2015年9月3日木曜日

シェアリングエコノミーの力関係と分け前

ソーシャルメディア疲れでほとんどインターネットに嫌気がさしていた2014年末に、偶然耳にしてすぐファンになったポッドキャストがある。「Benjamen Walker's Theory of Everything」というフィクションとノンフィクションを織り交ぜたスタイルの番組だ。最初に聞いたのは広告にあふれたFacebookへの皮肉にみちたシリーズ「Dislike Club」だった。創作だと思われる物語の部分と、インターネット批評家や先駆者のインタビューが巧妙に織り交ぜられていて、とても面白い。皮肉を交えてFacebook風に言うならば、ナオミ・クラインのNo Logoに「いいね!」している人と、非営利メディアに「いいね!」している方におすすめだ。

そんなBenjamen Walkerが新たにテーマとして取り上げたのは「共有経済(Sharing Economy)」。車を相乗りしたり、空き部屋を貸したり…インターネット上のサービスなどを活用して余った資源を活用して生まれる経済圏で、欧米のサービスが注目を集めている。日本語で「共有経済」について検索してみると、21世紀らしいアプリやソーシャルメディアを通じた共有経済のビジネスモデルのきらびやかな革新性に焦点をあてているものがほとんどで、批評はあまり目に付かない。

状況はアメリカでも同じようで、シェアリングエコノミー系スタートアップ企業についての記事は概ねインターフェイスがどうすばらしいか、ユーザにとってどんな利点があるかといったポジティブな内容が目に付きやすい一方、シェアリングエコノミーの担い手となる人々についてはあまり焦点が当たらない。例えば車両やその駐車場、従業員としての運転手といった仕組みでタクシー会社を運営するよりも、一定基準を満たした自家用車をつかって空いている時間にアプリを介してお客を見つけ、その乗車賃の歩合で売り上げを立てるUberのほうが効率的だというのは誰もが感じるところでだろう。しかし、タクシー業界がUberやLyftなどの台頭で先行かなくなった社会はどんな様子なのか、番組ではまさにそれが現実になったサンフランシスコでインターンが調査を報告している。

3回にわたり共有経済の担い手を潜入ルポしたシリーズ「Instaserfs」は意図的に奇妙な構成になっている。プロデューサーのベンジャミンは自分で調査しようとせず、サンフランシスコ在住のインターン、アンドリューに代行させ、報告させるのだ。予算も意思決定権ももっているプロデューサーのベンジャミンに対し、インターンのアンドリューは明らかに選択肢が少ない立場にあるが、ベンジャミンはアンドリューに対し「パートナー」と呼びかける。これは番組の仕組みそのものを共有経済仕立てにして、その力学を見つめようという体裁をとっている。アンドリューは一ヶ月間、共有経済モデルのアプリを使って生活し、必要な稼ぎもこれらの共有型経済から捻出する。アンドリューは、買い物代行や洗濯代行、交通系、宅配などさまざまなアプリをダウンロードし、これらの共有経済から小遣いを稼ぐ。

シリーズを通して聞いたところ(皮肉にもポッドキャストを聞いたのはスタートアップ企業の集まるカリフォルニアのサニーベールを旅行中、バスや電車の中だった)アンドリューの小遣い稼ぎは共有経済の二つの大きな特徴を示していると感た。一つは、新しい労働の形(労働者でないから保護がない)、もう一つは、機能(役割)を重視し人間性を貶する傾向だ。以下、自分なりににまとめてみる。

1.小遣い稼ぎは、決して労働ではない 

空いた時間に稼げる、自由で新しい働き方として注目されているシェアリングエコノミーだが、ひとたびその担い手に焦点を当ててみると様々な影が見えてくる。労働者であれば保護されていることが保護されず、例えば運転を代行して事故にあったときの保険をUberが保証するわけではない。また、急に買い物代行の依頼がこなくなって仕事にあぶれてもアプリ運営会社が雇用機会を保証するわけでもない。

2.アプリは司令塔、命令は一方向、中の人には会えない 

余分な接触を避けることで、小遣い稼ぎをしている人とお客さんがトラブルにならないよう様々なルールが設けられていることをアンドリューが伝えている。買い物代行については、ドアの前において顔もあわせるなというものも。こうした体験を通じアンドリューは非人間的だ(dehumanizing)と語っている。運営会社としては顧客が依頼していることだけをやってほしいのであって、その業務をする人がどんな人間性であるかというのは関係がない、という構造がそうさせているのだろうか。
またアプリやSMSで仕事を引き受ける時、何か問題があればサポートセンターのようなところに連絡をすることができる場合もあるが、ほとんどは受動的なものでUberを介して働いているからといって運営会社の人と直接今後のUberの改善について会議をするような機会は設けられないうえ、配達業務であれば商品を買って顧客に届ける間中ずっと顧客と運営会社にその行動をGPSなどを通じて監視され、最後には顧客が一方的に評価(rating)をする。

//ところで、シリーズの最後にアンドリューは「Manserve」というお姫様(顧客)に仕える執事代行のようなサービスで小遣い稼ぎをします。どこまでがノンフィクションかわからない部分がありますが、ベンジャミンとの問答が笑えます。


このシリーズは大変な反響を呼び、共有経済について再検討すべきとのメッセージに呼応する記事が次々と投稿された。たとえば、メリーランド大学の教授(法学)によるこの記事など。(番組の面白さについて語れる仲間が少ないと感じていたので、反響をみて話し相手がいるかも、という希望が生まれた!でももっと気軽な相手だといいのですが…)

共有経済の影に注目したニュースは増えつつある。8月26日、Airbnbのアジアの宿主として首位であったkelly Kampenのアカウントが急遽、何の説明もなく差し止められたことで議論を呼んでいる。過去2年間に700人が泊まり、40,000ドルの純益を上げているKellyにとって突然のアカウント差し止めは死活問題だ。

また共有経済の担い手が訴訟を起こすケースもあり、つい先日(2015年9月1日)サンフランシスコの地方裁判所判事が、Uberの運転手を独立請負人(independent contractor)ではなく雇用者(employee)として扱うよう求める訴訟を集団訴訟として認めた。Uberは何度も規約を変更しており、最近のものは運転手がUberに対し訴えることができない条項を含んでいるそうだが、Uberが各運転手を等しく独立請負人として扱っていることで、運転手たちが集団訴訟を起こすことは可能だと判事が認めたようだ。(裁判の日程は決まっていないので、今後注目)

いずれの出来事も、「共有経済」におけるパワーバランスに問題があることを示唆している。「シェアリングエコノミー」という呼び名についてアンドリューは「俺だったらピラミッドスキーム経済と呼びたい」と番組の中で話している。共有というと何だかバランスのとれた対等関係な印象があるが、「パートナー」と言われながらもむしりとられるだけな気持ちを番組全体で表象しているようでもある。
9月2日に公開された矢野経済研究所の調査によると、日本では2020年の東京オリンピックに向けて国家戦略特区での個人宅での宿泊が規制緩和されるほか、外国人観光客がUberのような乗り物系シェアリングエコノミーサービスを利用する機会が増える展望にある。新しい働き方や経済の仕組みにこれから勢いをつけようとするのなら、先達の絶えてきた批判の復習くらいはしておいて欲しいと思う。

2014年11月30日日曜日

#DL14 デジタル労働関連

インターネットやテクノロジーにより「イノベーションのコストが下がった」というすばらしいストーリーを耳にすることは多い。そうだ、「今だってロゴとかだってさ、ネットで頼んだら5000円とか1万円でやってくれるよね? ルーマニア人とかがさ。」とIT実業家が言ってもへっちゃらなくらいだ。

日本でも、ネットメディアの台頭を称えるかのようにしてHuffington Post日本版が始まり、無料で使える様々なソーシャルメディアツールの活用が重要視されるような機運がここ数年続いているが、内在する無賃労働や富の還元についてはほとんどといって語られていない。

