたころのことを思い出しながらw

そうしていたところ、同書のチャプター3の前提として言及されているいくつかの概念が日本語で紹介されている文献を発見(ありがたや~)。
「工業化が万能薬であるという現代の経済学者の信念のゆえに,経済的に低開発のすべての国が自国の領土内に必要な天然資源を持っているかどうかを立ちどまって考えようともせずに全面的な工業化を目標にしている」と,近代化論の前提を批判している(62)。身体外的進化が進めば進むほど,それは同じヒトという種のなかにまったく異なる「身体外的な種(exosomatic spieces)」,すなわち異なる技術体系をもった種――Homo americanusやHomo indicus――をつくり出し,またそれをグローバルな経済構造が支えるのである(63)。

桑田 学「ジョージェスク-レーゲン〈生物経済学〉の鉱脈――アグラリアニズムからエピステモロジーへ――」 千葉大学 経済研究 第29巻第4号(2015年3月)より 

 
話は再び暮らしに戻るが、先日、料理教室に参加し、オニオンスープを作った。玉ねぎは日持ちするからありがたいけど、ほとんどの場合、わたしはオニオンスープをつくろうとう気力がわかない。皮をむいたときにゴミがでること、細かく切るのはおっくう、きつね色になるまで鍋の前にいたり混ぜたりして時間を過ごすなんてやってられない…。日頃はそう思う。教室では、バターをたっぷり使って、最後はパイ生地をかぶせてオーブンで焼いたりして、とてもおいしそうに出来上がった。みんなでつくる、学ぶために行っているという目的に応じているので、時間をかけるのに億劫な気持ちはない。先生に、この手の込んだ料理は、どんな時に作るのか不思議に思って聞いてみたところ、日常の料理だと回答があった。具体的には、野菜があまり取れず、畜産物を飼っているようなフランスの田舎の日常の料理だということだった。

食べる人として、私がオニオングラタンスープに対してもっているイメージは、ほっこりするコンフォートフードでありながら上品で、高級娼婦とか大物女優とかがお店で飲んでいるイメージ(マリリン・モンローのせい←世代じゃないからぼんやりとしたイメージである)だった。そうではなくて家庭料理の工夫(功夫!)なんだなぁと、体感して感動した。

自分の調理するという行為は、時間や効率、値段、栄養バランスというおよそ数値化されたものばかり認識してきた。(とはいえ、わたしは日頃、真面に計量して料理をしていない。よって「量」という要素を数値化して扱っているとは言えない。へたくそ)それもなくてはならないものだけれども、時間や効率、値段、栄養素以外のことはあまり認識していない。(味は?というツッコミもあってよい)食料品は、部品化されたものをスーパー等で買うのだから、環境から切り離されている。しかしながら、料理教室の先生の話をちゃんと聞くと、土や海からそだってきた生き物を、今こそというタイミングでいただいているのがわかる。そうした生き物の勢い、エネルギーを取り込んでいるんだなぁ。

さてジョルジェスク・レーゲンだ。Yuk Huiによれば、ジョルジェスク・レーゲンの展開する生態経済学に至る道のりは、ヘーゲルのような弁証法に基づいているとしている。そして今日のデータサイエンスで勝利を収めている信念―すべての経済活動は数字、計算、論理実証主義に還元できるという信念―に対抗する認識を提供する。合理的な選択をするホモ・エコノミクスとして人間を仮定し、十分なデータさえあれば線形の因果関係でものごとを予測することができる、と考える新古典派経済への眼差しを批判する。その対抗策として宇宙、地球上の生きたエネルギーを経済学の対象物の範疇に持ち込んだ。

このような難しい考え事をするのには、バスタブに浸かるのがぴったりである。わたしにとって、とっておきのバスタブはColeman’s Bathtubだ。


「ボート」と呼ぶ人もいるみたいだけど、この「バスタブ」は、マクロレベルの社会現象とミクロレベルの個人の行動の因果関係を示すモデルで、社会的・制度的要因が個人の行動に影響を与え(マクロからミクロ)、個人がその影響を受けて意思決定を行い(ミクロ内部)、その行動が集積されることで社会全体に影響を及ぼし(ミクロからマクロ)、最終的にマクロレベルの変化が生じる様子を示している。社会現象は個人の行動を介して変化し、単にマクロ同士で因果関係を説明するのではなく、ミクロレベルの分析を通じて理解することが重要であるとするもの。


そんなわけでオニオンスープ。日本ではバターはもっぱら北海道産に限定されるし、わたしにとっては高いんだけど、オニオングラタンスープをまた自分でも作ってみたいなと思うので、その時に限って、バターと玉ねぎとマッシュルームを用意して、作ってみようかなぁ。

ところで、カップルセラピーという番組にもでてくるNYUのOrna Guralnik博士は、ポッドキャスト番組で人間関係と気候変動を次のように関連付ける。ジョルジェスク・レーゲンを理解しようとしているところ、これは思いもよらない見解というか関連付けで面白かったので抜粋しておく。

奇妙なことに、気候危機と関係があると思います。気候変動危機による壊滅的な出来事のような、私たちに迫っているものを通じ、私たちは思っていた以上にお互いに依存していることを人々は理解するようになってきました。夫、妻、子供が柵の中の小ささな箱の中で暮らすという考えはうまくいきません。パンデミックではすでにそれがわかりました。つまり、私たちは皆お互いに依存しています。アメリカの人々は中国の人々に頼っており、アメリカで排出される汚染はバングラデシュの人々に影響を与えるように、私たちはお互いに依存しており、自分たちの小さな単位に集中することはできません。

生産と消費、という関係ではない、もっと違う何かが味わえる工夫があるのかな。




2024年11月10日日曜日

いまどんな事態か―対立以外のなにか

その日の朝、まだアメリカ時間では投票終了にならないころ、女性大統領が誕生する可能性があるのかも、とわくわくした気持ちで家を出た。ところが、数えるほどしか女性がいない会場での登壇を終えた夕刻には、トランプの当選確実が騒がれた。就寝前、スマホでSNSを眺める。前日まで、セレブたちが投稿した応援コメント―そのほとんどは暗に、女性の身体の自由を顕示するように見えた―待ちきれない祝福モードは、戸惑い、悲嘆に変わっていた。Youtubeではトーク番組のホストが、皮肉まみれな失意と希望を笑いの種にするのを目にした。こう書くと、私はリベラルな友達に囲まれ、リベラルなコンテンツを消費する認識バブル世界に住んでいるように見える。そんな社会的構造に暮らす私の世界の認識論によれば、トランプの再選は起きえない、ということになるが現実は違う。



何が起きているのか、改めて考えてみよう。実は、私の周りにはトランプ支持者の友人が一定数いる。特に、本来自分がもっとも強いつながりを持っていたカルチャーのコミュニティは、近年トランプ支持に染まっている。昔から、陰謀論者が一定数いるコミュニティではあったが、そんな彼らの反権威主義的な思考が、すっかりトランプ支持に回収されてしまった。もともと話が合ったのに、ここ5年で、反ワクチンやQアノンとの連動し、男らしさと国粋主義が強化され、彼らと音楽のことを話すことはほとんどなくなってしまった。わたしがSNSで消費するコンテンツには、夫婦に関する強い保守思想があふれている。わたしは、疲れた時に、ヨーロッパのどこかの田舎で4人の子供を育てる身でありながら、小麦からパンを発酵させて焼いたり、パスタを粉からつくったり、ガラス瓶にフルーツを漬けて健康的なジュースをつくるそばかす美人を見て、「いいね」を押している。特に熱心な関心も持たぬまま、私が流し見している米国ドラマは、ラテンアメリカ系の主人公たちの自由恋愛を追っているようでキョーレツな保守思想の家族像を売っている。主人公の若い女性は、永遠の愛にあこがれているし、その兄弟のゲイも、パートナーとの結婚に至る。よく思い出してい見ると登場人物は、一人残さず学位不要のサービス業だ。部屋に落ちたごみを拾ったり、郵便受けに届いたピザのチラシを捨てたりしながら、たぶん私は、名前もろくだまし覚えていない登場人物たちがうまくいくことを応援している。このような世界に、トランプ政権は確実に誕生する。

 一夜あけると、世界中の友人たちが、アメリカにいる友人たちの不安を取り除こうと思慮したコメントを投稿した。選挙はいくつかある民主主義国家の執り行う手段のうち一つでしかなく、いくら公式がそれを否定しても、ほかの方法でケアを組織し実現することはできること、選挙の敗北は、負けを意味するわけではなく、大多数の民意が自身のそれと異なることを表していることにすぎないため、必要なのは彼らと共に求め実現するために動く必要を意味していること、これまでだって望みとことなる結果と対峙しながらもなんとかやってきたこと。そうした思慮深いコメントは『負けないで、あきらめず闘い続けて』とは書かなかった。あきらめずに闘い続けるのは、賢明ではなさそうである。ある友人は「選挙結果は問題ではなく、問題に対する症状である」として、闘うのはもうやめて、と呼びかけた。彼女の真意はこうだ。わたしたちは、選挙結果として表象するよりもずっと深刻な問題を抱えている。それは構造的な分断であり双方が互いの見解を聞き入れる機会がないことだ。 

 ここ2年くらい、「市民社会」について語る機会が増え、わたしは改めて市民社会は何か、集中的に考えてきた。一般的に、国連用語の市民社会は、政府組織に対するNGOと、営利企業に対するNPOとして解釈される。市民社会とは何か、知識を問うテストの選択問題であれば、NGOとNPOにマルをつければよい。ところが、読み進めていくと、別の解釈にたどり着く。市民社会の形成こそ、国家の形成、つまり国家が市民社会なのだ。場合によっては、資本主義社会こそ市民社会とも言える。関連書籍を十分に読み、市民社会の関係者と話す機会を持つまで、私はテストの暗記問題のように、市民社会とは、NGOやNPOを含むコミュニティを代弁するエンパワメント目的の主体としてカテゴライズしていた。しかし、実際の世界ではそのようなカテゴリーの主体が市民社会なのではない。本人の自覚の有無を問わず、わたしたちはともに社会を作っているのだ。ともすれば、その手綱は、個人―家族―国家―社会のように。これに私はぞっとした。

 第一次トランプ政権下の保守派判事による人工中絶の違憲判決、移民の強制送還といった出来事は、親しい人との関わり、個人の欲求、そして自分の身体に対する自律した意思決定に直接的に介入し、国家が持つ暴力装置ぶりをこれ見よがしに表した。それでもニュースで見聞きしただけでは、何が起きているかわからなかった。長い時間、私は「チョイス」について十分な意識を持たぬまま過ごしていた。都会での子育てや、新しいウイルス、子どもの代わりに選択をすることなどたくさんの不安を抱えながらそれらを無いものとして過ごしながらすごしていた。コロナで、ケア労働を担うはずの家族が来日しなくなって、家事育児とそれにかかわる金銭を一手に受けることになっても、不安な気持ちを正当化する理由はどこにもなかった。2022年、ウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのを見たときは、「一回きりの出来事でも許されないのだろうか?それともどういうことなんだろうか」とひどく困惑ししばらく陰鬱なきもちになった。

 国連会議に参加して市民社会についての解釈を試みるなかで私は、本で見つけたヘーゲルが市民社会について書いた次の一節をノートにメモした。
「具体的な人格、すなわち特殊的なものとして自己にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性との恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。―しかし、特殊的人格は、本質的にはほかの目標的特殊性との関係のうちにあるものとしてある。それは、各々の人格が他の人格によって媒介されるとともに、同時にまさに他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとして自己を通用させ、満足させるというようにしてである」
植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」)


 職業団体の仕事をしながら明るく過ごしていたけれど、内面ではすっかり困ったことになっていた。ウィル・スミスのニュースを見るころには、困りごとを人に話せるようになってきていたが、何から手をつけていいのかわからなかった。いくつかの前向きなヒントを組み合わせて、ずっと叶わなかった大学進学を果たしたが、精神的に追いやられたまま、年明けてしばらくするとパニックを発症してしまった。息抜きに、と子どもを連れて、田舎のファミレスに行ったときに、博多風もつ鍋が季節メニューで登場してるのを見てはっとさせられた。だいたいみんなが欲しがる、カレーやハンバーグを出す、セントラルキッチンで効率化するのがファミレスの人格なのに、どのようにしてこんなにも特殊なもつ鍋が入り込んだのだろう。下処理済みの安価なもつと、キャベツとニラを調味スープで加熱すればファミレスでもつ鍋は提供できる。ファミレスの洗練された技能と習慣が、博多風もつ鍋を提供するファミレスを実現したと思うと、平和で自由で望みが叶うそこは市民社会の塊に見えた。数年前、松屋がジョージア料理を出した時には何とも思わなかったのだけど、いま啜るおまけの味噌汁は、社会基盤安定の味わい。

