コミュニケーションと社会変革との関係について取り上げるカンファレンス「Frank」(主催:フロリダ大学のCollege of Journalism and Communications)にて、misinformation
をテーマに新書を出す予定の Brian Southwellが10分程度の講演をしています。
Brian Southwell: “Why misinformation happens and what we can do about it”
Note to Self "Zapping Your Brain to Bliss" 2017年3月1日
Note to Selfの番組ホストは、THYNCを装着し、電流をかけられ、効能が浸透するあいだ建物をすこし散歩し、実験室に戻ってくると、まるで大麻でリラックスしきったようなトーンで、笑いながらいつもと明らかにちがう様子でTHYNC代表と会話します。中毒性があるかどうかはわかりませんが、録音されたホストの様子の変わりようは、放送禁止用語を連発し、「どうでもよくなっちゃった」と話すなど、まるでドラッグ服用中の人みたいです。
同様に商品を宣伝する語り口も重なります。Wall Street JournalのTHYNCを紹介するビデオでは、コーヒーを飲むよりもTHYNCを使うほうが「モダンな方法である」と語っています。かつて電気治療のいかさま品が信じられたのも当時「電気」が「モダン」であるという語り口で信仰を広げていったことが「気分はサイボーグ」のなかでも述べられており、今後人間が内的な変化を求め実施していく上で、かつての語り口と同様のことが起きていることは、効能の是非とは別に注目しておくべきことでしょう。
わたしがPlatform Cooperativismを知るきっかけとなったのはもっぱら、Digital Labor(デジタルな労働)と総称されるデジタルな経済における労働の問題点について議論である。代表的なのはTrebor Scholz。さらにメディア理論家ながらその土台となるエコノミーの本質に目を向けThrowing Rocks at Google Busを著したDouglas Rushkoffらの論者。
Life.Inc.から6年経ってThrowing Rocks at the Google BusでRushkoffは、誰か特定の企業が悪いというわけではなく、この経済をまわしているオペレーティングシステムに問題がある、と指摘している。つまり通勤バスに怒りをとばしてもどうにもなんない、ということでこの講演の動画がわかりやすい。結局ルネサンスというのは活版印刷の世界なんだよね。
厭われていたのが、ありがとうと言われるように
番組はまもなくテレビへ移行して「Candid Camera」というタイトルに変わるが、一部の視聴者からかなりの反感を買ってしまう。人の生活にヌケヌケと入ってきて、図々しくスパイする悪しきものだと酷評されるのだ。ある時アレンは、カメラが回っている間に仕掛けられたターゲットに対してドッキリであることを明かすと、その人がさっきまでの怒りを消して笑顔になることに気づき、ネタ晴らしが番組のハイライトに変わっていき、視聴者の反応も変わる。アレンはもはや厭われる相手ではなく、はめてくれてありがとうと言われるようになった。番組のテーマ曲はこう歌う。
「まったく予想してなかったときに、あなたが選ばれたの。今日のスターはあなた。スマイル!笑って!だってあなたは今番組に出ているんだから~♪」 僕は仕掛け人じゃない、本当の事件なんだ--No use in crying wolf, towards "candid" reality
ポッドキャストの一番面白かった部分はここ。アレンとその家族が登場している飛行機がなんとハイジャックされる。機長が行先をキューバに変えたことをアナウンスすると、乗客は凍り付く。しかししばらくすると一人のおばさんが、アレンが乗っていることに気づく。もしかしてこれは・・・ひとり考え込むおばさん。しばらくすると起立してシーンとした空間にこう言い放つ。「ハイジャックなんてされてないわ!見て、あそこにアレンファントがいる!ドッキリなのよこれは!」 気づかされた乗客たちは笑い転げ、一部にはシャンパンを開け始めている。自分が仕掛けたつもりはないアレンはぞっとし、近くに乗っていた聖教者に迫る。「助けてくれ、おれは仕掛けてなんかいない!」しかし聖職者は「な~に、その手には騙されないぞ!笑」と答え、アレンの要求は軽々しくはじかれてしまう。彼は自分の成功が、自分自身を罠にはめてしまったような感覚に陥る。仕掛けと現実が交差し人々にその境界線がわからなくなってしまった。(最後にリアルに起きたオチがポッドキャストで紹介されているので、そこは端折って、要約はここまでとします)