ピンと来ない方のために過去の英語圏の議論を振り返ってみよう。インターネット上でブログやコメントなどを好きで寄稿しているユーザーのコンテンツは、プラットフォームにとっての広告などの歳入に摩り替わり、そこにユーザーへが寄与した対価が戻る仕組みはない。こうした無賃のものから、クラウドソースなどインターネットを通じて生まれたデジタルな労働について「デジタル労働」と総称される。Huffington Postへの批判は、ご存知の方も多いと思うが、アリアナハフィントンのハフィントンポスト創設の意思に個人的に応援したいと思った人たちが、ブログ記事を寄稿しそのコンテンツのおかげである日彼女のサイトはAOLに買収されることになるわけだが、労働運動家のジョナサン・タシニ氏は自身を含む、9000人ものハフポブロガーは買収額の三分の一である1億500万ドルの分け前の支払いを受けるべきだとしてして2011年4月に訴えを起こしている。この訴えは退かれてしまったが、物書きやブロガーにとって善意でのデジタルな寄稿への対価を考える大きなきかっけになっている。

ブログに限らず、もっと細かな単位でのユーザーが送信しているビットも、ちりつもでプラットフォームの広告収入に取って代わる。FacebookやTwitterといった無料で使えるサービスの裏には、個人情報やユーザーコンテンツがマーケティング目的に利用されることでサービス事業者が巨額の富を得られるようになっている。

最近のFacebookの利用規約の変更を受け、英語圏を中心に私はすべてのコンテンツについてFacebookが利用することを禁ず」といった旨のコメントをウォールに投稿しているのを見たことがあるかもしれません。この行為は無意味で、ユーザーはFacebook登録時にすべての知的財産権がFacebookにあることに同意しているのだけれども、具体的に読むと本当に残念な内容になっている。ツイッターも効果的な広告のターゲティングのために、インストールされているアプリをトラッキングするようになった。(これは設定で変えられる

前置きが長くなってしまったが、あなたの送信しているデータがプラットフォームの広告収入になるなど、インターネットを通じて変化している情報の流れが、新たな財を生んでいること、労働市場や労働環境が変化しているを踏まえた労働論というのが昨今必要とされているのだ。

11月14日から16日までNew Schoolで開かれたデジタル労働のカンファレンスでは、シェアリングエコノミーと新たな労働環境について精力的に紐解いています。

Sara Horowitz on the Freelance Economy I The New School

Digital Labor 2014(#DL14)の講演はここ

Algorithmic Hegemony & the Droning of Labor | Digital Labor: Sweatshops, Picket Lines, Barricades

 

デジタルな労働について本気で調べようと思うと、鉄道ができたころの労働組合とか、産業革命、工場労働の後に勝ち取られた8時間労働といった、労働運動の基礎のところもカバーして理解していかなければいけないので知識としてかなり膨大になってくる、これはさすがに自分の領域じゃないなというのがあって、しかもそこに、ネットワーク後の働き方がどうなってきているかという理解を重ねていかなければいけないので、自分の主たるテーマとして捉えたり扱ったりするには無理があるなあ、と自覚しています。ただデジタルな社会のトピックの一つとしてその系譜とか現状の議論とかはさすがにちゃんと知っておきたいものだと思います。日本語圏では学問として労働を扱う人たちのなかでデジタルな労働について目を向けているものはわたしの探し方がわるいかもしれないけど見当たらないので、今後もすぐにだれかその道の人が強化してくれるとは思えないから、ちょっとずつ自分なりに地道に蓄えていこうと思っています。

副業を持たないとやっていけない、というようなライフスタイルは2000年代半ばのアメリカではすでに意識されるようになっていて、(たとえば当時話題になったウェブ動画「Story of Stuff」のなかでは持続可能性という視点から消費と仕事を掛け持ちすることについて触れている)、フリーランスユニオンみたいなのができていったり、学問としての労働運動が強いドイツなどをはじめヨーロッパでAmazonのメカニカルタークが批判されるようになり、さらにすすんでSharing Economyにおける労働とは言い難い新しい形の労働をどう捉えていくか、議論がさかんいなっていったという印象がある。だからデジタルな労働についての議論をちゃんと扱っているのはアメリカ、ドイツのまだまだごく一部ではあって日本もこれから、だと信じたい。

労働史的なところと、Web2.0とを併せてちゃんと紐解いている総論的な資料としてはダナ・ボイドら執筆のUnderstanding Fair Labor Practices in a Networked Ageが先月でていて、とても参考になる。

※この投稿は2014年11月に書きかけで保存したままだったものを2017年に下書きから公開に設定変更しました。

2014年11月26日水曜日

インターネットアンガバナンスフォーラムが言い張りたいこと

外因的なものを使って環境に合わせる,という定義に則れば、私たちはもはやサイボーグと言える、とAmber Caseが TEDでスピーチしたのは2010年のことだった。


いつでもスマートフォンを手放せない我々にとって、インターネットは[『常時接続(always on)状態』だしかし、情報があふれるオンライン環境で昨今話題になることといえば、漏洩、監視、規制・・・。こうした問題山積のインターネットに対し、民主的なてこ入れでWW本来のもたらす自由やオープン性を保とうとするのが、インターネットガバナンスフォーラム(通称IGF)と呼ばれるマルチステークホールダーMSH)式の会議だ。IGFは、インターネットに関わる多様な利害関係者を議論の席に付け、ネット政策に関する国際的な議論をする場所となっているが、誰がその主導権を握るのかという点では、ほかの政治的国際会議と似たような装いを持ちつつある。というのも、インターネットのルールづくり最も関わるドメインを管理するのはアメリカを拠点としている非営利組織のICANNであるからだ。


2014年4月ブラジルで行なわれたNet Mundialでは、さもなければ一極支配的なインターネットガバナンスを分散的にしようと、ブラジル議会は会議開催前に「インターネットのマグナ・カルタ」だと呼び声の高い「Marco Civil」を可決している。


しかし、それでは全然足りない。このままではインターネットが「私たちの欲しいインターネット」(The Web We Want)とは違うという声も広がる最中、2014年9月にトルコで開催されたIGFに対抗するかのように開かれたのが「Internet Ungovernance Forum」である。企業による監視(つまり、アップルやグーグルの製品やサービスが利用者の情報をキャッチし続けるような設計になっていること)に反対し、独自のテクノロジーで利用者の情報をキャッチしないようなモバイル端末の開発を行なうind.ieのAral BalkanはIGF開催中にツイッターでこう話している。「まったく、グーグルのヴィントン・サーフはIGFのセッションにパネルとして何回登場するんだ。インターネットアンガバナンスフォーラムが提案したセッションは全然通してくれなかったのに」


インターネットアンガバナンスフォーラムのIGFに対し、こう書いている
「インターネットの問題のなかで、最も早急に解決されるべき最大の問題はIGFの存在そのものである。マルチステークホールダー主義は、政府と企業体の声を必要以上に大きくしている。こうした状況に対し、市民社会、活動家や一般の人が声をあげることのできるスペースを作るため、イニシアティブをとった」
つまり、本来なら大多数を占めている一般ユーザーの声よりも、政府と企業がとりわけルール作りの主導権を持っているということに憤りを感じているのだ。なんだか聞いたことのある話だと思うのも無理無い。主要8カ国サミット(G8)への反対運動で言われる「G8は世界人口の14パーセント程度なのに、経済的力を背景に、多国籍企業の方を持ち、さらなるグローバリゼーションにより不均衡を世界にもたらしている」という言葉と問題の根源は類似しているようだ。


トルコでこうしたイニシアティブが始まったのには、いくつか背景があると考えられる。世界的にもエドワード・スノーデンの暴露を英雄視するような時代の流れがあったり、WWW25周年を向かえ改めてインターネットのあり方に注目も集まった。また、2013年トルコ反政府デモではツイッターやFacebookを使ったデモの呼びかけに対し、政府が利用制限をするようなケースや、ツイッターでの発言で逮捕者が出るようなケースがあり、ソーシャルメディアが一般的に利用される一方、政府の裁量で情報の自由が滞る事態が発生し、反感を買った。ただでさえ、報道の自由度も低く、報道の自由世界ランキングでは154位(ちなみに日本は2013年53位)という情勢も、インターネットの自由への切望と駆り立てているかもしれない。