トランプの勝利で、もうこんなとこには住んでいられない、という気持ちになるリベラルや、同じ親族でも政治的対立から、話すのが難しくなってしまうなど、ここ数年のアメリカは分断が激しい。TOEFLの読解問題でもつい、どういうイデオロギーのもと書かれた問題文か、文章の解釈に時間をかけて点数を落としたことがあった。どうやらテストは受験者の英語力を測ろうとしているのであって、政治的解釈の読解能力は問わないことに途中から気づき、それだけで数十点アップした(どこに気を使っていたんだわたし)。ここ数年、わたしは分断を前提に、それが何か、まず振り分けをして、適応するような態度で臨んでいたと思う。 


 「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、したがって、自分一人で孤立して生活しているときに、我々のうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、…(略)…本性上、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」(Hooker 1989 (Lock) おなじく植村 邦彦, 2010, 「市民社会とは何か-基本概念の系譜」より)

 システム思考について読んでいると、私たちの問題への対処の方法は、いまだ局所的な対応にとどまっていることを思い知らされる。システム全体を考えれば、そんな過ちをしたりするはずはないのに!コミュニケーションを扱う人間として、自分の無学さを思い知らされるばかりだが、どうも私たちはうまくコミュニケートしていないようである。問題の症状を消し去っても問題解決にはならない、という友人の言葉は、自分でもずっと気づいていたいくつかの現れに対する問題意識と重なる。 わたしはニュース記事を執筆して、日本で起きていることをより多面的に伝え世界に知ってもらおうとした。ところが、100本ほど書いた後、ニュースのフォーマットでは、理解が深まらないのだと体感を強めた。分かり合えないことが問題なのに。ヘイトスピーチと政治的分断を描いた村田活彦の詩「Sweet Words」に心打たれた。 



 保護者になって、およそ形骸化している、お礼やお礼へのお礼という関係構築プロセスが存在していることを思い知らされた。保護者同士や保護者と恩師の間など、感謝の意のプロキシーとして、お菓子とかを渡しあうのである。公教育を堂々と享受する家庭に育ったため、必要以上の礼品は、かえって迷惑かつ面倒という認識でいたから、大変に面倒である。「贈与」をもう一度訪ねる必要がありそうであるが、社会資本の構築に、別のプロキシーが入っていて、共助の本質からずれている気がしてならない。とくにこのクリスマスシーズン、そんな批判思考がはたらくのは私なら当然である。だけど、菓子折りも、学位記も、履歴書もパスポートもお金も、個人の欲求を媒介するメディアになる。 


 何かが国家で何かがエンタプライズでまた別の何かが市民社会である、という区分して切り離すのにもう限界があると思う。本当はしっかりと線をひいて意志があったろうに、社会生活のうちに私は見境をなくしてしまったので、昨年、自分はボーダーライン障害なのではないかと疑った。まだぐにゃぐにゃの思考だけれど、そうではなくて、私は全体としてとらえることを試みているはずである。しかもこの全体は、直線状の因果関係とはたぶんちがう。(よって、都合よくビールを売るための生産管理システムをどう円滑にするか、はいまだ腑に落ちていない)

ちょうどYuk HuiがテクノロジーとSovereigntyの本をオープンアクセスで出してくれていて、今読んでいるところ、ヘーゲルの精神を出発点にしていてツボである。同時にいくつかのことをしようとしているのでできていないのだけれど習慣に関する本や、社会資本に関する本と合わせて。 

そんなこんなで、 一応自分なりに考えて、コレクティブな暮らしをするところに引っ越し、PTAで運動クラブに入ったり、経費精算をマメにおこなうようになった。今週末は、部屋を照らすあかりと、きれいな水、ごはんを炊く電気鍋、あったかい布団が用意できました。

対立以外のなにかができるといい☮


2024年3月7日木曜日

ヘッジファンドとローカルジャーナリズム

 オーナーシップを確認することは、メディアやそのコンテンツを分析するもっとも端的な方法の一つ。オンラインメディアが浸透し、ネット上の情報にアクセスできるようになったことで、アメリカの地方紙は、紙媒体から電子媒体へのデジタル化しビジネスモデルを転換を迫られた、苦難がともないました。地方紙の経営危機に乗じて、ヘッジファンドが地方紙を買収するケースが2010年代から2020年代にかけて増加。その結果、なにが起きたか。民主主義社会において、地方紙が担う機能は何かといったテーマに着目したドキュメンタリーが公開されています。


経営難で倒産したり買収されたりすることは、ここ10年くらいでいろいろなところでぽつぽつあったのですが、その固有の事象を、一つのトレンドとして俯瞰し、さらにプレスの機能の文脈、つまり現代の情報の流通の倫理の側面から解釈できる良作です。

メディアオーナーシップは、新しい問題ではありません。メディアのオーナーシップと、民主主義の関係を一番声高に政治問題として語っているのは、バーニー・サンダーズ。こちらの出馬時の広報サイトが論点をよくまとめてくれてあります。昔から、バーニーはこの問題意識が強かったことを表す懐かし映像をいくつか↓↓↓

バーモント州チッテンデン郡のコミュニティケーブル放送CCTVで1987年放送の映像で、バーニーサンダーズがメディアオーナーシップについてインタビューしています。
こちらはアビー・ホフマンと。この動画は一時期MotherJonesに掘り出されて一時期話題になりましたね。

出馬時、メディア規制の在り方を一つの争点としてキャンペーンしていたので、オピニオン記事を寄稿して、次のように語っています。
残念ながら、1960年にA.J.リーブリングが書いたように 「報道の自由は、報道機関を所有する者にのみ保証される。そして、報道機関、ラジオ局、テレビ局、書籍出版社、映画会社を所有する人々は、ますます少なくなり、ますます大きな権力を持つようになっている。これはもはや無視できない危機である。

当時は、メディアの寡占と民主主義の情報流通の問題でしたが、今回はヘッジファンドがローカルニュースを買っているという問題で、寡占とは別の問題です。どちらも資本やオーナーシップの問題という点では同じですが。

ヘッジファンドという新しいプレーヤーがアメリカのジャーナリズムに影響を与えていることについて、最近報道が増えてきました。というのも「ヘッジド:民間投資ファンドはいかにしてアメリカの新聞を破壊し、民主主義を弱体化させたか?」という本が出たんですね。


On the Mediaでも紹介されていました。

2023年8月19日土曜日

AIが著作権侵害だというのは、あんときのアレ

 最近、ニューヨークタイムズがOpenAIを知的財産侵害で訴えるかどうか検討しているらしい、ということが話題になりました。あくまで社内弁護士がその検討をしている、という程度のことでニュースにするなるのかいな、と思うけれど、ちょうど同紙は利用規約を更新し、記事の本文や写真、画像のスクレ―ピングを禁止、AIモデルの学習に使うのを禁止したという動きもあり。世の中的には、新聞や出版関係の業界団体が、LLMの台頭に対して、知的財産の侵害だとして快く思っていない意見を表明していたことも。



AIがどうしてこんなにも優秀に仕事ができ、そして今後どう活用されていくか、眉間にしわを寄せながら抗議しているのは文芸などのクリエイティブに携わる人たち。独立系クリエイターは、そんなニューヨークタイムズの動きを支持します、とのコメントがツイッターでも流れてきた。

これをみていて、どうも私は首をかしげたくなった。なぜかというと、思い出したことがある。昨今のAIと著作権の話は、法的な論点は置いておいて、感情的な部分を見る限りには、なんども同じことを繰り返している気がするからだ。

あんときのアレ

最初に頭をよぎったのは、2001年のNew York Times Co. v. Tasiniだ。執筆者の組合が、ニューヨークタイムズや今のProQuest、LexusNexusを相手に著作権侵害で訴え、2001年に判決が下った。紙媒体むけに提供されたフリーランス作家の著作物について、出版社が作家の明示的な許可や報酬なしにそれらの作品を電子データベースに提供することを認められないとして、原告たちが1800万ドルの補償を得た。

その次はやっぱりなんといっても、ハフィントンポストがAOLに買収されたとき、アリアナ・ハフィントンのよしみやらなんやらで報酬なく書いていた執筆者たちが、ふざけんなよ、という気持ちになった時に起こした訴訟。これは退けられAOLが勝った。


うーん。ナイーブかもしれないけど、繰り返している。どうやって富むんでしょう、というテーゼについては、もうおなじみで浸透していると思うけれども、Jaron Laniarが「デジタル小作人」という言葉を使っている。つまりこのクリエイターたち、作家たちは、サイバースペースで小作人。

どうやって富むんでしょう、せっかく頑張ってつくったのに。という気持ちに関しては、一昨年前、画像生成AIのブームの際、わたしが書いていた下記の論考を今回あらためて掘り起こしてみる。

<ここから>
Stable DiffusionやMidjourneyなどのツールを使って、いわゆる「呪文」(AIに出す指示、プロンプトとも呼ばれる)を入力することで誰でも芸術的な画像を生成することができることが話題になった一昨年。米国コロラド州で開催されたコンテストでAIによる画像生成ツールを使って作成したアートがデジタルアート部門で優勝すると、様々な論争が勃発した。例えば、(アメリカレコード協会に長年勤めた)知財コンサルタントの(上のツイートでも紹介)ニール・ターケウィッツ氏は、「アーティストの同意を得ず作品をスクレ―ピングしてAIの学習データに使うのは道義に反する」とStable Diffusionを非難した。

他方、ロックバンド、ナイン・インチ・ネイルズのアートディレクターとして知られるロブ・シェリダン氏は、「AIが学習しているのはスタイルであり、スタイルは著作権保護対象ではない。スタイルを著作権の保護対象にしてしまったら芸術や文化の発展を損なう」と冷静な見解を語っている。

AIが生成する画像はアーティストにとって脅威か

AIが画像をいとも簡単に生成できるなら、アーティストの仕事を奪うのではないか。AIアートの著作権については、法律家に任せるとして、残りについて検討したい。くだらない仕事は自動化し、なるべく働かなくていいようになってほしいと切に願う一方で、文芸のような芸術領域にまでAIの影響が及ぶとしたら、自分の生業がどうなるか心配にもなろう。テクノロジーがこれからの社会に与える影響力について探求するポッドキャストの司会者リジー・オレアリー氏は番組のなかで「人間と違って、AIには有給休暇も、労災保険も与える必要がない。」とAIアートの優位性について危惧を示した。

コンテストで受賞したAI作品を提出したジェイソン氏は、何百回以上作品を練り直し、生成された絵に、さらに加工したという。AIに望んだ画像を生成してもらうには、ちょうどいい呪文を唱える必要があり、コツや試行錯誤が必要だ。そこに商機を見出し、呪文を販売するマーケットまで生まれていることを米・技術系メディアのザ・ヴァージは伝えている。アートも、資本主義社会の一部だ。

AIはアートを殺してしまうのか。芸術を媒介するあらゆるメディアの発展史の延長にAIを置いて捉えてみよう。例えばかつて、生演奏によるコンサートを収益源に生業を営んでいた音楽家にとって、レコードの登場は脅威としてとらえられることもあった。しかし、一度生まれた技術は後戻りできない。レコードを始めとする記録媒体の普及は、ミュージシャンにとって新たな収益源となった。他方、媒体が門番となっていて、ミュージシャンはレコードレーベルと契約してデビューしなければ人々に自分の音楽を届けられなかった。そうかと思えば、MP3、バーチャル楽器ソフト等の登場によって、CDの売り上げを軸とした音楽ビジネスは終焉。一方で、実演家がいなくてもソフトウェアを使って音楽製作が叶い、ネットで配信し、SNSでファンとつながる、新しい形態を生んだ。技術の進化でアーティスト活動への参入障壁はどんどん取り外されていく。(ヤッパリ、繰り返してると思うんだよね)

今後、AIの画像生成ツールは、画像編集ソフトの付随機能となって手軽に人々に利用されることになるかもしれない。そうなれば、イラストやデザインに関わる人々の仕事のあり方に変化を及ぼす可能性があり、必要なスキルも変わってくるだろう。しかし、AIはアートの意味を知らない。作品にどのような意味を持たせ、解釈するかは人間にかかっている。

どちら側の立場にしても、いい加減、折り合いの勘所がよくなってきたりしてくれないものだろうか。同じこと何度もやってるんだから。そんなことより、AIすごいとか言っている間に水とか温度とかが大変なことになってるのもよろしくです。

2023年6月29日木曜日

老後が不安で婚活するという話~もっとよくなることのPart2

婚活イベントに参加した人の話を聞く機会があった。およそ絶対に行きたくないようなセッティングで、参加者は各々になぜ結婚したいのか順番に発言させられる機会が与えられたそうだ。そのうち、記憶に残ったものとして、老後ひとりになりたくないから、というコメントがあったそう。何かあった時に、ひとりではこまる、というのは確かにそうだと思う。

既婚者世帯は税制面で圧倒的に優遇されており、これは日本もアメリカも同じだ。しかしながら、独身を選ぶ女性の比率は高まっているらしい。

上記の番組では、メリーランド大学准教授でThe Love Jones Cohort: Single and Living Alone in the Black Middle Classの著者であるDr. Kris Marshが出演し、独身が不当な目に合っていること、その背景にある社会構造を解き明かしてくれる。新しい異性と出会ったり社交が趣味というわけではないのに、いやいや婚活しているなら、そんな無理しなくても、と思っていたところ、なんだか社会構造を見つめ直すことになりまして。

