ここ数年から、教育のオープン化、その延長線上でのデジタルクレデンシャルについて調べてきたのだが、ここにきて、昔の敵がまためぐってきた。
ネオリベラリズムだ。
お前が出てこないレイヤーに私はシフトしたはずだったのだぞ。だいたいややこしいんだよ君は。なぜまたここにいるんだ。
かつて、奴を倒すことはできなかったし、誰にもそれは無理だった。一部、功を奏したのはパロディと、実直な現代思想だろうか、わたしの猫パンチでは、あまりに無力だし、圧倒的に手がかかる。しかし、また巡り合ったのはしょうがない宿敵だ。
知識のバラバラ殺人事件
古い宿敵が難題であるだけでなく、そこに刃向かう剣があの時研ぎそびれたままのものだという点でも辛み。
Leesa WheelahanとGavin Moodieは、高等教育のマイクロクレデンシャルについてバジル・バーンステイン的分析を通して批判していく。フレーミングだとかコーディング(言語コードのほうです)というメディア論っぽい言葉尻が続く中、基本的にはカリキュラム設計上の問題点があげられていく。(クレデンシャルの話なのになぜ?ってなるけどそこにはヒューマンキャピタル~人材は資本です~という考え方を色濃く反映してしまっている点との関係性でひも解かれる)ここでも、atomizationという語で、学習の原子化のことが触れられている点で、先ほどのunbundlingと共通する。
結局、読み進めていくと教育たるものは何かという話になってきて勘弁してもらいたくなるが崇高かつ真っ当な批判。そして教育のナラティブが、非常にネオリベに偏っていて、教育たるものを考える術が判然としないまま語られてしまっている問題を明らかにしている。前述は、カリキュラムやペダゴジーの問題がごっちゃになっていることの問題。
UNESCOのバックグラウンドペーパーは、そこのごっちゃになったものを、真っ向から批判している。そもそも貧困とか失業とかの問題を教育で解決できるというのは誤りで、政治経済上の政策をやったうえで教育を扱うべきならわかるが、政治経済上無策なくせに、教育に解決させようというのがけしからん。その解決策としてマイクロクレデンシャルに目を向けてる流れがけしからん。と。先にもカリキュラム上の問題が言及されていが、こちらでも21世紀スキルとか本質的じゃないんだよ!という突っ込みが入っている。労働市場上の問題が解決されないまま、マイクロクレデンシャルが進むと、資格のインフレがおきる、とまで指摘。そして極めつけは、失業を引き起こしているのはテクノロジーの入れ方の問題であるとし、短期利益追求型の自由主義的な能力主義的資本主義(長い・・・)の中で、技術ある職人をクビにして、その分AIでオートメーションさせるというコストカット手段としてテクノロジーを入れているところが諸悪の根源なのである。(反対に、ドイツでは職人の技能を高める形でのテクノロジーを導入した例があり、技術の進展と市場の在り方は不可避ではない、と捉える)そのくせに、テクノロジー企業が失業や貧困の解決を謳って、教育商材に乗り出すのは、ふざけているぞ、と。なんならイノベーションはシリコンバレーじゃなく、良く調べてみるとアメリカ軍需産業という機関が長期的な取り組みで生んでいるのだし、教育機関を堅牢にしていくことが教育のあるべき姿を高められる、と。え、守り・・・?
これを踏まえてまた、Shane J. Ralstonにもどってくるとこの部分が非常に刺さる。
Technicians often lack a sufficiently wide-ranging or general (Liberal Arts) education to appreciate the limits of their own knowledge—or stated differently, the extent of their own ignorance. Thus, tech entrepreneurs such as Mark Zuckerberg, Elon Musk, and Bill Gates are often too willing to position themselves as authorities in fields where they lack expertise (e.g. concerning world poverty, global climate change and, most recently, epidemiology).
技術が実装できるからといって、リベラルアーツを最後まで学びそびれたこの人たちは、自分の専門外のこともわかると勘違いしている、と心地よいほどざっくり。
21世紀スキルがどのくらいまがい物なのか、ということはさておき(わたしには、一見良さそうに見える)、クレデンシャルがデジタル化され、冒頭のビデオのような世界になる「学習経済」は、直感的に気持ち悪い。
ただし、これらの批判には機械叩きな感じを自認する面もかなり残るので、もう少し落ち着いて考えるべきこととしては
- マイクロクレデンシャルは、あくまで学位と共存する主旨で、部分的な学位に担えないことを実現するためだけに限定的に利用するはず
- クレデンシャルがスキルを相互参照可能なものとして実装すれば、偏差値とか学歴を尺度にしてしまっている現状を打破できる可能性も技術的には充分ある
- 認定の権威や作業のガバナンスがどのように可能か、ウェーバー的ないしはマルクス的に捉えた場合の懸念が、学習認定のオープン化(Opening up validation)をした場合、解消できる可能性について触れられていないし、これは技術的にある程度可能性がある
なんだろう、いったいどうすればよかったんだろう。
Wissenschaft als Beruf(職業としての科学)でウェーバーはこう語っていた。
残された、本質的に増大しつつある要素は、大学での職に独特なものです。つまり、そのような私講師、あるいはなおさら助手が、晴れて正教授の地位かあるいはさらに研究所の長につけるかどうかという問題です。これは単純に運です。もちろん、偶然のみがすべてを支配するわけではありませんが、それでも偶然が尋常ならざる支配力をもつことは確かです。
それも、やだな。