しかし、こういった状況はトルコ特有だとは言い切れない。同フォーラムのブックレットには、トルコのインターネットの現状や問題がいくつか挙げられている。その中には、「ネット上のヘイトに関するディスコース」と題した章があり、選挙期間中のデマアカウント、隣国に関係する民族対立をあおるようなコメントがインターネットと政府間両方で悪影響を及ぼしている模様が詳細に記されている。日本も、ネット上の差別発言やヘイトスピーチについては国連の人権委員会で注意喚起を受けている(2010年)から、他人事ではない。ほかにも、「新しいメディアに対するリテラシー教育の欠如」という章もあり、日本の情報リテラシー教育を想起する。トルコと大きく違う点といえば、日本はこうした問題点をひと揃えにして表面化させるような取り組みが無いというところだろうか。


Internet Ungovernance Forumでは「対処すべき分断」として次の3つを課題として取り上げている。
  1. オンラインとオフラインを区切って考えることには限界があり、デジタルな人権を求めるだけでは不十分である。根本的な権利と正義を求める。
  2. インターネットはその他のインフラと関係しており、つまるところ、インターネットは環境活動家にとっての種であり、都市活動家にとっての公共空間と同義である。政府や独占企業に対し、我々の権利を取り戻そうと闘争とともにある。
  3. 技術開発者と、政策決定者の間には分断が存在し、互いに不満を持つことが往々にしてあるが、どっちもどっちだ。単なる制度変更やアプリ開発といった解決主義(solutionism)のいずれでも不十分だ。人民にとってのインターネットをつくるために、何ができるかという問い正すべき。
オンラインとオフラインを区別せず、包括的な権利を求めるというのも、誰もがサイボーグである時代には自然であろう。また、「解決主義」(solutionism)に対す批判については、著書「To Save Everything Click Here」で何でもテクノロジーで解決しようするシリコンバレーに冷ややかな目を向けるEvgeny Morozovも同様に指摘している。脱中心主義的なインターネットを求めるのなら、今は軌道修正の最後のチャンスかもしれない。

ここ数年、IGFで「市民社会の不在」や「誰をもって市民社会というのか」といった懸念が目立ってきた中、草の根の視点での言い分(Internet Ungovernance Forumでに関わった人たちの多くは、もともとIGFにセッションを提案していたのだが、通らなかった)に、耳を貸す必要はありそうだ。

2014年7月16日水曜日

What's Wrong with Adding Partitions to Everything

Polarized conversation on the Internet. Doodle by Keiko

In the age of information explosion, where network multiplies rapidly and online media continue to curates viral videos rushing around inflammatory comments by passerby, it’s almost as if every user owns the power to take part in making change within the network.

Yet, how much of these constant changes in the ever-lasting nowness gives effect to real life?

The stories around “change” have been rapidly changing in the last few years. You might be getting fewer stories because of digital silos, or getting too much of “10 Most Important Thing You Should Know Today” right after “A Woman Wants To Tell You The 5 Most Surprising Things “ or the likes of linkbait headlines. But for those who wish to seize the big picture of public opinions online, are we measuring the right thing?


There's a similar problem I've been facing in the last few years as a Japanese Language Editor at Global Voices, where I stick to the motto and try to be "impartial", however what appears, in other words, is  I push myself to find the "both sides" while missing the middle ground. So I insert an excuse -- "it's not that opinions are divided into two. Majority of people have neutral, more nuanced opinions but they choose to stay silent" --but in often cases I'm not eloquent enough to convince my editor how problematic it is to omit the middle ground -- those less loud or mostly silent majority. I can understand, I mean hey, how can it be a news story if there's no clear contrast and highlights, right?

But it makes me feel uncomfortable sometimes..
To my eyes, telling stories equals to taking a picture of a particular landscape. These stories are meant to give deeper understanding of Japan to the readers. Because my position was limited to reporting on whatever stories to be associated with a particular nation state, mostly because of the nature of the Japanese language being spoken by people in Japan unlike Spanish or French, and not because it's been intentionally set up, it makes me extra cautious about the narrative I have to make, to be associated with the people in the nation. In order to do so, I avoid three things: generalization, sensationalism, and exaggeration.

Screenshot of Photoshop editor with histogram. I made the picture to be extremely bright and high in contrast 

In four days of workshop at Center for Internet Society I attended in June at Bangalore, India, I thought about how to better evaluate voices in a way that would not fall in sensationalism. What are the measurement appropriate for tons of conversations taking place online? When I say "sensationalism", you may be reminded of yellow journalism like the press picking up on trivial incidents of celebrities over more significant other issues like no-so-sexy politics, like the case of massive coverage of Anna Nicole Smith or Clinton's intern Monica Lewinsky. However, it doesn't take a celebrity for a news reporting organization to fall for sensationalism. If I am to pick up under-reported stories by mainstream media (this means that the scale and impact of the original comment is inherently small compared to the mainstream discourse), what voices would be exactly appropriate? I do believe that I have a taste in picking up diverse stories from various sources on the Internet, but how can I franchise the idea with a shared measurement in numerical form so that everybody will feel just when doing so? How can I be sure I'm doing the right thing when I'm quoting this person and not that person?


My sincere need for measurement came after publishing a story on anti-Korean protest and anti-anti-Korean protest in Shin-Okubo, Tokyo. The story sparked other well-known international media outlets like Al Jazeera and BBC, to write what they think was an increased rivalry between Korea and Japan. Another case I felt was when I wrote the story on whaling in Japan.


It's easier to view any phenomenon by partitioning in binary-- like the left vs the right, the good vs the bad, the conservatives vs the progressives, or Hamas vs Israel --. If somebody presents you a complex story, you might say "okay, so who's the bad guy?" In the world where everything seem to be polarized--from the PEW research report showing political polarization to the sectarian rivalries in Iraq, sections, adding partitions to certain opinions and categorize massive amount of comments into a box of ideology make you feel like it helps seizing the landscape of chaotic conversations online. But in reality, you are missing so much more.


If you want a black and white, simple story, the case about anti-Korean protest can be told as follows:

There's a growing group of extreme racists in Japan. They loudly speak against residents of Korean ethnic origin and they make hate speech graffiti around the residential area as shown in this Google Map. But another group of good Japanese who care about their neighbors, stood up and organized the counter action, the anti-anti-Korean protest.

It's easy not to see any problems in this narrative if your source of information is English media , especially without acknowledging historical background about Japan-Korea history, the mechanism of nationalists, right wing activists and leftists in Japan. I'm not going into that, for it's way too complex to tell, but if the above were to be the narrative, (instead of the one I wrote at GV) it relies heavily on either sides of the fringe, that it completely ignores the middle. Same can be told about almost all the narratives on whaling or any fair and impartial stories about Japan (or, apparently, stories about any nation state or whatever that means).

This is not a complain about particular platform, its my problem too. The only thing I've been doing in an effort not to ignore the middle, is to have a paragraph of an excuse, saying things like "this is not the whole picture, there's the middle where most people sit" in a more news-writing-tone. But it seems this is not working well. In often cases, these excuses are tapered into a tiny bit in editing.


Dualism is a product deep rooted in the history of philosophy. The Ying and Yang in China, and the God and Creation in Christianity to name a few. I'm not a linguist -- I hope some linguists out there can debunk the way people tell stories in various languages -- but I also like to note that what you would have to imagine, contrary to Yes and No in English, Japanese language isn't made up of simple colloquially binary answers to all questions.


There's more. My take on the recent increase in polarization has to do with the computation and program -- a system made up of 0 and 1 -- and events are triggered based on the value you enter. It's a situation IFTTT. You are programmed to think like binaries.


I wonder where we are heading when obscurity is lost. My next endeavor is to come up with an idea for measurements in storytelling. Something poly-dimensional, a more complex version of a rubic cube. The way we see stories now is only a perspective on few dimensions of cubes aligned in two colors.

2014年7月10日木曜日

微塵もない

This post was written in April 2013. これは2013年4月に書かれたブログ記事です。

大変すばらしい。ぜひ頑張ってほしい。期待する。


Okay, here's what I really feel about all this.
Please note that this is nothing personal and I'm 100 % for whatever Jun Hori is up to, to make this country and the world a better place through Journalism. But he's ignoring a whole scale of issue in public sphere that he may need to learn from now on.
My language may not be appropriate for I'm dealing with my purest emotions.