ちょうどNewYorkerに面白い風刺画があったのを見つけた。王子に求婚される白雪姫の絵だ。しかし下にはこう、白雪姫の言葉がある。「あなたがおっしゃっているのは、つまりこういうことですか。横暴な継母の企てから私を救ってくれた仲の良い7人の男友達と芸術コミュニティを作り上げて元気に暮らしているところ、それをわざわざ後にして、今度はあなたひとりのために、またも不条理な力関係の中で無力なおかざりになれと?」

接続詞が足りないかもしれませんが、結婚している場合の税制優遇について考えたときに思い起こすのが、坂口恭平の中学生のためのテストの段取りの一節です。

 国は好き勝手に生きられると、税金を巻き上げられないことを知っているわけですね! だから土地の所有者を確定するために法律を作るわけです。この土地は誰々のもの。だから、この人からどれだけの年貢をおさめてもらうと決めるわけです。だから、山の中の洞窟なんかに住まれたら、わけわからなくなるじゃないですか。だから、町みたいなものを作って、その中で生活してもらうことを考えたんですね。適当に暮らすとまずいのは、人々ではなく、国だったわけです。

未婚の人は不安があり、既婚の人は不満があります。どちらも、もっと良くなろうとする―このままではダメだ、から。

既婚女性と話すと、家事や子育て、仕事でいかに不平等な立場に置かれているか、つまりは配偶者への不満として表出しますが、いくつかのものは、どう考えても、社会構造の問題(なにに優先的価値があり、何に対してより一層どのような努力がなされるべきか、何をもってして楽しみや満足と捉えるか、という個人の考えにより強い影響力を与える機構の存在―会社であったりマーケティングされたイメージ―があるから)なのに、ほとんどの場合は夫婦間の問題として、対応されるようです。

一時的に主婦※生活だっときに、もっとよくなること、で書いたのですが、普通に生きているともっと良くなることに囚われます。

毎朝浮かぶ、こうしたらもっと生活が良くなるんじゃないか、というポジティブな着想は、陽が昇るにつれて懸命な思案となり、正午までにはネットでの商品の比較選択になり、午後には疲れと共に不満へと変わり、夕方には完全なるただの不平になっている。

※「主婦」であることについては、WAN(ウィメンズアクションネットワーク)のシンポジウムで、働く女も、主婦への距離が存在する点において主婦という概念から逃れられない、との名台詞をきいたけれど、引用元をしっかりと記憶できずごめんなさい。 

Adam CurtisのドキュメンタリーCentury of Selfでは、フロイトからエドワード・バーネイズと、心理学をマーケティングに援用し、個人主義を促進することでアメリカの消費文化を作っていった様子が描かれていますが、その途中で、主婦に処方されるリチウム(鬱に処方される)の話がでてきた記憶(たしか、、)があります。

人それぞれだと思うけど、結婚してもしなくても先行きは不安なのでは…と思っただろうか。なんとそこそこの暮らしをする我々どころか、ちょっと余裕のある人たちや、大金持ちさえ、将来が不安で困っている。だって、カナダの山火事でNYの空も煙く、安全できれいな水や空気が必ずや与えられるものではなくなってきていることを思えばその不安は妥当だろうけれど。

ダグラス・ラシュコフが「Survival of the Richest(邦題:デジタル生存競争)」でも触れているけど、ITで成功した金持ちが、火星に逃げようとしたり、不死を目指したり、と終末論的な視点にあること。それからその手前の富裕層も、どのESG株に投資したらいいのかしらと、良い意図でありながらも、先行きの不安から、個人主義的、後期資本主義的な価値観から逃れられず不安を極め、自分達だけでもなんとか逃れようという、もはや何言ってるんだ、というような馬鹿げたお金のかかる対策をとろうとしていることについてポッドキャストのなかでも何度も触れている。

婚活コンサルタントのブログが面白いのでしょっちゅう読んでしまうのだけど、身だしなみやメイクであったり、ファッションであったり、男女ともにどのような点をもっとよくする必要があるか、よく解説されていることを思い出した途端、アストラ・テイラーがこう来た。




 

"An advertisement will never say, 'Hey, you're enough, you're great as you are,' right? It's always going to say, 'Gosh, your teeth could be …whiter. That's a very banal example, but it's ubiquitous."

 現代の暮らしにおいては、不安は購買意欲創出のための基本的な機能として構造的に作られている、ということ。それから、この不安の解消に当たっては、他と競争して、自分だけが高みに到ることで事故を実現し競争に勝つことが前提になってくる。だって、テストは、みんなで一緒に解くのではなく、自分一人で解くから偏差値が変わるんだ。

そこで再び、もっと良くなることについて思い出してみる。

実際にしたことはないので憶測だけれど、婚活イベントにおいてはその数十人の参加者の中から、自分の価値基準(これも、その数十年にわたって、ディズニーとか、理想の家族を描いた洗剤のCMとかによってmanufactureされた)に見合う、ぐっとくる相手(ぐっとじゃなくって、なんかもうちょっとふさわしい言葉があった気がするんだけどなんっていうんだっけw忘れたw)を見つけなければいけない、数学的にめちゃめや可能性が低い気がするんだけど、ないしはアプリとか相談所とかあるんだろうけど、その成功のために、美容とか身だしなみなど、「自分」に投資し、他者を選別し、もっと良くなろうとすることだろう。まさにWhy Love HurtsでEva Illouzが示している等価値の交換としての市場のなかの恋愛。いや、良くなることはいいと思うんだけど、不安の解消を自分だけが背負い続ける感じを思い知らされる。

私の場合、インテリアとかもっときれいな部屋に、とかもっと栄養のあり安価で健康的でエシカルな食事を、ということに向かうのだけど、そのすべてが、私個人でなかったとして、家庭、家の中だけに閉じていることに気づいた。これはもっと良くなることを書いた時には気づかなかった。ちなみに、もっときれいな部屋やもっと良い食事を創出するというゴールを描いたり、そこに向かって走るのは私個人だ。

いずれの場合も、他者と協力していないし、自分だけ(または家族まで)が受益者となるものだ。その数十人の婚活イベント参加者は、配偶者を求めずに、共済ないしは合弁事業でも立ち上げたほうが、偶然いい人がみつかり、かつ、不慮の事故などに会わず、独身だった場合よりも追加の害が発生することが無く無事添い遂げられる場合のに比べて、圧倒的に計画実行可能なものではないだろうか。つまり、配偶者に安定をもとめるのではなく、頼れる近所、友達、村、コミュニティ、なんなら、ましな地球を維持するためのアクションがとれる共同体を作ったほうが、誰かひとりに頼るよりはいいような気がするんだけど。その共済ないしは事業の運営や維持において、偶然配偶者関係になることはあるとしても逆は絶対にないんじゃないだろうか。自治体も、婚活イベントに助成して、徴税するよりも、結婚しなくても楽しく生きていける街づくりをしたらどうだろうか。や、婚活したことないからすべて憶測だけれど。わたしはもっときれいな部屋をつくるのもいいけれども、部屋にすがることなくおおらかに過ごせる環境を整えたら…、自炊しなくても、素敵な食事が提供される店が溢れる地域につくりかえられたら…、いいんじゃないだろうか。それはもっといいことを指しているようにも思うけれど💦

Astra Taylorは決して婚活や老後の話をしているのではないけれども、結局「必要なのはコレクティブ・アクション」だと言っている。彼女は環境活動家でありドキュメンタリー作家なのだけど、私の書いたことは女性でいることの諸問題という視点でもあるから、根源的に地球の問題とつながっている。



2023年5月12日金曜日

現場を退いたオッサンの話ばかり真に受けて記事にしてんじゃないよ、という話。

 今週月曜日、デジタルテクノロジーと社会正義の領域で戦っている女性およびノンバイナリの研究者や技術者らが、抗議声明を突出してます。

みんな見てたと思うんですけど、5月に入ってでしょうか、「生成AIに警鐘、AIのゴッドファーザーがGoogle退社」とか、「AI研究の第一人者がGoogle退職 生成AIに警鐘」という見出しが日本語圏の紙面を飾り、話題になりました。一般世論としても、こんな報道があると、なんだか社会的リスクを検討しなくちゃいけないのか、みたいになった人が多いと思います。こうした報道姿勢に対して、ふざけんなよ、ということをこれまでさんざんAI、テクノロジーがもたらす社会への害について、量的研究に基づいて、警鐘を鳴らし、職を追われたりした女性やノンバイナリの技術者や研究者たちが、批判しています。そりゃ頭に来るよな、、 怒りポイントとしては、今さらなに言ってんだ(ばっちり定年まで働いておいて?!かつ、これまで女性やノンバイナリの研究者たちがさんざんリスク喚起したときは、スルーしてたくせに!?)というところ、実害を被っている当事者についてよくわかってないのにどの口がそれを言ってるんだ(データやアルゴリズムなどによって、不当な差別を受け、暮らしに影響を受けるのは周縁化されたコミュニティ、で、特権的立場にある白人男性は、それらの害について、不勉強!)というところではないでしょうか。

彼女たちが、これらについて具体的な警鐘を鳴らしたときは、主流メディアでは大々的な報道には至らなかったし(少なくとも見出しに”ゴットファーザー”みたいな過度な凄みを添えらえたりはしていなかった)、職を追われたり、訴訟にあったりして、さんざんな目にあっていきました。退職金とか年金とかそういう世界じゃなかったわけです。 

 それを、ふざけんなよ、で終わらせずに、懇切丁寧な抗議文をリリースしていく強い皆様であります。 さんざんな目にあったうさはらしではなく、テクノロジーが社会にどのような影響をもたらしているか、コミュニティに根差して細やかに検証して知見をもってるのはこの署名に記されたオールスターたちが誰よりも専門家であり、ここ5~10年くらいずっとフォローしてきた人たちです。抗議文は次のように始まります。
報道関係者および政策関係者 各位
下記に署名した、人工知能やテクノロジー政策分野の最前線で働くグローバルマジョリティ※に属する女性およびノンバイナリの者である、我々は、政策立案者や報道機関に対し、デジタルテクノロジーがもたらす社会課題の報道や検討にあたって、こうした事柄を専門に扱う我々の集合知を利用するよう呼びかけます。 

※ここで書かれているグローバルマジョリティという言葉について、解説が必要そうなので補足します。これまで、「マイノリティ」(人種、性的指向など)とか、people of color (有色の人種)という言葉で表されてきましたが、「グローバルマジョリティ」は、2000年代以降に生まれた新しい語です。クリティカル・レイス・スタディーズや、教育リーダーシップマネジメントの分野における研究や社会正義に対する取り組みをきっかけに、言葉・表現のあり方と意味づけについて、白人との相対的な関係のなかで自らを定義するのではなく(有色とかpeople of colorという語は、これまで、色がついている、ついていないという対比に割り当てられて、自ら位置付けたものでない、という不自由があった)、まるで大多数が西洋文化の白人で、その周縁に存在する少数派であるような表現ではなく(実際には、世界の人口の大部分は白人ではない人たちによって構成される)自ら定義したリアリティを共有したいという意図から生まれてきたのがグローバルマジョリティという力強いことばです。こういう一語一句への気遣いが、みなさん知的でいらっしゃる。そしてこう続けます。


長きにわたってテクノロジーのリスクや脅威に関する報道は、テクノロジー企業のCEOや広報渉外担当者によって定義されてきました。その一方で、これらのテクノロジーがもたらす害は不均等に、我々が属すグローバルマジョリティのコミュニティに降りかかっています。同時に、世界中の政策立案者は技術の進歩に追いつくことに苦慮し、猛威を振るうテクノロジーから人々を保護することに苦労しています。 グローバル・マジョリティからの女性やノンバイナリーの人々は、個人的・職業的リスクを冒しながらも、テクノロジーが私たちのコミュニティに害を与えている方法について、一貫して懸念を表明しています。私たちは、特にAIが民主主義を破壊し、女性、人種・民族的マイノリティ、LGBTQIA+の人々、世界中の経済的に恵まれない人々など、歴史的に抑圧されてきたコミュニティに害を与えていることを検証してきました。私たちは、書籍を執筆し、勇敢な報道で圧制的な政権に立ち向かい、時代を代表するいくつかの大手テック企業に対して告発を行い、量的・参加型研究を実施し、テック企業に対する世論監視を高めるようなヘイトに対抗するキャンペーンを組織してきました。こうした立場をとったため、私たちは職業的・個人的な機会を失い、中には圧制的な政権に抗議したことで亡命を余儀なくされた者もいます。

 [中略]

私たちは、「富裕な白人男性だけが社会に存在する脅威を決定する権限を持っている」という前提を否定し、政策立案者や報道機関に対して、情報源を多様化するよう呼びかけます。人種、女性、LGBTQIA+、宗教やカーストの少数派、先住民、移民、そのほか権力の端におかれたコミュニティにとって、技術とは、常に存在の脅威であり、社会的な権力構造においてわれわれを劣等たらしめるために何度となく利用されてきました。