Free Basicsの導入先となっていたインドについて、かなり雑(ごめんなさい)ですがまとめておきます。
まず、2015年春ごろ、インド電気通信規制庁TRAI(米FCCとか日本の総務省みたいなところ)が、ネット規制について検討する協議書を出したところがきっかけとなって、ネットの中立性についてインドでの議論が盛んになった。この協議書には、例えばSkypeやWhatsAppなどのIMサービスや、AmazonのようなECに代表されるようなOver-the-Topサービスと呼ばれるものについて、規制をすべきかどうか検討していて、そのなかで、ネットの中立性について触れられていた。これはまずい、と思った人たちがSave the Internetというキャンペーンを展開。
ネット中立性の話をしたいんじゃなくてレトリックの話をしたくて書きはじめたがやっとここにきてそれができそうだ。今回、まず注目したいのはAtlanticの記事「Facebook and the New Colonialism」。記事では、Facebookの役員でベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンがツイートでFree Basicsを禁止するのは「倫理的に間違っている」と書き込み、さらに「植民地主義に反対することが、長年にわたってインドの人々を経済的崩壊においやってきた。今さらなに?」と書いた。これらのツイートはすでに削除されているけれど、どういうマインドセットで世界をみているかがちょっとバレている。
さらに、ネット中立性と鉄道の議論に、忘れてはならないのがアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」だと思う。だって鉄道がでてくるし、そのうえAdam CurtisがドキュメンタリーAll Watched Over by Machine of Loving Graceのエピソード1のなかでコンピュータネットワーク、シリコンバレーについて捉える前提となる要素のひとつとしてのランドの影響力についてかなり触れている。
■FOMOからJOMOへ。 http://www.wnyc.org/story/fomo-jomo/
上で紹介した「情報過多」について話す時に、使われるよく使われる英単語がFOMOだ。FOMOとはFear Of Missing Out(見逃すことの恐れ)。あなたも今週は一回くらい、どこかで、SMAP解散騒動に関する何らかの記事や、ベッキーとゲスの極みに関する何らかのコラムを読んだことだろう。(私は読まなかったし、テレビもないので、正直なんだかさっぱりだし、知らなくていいや)そして、職場や友人とそれらのトピックについて参照したおしゃべりを少なくとも一回は耳にしただろう。知らないとヤバイ、仲間はずれにされたくない、損した気分になりたくない、そんな気持ちがFear of Missing Outだ。このFOMOという言葉を生み出したメイカーベースの創設者、Anil Dashは、見逃すことを楽しめ!とJOMO(Joy Of Missing Out)を提唱。FOMOを生み出すようなプログラム、ソフトウェア、テック企業の文化背景などについても触れています。(ネット黎明期はそんなんじゃなかったって!)
ところで計るという行為と優性思想を考えたときに、私が思い出すのはベルギーの植民地であったルワンダで起きたジェノサイドである。学生のころ文化人類学の権威(と同じ苗字!)の講義を受けられる!とわくわくして聞きにいくと、ツチ族とフツ族の対立について少数派と多数派の文脈で語られるのみであったが、そののちにルワンダ虐殺についての映画作品「Sometimes in April」を見て、その背景のおぞましさを改めて思い知らされた。入植者が、鼻の高さで現地の人々をツチ族とフツ族に種別分けしたのだった。そして携帯を義務付けられている身分証に計測に基づき、いずれに属すか記されている。それがどちらかであるか、というもののみが登場人物たちの生死を分かつことになる。