First, I don't want no more of ex-NHK, former TV producers, ex-news reporter to represent or act like they are the leaders the movement of civic journalism. Your existing here alone is harming the ecosystem of what civic media thrive to be.

これまで、せき止めの部隊にいた人間が、そこから”降りて”、みんなでせき止めをあけよう、オープンジャーナリズムだ、などというのは、「砂場遊びのパブリックアクセス」なんかと同義な気がする。
市民メディアの会やパブリックアクセスのアドボカシー運動を見ていてうんざりするのは、彼らが語られるときはたいがい、「元NHK記者」、「元テレビプロデューサー」、「元アナウンサー」が登場するときだけだ。ほとんどの場合、”経験のある”こうした人たちが、一般市民がいまだ知らずしているアクセスする権利について声高に唱え、「今こそ市民が~」と言い張って止まない。

もちろん、彼らにあらがってしまえばせっかくのメディアへのアクセスの道がさらに停滞してしまうので、大声で異を唱えることは私はしないが(だからこの記事が一年以上蔵入りしていたわけ)、心の底では元既存メディア出身者で市民メデァイ代弁者のひとたちを張り倒したい気持ちだよ。元テレビ局の人たちが先頭切っているうちは絶対に市民のための市民メディアはできない。そんな革命がどこにあったかよ?

まるでここ数年のインターネット技術やその普及、ソーシャルメディアによって「誰もが情報の送り手となった」だなんて言っているけど70年代にはホームビデオにおさめられる映像が娘の運動会だけじゃないことをすでに知っていたし、もっと遡れば電波はこんなふうに管理されていなかったー無線ラジオが始まって管理され、その後自由ラジオやLow Power FM運動、プロメテウスラジオや海賊ラジオなど・・・Facebookページに行かなくても、ペンパルやミニコミ誌を通じて情報を入手することができた。もっとも、一般市民の取得した情報を糧にモンスターのように巨大化していったのはマスメディアのほうだった。あなたのかわいい子犬がしっぽにじゃれてぐるぐる回転するのが面白いからビデオに収め、それをテレビ局に送ったこと、お昼ご飯の残り物片手に世論調査の電話に答えたこと、今日も残業か、とつぶやくかわりに芸能人の離婚騒動について職場で同僚とはなしたこと、カラーコンタクトをつけて染色したこと、ディオールの広告に登場する女優の肌を手に入れるために化粧品を購入したこと、鳥インフルエンザや増加する凶悪犯罪に恐怖心を覚えること・・・これらのいずれかについて身に覚えがあるのならあなたはモンスターにタダで餌をあげてくれていたのだから。あなた自身をよりみすぼらしい環境に陥れ、消費による幸せを手に入れ、ルール以上に厳しい社会規範を見せつける装置を見つめてくれたおかげでこのモンスターはよく育った。あなたなしにモンスターは存在し続けることができないーだからモンスターは、あなたが強力なパワーの持ち主だと最初からわかっていた。それを今になって、テクノロジーだ、イノベーションだ、ボトムアップだ、だなんて聞いていられない。

怪物の懐から降りてきた彼らは、またも私たちに餌をせがんでいる。時として托鉢の僧侶の姿を取るが。彼らはこう言う。「私は僧侶として仏の道を通じ人々の生活がよくなるためにこれからの人生を注ぐことにした。ぜひこの旅路にあなたも参加してほしい。なぜなら変革を起こす主役はあなたなのだ。」と。 

托鉢の僧侶は旧システムに頼っている。彼らは伽藍の外の人々が耳や口を持っていることを知っていたが、まさか意見を発したり考えたり、新しいアイディアを交換し合っているとはゆめゆめ知らない。旧システムに頼る僧侶は、余ったイチゴで作りすぎたジャムではなく、現ナマを与えよと言っているのだーどこの仏の道に金が要ったか?(私が知る限りには餞別だけだ)。この俗世(旧システム)のものである貨幣に軸を置いたまま、悟りを開けるとは到底思えない。そして自分自身が主役になるために、どうして他人の懐をあたためなければいけないのか。

こうして悟りを開くことなく、道半ばに諦める僧侶は多い。これまでいくつもの自称「市民メディア」が日本で興り、音わずかに消えていったか。

彼らの役割は砂場を用意することでも、底上げすることでもない。底上げとはなんという言葉だろう!彼らにとって、我々は底側である。もしネットワークの意味することがわかっていればボトムアップなんて言葉は使えないだろう?

ここで個別の問題について触れたい。

オープンジャーナリズムとは、SNS・ソーシャルネットワークの発達に伴い存在が議論されるようになった概念で、従来、編集権を主張し特定の職業メディア人たちによって行わ れてきた取材、執筆・撮影、編集作業に、市民をはじめとした非メディア人が制作者の1人として関わる取り組みを指す。
You cannot refer citizen as "non-media person". It's been long since Dan said "we the media".
ここからもわかるように、彼にとって市民というのは永遠に非メディア人なのだ。オープンジャーナリズムにメディア人も非メディア人もない。Participatory Journalismだったら、非メディア人って言ってもいいけど。その後ろのガーディアンを称賛する部分もまったくモンスターのプロットに気づいていないよ。マイクロタスク化して、オープンにすることで、労働が廃絶すると思ったか?

我々はもっと台所に焦点を当てるべきだ。それは私にとって関心ごとである。プロのジャーナリストにとって戦場が関心ごとであるように。

よろしく頼んだ。あなたが必要なのは托鉢でお布施から硬貨を集めることではない。托鉢に代わる行為、お布施にかわる行為をあなた自身が発明する必要があるー人々の協力と共に、だ。全てのジャーナリズムは同時にアントレプレナーである必要がある。お経を読むことではなく、他の人の頭の中にある道理を教えてもらうために、読み書きを教えることだ。



Japan's Sugar High Twittersphere (September, 2012)

(This was written in September 2012)

I've been using Otter API to find out about news and buzz on the Internet. Today, as I was glancing at Top tweets on Topsy  language by language, it made me wonder what is going on―not a specific news that were being retweeted, but a phenomenon on Japanese tweetverse.





Of 15 tweets that appeared on the first page, NONE refers to news. 3 refers to newly released corn flavored ice candy bar, 3 refers to warning of Direct Message spam, and others are just pure blurbs that are  difficult for me to understand their points. It's interesting to see how Japanese tweetverse is shaping unique ecosystem that is not being influenced by news media or advertised contents but has only jokes of tweeter next door. (I went through 35 pages of top 100 tweets, but found no significant news related post nor fact based tweet). 

Compare this with top tweets of other languages. 



It's understandable that because U.S. is going under election campaign, and more news read online, most of top shared social contents were news from news sources such as Mashable.com or Huffington Post.

文化の本質に共通するもの

「未だ来ないと書いて未来」と、デジタルの裏庭の会議で武邑先生はおっしゃっていたが、明日書きますといって数か月経過したwitchbabeです。ポリメディアとマルチメディアについて気になったまま数か月が過ぎたわけですが、あまり進展していませんのでそのままの思いを書きます。
(この記事は2013年4月に執筆、保存されたものです。2014年7月に蔵出ししました)


私がジャーナリズム専攻のとき、アメリカ人には「で、君は何ジャーナリズムをやってるの?フォトジャーナリズム?ニュースペーパー?テレビ?ラジオ?・・・」と聞かれることが少なくなかった。その際には何となくどれかに絞るというのが腑に落ちなくて、「ラジオかな、でもいろいろ。文章も書くし、映像の構成も・・・」みたいな答えを返していた。もちろん専門性の浅い若さの中での答えだったので絞れない、というのは当然だけれど、私とメディアとの関係というのは対媒体としてのものではなかったし、プロのジャーナリストになりたい、という思いは微塵もなかった。(今だってありません)。そんなの、「あなたは投票者ですか?それとも消費者ですか?それとも視聴者ですか?」と問うようなもので、そのコンビネーションの中ですべての主権者が意思決定(本意・不本意問わず)しているわけだから。情報がパッケージ化されてこちらに運ばれてくる、というところまでの間におきる様々なからくりを受け手としてしっかりと知りたい。もれなく私自身が送り手になることも絶対ないわけではないし、それは権利として本来あるべきだと思うからその際に介在するメディアにどんな特性があるか、どいう仕組みで成り立っているのか知りたい。それだけが目的だった。伝えたい相手や目的に合わせて、メディアをどう使うか。フォーマットが先ではなく、メッセージが先だと思うのです。そのメッセージや核となるものを伝えるときにそれがラジオ番組となって表されるのか、ビラとなって表されるのか、雑誌となって表されるのか、映画の上映として表されるのか。