そこで彼女たちは呼びかけます。要は白人のオッサンの話ばっかり聞いて記事執筆したり政策立案するんではなく、ちゃんと私たちの論を聞きに来いと。 

もうひとつ注目したいワードがexistential riskという語です。「存亡リスク」と訳されるでしょうか、実存そのものに関わるリスクを指していますが、主にきのこ雲が上がって人類が滅亡してしまうかも、といったような、将来的な人類の滅亡を起こしかねないと仮定されるリスクを指す、危機感溢れる単語です。人類滅亡のリスクのシーン、みなさん想像できますでしょうか。残念ながら、NYやLAが壊滅しアメリカ人が地球を救うハリウッド映画のようなイメージをされたではないでしょうか。メディアスタディーズが懸命に示してきましたが、存亡リスクのナラティブは、ずっと昔から白人男性中心で、現在のAIや技術革新にあたっても同じことを繰り返しています。存亡というのは、実存に関わるリスクをさしているのですが、その実存的リスクの主体となれるひとと、なれない人がいます。

たとえば実際にこれまで、FacebookやWhatsappを通じてデマが伝播したことによってメキシコで人が焼け死んだり、ミャンマーからロヒンギャ難民が迫害され殺されても、テクノロジー企業も、政策立案者も大した対策をとりませんでしたが、ホワイトハウス襲撃事件では大きく対応しました。自国の問題でない事柄には、どんな甚大な影響を及ぼしてしまっていようが、Section230があるもんね、っとそっぽを向いてしまう様子をRest of world問題と言ったりしますが、これ、Metaのまとめかたが雑で、業績グラフを、北米、アジア太平洋、ヨーロッパ、「その他」とその他はラテンアメリカ、中東、アフリカをまとめて残りその他扱い!していているところからきています。フランシス・ホーガン氏の暴露をきっかけにしたWSJの調査で、Facebook(Meta)が誤情報対策に費やした時間の87%が​アメリカと西ヨーロッパに対してであり、つまり、その他の地域(この言い方がまた頭に来るでしょ)の誤情報対策には残りのたった13%しか注がれてないことも予てから報道されています。インドやアフリカでも困ったことになっているのに!アメリカ国内でも、なんらかのAIが裏で入っているツールで、実害を被ってる人たちがいて、それが偏って、権力の端に置かれた人たちであることを、なんども指摘してきているのに。。。

ということで、White Savior Tropeから、誤情報対策の偏りの話まで、少しわき道にそれてしまいましたが、FreePressから抗議の全文がでてますのでぜひご欄ください。(各自翻訳ツールとかボットで日本語に変換して読める前提で申し上げます)何人か、直接紹介したいのだけど。


グローバルマジョリティという概念の背景とかは、この歌がしっくりくると思う!

Village women, tribal children
Native language, something's missing
Ripping spirit, no religion
This is what we teach our children
Mmm, the chapters we don't know, thеre's no ink to fill them
The visions of thе soul, need Stevie to see them

 

2023年4月20日木曜日

帰ってきたコーデュロイ

 ネオリベラリズムが終わるらしいという噂をきいて、やってきた。どうやらそのようである。確かになんだか変だなという感じがここ数年あったが、どうもあたらしいナラティブが優勢でリアリティが変わりつつある。

私が日頃関心を持っているメディア論や、知へのアクセスとちっとも近くない話題なのだが、経済や金融の話が実は結構好き。なぜかというと、その理由はようやくパンデミック以降、自分でもわかるようになったばかりなのだけれど、サプライチェーンの構造は伝達と価値の話に見えるし、それら経済を回す媒介人ーミドルマンー、もっというお金という人工物を介したトランザクションは、コミュニケーションとメディエーションの問題として捉え、それが町の暮らし(コミュニティ)や社会的アクションに影響を及ぼすこと面白いから。

さて、昨秋発売されてから注目を集めているFTのジャーナリストが書いたこの本「Homecoming: The Path to Prosperity in a Post-Global World」が話題になっていて原本は読めていないが、講演やインタビューをあっちこっちで聞いている。彼女曰く、ネオリベラリズム経済はそろそろ、お・し・ま・い。


部外者から見ると、FTのような金融市場を取材する会社でネオリベラリズム終わりとか言って大丈夫なのか?と思うんだけど、彼女曰くこれが意外と大丈夫で、どうしてかというと、上層の投資家とか金融世界の重鎮たちは、これからの世の中がどうなっていくのか、しっかりと見据えて理解したいと思っていて、いわゆるアメリカの空洞化、みたいなものも打撃だとわかっていて、そこからどう持ち直していくのか(≒レジリエンス)ということに真剣に関心をもっているから、だそうだ。そのうえ、マッキンゼーみたいなコンサルティング企業から、ポスト新自由主義のナラティブに相応しい本「The Titanium Economy」が出てたりして、明らかに潮の向きが変わっている。

(この動画、Q&Aセッションのクオリティが高すぎて驚く。これまでみたあらゆる名門大学での講演動画より圧倒的に質問が素敵なのでぜひ最後まで見ていただきたい。おそらく、コミュニティに根差したDCの老舗書店Politics and Proseだからこそなせる業)

もっぱら、コロナ禍に明らかに感じられるようになった中国依存による品薄、表面的なESGにかこつけたウイグル問題云々、昨今の対中の緊張関係からサプライチェーンの見直しが起きているもんだとばっかり憶測していたけれども、Homecomingはもっと前に地殻変動があって、それは例えば2013年バングラディシュで起きたラナプラザ崩壊事件(そういえばそんなことあった!)くらい遡る。さらに最近の米中間の半導体に関しては、バイデンが中国からのチップはあきまへん!ではなく中国側が自国で完結して豊かになっていきたいから、というナラティブなのも少し触れてくれている。そもそもトマス・フリードマンのフラット化について、Rana氏は、そんなの最初からなかったし、フラット化とかもう終わり、と何度も批判していて、その根拠として、同時期の別の名著「End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporation」のほうがよっぽど的確にグローバル化とこれからを描写している、とお勧めしている。

End of the Line: The Rise and Coming Fall of the Global Corporationの著者、Barry C Lynは、モノポリーに関する本で良く知られていて、そんな彼が、2020年にWiredに寄稿しているのを見つけた。もちろんGAFA規制に関して。タイトルが、テクノユートピアの夢をシリコンバレーはまだ見ることができる、としているので、少しアンビバレントな気持ちになるが、読んでみると、ルネッサンスのチャーター制(これはラシュコフのナラティブでおなじみ、デジタル封建制度とも)と独占の話、さらには、鉄道アナロジーまで登場(これはインドでフリーベーシックスというネットの中立性と対立するFacebookの取り組みに際して私が行ったアナロジー、ほかにGig Workやプラットフォーム経済について、Danah Boydが鉄道労働史までさかのぼってくれた論文もある。)してすごく読みごたえがあります。要は、未曾有でそんなこと初めて、規制が追いつかない、どうしたらいいかわからない、なんて無力な気持ちにならず、歴史を学ぼう、という気持ちにさせてくれる寄稿で、非常に私好みでした。

以上、金融経済畑から、メディアテクノロジーの話に一周した様子をつづりました。


2023年2月4日土曜日

メディアはSUSHI論(2019年)

メッセージだとか、マッサージだとか、いろいろな言い方がありますが、メディアは寿司です。寿司、と漢字で書くと少し語弊があるから、訂正しよう。メディアはSUSHIです。
(夏の疲れが溜まっております。お許しください。)
※これを書いたのは、2019年9月でした


今回は、SUSHI的メディア論を「SUSHI論」と呼んでお届けします。


そんな「SUSHI論」を展開するコラムが、TechCrunchに掲載されたのはしばらく前、今年2019年の春ごろのこと。

The Future of News is Conversation in Small Groups with Trusted Voices(未来のニュースの形は、信頼できる意見を共有する小グループでの会話だ」

なんとも、飾り気のないタイトルで、既に好感を抱きます。これを読んで考えたことなどを、すこしまとめたかったのですが、もう秋めいてきてしまって(汗)
寄稿者の意見はこうです。FacebookやTwitterのニュースフィードが、回転寿司(そして例えるなら、統計的な正しさから大衆が求めるマグロが立続けに流れるけど、あなたが本当に食べたいのはもっと別のもの。)で客が選り好みする世界だとすれば、我々はその面白さや効率性から脱却し、頼れる大将が開く上質な小さい寿司屋に行きつくべきだ、と。全体としては、いわゆる「ニュース消費」の在り方について、SNSの功罪に加え、技術的な変遷を踏まえ、昨今の興味深いニュースメディアの取組事例についても紹介しています。

2023年追記
スシローでいろいろ炎上する事態が起きた。フィードに流れてくる寿司が汚染されブランドに大きな被害。後には、別のYoutuberが回ってないスシローと追加のふざけ動画「回ってればいつかこうなると思ったよ」。


さて私はここ数年、ニュース消費スタイルについて、ニュースを基本的には全く消費しない、というスタイルをとっています。(小声です)

世の中には「ニュース・ジャンキー」呼ばれる、とにかくニュースが好きで読まないと気が済まない、というような傾向の人が欧米のニュース編集者とか知識層にいたりします。まったくもって個人の自由で、ニュースを読みたいひともそうでない人もどちらでもいいと正直思うのですが、近年では技術の発達によりニュース消費サイクルが短くなり、ニュース以外の様々な情報を常に消費し、意思決定せねばならない状況に人々があることから、情報過多によるストレスが社会問題化しています。実際には、問題の経緯はもう少し歴史をさかのぼります。アメリカの場合は80年代以降からケーブルのニュース専門チャンネルが発達したことでいわゆる「24 hour news cycle (24時間流れっぱなしのニュースサイクル)」が生まれたことが事の発端でした。そりゃもう、朝刊・夕刊だけとか、モーニングニュース、イブニングニュースだけで済んだことが四六時中流れ進展するとなれば一体その情報にどう向き合ったらいいのか、という悩みが発生するのは想像に易いでしょうが、それはテレビをつけている間だけの話でした。今度はインターネットによりプレス機関も徐々にデジタル化し、紙面や放送枠に縛られない報道が一層増え、ネットメディアも勃興。さらに今に至っては、自分が今いる現実世界と、メディアを介したニュースに加え、SNSやチャットアプリなどにより、常時知らせが届く状態が生まれました。このようにして現実社会で何か体験している中でもスマホを手放せない環境が生まれ、その背景には「FOMO(Fear of Missing Out:見逃すことの恐怖)」があるとしてちょっとしたバズワードにさえなっています。FOMOという用語が話題になり、それ自体が社会問題となる以前に、スマホによる情報過多について知覚的に解説、指摘したのがダグラス・ラシュコフでした。彼は2013年の自著「Present Shock - When Everything Happens Now」の中で触れています。(ところで、VRとか没入型メディアでわざわざニュースだけを見続けるということは今のところないんでしょうかね、あまり思い当たりませんが)

一応説明しておくと、私が今のニュースを習慣的には消費しないという過ごし方に至った経緯は、情報過多とはむしろ逆の経緯からでした。仕事で編集者としてニュースを読みまくる必要があった時期があり、それはストレスフルでしたが、それ自体はニュース消費習慣をなくす原因になりませんでした。自分自身でニュースを100本ほど執筆し、編集する・される行為を繰り返すうちに、自分の担当する媒体の使命「担当領域について、読者の理解を深める」を果たして成し遂げているか、自問自答するようになりました。(2010年のNicholas Carrの著書『The Shallow』を思い出しますね)そして、どうも「理解を深め」ているとは思えなくなり、どちらかというと断片的な情報が一時的に消費され、不均衡に日本について印象付けるだけ、というネガティブな印象を持つようになり、その原因にニュースの執筆スタイルやSEOがあると感じるようになりました。

併せて、複数の事件や事象を報道する中で、個別の複雑な出来事についてごく表面的にとりあげて、善し悪しの話をするということに嫌悪感を抱くようになりました。届けたい事柄について欲張りで身の丈知らずだったからかもしれません。でも、本当に何かを知りたかったら本を読むべし。

だいぶ寿司から離れてしまったので、こちらのビデオを(最後までご覧ください)

先ほどのTechCrunchの記事では、RSSやメルマガ、ポッドキャストなど様々な技術的表現形式について触れていて、中でもダイレクトなメディア表現に関心を寄せている様子がうかがえます。具体的には、メッセージアプリでの私信(Private Messaging)によりニュースを伝えるということです。荒らしだらけとなってしまうウェブ上のコメント欄よりも、ニュースフィードとプライベートメッセージを混ぜたような形式がよいのではないか、と考える取り組みはすでにいくつかあるようですが、いまのところあんまりグッときていません。
※2023年追記、その後プライベートメッセージが誤情報の温床になったね!

プラットフォームがプライベートメッセージへの比重を置くとすると、そのことは単にSUSHIを食べるお客側の問題ではなく、大将たちの縄張り争いを意味します。フェイスブックがケンブリッジ・アナリティカの一件で、大惨事に巻き込まれた時の報道の見出しは「史上最悪の情報漏洩」でしたが、実際には同意を得て取得したデータでした。(用途は問題あったけど)。この事件により、縄張り争いは悪化し、トップたちが辞め、対抗するサービスに移行するなど地獄絵図がWIREDの長文記事に描かれています。
※2023年追記、まあいまはWhatsappはFacebook,というかMetaだ。

ここから2023年の追記です~

昔NYのチェルシーマーケットでEnokiの寿司食べて、おいしかった。でも2023年的には、文化の流用ね。オーセンティックにSushiもEnokiも理解せずにネタにしてるわけ。Veganでヒップな感じだとおもったのかもしれないけど、加熱しないとリステリア菌いるの、エノキダケを採って、食べてた歴史や文化を顧みなかった。(わたしはセーフだったけど)

ちょうどTwitterが大量凍結、そしてフリーAPI公開おしまいの報道があった。
スシローの件は、なんていうか2009年のドミノピザ(ドミノピザ従業員がこちらもつばとか鼻くそいたずら動画をYoutubeにアップしてブランドを害した事件、その後のドミノピザがソーシャルメディアを活用したインタラクティブな評判回復対応を行い上手だったことで有名。多くの企業が従業員のSNS利用の研修させたりガイドライン導入する要因にもなった)を思い出させる。

国道沿いでは、回転ずし、どうしても仲間と訪れて、あれこれ食べ、「量」をカウントして勝負するようなところがあった。なんだか視聴回数カウントのようだ。
メディア寿司論、じっくりやるといろいろ出てきそうだし、ぜひ発酵してほしい。

2022年1月12日水曜日

Aaron Swartz追悼|アメリカ著作権法の成り立ちまで遡るポッドキャストを聴いて

1月、ということでAaron Swartzの追悼番組(ポッドキャスト)を聞いた。

番組は、Aaronについて本を執筆したJustin Petersが、"information wants to be free"―「つまり、情報はタダか?」という命題を軸に、ものすご~くわかりやすく、著作権の在り方、インターネットについて話してくれているインタビューだ。

↓この本です。

 

まず、有名なInformation wants to be freeについてのおさらいしよう。これは、ホールアースカタログのStewart Brandのフレーズに起因するが全文はもう少し長い、、、

"Information Wants To Be Free. Information also wants to be expensive. Information wants to be free because it has become so cheap to distribute, copy, and recombine---too cheap to meter. It wants to be expensive because it can be immeasurably valuable to the recipient. That tension will not go away. It leads to endless wrenching debate about price, copyright, 'intellectual property', the moral rightness of casual distribution, because each round of new devices makes the tension worse, not better."


そういえばちょうど今朝、こんなものをみていたところ。

今回紹介しているポッドキャストOntheMediaでのJustin Petersのインタビューは、なかなかアーロンの話にならない(笑)んだけど、そこが面白い。なんせこの本は、最初の3章をアメリカ建国期の著作権法の形成、とくに、辞書のイメージがまとわりついているノア・ウェブスターを中心に辿っていく。

まだ、文学や書籍がほとんどアメリカ国内で出版されていなかったころに教師をしていたウェブスターは、アメリカがせっかく独立したのに、英国の退屈な教科書を使ってアメリカのこどもたち英語を教え、ウェールズ地域の固有名詞でスペルを覚えさせるだなんて、恥ずかしいったらありゃしない!という思いから、その代替となるような本をつくって出版。自分で出版した書籍で食っていけるようにしたかったので、著作権法の成立に躍起になった。(アメリカ建国から100年くらいはほとんどまともな本がでていなくて、書籍とは金持ちが趣味で書いたもの=本は商材にならない、という状態だった)自分の本が売れるように、と著名人に押しかけたりしていた。


 ウェブスターがジョージワシントンの家でのディナーに招かれたときのこと。ジョージワシントンが「自分の子にはスコットランド出身の家庭教師を付けようとおもう」と話すのを聞いた20代の無名教師であるウェブスターは憤って、「せっかくアメリカが独立したというのにスコットランドから家庭教師を寄せるなんて英国はなんておもうでしょう、嘆かわしい!」と。そんなこんなでジョージワシントンから自分の書籍に大統領から帯コメント的なものをもらう。

そんなふうにして、著書は順調に売れ、著作権法も成立した。
その一方で、著作権法上の対象とならなかった海外の著作物については、出版社が今でいう海賊版を大量に刷って、安価に売って儲け放題だった。(これが出版ビジネスの始まりらしい、なんてこった!)

国際的な著作権が必要だと考えた著者たちは、倫理問題として、教会に展開。日曜のミサで、牧師がわかりやすく、海外作品を勝手に販売するのは倫理的ではない、人のものを盗んではならないはず、というようなことを説いていった。

ところがそうしているうちに、著者の権利をちゃんと守れば、みんな頑張って作品を世に出してくれる、そうれば世間も、いろんな本を読めてみんな幸せ。だから著者と出版社を中心に著作権を強化しよう、という流れになっていき、パブリックドメイン的な考え方はしぼむ。

パブリックドメインやオープンアクセスが盛り上がりを見せるには、マイケルハート(大学のPCを借りて使ってひたすらフリーの電子書籍化にはげむ人)による、プロジェクトグーテンベルクの登場を待つことになる。

(結局大学から追い出される、その時期は、人々がプロジェクトグーテンベルクの価値を理解し受け入れるようになった矢先だった)

マイケルハートと似てるところがあるよね、というのでようやくアーロンの話になる。長かったな、前置き。

アーロンが心打たれたチョムスキーの一冊はこちら。

あまり追悼になってない文章だがご容赦あれ。それにしても、the game don't change, just the playersな感じ。相変わらずだけど、いい年にしましょう。

2021年10月12日火曜日

フェイスブックを叩いてインターネットの自由を狭めたら思うつぼ

 前回の投稿で、フェイスブックの内部告発をきっかけとした、フェイスブックに対する大バッシングについて紹介しました。フェイスブックへの強まる批判とともに、規制強化へ共和党、民主党の両党の議員が強くうなづく、そんな風潮が高まっています。しかし、もしこの規制強化が、通信品位法の230条を改め、プラットフォーム企業に対してユーザの投稿の責任を持たせることとすれば、それはフェイスブックの思うつぼかもしれない、とテクノロジーとインターネットの自由に関するブログTechdirtのMike Masonicは懸念しています

適法に業務を行いながらも、どっちつかずで時代遅れの規制(もしくはそれが無いこと)のせいで、たびたび公聴会に呼ばれたり、多額のロビー費用をかけたり、年中裁判しなければいけないなら、もう、規制法つくってくれよ、その通りにするからさ、とさすがのフェイスブックも思いたいのではないでしょうか。  

 実際に上記動画が表すのは、フェイスブックのがインターネット規制の立法を求める意見広告。実際に今年春の公聴会でもマークザッカーバーグは、230条項の改正賛成を示唆していました。通信品位法の230条によって、プラットフォーム企業はユーザ投稿についての責務を逃れてきました。もし、通信品位法230条の改定でユーザ投稿についてプラットフォームが責任を負うことになるとしたら、一見すると巨大プラットフォーム企業をお仕置きする手立てとなりそうに見えますが、実際には、寡占状態をさらに加速し、参入障壁を高くし、市場のバランスがさらに悪化することが懸念されるのです。

フェイスブックの問題を直すための正解はわかりませんが、いくつかの論点が明らかになってきています。感情的なフェイスブック批判が横行しがちな中、規制強化がかえって悪影響を及ぼすことについても十分に留意が必要です。

特に巨大プラットフォーム企業は、通信品位法で免除されていた責任を、新たに負わなければならなくなったところで、十分な法的対応資源を有し、準拠するよう舵取りをすることができます。しかし、もし新たなプラットフォームサービスをゼロからつくるようなスタートアップにとっては、ユーザ投稿についてまでぬかりなく、新たな事業を展開していくのは非常に障壁が高くなってしまうことが考えられます。

同様の指摘をCory Doctrowもしています今月のACMの雑誌に寄稿し、(フェイスブックのような)巨大テック企業を直すんじゃなくて、インターネットを直すんだという視座から、(そして得意の著作権侵害をリラックスさせることを含みつつ)ユーザ側のコントロールを優位にし、相互運用性を強化する仕組みをつくることを提案しています。
面白いことに、この案だと、改正すべきは、コンピュータ詐欺と濫用に関する法律と、デジタルミレニアム著作権法になります(笑!!)しかも、雑にとらえて種別分けするとしたら、規制緩和ですね。(一方で、併せてACCESS ACT=Augmenting Compatibility and Competition by Enabling Service Switching Act、ざっくりした説明をするなら、データポータビリティを保障する法律かな。。。の立法も支持しているようだし、おおよそEFFの主張とかぶる、というかそもそもEFFの特別顧問みたいな立場でもある)

内部告発に関連するなかででてくる問題解消案の一つの選択肢にビッグテック規制監督官庁の設立があります。

嗚呼、ビッグテック規制(Politicoが行った最近の国際パネルディスカッション)

元FCCのTom Wheelerはかなり前から、対象セクター向けの監督官庁Digital Platform Agency (DPA)を作るべきだと言っています。(前にも紹介したような気がするが、ブルッキングス研究所の寄稿や、あとパブリックナレッジも似たような規制官庁を提言してたので、今回改めてその語気を強めている)

監督官庁が有効かどうかわかりませんが、EFFやCory Doctrowが目指すような相互運用性を現実のものとするためには、その実施を義務付けるような根拠法のようなものがいるのかもしれない(もしくは、それを実施したときに、著作権侵害で訴えられたり買収されて消えたりしないように)ような気がします。ええ、法律の専門家じゃないからわかりませんけど。。この相互運用性は、もしかすると、ちょっとずれ気味だったフランシスフクヤマが過去に仕上げたホワイトペーパーで「ミドルウェア」と呼んでいたものを、実際にはオープンな相互運用性の実装で、担保するというところのような気がします。


巨大テック問題ーでも批判するマスコミも同じ

 フェイスブックの内部告発者が60ミニッツに出演し話題を呼んでいます。フェイスブックは、若い子たちへの有害性を知りながらも調査資料に蓋をし、コンテンツの掲示に関わるアルゴリズムについて利益を追求のために使い続けたことが批判されています。


ちょうど上院での公聴会の最中だったり、欧州が米巨大テック企業への規制を強めていたところという時勢的な状況も重なって、新聞テレビ等のマスコミはフェイスブックを大バッシング。国際的にも問題となっています。フェイスブックが独占的な立場を優位に利用して、ユーザのエンゲージメント(という名の従事時間)を最大化するよう、特に弱い立場にある10代への影響を知りながら、十分な対応をしてこなかったのは、そりゃーいかんだろう。(Timeの表紙はこんなふうになっちゃってる、キツっ)

一方、このメディアからの大バッシングに、冷めた目を向ける人もいます。(一言でいうと、もっとも基本的なU.Y.C.の事例) 落ち着いてみてみましょう。マスコミがフェイスブックを批判しているのは、「利益を最大化して、若者への悪影響を蔑ろにした」からですが、マスコミはその常習犯です。先ほどのTIMEの表紙がわかりやすいですが、今回の報道では、Facebook=ザッカーバーグとして象徴、一般化し、フェイスブックが悪い、というようにことをずいぶんと単純化してしまいがちです。これに対して、ウェブの世界の長老ともいうべきでしょうか(ブログ始めて27年だそう)Dave WinerはFacebookの内在する複雑性を単純化することを批判し、フェイスブックは我々だ、と投稿しています。その投稿の中では

「フェイスブックは言ってみればニューヨークみたいなものだ。もしタバコ会社の本拠地がすべてニューヨークにあったら、ニューヨーク市長が癌の元凶の犯罪者だって言っているようなもんだ。実際にフェイスブックはニューヨークの何百倍も大きいんだから、いろんなことがあるってことを理解してよ」と。

そして「フェイスブックがー」と言うのは焦点が定まらなさ過ぎので、その意味するところをしっかり検討するようにと口を酸っぱくして言っています。

Facebookとは・・・ 
1.マークザッカーバーグのこと
2.パブリックコーポレーションとしてのFB
3.60Kの従業員
4.サーバー、ソフトなどの技術
5. 広告プラットフォーム
6. ユーザコミュニティ
7.ウェブへと接続するもの
8. ビデオや画像、投稿、ライブ配信など、現在過去のあらゆるコンテンツのこと


マスコミのほとんども現在は、トラフィックの大部分やシステムをGAFAに頼っている(ニュースサイト訪問のほとんどはSNSからの流入)わけだし、確かにやっていることの構造はほとんど一緒です。

同様の指摘はこちらにも。

フェイスブックについて人よりもカネを優先する悪いと世間に伝えるなら、プレス(マスコミ)だって、同じことをしちゃいけないはずだ(でもしてる)。クリックベイト記事やとんでも記事でトラフィックを捻出したりしないってこと。

あと、面白かったのはコレ↓。新聞が、フェイスブック閉鎖や解体をに声を強めながら、この論争の最中、フェイスブックのサイトが一時アクセスできなかったことについて、咎める新聞記事に、どっちやねん!と突っ込みをいれている投稿。

新聞記事:「フェイスブックは邪悪!閉鎖すべき」
これも新聞記事:「フェイスブックは6時間落ちてたので、再発防止に努めるべき」(どっちやねん)