そんな中で聞いた初音ミクについてのプレゼンは興味深かった。単にUGCということではなく、もしソフトを使って音楽を作ったら、その音楽の世界観をイラストで表すユーザーも出てくる。かと思うと、さらに小説としてその世界を表現するユーザーもいる。初音ミクを共通のインターフェイスとしてそれぞれの世界観がユーザー自身の得意な表現形態で絵として音楽として、歌詞として小説としてなど様々に表現されということだった。思えば、私が好きなヒップホップというユースカルチャーも、もともとは4つのエレメントがあると言われ、あるものはラップし、あるものはDJをし、またあるものはグラフィティを書き、あるものは音に踊った。ヒップホップは何であるかというのを説明しようとしてもそれは説明できない。何がヒップホップであって、何がヒップホップでないか、というのを語るのもほとんど難しい。もちろん、コミュニティとしてのコンセンサスを得ている文化的コードはあるが、ひとえにauthenticity(本質性)の問題として一枚岩な解釈を押し付けることはできない。コンシャスでストリートの苦難や社会変革を歌うものばかりがヒップホップなわけでもない。パーティーしてジンライムを飲み、グルーヴにダンスすることばかりがヒップホップでもない。違うクルーに敵対し、縄張りを守り、帝国を築くことだけがヒップホップではない。黒人だけがの占有するためものでもない。JAY-Zがトレードマーク足り得るものでもない。じゃあ何か。それすべてである。私が参加しているのは2000年代にヒップホップの5つ目の要素として認知されるようになった「knowledge」だ。知るということはヒップホップである。そこに私はいる。ミクとヒップホップは似ていると思う。DJの音楽に踊っていた人たちがその音に合わせて独自のスタイルを発達させ、そこにラップし始めるものが出てきて、グラフィティを書くものがいた。それぞれが自分の得意なことで一つのカルチャーを押し上げていった。

これってポリモーフィスなんじゃないのかなってちょっと思ったわけです。ヒップホップが音楽として表現されること、壁に書く文字や絵として表象化すること、ダンスとして表されること、ストリートナレッジとしてシェアされること、ラップや詩として表現されること。ミクをコスプレすること、歌ってみること、曲作りすること、ミクミクダンスすること・・・こうしたことが様々な表れ方で表現されることはマルチメディアを超えた多体的なポリメディアの基盤となっているのかもなあって。

それで過去にこういうことってあったかな、そういえば禅ってなんだっけとふと思ってググったときそこにも通じるものを感じてしまいました。禅て何か、ていうのが答えられないです。ワビとかサビとか、精神性みたいなものとかはコードであって、テーゼじゃない。禅の教科書というか経典がないんですね。いろいろなひとがその解釈を書いたものはあるんだけど、コレ!みたいなのは言えない。それで禅が茶道として表現されたり、華道として表現されたり、水墨画として表されたり、庭園となったり、舞踏や演劇みたいなものになったりする。禅の開祖みたいなのって誰?禅の知的財産権所有者は誰?って言われても答えられないわけ。

さらに、禅の思想について寝ながらスマホとかで見て、ノリで読んだ「禅とは心の名なり」というものに非常に心を動かされました。

仏心は人間に限らず、あらゆるものに宿っている本心・本性です。(略) たとえば、一枚のちり紙にも仏様は宿っています。というのは、ちり紙には、濡れたものをふくなどといった作用(機能)があります。いくら便利でも、携帯電話では鼻かめません。そのように、一枚のちり紙にも、一滴の水にも、みんな、ものにはそれぞれに違うは作用(はたらき)があり、そのものをそのものたらしめる本心(作用)が宿っているのです。
 うぎゃー。もうどうしてか宗教の話になってしまったけども、こーゆー視点からヒップホップをみると、ありゃZENだね!って見えてしまいます。ミクもどうようにそう見える。そしてこのはたらきは優越がつけられるものでなく、あらゆる誰もに宿っている、その自分らしさを一番よく表せる方法で表す、ていうことが仏の心ってことになって見えているのが現時点の私の解釈です。









2013年1月24日木曜日

デジタルの裏庭 感想3 ハイブリッドの増殖について

札幌にある、北翔大学北方圏学術情報センターで3日間にわたって行われた国際会議「デジタルの裏庭」。2日目には、スカイプを通じて、ハイブリットカルチャーの著者Yvonne Spielmannさんの話と、MITメディアラボの伊藤 穰一所長から話が合った。

伊藤 穰一氏はAgilityとイノベーションについて、Yvonne Spielmannさんはハイブリットカルチャー現象について話した。私はMIT Center For Civic Mediaという市民参画や社会変革の文脈からメディアを捉えるプロジェクトが大好きなので、しょっちゅうそこのコンテンツをチェックしていたこともあり、穣一氏の話は別のカンファレンスのネット中継で聞いた内容と重なる部分も少なくなかったがこうしてお話を聞けてありがたかった。

Yvonneさんの話は「ハイブリッドな表現が現象として大きな潮流になってきている」ということだったと私は解釈した。著書を読んでないので細かいところはわからないのだけど・・・。例えば、デジタルとアナログのハイブリッドやアートと報道のハイブリッドなど。そしてテクノロジーも、技術製作者の意図とは異なる使い方を人々がする(ミスユースする)ことで違ったクリエイティブな現れ方になる、という話。ハイブリッド性が増してきていることに関しては私も全くそうだと思う。ただ、ハイブリッドな表現やメディアについて、わたしは思うところがいくつかある。なぜならハイブリッドが害をもたらすという話もあって、そのことが個人的に2009年からずっと気になっているのだ。

混合が生む怪物について思い出したのは、数年前に読んだジェイン・ジェイコブスのいくつかの著書が理由だ。「市場の倫理、統治の倫理」という本がある。商人と役人がどのような倫理体系をもっているか、を物語風に探求している私の大好きな本だ。そのなかで強く記憶に残っているのが、登場人物たちが会話のなかでプラトンが『国家』のなかで正義について「自らの課題を遂行し、他人の課題に介入しないこと」と書いたことを引用し、さらに靴職人が道具を取り換えて指物師になることは不正行為の一例として触れられていた点だ。つまり餅屋は餅屋、という話。
二十歳頃はメイク・キャピタリズム・ヒストリー!という声に埋もれてみたいと思うことも一度はあったが(特に実体のない最後の好景気のころだったから)、その後ジェイコブスの著書を読んで、お金とか市場が悪いわけじゃなかったのか!ズルしてでたらめにごった煮にしたからいけないのか、と考えるようになった。ハイブリッドの増大が潮流として見られるのであればますます我々は混合の怪物を生み出しているのではないだろうか?交わらない方がマシだったのではないだろうか、と。

私は不学でめったに本を読めない人間だが、2年前に読んだブルーノ・ラトゥール著の「虚構の近代―科学人類学は警告する」もハイブリッドの悪について触れられていた。ブルーノは、世界を人間と非人間に分けて検証し、みんなが近代と思ってる今日に起きていることはハイブリッドの異常増殖で、これが現代の危機の根源であり、ハイブリッドの増殖を少しでも抑制すべきだ、と話している。いちいちメモをとったり図解しながら読まないと読めない本だったけど(そしてメモを取るか所が多い)えー!って思う部分が多かったのでどうしても記憶に残っていてYvonneの話のときに思い出したのだ。

ちなみにハイブリッドって異種のもが混ざって生まれた有機体、と私はとらえているけど、このことについてももう一度考えなくてはいけない。長くなります・・・。(ごった煮と、有機体、標準化とマルチメディアの話だ)