「私の言いたいことは、我々プレスが、他者にアカウンタビリティを求めるなら、自分自身についても、より高い水準を保つよう努めなければおかしい。もし、フェイスブックが人々のプライバシーを侵害していると、世間に伝えるならば、我々プレスも、同じように人々のプライバシーを侵害してはならないはず(だが、している) 」

内部告発から、単なるフェイスブック叩きに終始してしまうと、ことの論点を単純化しゆがめてしまい、本来議論すべき事柄や検討すべき選択肢がぼやけてしまうように見えます。

今回は、フェイスブックの内部告発により明らかにされた巨大テックの持つ強いパワーや不均衡について報道するはずのプレス(マスコミ)に対する批評をいくつか紹介しました。フェイスブックの問題をひも解いていくと、実はそれは自然と、インターネット以前の時代に、これまでマスコミが指摘されてきたことといくつかは同じ性質を持っている、ということに気づくと、マスコミ批評がこれまで展開してきた論点や規制のありかた(うまくいってないけど!)を巨大テック企業にも応用することができるというヒントをくれているように思います。

もちろん、編集者によるニュースの選別と、アルゴリズムにより自動化された選別や掲示というのは、背景の仕組みやその規模のインパクトが大きくちがうし、テック周りの法整備が未発達である、テクノロジーの複雑性への理解をほとんどの人は持ち合わせていないことから、巨大テック問題をどう解消すべきか、みんなで落ち着て議論するのがかなり難しい現状にあります。そうすると、今回の一件で、マスコミがフェイスブック叩きに走ることで、なんだか違う、インターネットの自由を侵す方向に走ってしまう可能性もあるということは留意しておかなければいけなさそうです。

次回は、くわしくそれ。

2021年7月1日木曜日

Argument for Micro-Credentials ゾンビとの戦い、再び。

 ここ数年から、教育のオープン化、その延長線上でのデジタルクレデンシャルについて調べてきたのだが、ここにきて、昔の敵がまためぐってきた。


ネオリベラリズムだ。


お前が出てこないレイヤーに私はシフトしたはずだったのだぞ。だいたいややこしいんだよ君は。なぜまたここにいるんだ。


かつて、奴を倒すことはできなかったし、誰にもそれは無理だった。一部、功を奏したのはパロディと、実直な現代思想だろうか、わたしの猫パンチでは、あまりに無力だし、圧倒的に手がかかる。しかし、また巡り合ったのはしょうがない宿敵だ。

 
マイクロクレデンシャルも奴に囚われているのだとあるものがいう。おおよそそのとおり。公的資金を絶たれたアメリカの高等教育機関は、競争原理の中の生存戦略として産業界、シリコンバレーと手を組み、雇用主が求めるスキルを身に付けるような短い講座を多くの場合eラーニング等のスケール可能な手段で提供し、その学習成果としてのマイクロクレデンシャルを付与することにした。それは、学ぶことで最新の市場価値を持つスキルが得られるようでいて、必ずや廃れることが予期できる予定調和のなかに存在する。そのうえ、雇用主が求めるスキルというのは、世の中に変革をもたらす知ではなく、基本的に現状維持機能しかもたない。知は、本来人間を自由にするはずのものだったにもかかわらず。ここで予見される未来は、学べども、学べども、我が暮らし楽にならず、だ。


さらに事態を悪くすることに、マルクス経済学から見れば、クレデンシャルを持つことがブルジョア的価値となり、資本主義を自らの中で生成する終わりなき渇望をもたす。そのうえ、大学などのなんらかの信頼付けのされた権威が発行するのなら、工場労働者が生産手段をもたないごとく、学ぶ手段とその証明を権威ある機関に依存することになる。スキルが廃れるのも、学習が足りないのも、労働者の側に責任が置かれてしまう。Shane J. Ralstonはこうした事柄を含む10つの点で、マイクロクレデンシャルがけしからん理由を述べている。

知識のバラバラ殺人事件

via GIPHY

Shane J. Ralstonの指摘には、大学事務が合理化、効率化を目指す中で、私企業と同じ方策を取ってきたことにあり、その一つがUnbundling(個別に分解すること)、もう一つがサービス化であるとしている。学位より単位よりもさらに小さなまとまりとして、マイクロクレデンシャル発行プログラムを設置するのはまさにunbundlingの現れ。チャンクダウンすること自体になんら問題ないと私は思うのだけれど、教育学、思想的にそれをひも解くと、全体無き部分の提供に自らを格下げしてしまうことにほかならない。

知というもっと複雑で捉えどころのない、産業界で直接的な有益性を示さない、そんな全体性をもった学びをになったはずの高等教育が、急遽、プログラミングブートキャンプ程度だけのものになってしまうとしたら、事件だ。元来マイクロクレデンシャルはスタッカブル(積み上げ可能)なのだが、これが本当にそうだとしたら、実際には積み上げていっても、全体像をもたなくなってしまう。

古い宿敵が難題であるだけでなく、そこに刃向かう剣があの時研ぎそびれたままのものだという点でも辛み。

Leesa WheelahanとGavin Moodieは、高等教育のマイクロクレデンシャルについてバジル・バーンステイン的分析を通して批判していく。フレーミングだとかコーディング(言語コードのほうです)というメディア論っぽい言葉尻が続く中、基本的にはカリキュラム設計上の問題点があげられていく。(クレデンシャルの話なのになぜ?ってなるけどそこにはヒューマンキャピタル~人材は資本です~という考え方を色濃く反映してしまっている点との関係性でひも解かれる)ここでも、atomizationという語で、学習の原子化のことが触れられている点で、先ほどのunbundlingと共通する。


結局、読み進めていくと教育たるものは何かという話になってきて勘弁してもらいたくなるが崇高かつ真っ当な批判。そして教育のナラティブが、非常にネオリベに偏っていて、教育たるものを考える術が判然としないまま語られてしまっている問題を明らかにしている。前述は、カリキュラムやペダゴジーの問題がごっちゃになっていることの問題。

UNESCOのバックグラウンドペーパーは、そこのごっちゃになったものを、真っ向から批判している。そもそも貧困とか失業とかの問題を教育で解決できるというのは誤りで、政治経済上の政策をやったうえで教育を扱うべきならわかるが、政治経済上無策なくせに、教育に解決させようというのがけしからん。その解決策としてマイクロクレデンシャルに目を向けてる流れがけしからん。と。先にもカリキュラム上の問題が言及されていが、こちらでも21世紀スキルとか本質的じゃないんだよ!という突っ込みが入っている。労働市場上の問題が解決されないまま、マイクロクレデンシャルが進むと、資格のインフレがおきる、とまで指摘。そして極めつけは、失業を引き起こしているのはテクノロジーの入れ方の問題であるとし、短期利益追求型の自由主義的な能力主義的資本主義(長い・・・)の中で、技術ある職人をクビにして、その分AIでオートメーションさせるというコストカット手段としてテクノロジーを入れているところが諸悪の根源なのである。(反対に、ドイツでは職人の技能を高める形でのテクノロジーを導入した例があり、技術の進展と市場の在り方は不可避ではない、と捉える)そのくせに、テクノロジー企業が失業や貧困の解決を謳って、教育商材に乗り出すのは、ふざけているぞ、と。なんならイノベーションはシリコンバレーじゃなく、良く調べてみるとアメリカ軍需産業という機関が長期的な取り組みで生んでいるのだし、教育機関を堅牢にしていくことが教育のあるべき姿を高められる、と。え、守り・・・?

これを踏まえてまた、Shane J. Ralstonにもどってくるとこの部分が非常に刺さる。

Technicians often lack a sufficiently wide-ranging or general (Liberal Arts) education to appreciate the limits of their own knowledge—or stated differently, the extent of their own ignorance. Thus, tech entrepreneurs such as Mark Zuckerberg, Elon Musk, and Bill Gates are often too willing to position themselves as authorities in fields where they lack expertise (e.g. concerning world poverty, global climate change and, most recently, epidemiology).

技術が実装できるからといって、リベラルアーツを最後まで学びそびれたこの人たちは、自分の専門外のこともわかると勘違いしている、と心地よいほどざっくり。

21世紀スキルがどのくらいまがい物なのか、ということはさておき(わたしには、一見良さそうに見える)、クレデンシャルがデジタル化され、冒頭のビデオのような世界になる「学習経済」は、直感的に気持ち悪い。


ただし、これらの批判には機械叩きな感じを自認する面もかなり残るので、もう少し落ち着いて考えるべきこととしては

  • マイクロクレデンシャルは、あくまで学位と共存する主旨で、部分的な学位に担えないことを実現するためだけに限定的に利用するはず
  • クレデンシャルがスキルを相互参照可能なものとして実装すれば、偏差値とか学歴を尺度にしてしまっている現状を打破できる可能性も技術的には充分ある
  • 認定の権威や作業のガバナンスがどのように可能か、ウェーバー的ないしはマルクス的に捉えた場合の懸念が、学習認定のオープン化(Opening up validation)をした場合、解消できる可能性について触れられていないし、これは技術的にある程度可能性がある

なんだろう、いったいどうすればよかったんだろう。
Wissenschaft als Beruf(職業としての科学)でウェーバーはこう語っていた。

残された、本質的に増大しつつある要素は、大学での職に独特なものです。つまり、そのような私講師、あるいはなおさら助手が、晴れて正教授の地位かあるいはさらに研究所の長につけるかどうかという問題です。これは単純に運です。もちろん、偶然のみがすべてを支配するわけではありませんが、それでも偶然が尋常ならざる支配力をもつことは確かです。


それも、やだな。 

2021年3月19日金曜日

ミドルウェアはテックから民主主義を取り戻すか

珍しく、Foreign Affairsから。フランシス・フクヤマ(The End of Historyの人)や何人かスタンフォードのグループが、寡占テック産業がどのように民主主義の脅威となるか説明する記事を公開した。 

Foreign Affairs ビッグテックが民主主義を脅す

ビッグテックが民主主義を脅かす―― 情報の独占と操作を阻止するには ――フランシス・フクヤマ  スタンフォード大学 フリーマン・スポグリ国際研究所シニアフェロー バラク・リッチマン  デューク大学法科大学院教授、経営学教授 アシシュ・ゴエル  スタンフォード大学教授(経営科学)...

ここ数年英語圏では、テクノロジー企業が様々なコントロールパワーを持っていることへの批判が増大し、「テックラッシュ(techlash)」と呼ばれるテクノロジー企業の台頭へのバックラッシュを意味する造語が生まれた。同時に、巨大な力を持つプラットフォーム企業はGAFAという四文字となって、GAFAに対する批評がIT専門誌だけでなく、AtlanticやSalonなど現代文芸系の媒体で展開されてきた。こういう流れの中で、フランシス・フクヤマのような著名な政治経済学者が、民主主義の脅威という文脈でテクノロジー企業の寡占とその対策について執筆するのは自然だ。

記事の元となったのは、フランシス・フクヤマらによるスタンフォードの「プラットフォーム・スケール」ワーキンググループのホワイトペーパーだ。

Stanford Cyber Policy Center | Report of the Working Group on Platform Scale

The Program on Democracy and the Internet at Stanford University convened a working group in January 2020 to consider the scale, scope, and power exhibited by the digital platforms, study the potential harms they cause, and, if appropriate, recommend remedial policies....

Foreign Affairsの記事では、アメリカが直面する巨大テック企業がいかに民主主義を脅しているか、その脅威に気づいた規制当局がここ数年になって訴訟を起こしていること、こうした規制の強化は、テクノロジーの進化のペースにあまり効果を持たないこと、イノベーションの余地を残そうと解体してもまた同じようなことが起こること、と既存の取り組みの方向性が不十分であることをわかりやすく示している。これについてはその通りだと思う。

そして提案するのが、「ミドルウェア」なのである。
Image: Francis Fukuyama, Barak Richman, Ashish Goel,Roberta R. Katz, A. Douglas Melamed,Marietje Schaake,"REPORTOF THE WORKING GROUPON PLATFORM SCALE", STANFORD UNIVERSITY



雑に説明すると、プラットフォームとユーザの間にミドルウェアをかましましょう、それによってユーザが主体的に意思決定ができる、ないしはミドルウェアは機能として信頼性の高い情報をラベリングする、などというものだそうである。正直申し上げてシステムの絵としてしっくりこないのだが、ひとまず記事の描くミドルウェアを私の解釈に基づいて説明するとすればつぎのようなものがあると考えられる;

①プラットフォーム企業がミドルウェアを提供する。
ミドルウェアが情報に適切なラベル付けをする(例えば未検証情報のラベルをつけるなど)ことで、ユーザはミドルウェアを通じて信頼度の高い情報を入手できる。

②独立したミドルウェア提供会社がミドルウェアサービスを提供する。
ユーザの志向に合わせて、GAFAのコンテンツの上位に表示されるアイテムの重みを変動させるミドルウェアを提供する。例えば、国産のエコな商品だけを上位に表示させるなど。

③学校や非営利機関がミドルウェアを提供する。
地域の教育委員会が地域の出来事に比重を置いた結果を表示させるミドルウェアを提供するなどの例が考えらる。

①~③のいずれのパターンであっても、実現するうえで満たさなければいけない次のような要件があると考えられている。
  • まず、ミドルウェア提供側が技術的な透明性を持たなければならない。
  • またミドルウェア提供側が巨大な力を持つプラットフォーム上の別レイヤーとならないような仕組みが必要である。 
  • また、政策面ではプラットフォーム企業がAPIを提供するように義務付けなければいけない。 
  • さらに、ミドルウェアの健全な市場競争のために、プラットフォームへのアクセスによってミドルウェアにその収益の一部が入るようにしなければならない。(つまり、GAFAの利益をミドルウェアとシェアする)その共益がまともな関係になるよう政府が監督する。
正直、夢物語のように聞こえる。

この記事への反応をみると、テクノロジーによる民主主義への脅威や寡占問題の本質を詳細に定義していると評価するコメントが目立った。一方で、「ミドルウェア」という技術的な解決策については、あまりコメントがなかった。どうしてゆめっ物語のように聞こえるかというと、かつてミドルウェアのようなサービスがあったような気がするんだけど、GAFAにつぶされたんじゃなかったっけ?

その記憶を少したどってみよう。

そうでした、そんなようなサービスありました。
(ミドルウェアではなくサードパーティでしたが)

記憶①FriendFeed(その後Facebookが買収)
いろんなソーシャルメディアのフィードを一度に見れるサービスだった。Facebookに買収されてサービスは停止した。
@akihitoさんのブログの画像をお借りしています

記憶②Power.com

2008年頃にあったブラジル発のソーシャルメディアのアグリゲーションサービス。プラットフォームを跨ってコミュニケーションできるツールだった。が、著作権侵害等でFacebookに訴えられる。Power.com側はFacebookを外したが、裁判中にサービス終了。

記憶③Meebo(Googleが買収)
いろんなプラットフォームを跨いでチャット・メッセージができたが、のちにGoogleが買収してサービス終了


記事は決してサードパーティーサービスを指しているのではなくミドルウェアを指しているので、この記憶というのは直接記事に疑いをかける論点にはならないが、どうもミドルウェア解決案が腑に落ちない・・・。

記事中のミドルウェアは、オープンAPIのことを指しているのだろうか、と読んでいる最中に思った。しかし、ホワイトペーパーのほうにもオープンAPIによる解決策というような視点は出てこない。あくまで、プラットフォームのAPIを使う、なんらかの主体が提供するミドルウェアのようである。

そこに私はますます困惑。そもそもAPIを義務付けるぐらいなら、一層のこと相互運用性とオープンAPIを義務付ければプラットフォーム企業と共益関係を結ぶミドルウェア企業を制御しなくてもいいのでは・・・。

このあたりの理解を悩んでいたところ、TechdirtのMike Masonicが明確な指摘をツイートしていました。

ちょっと、安心。

フランシスフクヤマの指すのミドルウェアとはちょっと違うけれども、ユーザが選択するというような意味あいでは、元FCCのTom Wheelerが支持するOpen APIの形があるのを思い出した。これ聞いたのけっこう前だぞ・・・。

 

How to Monitor Fake News |Opinion NYT Tom Wheeler

This is true. And one effective form of information-sharing would be legally mandated open application programming interfaces for social media platforms. They would help the public identify what is being delivered by social media algorithms, and thus help protect our democracy...


しかし、Tom Wheelerさん、最近では、プラットフォーム規制監督庁(DPA)をつくるのがよい、というようなことも言っているようである。え・・・。


もう少し、テック企業のモノポリーについて、暗くならないように考えてみたいのだけど、いろいろてんこ盛りなので、次回に。

2020年6月8日月曜日

イタリアとCOVID19陽性接触者アプリ #MoneyLab8 (前半)

スロベニアにある非営利の文化機関であるAksiomaが主催しているMoneyLabというカンファレンスがとても面白いので紹介します。

Aksiomaはクリティカルな視座から新しいメディアアートや倫理等について学際的に研究・実践する取組を行っています。そのプロジェクトの一つであるMoneyLabは「お金」という切り口から社会を根底から考え直すカンファレンスです。今年のMoneyLabは約1か月にわたり毎週バーチャルに開催しているので、毎週リアルタイムに(または事後の動画)を視聴することができます。

MoneyLab #8

SHARE IDEAS, COMMENTS, QUESTIONS 👇🏿 OPEN CHAT IN NEW WINDOW The next appointment with the MoneyLab #8 streaming series is set for Monday, 1 June at 5 PM CET. The panel Care: Solidarity is Disobedience foresees the participation of Tomislav Medak as representative of the Pirate.Care research project, which focuses on autonomous responses to the...


なぜマネーなのか、というと公平な社会をつくり出すためのディスコースとして、欧州では非常にインパクトの強かったタックスヘイブンという社会問題を含みつつ、暗号通貨やキャッシュレス、グローバル金融システムなどについてアーティストや技術者、アクティビストらとともに検討するという目的意識からです。タックスヘイブンの問題は、日本ではスノーデンの暴露と同様に過少に見過ごされてしまった社会的問題のひとつですね・・・。タックスヘイブン問題が欧州で意識されるのは、日頃の文芸・哲学系の研究者のさかんな議論と欧州の芸術・学術研究支援の助成金の成果だと個人的には感じます。いわゆる”ボーダースタディ”という領域があって、以前から国境、境界という概念について議論・検討がなされていたからこそ、パナマ文書がでてきたときに、その哲学的示唆をより深く考察できています。

さて、今回は「データ主権(data soverignty)と接触記録(Proximity Tracing)」をテーマにスロベニアで活動するNGO Citizen DのCEOであるDomen Savičさんが、イタリア南部にいるJeromiの通称で知られるDenis Roioさん(フリーソフトウェアを創造する非営利組織のDYNE.ORGの設立者でEUのDECODEプロジェクトのCTO)へインタビューするもの。Jeromiは開発者でありながら、社会正義や倫理について強い意識を持っていることで知られています。Jeromiの発言が、すごく本質的で私の問題意識をうまく表現してくれているので救われます。

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インタビューが始まるとDomenはこう口火を切ります。
「ジェロミーにぜひ聞きたい。COVID19パンデミック以来、いつパンデミックの世界を救ってくれるアプリが登場するのか、ボタンで解決できるようななんらかの技術、またそういった問題についてどう思われますか?」

//ちょっとある意味でエフゲニー・モロゾフの本CLICK HERE TO SAVE EVERYTHINGを彷彿とさせる 問いですね。

この問いに対してジェロミーは「簡潔に答えるとどんなアプリが現れようとも私たちが現在直面している問題を解決できません。なんでそんな問いから始めるんでしょう」ときっぱり。そして次のように補足します。「まずは問題の定義から始めましょう。今起きていることは、あらゆるやりとり(interaction)において媒介(mediation)が増大していることです。」

媒介(mediation)とその増大というフレームから社会を捉える、というのはまさにメディアコミュニケーション研究の根っこの部分。

「デジタル技術の発展による媒介の増大は、新たなコミュニケーションの形やアートを生み出しています。媒介するということは、人間の表現、思想、コミュニケーションになんらかの第三者※の側面が介入し、場合によっては所謂『ミドルマン』となってそのコミュニケーションに対し盗聴、追加、削除、逸脱することがあります。」
「ほかのメディアのことを思い出してください。例えば電話、メール、写真。それぞれ良い点、悪い点をもたらしました。それぞれが人々の認識をどう変えたか。」

そしてさらに、哲学者ヴィレム・フルッサーの理論を踏まえ、次のようにコメントしています。(本気で理解したいと、ここここが参考になるかと)
「フルッサーが予見したようなテクノイメージの置かれる状況、つまりテクノイメージがリアリティに先行し、テクノイメージがその後を作る、ということは、まさに今我々が困っているフェイクニュース問題に相当すると考えられます。画像や音声の合成(synthesis)によるCovid19にまつわる陰謀論の拡散などは見事にフルッサーの理論が言い当たっているのではないでしょうか。」
「またデータビジュアライゼーションはテクノイメージの創造であると捉えることができるとすれば、データビジュアライゼーションもまた、リアリティを定義し説明するもので、やり様によっては、真実を隠したり明らかにすることになるので、どうデータを使うかが重要。」

さて、ようやく接触アプリの話に移ります。ジェロミーは、接触アプリが果たすべき役割は、あくまで個人が自身のリスクアセスメントをし、それに基づいて意思決定することであるとしています。SARS-COV2は、無症状の潜伏期間が長く、その期間中に接触したことを知ることができれば、個人がよりよい判断(自己隔離をしたり、その期間に接触した友人や家族にリスクを伝える)をすることができる、という前提からです。これに対し、接触アプリの悪い例は、トップダウンで、個人をトラッキングし、リスク評価をされる(リスク評価をするのは個人ではなく、上意下達的にモニタリングする側)ようなケースだとしています。あるべき姿はプライベートなアプリであり、自分に関するデータが他者によって集積され、そのことが自分にはわからないような状態であれば問題のあるアプリになってしまう、と述べています。

2020年5月18日月曜日

自警団とアプリ(自粛ポリス考 その2)

自粛ポリス考その1では、パンデミックによる不安・ストレスと、インターネット利用時間が増えデータ(ニュースやSNSでの情報)との付き合いが多くなっていく中、Web2.0以前から指摘されてきたヘイトやデマの問題に加え、より効率的に最適化された近年のアルゴリズム等によって拍車がかかっていくこと、その背景にる広告ビジネスモデルについて目を向けてみました。

考えてみるとインターネット以前においても、デマとヘイト・人種差別と私刑行為はいつもタッグを組んで厭うべき対象を共有し、排斥行為を繰り返してきました。私刑行為の正当化はほとんどの場合、不安の中、デマや誤情報が拡散されヘイトの対象となるグループにより命の危険にされるとして自身や家族(特に女性や子供)を守るためとして自警団を組織していきます。

銃の所有が容認されている米国ではボランティアでパトロールを行う自警団員が、丸腰の少年を結果的に銃殺してしまったケースがありその背景として世間からは人種差別が指摘されました。さらに古くは検証済みでないデマが発端となり自警団の行動が大量虐殺を引き起こした100年前のケースなど、挙げればきりがありません。ヘイトの被害にあうのは、特定のグループに属する人種に限定されず、実際にはその特定グループ以外の人々も被害が及びます。

'Watchmen' revived it. But the history of the 1921 Tulsa race massacre was nearly lost

The explosive opening in the first episode of HBO's "Watchmen," with citizens of a black Tulsa, Okla., neighborhood being gunned down by white vigilantes, black businesses deliberately burned and even aerial attacks, has brought new attention to the nearly buried history of what the Oklahoma Historical Society calls "the single worst incident of racial violence in American history."

日本においても不安やストレスが強い環境において特定のグループへのヘイトが高まり、ヘイトの対象と同一視され殺害されてしまった歴史もあります。自粛ポリスをインターネットのせいだ、として悪者扱いしても(というかインターネットを相手にしても・・・)何の糸口にもなりません。自粛ポリス考その1で書いたように、サイバースペースの問題と物理世界の問題をそれぞれ別の問題として断絶させてしまう事態が続かないよう包括的なアプローチが必要です。

パンデミックにおけるテクノロジーへのまなざしも分断しています。情報の加工や収集、拡散が容易になったことでインフォデミックが起こり、その原因として予てから指摘されてきたリテラシー教育の不十分さや、プラットフォームの推薦アルゴリズムどを問題視する声も生まれます。一方で、感染拡大の防止にテクノロジーが打開策を提供してくれるだろうとして、データの集積やGPS等に希望を見出すものもいます。

人間の尊い命を奪うウイルスによる未曽有の事態においてテクノロジーとどう向き合い、取り組むべきなのか。このブログでも過去に何度か参照し、テクノロジーの解決主義(Solutionism)批判で知られるEvegeny Morozoffは、今般もガーディアン紙に「パンデミックを”IT政策”で乗り切るのは大間違い」と寄せています。相手が未知のウイルスであっても、教訓となる事柄は充分にあると考えます。同様に過去に参照したユヴァル・ノア・ハラリは「パンデミックよりも恐ろしいのは人間のヘイト、欲、無知」だとし、さらに個人データ収集については「市民への監視が進むのであれば、政府への監視も併せて強めなければならない」と話しています。


私が思い出したのは、過去に国内で議論を巻き起こしたテクノロジーによる浅はかな解決主義に対する批判です。日本のGoogleによるインパクトチャレンジという社会課題解決にICTを使うビジネスコンテストで、あるNPOが起案した「GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」が、ホームレスの当事者支援団体などにより批判を浴びました。突っ込みどころが多すぎるから詳しくは書きませんが、先に触れたパトロールや不安と差別、ヘイトなど様々な問題を含有します。善意が、意図せずこういう方向に向かってしまうのは残念と思うとともに、では何を理解しておくべきだったのか、というと大学の講義で体系だって教わることでもないのかもしれないので、想像しようもなかったのかもと思うと、どのような手立てでこうしたことが防げるのかな、というのが私にとってテーマでもあります。