あるとき、私はニューヨークのアクティビスト達からオキュパイ運動についての話を聞いた。(彼らは自身をアクティビストとは呼んでいない)。2008年のNYのニュー・スクールの占拠からオキュパイウォールストリートまでの関連性を聞いたりしたが、彼らの新しいアクティビズムはこれまでのものと全く違うということが説明でよくわかった。もはやオキュパイのような活動はいわゆるポリティカルアクティビズムではなく、参加者はアクティビストでもオーガナイザーでもない、ただのメッシュワークの中の有機体だという。主体性ではない有機体のメッシュワークから生まれる運動は、「誰かが一定の方向に向けようとコントロールするものではない」のだという。中心がなく、急所を突いて解体することができないメッシュワークであること。そしてバーチャルなメッシュワークで繋がりながらも、実在として現場を占拠することこそが運動の趨勢となること―こうしたこともハイブリッドの潮流のように感じる。

でもこうして有機体になってしまうことはゾンビじゃないのか?まるで自由意志がないようにふるまったり、個人の視点に特別なものが存在しないかのようにふるまったり・・・

これは最近読んだある本から改めて考えたことなのだけど、すべての人間的な物語が断片となってばらばらになり、「あらゆる表現がデジタル技術で粉にひかれ、グローバルな鍋で一緒くたに煮られる」と危惧するのはバーチャルリアリティの父ジャロン・ラニアーだ。

伊藤 穰一氏は、ITがイノベーションのコストを下げたことで、人々は「理論より実践」(practice over theory)、「地図より羅針盤」(compass over map) にならってクリエイティブなものをすさまじい早さでつくっていけるようになったことを話した。私自身、実践こそあれ、と思うタイプだが、心配なこともある。地図を観なかった実践の産物がどこにたどり着くのか、それがたまに悪いものにたどり着いてしまうこと(すぐ直せばいいんだけどね)について、私はどうしても考えてしまうのだ。とくにジャーナリズムにおいて。

どういうことかというと、プログラマはできるからする、できたから世に広まる、間違ってたら直す、という主義だ。メディアだと思って作ったわけではないけど、ミスユースによってメディアコミュニケーションの役割を担う、それがメディアとしてはひどいものだったりするケースについてメディア論的な議論が足りなすぎると思っている。そういう意味で、インターネットはメディア論を忘れたのかと思って止まないのだ。昨今注目を集めていて私もぜひ盛り上がってほしいと思っているデータジャーナリズムは、まさにハイブリッドの塊であり、それが誤った道筋をもたらさないのか、少々不安なのだ。
以下は私が作った、ハッカーの倫理とジャーナリストの倫理の表。データジャーナリズムとかオンラインジャーナリズムはこの混合である。個人的には似てるし、ぜひ一緒になんかすべきだと思うのだけど自戒もある。

ハッカーの倫理
ジャーナリストの倫理

  • 共有せよ
  • オープンであれ
  • 脱中心的であれ
  • フリーアクセス重視
  • より良い世界のためにあれ

  • パブリックへの説明責任を担え
  • 公正中立であれ
  • 透明性重視
  • 権力を監視し反骨たれ
  • 民主主義のためにあれ

Yvonneは「ハイブリッドがいいから推奨すべき」と言っているわけではなく、ただ現象として捉えているだけだというのはわかる。最近はよく蕎麦屋にカレーが置いてある、と言っているだけで蕎麦屋のカレーが一番美味しいと言っているわけではないだろう。しかし、その立場はラトゥールの逆だろう。さらにこのハイブリッドがメディア表現になったときがわたしの気になるところなのだ。

この会議に行く時に正月から読み途中だった「もしインターネットが世界を変えるとしたら」をバッグに入れて、移動中に読んでいた。その中で読んでいてもなんとなくしかわからなかった部分があった。今私たちがマルチメディアだと思って接しているいくつかのものは、本来のマルチメディアの発想からは程遠いところにある、という話だ。文字や音、映像がデジタル化しただけでは、マルチメディアではないという部分。そして「『マルチ』という言葉には、すでにばらばらになっているものを寄せ集めれば何か新しいことが生まれるというセコい精神がひそんでいる」と批判し、むしろ「メディアはより適切にはポリモーフィスなものであり、メディアは『マルチメディア」よりも「ポリメディア」であるべきなのだ」と書いている。

これは決して、卒か脱か、みたいな言葉遊びではない。マルチメディアがいまいちだっていうのは実感としてなんとなく思うけどポリモーフィスって何だ?わからんぞ!音楽が小説を、映像が画像を侵食し合うようなポリモーフィスについて、3日目の報告会であるヒントを得たのでその話は明日書く。




2013年1月23日水曜日

“Collaborative & Open: Publishing Reloaded”

札幌SMAL.JPとベルリン・ガゼット誌の協力で行われた国際会議「デジタルの裏庭」。

私の参加したセッション「協働とオープン」では ドイツ緑の党のインターネット政策アドバイザー, クリス・ピアラさん、世界のクリエイティブカルチャーを紹介する札幌発のトライリンガルオンラインマガジンSHIFTの 大口 岳人さん、 ベルリンのオンライン新聞「ベルリン・ガゼット」誌で活動する研究者のマグダレーナ・タウベさんとともに、これからのオンライン出版の持続可能性~新しいニュースのカタチについて議論を重ねた。

グローバル・ボイスの日本地域を担当する私を含め、お互いネット上でコンテンツを発行している事はみな変わらないものの、その形態はさまざま。ざっとまとめるとこんな感じ。


でも、読者の欲しがる情報を集約して(aggregate)、選択して(curate)届ける、という点では3者とも同じなのかな、と。

会議3日目の報告会では、こうした対比を踏まえて展望をそれぞれが述べたのだが、他のセッション「明日のアート」、「ソーシャルインパクト」、「ユーザー生成コンテンツ」を聞いて「うん、やろうとしてることひょっとして一緒じゃない?」って少し思った。

どういうことかというと、「ソーシャルインパクト」の分科会では、市民が「センサー」のような役割を果たし、行政と連携して地域の問題を解決するモデルづくりについて話されていた。これは、市民が放射線量を測定してその情報を共有するサイト「測ってガイガー」を運営するゴーゴーラボの事例を受けて、札幌のような街で、除雪処理をより効率化できないかと分科会のメンバーが考えたドラフト。市民誰もがセンサーとなって、情報を提供し、行政と協力する、といったモデルの提案だった。そうすれば住民も行政もより良い暮らしになるだろうと。

「明日のアート」の分科会では芸術家教育の話のほかに、札幌国際芸術祭を迎えるにあたって行政とアートと市民がどう協業できるか、国際交流や市民参加の文脈から社会彫刻としてアートの役割はなにかという話だった。そして誰もがアートに携われる、と。

そして「ユーザー生成コンテンツ」の分科会では、誰もがコンテンツクリエイターになれる、メイカーズ・ムーヴメントについて言及された。

私の視覚や聴覚がとらえて、私の脳が解釈したことだから、本当は全然違う話だったかもしれないけど。

私の頭の中にあることは、人々が情報をもとに行動をするとき、適切な情報が届けられているか、そしてその情報が届けられるためには誰もが発信できるようになってほしい、ということばかりだから。

このことを考えると、従来の枠組みが全然意味をなさないことに気づく。

それが利益を生み出す情報発信なのか、非営利なのかということで互いを隔てあってもしょうがない。伝統的な報道倫理に則ったものなのか、それともハッカーの倫理にのっとたものなのか、(かたやスクープ報道であり、かたやハッキングと互いを隔てられる壁があるだろうか?)、ローカルなコンテンツなのか、グローバルなコンテンツなのか、市民VS行政プロVSアマチュアアートVS政治・・・。こうした二項対立は本当にもはや意味をなさないのではないだろうか。

わたしが区別がつかなくなって困っていることは例えばこんなことだ。

デモクラシーナウ!より
2010年3月8日、イラク生まれのアメリカ人芸術家ワファー・ビラールは、10万5000個のタトゥーを自らの背中に刻むことで、イラク戦争での死者(10万人:当時の公式発表)を風化させぬよう文字通り浮彫りにするアートパフォーマンスを行った。うち5000個のタトゥーは米軍兵士の戦没者数である。まさに体を張ったパフォーマンスであるが、10万のタトゥーは特殊インクで彫られており、紫外線を当てたときだけ浮かび上がるようになっている。数字がストーリーをもって伝えられるこのパフォーマンスは、イラク戦争のことを伝えようとするジャーナリストたちとどう違うだろうか。