NPO法人Homedoor「CRIMELESS(GPSによる治安維持とホームレス雇用の両立)事業」への批判

Googleインパクトチャレンジ受賞『CRIMELESS(GPS による治安維持とホームレス雇用の両立)』の問題点 参考:「日本におけるGoogleインパクトチャレンジ」のグランプリを受賞した事業「CRIMELESS」についての意見書 http://lluvia.tea-nifty.com/homelesssogosodan/2015/03/googlecrimeless.html

テクノロジーをどう利用するのか、政治とデータの関係は一層密を極めています。個人がデータの行きつく先について理解せずともテクノロジーの利用は増える一方です。最近ではトランプ陣営が新たなアプリをリリースし話題になっています。これに対し、シンクタンクのTactical Technology Collectiveは、「キャンペーンアプリは同じ考えを持つユーザを集めるので、思想的多様性が避けられてしまい一層フィルターバブルやコンファメーションバイアスを強化するリスクがある.  」と警鐘を鳴らしています。

また最近になって、トランプ陣営が勝利したのは単に他の候補者よりもFacebookに莫大な広告費をかけ、Facebook広告が算出した最適化された広告を活用したことが勝因になったのでは(つまりキャンペーンマネージャーという人間による戦略的に案を練って低コストで最適な効果を得る広告を作るという意思決定ではなく、Facebook広告に内在する計算機が導いた)との分析も改めて注目されています。そして政治的キャンペーン、選挙活動としてトランプ陣営はパンデミックを利用し、憎悪を増幅させるキャンペーンを展開しています。
画像:https://www.anotheracronym.orgによる選挙広告に関する分析記事


 問題は、こうした憎悪は特定のグループに作用するだけでなく、ひいてはそれ以外の人々にも被害をもたらします。パンデミックをもたらしたウイルスを裁いたりリンチしたりできないフラストレーションが、さらなる憎悪や分断を生むなか、過去の教訓に学びながらテクノロジーへのバランスの取れた視座を得ようと試みることが必要なのではないでしょうか。

2020年5月14日木曜日

パンデミック、インフォデミック(自粛ポリス考その1)

緊急事態宣言で外出自粛が続く中、日本では「自粛ポリス」が問題になっています。今回は、自粛ポリス考(その1)として、その背景にある個人情報晒し(Doxxing)やヘイト、誤情報の関係について考えてみたいと思います。

他県ナンバー狩り、ネットで中傷...暴走する"自粛ポリス" | 2ページ目

「自粛警察」の事例 「自粛」とどう向き合うか 感染不安...他人にぶつけてカタルシス  休業要請の有無にかかわらず営業する店舗を非難したり、外出する人々をインターネット上で"告発"したり-。会員制 交流サイト (SNS)で「自粛警察(ポリス)」と呼ばれる動きによって、人権侵害につながるケースも生じている。 ...
自粛ポリスとは、外出や営業をする他者の行動に対してネット上で非難し個人攻撃することによって取り締まろうとする私刑行為と捉えればよいでしょう。今般のパンデミック以前からネット上で気にくわない他者に対して個人情報を晒すなどの嫌がらせをすることで自分の思う正義を果たそうとしてしまうネット私刑が定期的に表面化し問題となってきました。

加速するネットリンチの残酷、住所など個人情報晒しは法律的に「アウト」

10月に発覚した神戸市の教員間いじめ・暴行事件。加害者とされる教員たちの実名はもちろん、住所や家族の名前、職業などがネットで晒されている。個人情報を安易にネット上に書き込んでしまうネットユーザーたちが増えているからだ。しかし、こうした行動の多くは、法律的には「アウト」である。(フリージャーナリスト 秋山謙一郎) ...
こうしたネット私刑の問題は今に始まったことでもなければ、日本人特有の問題ではありません。ネットでの個人情報を晒す行為は、英語で"dox"と呼ばれています。情報を専門的に扱うプロフェッショナルである記者を囲うニューヨークタイムズは、情報セキュリティ研修の一環としてdoxxingの慣行から記者を守る方法を教え、その教材を公開しています。

How to Dox Yourself on the Internet

By Kristen Kozinski and Neena Kapur No one wants their home address on the internet. That is personal information we typically only give out to friends, family and maybe our favorite online stores. Yet, for many of us, that information is available and accessible to anyone with an internet connection.
ネット中傷の歴史を遡れば、1999年のスマイリーキクチ中傷被害事件も有名です。これには、ネットでの個人への行き過ぎた中傷とデマが横行することで相乗的に悪い影響をもたらした事例ですが、近年はSNSの特定のユーザにはより好ましい情報だけを提供するようなアルゴリズムなどがより効果的に作用しフィルターバブルを作ることでサイバーカスケードが一層起こりやすくなり、フェイクニュース問題が生まれ、世界的にデマや意見の先鋭化の温床となっています。

COVID19のパンデミックに際しては、感染症に加えて誤情報が蔓延する危機的な事態「インフォデミック」への懸念から、誤情報への対策が声高に叫ばれてきましたが、誤情報対策だけではなく「ヘイト」対策の視点が重要だと私は思います。

今のような形のSNSが一般化する以前、ヘイトの拡散に影響力を持つ主体はマスメディアで、日本は国連自主差別撤廃委員会から2010年の勧告(日本語PDF)で次のような指摘を受けていました。

26.人権相談窓ロの設置や人権教育や促進など締約国によってとられた人種的偏見をなくすための措置に留意しながら、委員会はメディアに関して、そしてテレビやラジオ番組への人権の取リ込みに関して具体的な情報が欠如していることに懸念をもち続ける(第7条)。 委員会は締約国が、人種差別撤廃を目的として、寛容および尊重の教育目的を取り入れながら、日本国籍者および非日本国籍者双方の社会的に弱い立場にある集団に関する問題が、適切にメディアで表現されることを保障する公教育および啓発キャンペーンを強化するよう勧告する。委員会はまた、締約国が、人権教育の向上におけるメディアの役割に特に注意を払い、メディアや報道における人種差別につながる人種的偏見に対する措置を強化することを勧告する。加えて、ジヤーナリストやメディア部門で働く人びとに人種差別に関する意識を向上させるための教育および研修を勧告する。
またインターネット上のヘイトに関連する事項では
13.締約国が提供した説明に留意しつつも、委員会は条約第4条(a)(b)の留保を懸念する。委員会はまた、韓国・朝鮮学校に通う子どもたちなどの集団に向けられる露骨で粗野な発言と行動の相次ぐ事件と、特に部落民に向けられたインターネット上の有害で人種差別的な表現と攻撃に懸念をもって留意する。
この勧告と事態の発展からその後2014年以降の日本のヘイトスピーチ規制への流れへ向かっていきます。この時点ではヘイトスピーチ規制はあくまでエスニックマイノリティなど特定の集団を攻撃から保護・救済するというような受け取られ方が中心的だったように思いますが、もっと本質的な懸念は、この特定の集団というのがいつ自分の所属する集団と同義になるやもしれない、という点です。定義としてヘイトスピーチやヘイトクライムは弱い立場にある特定集団に限定されていますが、ヘイト行そのものが拡散する原理は、ヘイトの対象に限らず同じ環境にあります。かつてインターネット上の問題はインターネット上の問題(としてとどまる)、と捉えられていた時期がありましたが、Web2.0以降から徐々にシフトし、それは現実社会にも害をもたらすので合算して取り組まなければいけない(つまりインターネットの安心安全を扱うものと、例えば実際の人権問題を扱うもの、とが合同で取り組まなければならない課題)という課題意識が共有されてきています。それでも、取り組む当局および市民社会の体制としてはその二者がいまだ断絶しているケースも少なくないように感じられます。

前置きが恐ろしく長くなりましたが、今回の自粛ポリス、というのもデマとヘイトが手を結んで大きな力をネットから飛び出して現実社会へ影響をもたらしてきている延長です。かつてメディアではヘイトの拡散の防止の措置として、記者やメディアで働く人々への教育や研修が有効な手段として提言されていたという過去を振り返ることができます。このことは、誰でも情報発信できるようになった今、ネットメディアやユーザへの教育に期待されるものと捉えられます。

さらにメディア批評の過去を振り返ると、専門集団であってもマスコミが誤報や中傷を拡散してしまった経緯としてそのビジネスモデルや構造が指摘されていました。商業メディアにとってはセンセーショナルであればウケる、感情的で扇動的であれば部数が伸びる、視聴率を武器に広告収入を得る、スクープをとれば賞をもらえたり昇進できる、というような点です。こうした構造的な問題は、広義での広告収入で成り立つネットメディアも引き継いでいます。ではこれについてどうすればいいのか。

センセーショナルであることで知られるイギリスのタブロイド紙が流布するヘイトに対抗しようと2016年に始まったキャンペーンの母体となるStop Funding Hateは、デジタル広告を出稿する企業が道徳的に広告出稿先を選ぶべき、と取り組んでいます。具体的には、タブロイド紙のヘイト記事のモニタリングや、ヘイトを増幅させるような見出し(いわゆるクリックベイト clickbait)をつける媒体へ広告を出す企業への抗議や不買運動のような取組です。下記のリンクでは、今回のパンデミックにおいてもタブロイド紙が、移民や特定の宗教を信じる人々に対して誤った情報からセンセーショナルな記事を誤報発覚後も掲載し続け広告収入を得てていることや、恐怖や不安に取り組んで陰謀論を展開するYoutube動画が広告収入を得ていることなどを指摘しています。この取組の興味深い点は、一般に誤情報やヘイトの拡散の問題についてはSNSなどのプラットフォームが原因として注視されがちであるのに対し、Stop Funding Hateは、原因追及の矛先をプラットフォームではなく広告(または広告主)に向けているという点です。そして、ユーザが自分の好きな企業の広告が危うい誤情報記事に掲載されていたのなら、広告主に知らせてあげましょう、と呼び掛けています。

The drive for clicks: The coronavirus, misinformation and digital advertising

Online media and digital advertising go hand in hand. Media companies need advertising to make money, so they write articles that get as many clicks as possible. This often means sensationalism, the use of fear and, sometimes, using hate. And sadly, this doesn't change in times of a global pandemic.

ただネット広告の仕組みは多くの場合、技術的に非常に複雑・高度で、具体的にどのようなコンテンツに広告が掲載されるか広告主には自明ではありません(たとえばRTB)。だから、Stop Funding Hateがいくら広告主に知らせたところで「広告主が目視で選別したわけじゃない、そういうアドテクだから仕方がない」と言われればそこまでのような気もします。おそらく媒体のモニタリング活動と併せて行うことで、特定のタブロイド紙には広告出すな、とし、こうした意識を広めることで、媒体そのものが利益のためにはヘイトや偏見を流布しないほうがよい(そうしないと広告が入らない)、と判断してくれる旗振りしていくことは(頑張れば)できるでしょうが、アドネットワークの仕組みを考えるとずいぶん限定的な効果しかもたらさないような気もします。(というかユーザ側もそういうネット広告はスキップ、スクロールしちゃうからなんの広告が出てたか記憶さえしてなよね?!レイバンくらい!?あとコメントボックスとかでヘイトが展開されたらそれも?)

余談ですが広告の話になってきて、なんだかぶり返すものがありますよね。―漫画村です。

「望んで広告を出しているものではない」 海賊サイト広告問題、出稿していた大手企業の言い分は

海賊版サイトの主な資金源となっていた「広告主」が問題になっている件で、ねとらぼ編集部は海賊版動画サイト「MioMio」に広告を表示していた企業に取材しました。なお取材との関連性は不明ですが、編集部が取材した翌日、当該部分の広告枠が削除されたのを確認しています(また時を同じくして、動画の再生ページ自体も削除され、現在は動画が見られない状態となってます)。 ...

誤情報の拡散を断ち切るには、なんらかの法律でもって当局による規制をするか、業界団体などによる自主規定(そういえばその後どうなったのかな)、媒体やプラットフォーム企業が自らを律する、もしくは一般ユーザの教育啓蒙などが常套手段のようですが、今回パンデミックに際しては、ネットの問題と実際社会で起きていることをあわせて考える必要があることをより一層明らかにしているように思います。

自粛ポリスのような過剰な個人攻撃が増えたり、炎上案件がでてきたりするのには、パンデミックの影響で人との接点が減り、ネットを利用する機会や時間が急激に増え、パンデミックの不安やストレスを抱え、やり場のない気持ちを、ネットで得た正しくない情報やな知識を根拠に、自分より非難されるのが妥当であると考える相手に向けてしまっていることがあります。逆に言えば、パンデミック以前にヘイトクライムやネットの言説を真に受けて犯罪手前に向かってしまった人たちは、そういう環境にあった。たとえ、規制をしていってクリーンなインターネットを一時的につくったとしても、現実世界に救いがなく荒れたままなら、いたちごっこのような気がします。(なんだかヒップホップVSアメリカ論争を思い出しませんか?)

ネットの利用時間が増えることで増大する不安については、データデトックスを普及させることが有効ですが、それにしても、メディアとしての問題から一歩(や、もっと?)外に出て、悪者探しに怒り嫌悪を抱くというような時代の精神性を見つめていかなければいけないのかもしれません。

自粛ポリス考(その2)は、自粛ポリスについてアメリカの自警団、アプリによる政治キャンペーンについて参考に考えてみたいと思います。