放射線量を市民が測定し、地図で共有することは、放射線量について報道しようとしている記者たちの"はたらき"とどう違うだろうか。特にこうした地図にマッピングして情報を知らせることについて、海外ではジャーナリズムの一環だとする考えが強く、アメリカワシントンDCでLaura Amico が始めた殺人の被害情報をマッピングするHomicide Watchは、コロンビアジャーナリズムレビューなどにも取り上げられ注目されているのだが。

何を、誰が何によってどう伝えるか、それは様々だけれど、自分の知りたい情報があちこちから集まってやってきて、いい情報を見逃さないでいられる状況は、うーん、その、たぶん幸せだ。そして私が何か役に立つかもしれない情報を偽ることなく必要としている誰かに届けられるなら、うーん、それは幸せかなと。コレに関わる名もない集まりの生態系のことを、ジャーナリストでコンピューター科学者でもあるジョナサン・ストレイは2011年にこう書いている
僕は自分が語ろうとしているものの呼び名がわからないということに気づいた。僕が語ろうとしているのは―ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアとアカデミアなもの、これらを知識とコミュニケーションのシステムとして捉えたもの―呼び名はない。・・・ これを何て呼んでいるか、ある人は「メディア」だと答えたが僕はメディアの芸術性やエンターテイメントな側面を語ろうとしているわけじゃなく、もっとディスカッションとかコラボレーションを通じた調査、新しい知識がで生まれるような概念も含んだものを語りたいのだ。・・・なんでこんなことを今話しているかって?ジャーナリズムにソーシャルメディア、サーチエンジン、図書館、それにウィキペディアにいろいろ・・は今こそ共通の目的のために協力しなくちゃいけないからだ。今あるネットワーク化された非中央集権的な生態系が形作るデジタルパブリックスフィアをみんなが大事だと思える目標のために協力していこう。
こんな交じり混ざったいろいろなものについて、明日は会議二日目にスカイプのビデオ通話で参加したハイブリットカルチャーの著者Yvonne Spielmannさんの話と、MITメディアラボの伊藤 穰一所長の話から考えたことを書きます。






2013年1月21日月曜日

「デジタルの裏庭」について感想その1



コンピューターには忘却機能がない。しかし人間は簡単に忘れてしまう。どうやらインターネットはメディア論を忘れてしまったのではないか。デジタルでおこる様々な問題は、どこか聞き覚えがあるような気がしてならない。
Photo by SMAL 2013, CC BY SA 2.0 

1月10日から12日の3日間にわたって開かれた国際会議「デジタルの裏庭」では、アート、ソーシャル・インパクト、CGM、オンラインニュースについてそれぞれの視点から、インターネットの巨人であるフェイスブックやグーグルの代わりとなる選択肢の可能性について、議論、報告された。この会議には国内外からアーティスト、起業家、研究者、新たな文化の担い手、ジャーナリスト、プログラマなどが集合し文科会ごとに議論を重ねた。私もその一人として参加した

12日の報告会を締めくくるにあたって北翔大学の相内眞子学長はデジタルの裏庭についてこう述べた。
「現代社会における人間の疎外が、ソーシャルメディアを通したつながりの中で回復できるのか?デジタルの裏庭がその解決の場となるのか。裏庭といえば、BBQグリルを囲み、家族や親しい友人たちと楽しくワイワイ食べ、かつ飲むというイメージですし、また英語で総論賛成、各論反対をNot In My Backyardといいますが、
なるほど裏庭は憩うところであり、他者の侵入や新プロジェクトの参入を嫌う場所でもあります。デジタルの裏庭がつながりの回復や新たな絆を結びあう場となるのか、興味の尽きない裏庭メタファーであると思います。」

この言葉を聞いて、あるメディア理論家の一説を思いだした。メディア理論家で「Life.Inc」著者のダグラス・ラシュコフの言葉だ。


彼は中世のルネッサンスがもたらしたチャーター制のコーポラティズムを批判し動画の中でこう話す。
僕は中流階級の住む クイーンズというところで育った。 家と家は近くて 裏庭はみんなで使い 同じバーベキューセットを使った。 毎週金曜は、近所でバーベキューをし、子どもたちは一緒にごちそうになった。 そのうち、わたしの父がもっと稼ぐようになると、僕たちは セレブな土地に引っ越した。 ウエストチェスターというところで、広いお庭に、うちだけのBBQセットを持つようになった。
 バーベキューが家族だけのものになると、となり近所とは張り合うようになったんだ。となりがビフテキなら、うちはサーロインだぞとか、 あっちがヒレ肉ならもっと上級品を、とね。 競い合ううちにバーベキューの楽しみは消えてしまった。 誰もが自分のグリルを買ったから GNPは上がったけれど、みんなでBBQした頃の コミュニティー精神は消えてしまった。今や、僕たちのほとんどは、時間の大半を仕事と消費に費やし、あとは疲れ果てて何もできなくなってしまっている。

また、コーポラティズムがもたらした変化について「王領では皆が同じ通貨を使うことになった。モノをつくって交換するとか、芸術の販売といったことには、スポンサーが必要になったのだ。 パトロンに法廷へ連れて行ってもらい、芸術家の認定を受けなければならなくなった。」とも話している。

現在あらゆるインターネット上のデジタルな活動は、王によるコーポラティズムではなく、インターネットの巨人たちによるチャーター制となったとも言えるのではないだろうか。社会を変えるような目新しいアプリケーションを作ったなら、それを流通させるためにはアップル社から認可を受けなければいけない。友人とコミュニケーションをとるために、複雑な人間性をいくつかの限られた選択肢にまで貶めてフェイスブックに登録することと、中世の王領の住民となることの違いを考えてみてほしい。

話をデジタルの裏庭に戻そう。主催のクリスチャン・ウォズニキはこう話した。「 これまで寝室(プライベート空間)で行われていたオタク的アクティビティが今やもっと公開され参加しやすい状態である「裏庭(backyards)」に移動してきている。そこには自律性や広さ、協業性がある。」

では、こうした自律性をもった活動がどうやったら人々とのつながりを確立し、何かを一緒にやり続けるということができるだろうか。このことは、私の参加した分科会「Open and Collaboration: Publishing Reloaded」で最も話されたこと「持続可能性」である。

分科会「Open and Collaboration: Publishing Reloaded」については明日書く。

2012年8月2日木曜日

スマホで報道ガイドブック

UCバークレーのGraduate Study of Journalismが「スマホで報道ガイドブック(mobile reporting field guide)」をiBooksとpdfバージョンでリリースしました。


”スマホ”といえど、iPhoneについてがほとんどで、バッテリーの負担率を併記しながら報道に使える、「アプリ」と「ギア」をレビューしながら紹介しています。http://mobilereportingguide.com/





2012年7月4日水曜日

ニュースバリューを測る新単位「ジョリー」と「カーダシアン」

Measure The News Value of Your Issue Using "Jolie" and "Kardashian"

あなたの解決しようとしている問題やトピックは、人々の関心を十分に集められているでしょうか?人権や飢饉といった問題は、セレブリティのスキャンダルと比較すると全く報道されていない、と感じることも多いかもしれません。では、どれくらい人々の注目をあつめたら、食糧危機への援助金を増やせるのでしょうか。


Gadgets powered by Google

上記のグラフはEthan ZuckermanがブログAn idea worth at least 40 nanoKardashians of your attentionで示したもの。ツイッターでのつぶやきや離婚報道などで話題のハリウッドセレブのKim Kardashian(グラフ青線)と、女優のアンジェリーナ・ジョリー(グラフ赤線)に関するウェブ上の情報量をGoogle Insightを使って表したものです。さらに、「飢饉famine」(オレンジ線)をクエリに追加するとどうでしょう―「飢饉」についての検索数は圧倒的に少なく、カーダシアンやジョリーと比較してほぼゼロに近いということがわかります。

そもそもどうしてアンジェリーナ・ジョリーやキム・カーダシアンと比較するかというと、理由があります。UNHCR親善大使を務めるアンジェリーナ・ジョリーは、これまでスーダンやチャドを訪問するなどして熱心にダルフール難民について取り組んでおり、彼女が「グローバル人道賞」を受賞した2005年、国際救援委員会はダルフールに対する援助はひとりあたり300㌦であったと発表している。(これに対し当時のコンゴ民主共和国の援助は一人当たり11㌦)。つまりアンジェリーナ・ジョリー分の関心をダルフール難民に注ぐことができた結果、援助金が27倍になっていると考えることもできるということです。(これらの数字については、Ethanのブログからの抜粋です。)

そこでジョリーよりもさらにインターネット上で話題となっているキム・カーダシアンを単位として社会的な問題のトレンド性を比較すると、40ナノカーダシアンの人々の関心を集めることができれば、それなりの影響力をもって社会を変えることができるのではないか、という試算です。

2002年、多摩川に現れたあごひげアザラシ「タマちゃん」について連日ニュースで大々的に報道されるなか、「有事法制」が十分に放送されぬままスルっと通ったということがありましたが、かつてアメリカでプレイメイトのAnna Nicole Smithが急死したときも、他の政策に関するニュースを差し置いて、彼女の死に関するゴシップがヘッドラインを飾り続ける、ということがありました。参照:Talk Hosts Feed the Anna Nicole Frenzy | Project for Excellence in Journalism (PEJ)

「何が問題か」、「何がニュースか」ということが世論をコントロールするわけですから、いかにひとびとにそのトピックを知らせるかということが第一歩です。そこでEthanは、 "Once we refine this methodology, I hope we can calculate exactly which celebrity needs to be deployed to address which global crisis " 「この方法を精緻化できれば、どのセレブにグローバル危機について取り組んでもらうべきか計算できる」としています。

2012年2月12日日曜日

RIP Social Media?

メモ的な走り書きになってしまうのですがソーシャルメディア界隈でちょっとチェックしておきたいことを二つ。

1)FacebookがIPO申請したのに合わせて、OnTheMedia.orgがフェイスブック王国について特集しています。 http://www.onthemedia.org/2012/feb/03/
Clay Shirkyもゲストで登場。

2)Topology of Influence
みんなもう知ってるのかな・・
ツイートレベル http://tweetlevel.edelman.com/Home.aspx を使って、あるトピックについてソーシャルメディアキャンペーンするときに、idea starterなのか、amplifier、curatorなのか、コメンテイターなのか、視聴者なのか分析し、影響力を最大限にする方法。 くわしくは、PR会社のエデルマンの報告書がワードで読めます。リンク(document)

I was watching BrightTalk (webinar) and found out about topology of influence.

2012年2月4日土曜日

アグリゲート!エンゲージ!

こんな落書きをつくってみました。TEDxKyotoのミーティングに行けなかったのでグレてます(そんなことありません)。だからRSAnimateっぽく書いてみました。

番人たちのことはもういい。はやくレモネードみたいにニュースで乾杯(toast)できるように策略します。同志、求ム!

ソマリアからの声 Somalia Speaks


ソマリアからの声 Somalia Speaks

ソマリアは「紛争」や「飢餓」「海賊」といったネガティブなことばかりメディア伝えられる発展途上国の一つだ。今回、Ushahidiを基盤にし、アルジャジーラ英語版がソマリアじゅうの声を携帯電話のショートメッセージサービスSMSでアグリゲートする「ソマリアからの声」というプロジェクトを開始した。投稿されたメッセージは英語に翻訳され、地図にプロットされる。国際電話番号を使ってビデオのリンクや写真のアップロードなども可能だ。

「ソマリアからの声」プロジェクトはSMSサービスを提供するNGOのSouktelとUshahidi、アルジャジーラ、Crowdflowerとアフリカンディアスポラインスティチュート、によるもの。


なんとこのプロジェクトのきっかけは、ヒップホップアーティストのK'naanとSolだったという。一年前にK'naanとSolは、Ushahidiのプラットフォームを使って、ソマリアの人々の声を届かせたい、世界にソマリアの人々が有能だってことも伝えたいんだと言ってUshahidiにコンタクトをとったことが始まりだった。最初につくられたバージョンはプロトタイプで実際に使用されなかったが、アルジャジーラ、SouktelとCrowdflowerの助けによりこのプロジェクトは再生し、数日で4000ものショートメールがとどき、80人の翻訳家が英語に変換した情報を載せたマップのページは2,500ページビューを超えた。

従来のメディアでは到底なしえなかったこと。しかも集約された情報にはソマリアのリアリティが溢れている。

パイロット段階ではあるものの、不安定な環境のなか、何千ものソマリアの人たちが、危機が自分たちの生活にどう影響を与えているか、意見を発信することができた。こうしたプロジェクトには、コミュニティの善意と、結束が必要であった。プロジェクトのためのコミュニティを形成することが、問題解決への最初の道筋であった。ボランティアの翻訳者たちに、ブログコミュニティーからのサポート、イノベイティブな考え方の人たちやメディア熱心なひとがそこらじゅうから集まって、自分たちの方法で「ソマリアの声」届けることに携わった。こうした強靭なコミュニティがあったからこそ、プロジェクトが単なる一時的なスポットライトではなく、注目すべき情報として提示てきた言える。

方法
「ソマリアの紛争によりあなたの生活にどんな影響があるか、名前と故郷を明記してアルジャジーラまでお知らせください」

このメッセージをショートメールで5000人のソマリアにいるSMS購読者に送信した。するとこのメッセージはSouktelのSMSプラットフォームから、Crowdflowerのマイクロタスキングプラットフォームに転送される。ここで、ソマリア語を話すボランティアたちが位置情報を加え翻訳したあと、人力でアルジャジーラのUshahidiプラットフォームにアップされる。

教訓その1「メッセージ送信」
名前を明記、としたがフルネームである必要性はなく、こうした個人情報は早急に削除することになった。慈善に個人情報を入力しないように質問文に記載しておくべきだった。

教訓その2「ボランティア翻訳」
2500以上のメッセージを翻訳するために、当初から採用していた少人数の信頼できるボランティア翻訳者だけでなく、広く募集した。翻訳者たちは、メッセージの原文を見るため、個人を特定できる情報が入っていたりする場合があった。そのためCrowdflower側でプラグインをオフラインにしてもらうよう急きょお願いした。Crowdflower内にある数十の個人情報を含むメッセージを手作業で削除することになった。その後アルジャジーラ職員がマイクロタスキングプラットフォームをセットアップし、メッセージから個人情報を削除する流れとなった。

教訓その3
テスト結果、検索セキュリティ問題が12月9日に発覚、その後パッチを反映。(http://security.ushahidi.com)

「○○の声」型プロジェクトを行う場合、以下の手順を盛り込むことを推奨する。

 1.グローバルな組織で複数のタイムゾーンで行う場合、7日間24時間周期内に伝達のためのコンタクトポイントをそれぞれの組織で計画し設定しておくこと

 2.メインの質問を送信するまえに、潜在的インフォーマントには質問に協力する合意を確認する、またメッセージが公開されることを事前に承諾をとる。

3.インフォーマントには質問を送信し、個人が特定されないレベルで居場所と名前を明記してもらうように頼む

 4.事前に信頼できる翻訳ボランティアを採用し、マイクロタスキング翻訳プラットフォームに個人情報が出ないようにしておく。

 5.テキストメッセージとライブマップのロンチをずらす。まずはSMSでの配信をして、数日なり数週間なり翻訳のバルクなどに費やす。元のテキストメッセージを格納するシステムは十分にセキュアであること。テキストのプロセスがだいたい終わってからマップをロンチし、既に翻訳したテキストをマップに追加していく。これが数日から数週間のプロセスとなる。

クライシスマッピングとジャーナリズムはリアルタイムニュースで市民をつなげるコラボレーションの発生期にある。アルジャジーラはライブマップとニュースサイクルのツールキットを実験、導入をリードしているようだ。